犯した罪の意味が揺らぐ

 米国特殊部隊の動向をうかがいつつ、作戦は翌日決行することに決まった。

 ダルタンは狭く静かな寝室へと案内される。

 彼はベッドだけが置かれた薄灰色の室内を見回し、ゆっくりと息を吐き出した。

 明かりを付けたままベッドの上に寝ころび、ダルタンは目をつむる。すがるように、逃避するように、瞼の裏でリオラとの思い出を辿った。

 目元に腕を押し当て、透き通る血潮の色を紅い星空に見立てる。そしてリオラが夢を語った時のことを思い出した。平和な田舎町で、一緒に小さな雑貨屋を営もうと、リオラは本気で口にしていた。いつしかこれが兄妹の夢になっていた。

 しかし、そうするには余りにも、自分の手は血で汚れ過ぎたと、ダルタンは悲痛な現実と向き合う。

 自らの腹部に罪を刻み始めたのは、この罪悪感を和らげるためだった。

 大きな戦いを前にしてこんな思いを抱くのはどうしてなのかと、ダルタンは不思議に思う。

 寝付けぬ余り体を起こすと、小さなノックが聞こえてきた。

「私だ」

「ガルダさん?」

「入っていいか」

「大丈夫です」

 ガルダはそっと扉を開けて、浮かない表情のダルタンと目を合わせる。

「様子を見に来たんだが、眠れないみたいだな」

「はい……」

「明日に備えて早く寝ろ……と言いたいところだが、無理のある話だろう」

 ダルタンの横に、ガルダは優しく腰を下ろす。

「大丈夫、リオラは無事だ。たとえ不測の事態が起きても私達がフォローする。明日にはきっと再会できるさ」

「ありがとうございます」

 ガルダの言葉と堂々とした態度に励まされ、ダルタンの表情は自ずと綻ぶ。

「あの、ガルダさんはどうして、離反軍のリーダーになったんですか?」

 ダルタンはふと、どことなく抱いていた疑問を投じた。

「……そうだな。どこから話そうか」

 ガルダは腕を組んで目を瞑る。暫しの沈黙を経た後、彼女はゆっくりと瞼を上げた。

「ダルタン。君の歳は幾つだ」

 一見して話題とは関係のない質問に驚きながらも、ダルタンは答える。

「えっと、少し自信がないけど、確か十七です」

「そうか……」

 深く息を吸って、ガルダは重くなった口を精一杯動かした。

「私は……米国特殊部隊に居た」

「え……」

 驚愕の余り呆気に取られ、ダルタンは口を開けたまま膠着こうちゃくする。

「有り体に言うと、任務に嫌気が差したんだ。丁度君のような子供を相手に、銃を向けろと指示されてね。だから抜けた」

「……そう、だったんですか」

「踏み止まったのは、何もかも手遅れだと気付いた後で……私達は、罪もない民間人を、子供たちを、殺したんだ。比喩とかじゃない。本当に殺した。ただ、私は引き金を引かなかっただけで……もっと別の方法で、ありとあらゆる方法で殺していた」

 かける言葉が見つからず、ダルタンはガルダの赤熱した瞳をじっと見つめた。

「唯一救いだったのは、同じ気持ちを抱いた者が、私だけではなかったこと。離反軍に属する者は皆、償い切れない罪を抱えて戦場に赴いている。だから、ダルタン……君たちを発見した時から、私は気が気でならなかった。私もマイルズも、他の隊員も、君に救われて欲しいと強く願っている。明日の戦いは、その為の戦いだ」

 ガルダは瞬くことなく、ダルタンに視線を返す。

「許してくれとは言わない。ただ、少しの間だけ私達を信じてくれないか」

 ダルタンは大きく頷いた。彼の揺るぎない眼差しを受けて、ガルダはありがとう、と微笑んだ。

 二人の間にそれ以上の言葉は必要なく、ガルダは寝室を後にし、ダルタンは眠りに付いた。


 日が昇り、妖しげに瞬く紅い星空は、薄く淡い青紫色の晴天へと移り変わる。

 空を覆い尽くす影は全て、飛来する米国特殊部隊の武装ヘリ。行き先は工業地域の最北部。

 やがて武装ヘリの群れはとある境界線を越えないよう前進を止め地に降り立った。

 これ以上の接近は不可能だと判断したのだ。

 アスファルトに走る一筋の亀裂を境にして、世界が変貌している。

 地面に空いた隙間は深く大きくなっていって、地平線に届くと錯覚する程に広大な渓谷と化していた。断崖からは水が噴き出し滝を形成している。

 扇状に広がった地形は、今はなきナイアガラの滝に近しい。

 滝口の傍には一本の巨木が生えており、それは上空の雲を貫いて一帯を見下ろしている。

 滝壺には岸壁を裂き滝を割って生え出た巨木の根が禍々しく絡まり合っていて、意思を持ってそうしているかのように先端を丸め込んでいた。

 球体を作り上げる根の境目からは、金色の液体が垣間見える。

 アムリタだ。アムリタは滝壺にある。

 この世ならざるものは景色だけでなく、取り巻く生物もまたかつての地球から逸脱している。

 蛇のように長い首を持ち、十メートルを超える翼を広げた鳥類が、滝に沈んでは跳ね上がり、大空へと昇っていく。陸地にはそれを獲物とする熊が瓦礫をかき集めて大きな洞穴を作り上げ、水場の周辺を縄張りとしていた。熊の成体は高層ビルの三階に達するほどの体長を誇る。

