第85話 怪物

「――アルバートさまは、昨夜も私のところにいらっしゃいましたのよ」


 それはアメリアがお気に入りの庭園を散策していた時のこと。同じように庭を愛でに訪れたアレクサンドラと偶然行き会ったのである。相変わらず可憐なアレクサンドラと他愛もない言葉を交わし、話題がアルバートのことに及んだところで、アメリアは扇の陰で軽くあくびを漏らした。そして「まあ、失礼しました。昨夜は少し寝不足ですの」と謝罪したうえで、上記の言葉を口にしたのだ。


 それは実にありふれた挑発。

 古今東西行われてきた恋のさや当てにすぎなかった。


 そのときアレクサンドラが己の立ち位置にふさわしく、ほんの少しでも嫉妬を見せてくれたなら、アメリアはあそこまで彼女を憎まずにすんだだろう。いやせめて、「それでもアルバートさまが愛しておられるのは私ですわ」と勝ち誇って見せたなら、アメリアもあそこまでのことはやらなかったに違いない。

 しかしアレクサンドラはいつもと変わらぬ様子で、ただおっとりと微笑んだ。


「まあ、そうでしたの。私は閨でのことがあまり得意ではないから、アメリアさまに引き受けていただけるのなら嬉しいですわ」


 そこにあるのはただ面倒なことを引き受けてくれた相手に対する、純粋な感謝の念だった。


(この女は)


 そしてアメリアはアレクサンドラに感じた薄気味悪さの正体を、そのとき初めて理解した。

 おそらくアレクサンドラは、アルバートのこともアメリアのことも、心の底からどうでもいいのだ。アルバートの恋心も、アメリアの嫉妬も、彼女にとっては等しくなんの価値もない。周囲の人間全てになんの関心も抱いていない。貴婦人たちの嫌味がまるで堪えなかったのも道理である。彼女にとっては家畜の鳴き声と変わらぬただの雑音だったのだから。


(この女は……っ)


 この上なく可憐で従順で、それでいて誰よりも傲慢で残酷な女。

 アメリアは自分がここまで誰かを憎めるなんて知らなかった。




 庭園での出来事は、僅か数日のうちにたっぷりと脚色を施されて社交界に広まった。いわく、アメリアが敵意むき出してアレクサンドラに喧嘩を売り、対するアレクサンドラはまるで相手にもしなかったと。


「さすが正妃の余裕ですわねぇ」

「というより、愛されている者の余裕ですわよ」

「それにしてもアメリアさまときたら、側妃の立場もわきまえないで」

「アルバート殿下もそろそろアメリアさまに愛想が尽きるんじゃないかしら」


 漏れ聞こえる人々の嘲笑。

 アメリアのお茶会に出席する者はますますその数を減らし、残った者たちもあれこれ言い訳しながらアレクサンドラのサロンにも顔を出すようになっていた。

 グレイスから定期的にもたらされる報告は、アルバートがアレクサンドラのために高名な演奏家を呼んだとか、瞳の色に合わせたブローチを贈ったとか、聞くだにおぞましいものばかり。

 最近は廷臣たちのアメリアに対する態度も若干変わってきたようだ。


 奪われていく。

 かすめ取られていく。

 アメリアをアメリアたらしめていた大切なものがなにもかも。




 地獄のような毎日は、アレクサンドラの懐妊によってクライマックスに達し、出産によって唐突に終わりを迎えた。

 産褥熱によるアレクサンドラの死と赤毛の王子の誕生。その死について一部にはアメリアの関与を勘ぐる声もあったようだが、あれは正真正銘の自然死だ。アレクサンドラの細い体が出産の過酷さに耐えきれなかったに過ぎない。


 母の死と引き換えに生まれた第一王子クリフォード。そのあまりに鮮やかな赤毛から、彼は生まれた当初から困惑の種となっており、アルバート自身もこの赤ん坊に対する接し方を決めかねているようだった。


 もっともアメリアがグレイスに直接確認したところによれば、アレクサンドラに不貞の事実はなく、紛れもないアルバートの息子だとのこと。実際のところ、あのアレクサンドラが義務もなく他の男を受け入れるなんて面倒なことをわざわざするはずもないだろう。すなわち理性的に考えればクリフォードは間違いなく王家の血を引いており、鮮やかな赤毛は辺境伯が主張する通りに単なる先祖返りという結論になる。


 しかしアメリアはどうしても、「それ」が王の血に連なるものとは思えなかった。

 辺境の地にはいまだに土着の精霊を敬う風習が深く根付いているという。その認識ゆえか、アメリアにはあの赤毛の子供が、メリウェザーの異形の力によって女の胎に入り込んだ怪物であるように思われてならなかったのである。


 ミルボーン家に生まれた者にとって、王家をたばかるというのは神への冒涜にも等しい。しかしあんなモノを王家に入れることこそが、なによりの冒涜ではないのか。

 アメリアはそう自問した。


 最後にアメリアの背中を押したのは、いつもアメリアの身体を診ていた侍医の言葉だった。そしてアメリアは覚悟を決めて、グレイス・ガーランドを呼び出した。

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