 工業地域に住んでいた人間はこれら異形により喰い尽くされて今に至る。故に、異形は新たな餌場と水源を求め、滝の周辺に独自の生態系を築いた。まるでアムリタを守護するかのように。

 離反軍の装備では到底これらの障害を突破できないが、米国特殊部隊ならば可能だ。

 異形の掃討は米国特殊部隊に任せ、彼等が消耗した隙を狙いアムリタをかすめとる。これが数日前まで離反軍が計画していた作戦だった。

 だが、今は違う。

 異形の掃討を始めた米国特殊部隊の前に、一人の青年が現れる。彼の純銀に似た短い白髪は、数多あまたの血を吸い赤みがかっていた。

 ダルタンだ。

 彼が突き付ける視線の切っ先では、ブロンドヘアーが風を受けて波を打っている。

 クローネだ。

「ほら見て、ダルタン。あそこにあるのが、アムリタだよ……私たちが幸せになるために必要なものだ」

 クローネはダルタンに背を向けたまま滝壺の中を見据え、左手をかざした。

 クローネの指先から雷光がはしり、空を突いて滝へと落ちる。

 雷は渓谷を穿うがち、空飛ぶ異形を叩き落とし、アムリタへの空路を切り開く。

 異形の断末魔に聞き惚れながら、クローネは得意げに振り向く。

 ダルタンは掃討の様子に気を取られながらも、一寸も違わぬ姿勢で臨戦態勢を維持した。

「リオラを返せ、クローネ」

 ダルタンは慣れない手つきでアサルトライフルを構える。

 彼が身に纏った装備を見て、クローネはほくそ笑んだ。それらはよく見知ったもので、目障りな離反軍のものだと一目で分かったからだ。

「殺して奪って、またお腹に傷を増やしたのかい? ダルタン」

「リオラのためなら僕はなんだってする。誰にも邪魔はさせない」

 リオラのため、という言葉を境に、クローネは涙を溜めこんだ。

「目を覚まして、ダルタン。あの子はもう、この世に居ないんだ。アムリタは不死の霊酒。死人を生き返らせるという伝承は聞いたことがない」

「僕が耳を傾けると思うか」

「それでも私は言い続けるよ。だって君が、唯一の友達だから! ダルタンには幸せになって欲しいんだ。私と一緒に。ただそれだけなのに……どうしてダルタンは、死んだ妹なんかの為に自分を傷つけるの?」

「もう何を言っても無駄だよ……」

 ダルタンは来るべき合図を待って、内から込み上げる怒りを抑え込む。

「ねえ……冷蔵庫を最期に開いたのはいつ?」

 クローネは眉を落とし、目を据わらせて、血潮ちしおの熱を感じさせないほど冷たい声音で問いかけた。

「冷蔵庫を最期に……?」

 ダルタンの脳裏に、頬がこけたリオラの笑顔が浮かぶ。新鮮なリンゴを手に入れて、二人で分け合った時の記憶だ。

「それはどれくらい前の出来事?」

 クローネの声は聞こえていない。ただ、ダルタンは無意識の内に答えとなり得る独り言を発する。

「この工業地域に来る前……二週間くらい……?」

「その間ずっと、リオラは飲まず食わずだった?」

「い、いいや、そんな、そんなはず」

 微かに、ほんの微かに、ダルタンは記憶の深淵しんえんから浮かび上がるものを感じた。

 鼻を刺す臭い、湧き上がる吐き気、この目で見たものが信じ難く、幾度も自らの眼球を押し潰しては自己治癒を繰り返し、腹部に切り傷を加えた時の痛み。

「よく思い出してダルタン。君はずっと幻に囚われているんだよ」

 次第に、鮮明に、クローネの大きくなる声に応じて、色鮮やかに光景が蘇った。開けてはならなかった記憶のふたが開いていく。

 それでもダルタンは否定する。

「違う! 違う違う違う!」

「君はすがっている。妹はこの冷蔵庫の中で生きているって、ずっと思い込んでいるんだ」

出鱈目でたらめを言うな!」

「じゃあ見せてあげようか! 君の妹が、今どんな姿で眠っているのか!」

 クローネが背後に隠していたリオラを――彼女が納められている冷蔵庫を持ち上げ、ダルタンの目の前に叩き付けた。そしてドアに手を掛ける。

 僅かに開かれた隙間から、おびただしい羽虫と腐臭が飛び出した。

「やめろおおおおおお!」

 ダルタンは我を忘れて引き金を引く。

 開戦を告げる角笛に代わって、ダルタンの雄叫びと銃声が響き渡った。

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