第80話 もう一つの選択肢

 涙にくれた週末を終え、アメリアはいつものように侯爵家の馬車から学院内に降り立った。


 血色の悪い顔を化粧でごまかし、毅然と胸を張って廊下を歩いていると、周囲からこれまでとは異なる好奇に満ちた眼差しを感じる。アルバートの婚約の件が、すでにどこから漏れ伝わっているのだろうか。

 教室に入ると、取り巻きの令嬢たちがいつものように笑顔を浮かべ、口々に声をかけてきた。


「お早うございます、アメリアさま」

「アメリアさま、お早うございます」

「アメリアさま、その髪飾りとても素敵ですわね」

「アメリアさま、お聞きになりましたか、今日の地学は自習なんですって」


 しかし彼女らの表情はどこかぎこちなく、教室全体に張り詰めたような緊張感が漂っている。皆息をひそめてアメリアの出方をうかがっているようだった。


(やっぱりみんな知っているのね)


 アメリアはにこやかに挨拶を返しながら、殿下の婚約について訊かれたらどう答えるべきかを、改めて脳内でシミュレートした。どう答えれば「捨てられた女」のイメージを周囲に与えることなく、アメリア・ミルボーンの権威を損なうことなく、噂好きの者たちに美味しい餌を与えることなく、事態を乗り切ることができるのか。


 しかし結局は事前に考えてきたのと同じ対応――自分とアルバートはただの幼馴染であり、元からそんな関係ではなかったという説明で押し通す――よりましなものを思いつくことはできなかった。

 

 おそらく質問者はそれで引き下がる。アメリア・ミルボーンがそう言い切れば、あえて食い下がるような者はここにはいない。

 もっとも悪意に満ちた憶測は、水面下で広がっていくに違いないが。



 やがて午前の授業が終了し、昼休みになった。

 幸いなことにと言うべきか、それまでの間、アメリアの前であの件に触れる者はただの一人もいなかった。アメリアの取り巻きの者も、それ以外のクラスメイトも、誰もあえて口にしない。


(みんな訊きたくてたまらないでしょうに、ね)


 おそらく彼らは「最初の一人」となることで、アメリアの不興を買うことを恐れているのだ。まだ自分にはその程度の権威はあるのだなと、アメリアは他人事のように考えた。


 昼食はいつもアルバートと待ち合わせて食べることになっているので、アメリアはバスケットを携えて生徒会室へと赴いた。廊下を歩いている間中、相変わらず生徒たちからの意味ありげな視線を感じたが、もはやアメリアにそれを気にする余裕はなかった。いよいよアルバート本人との対面である。


 生徒会室につくと、鍵はすでに開いていた。扉の向こうで、アルバートは今どんな表情をしているのだろうか。不安と焦燥で心臓がどくどくと脈打つのを感じる。アメリアは深呼吸してから扉を開け――思わず気が抜けたような声を上げた。


「まあ、パーマーさまでしたの」


 そこにいたのはアルバートではなく、生徒会書記のセオドア・パーマーだった。

 黒い髪に黒い瞳、そして銀縁眼鏡が印象的な青年で、いずれ父の跡を継いで宰相になると言われる秀才だ。


「殿下でなくて申し訳ありません。ちょっと資料を取りに来たのです。貴女と殿下がいつもここで昼食をお取りになることは知っていますから、長居するつもりはありません」

「そうですの」

「ところで当然お聞き及びかと思いますが、アルバート殿下はメリウェザー辺境伯のご令嬢と婚約なさるそうですね」


 ほっと気が緩んだところに不意打ちを食らって一瞬動揺したものの、アメリアは平静な声で「ええ、おめでたいことですわね」と言葉を返した。


「そうですね。これで王家と辺境伯家との絆が深まれば素晴らしいことですし、僕も一家臣として大変おめでたいことだと思います。……しかし、貴女は今後どうなさるおつもりですか?」

「どうなさるって、ご質問の意味が分かりませんわね。周囲からあれこれ邪推されていましたけど、私とアルバートさまはただの幼馴染ですのよ? 幼馴染の婚約が私の今後になんの関係があるんでしょうか」

「ただの幼馴染ですか」

「ええ、そうですわ」

「ではアルバート殿下の側妃になるご予定もないのですね?」

「側妃に? そんなことは考えたこともありません」


 側妃は名目上正妃の補佐役としておかれるものだが、実際には国王の寵愛を受けながらも、正妃になるには身分の足りない女性に与えられるポジションである。男爵家か、あるいはせいぜい子爵家の娘がなるものであって、名門中の名門であるミルボーン侯爵家の長女が好んで就くような地位ではない。

 第一正妃になって当然と言われたアメリアが側妃になんてなろうものなら、捨てられた女が必死にすがっているようで、それはあまりに惨め過ぎる。


「訊きたいことはそれで全部でしょうか。私は貴方のことを真面目で潔癖な方だと思っていましたけど、勘違いだったようですわね。アルバートさまの婚約の件は、周囲の人たちの本性が見られる良い機会になりそうですわ」


 アメリアが皮肉を込めて言うと、セオドアは「別に下世話な好奇心から尋ねているわけではありません」と殊勝な顔つきで弁解した。


「あら、ではどういうおつもりなんですの?」

「率直にうかがいます。殿下に嫁ぐつもりがないのなら、僕と婚約しませんか?」

「私が、貴方と?」

「はい。僕がお嫌いでなければ」

「別に嫌いではありませんが……もしかして陛下のご意向ですの? それとも宰相閣下の独断かしら」


 アメリアはアルバートの正式な婚約者でこそなかったものの、ほぼ内定している状態であり、王妃教育も終えている。それなのに今になって放り出すことに呵責を覚えた国王陛下が、侯爵家に対する詫びとして適当な縁談を用意するというのは、いかにもありそうな話である。そしてアレクサンドラ嬢の一件を主導したであろうパーマー宰相が、その責任を取る形で息子の嫁に迎えるというのも、実に自然ななりゆきであった。


 アメリアの指摘に対し、セオドアはしかし、首を横に振った。


「いいえ、陛下や父ではなく、あくまで僕自身の希望です。もっともすでに両親の了解は取り付けてありますから、貴女とミルボーン侯爵さえ同意して下されば、速やかに成立するはずです」

「まあ、随分と手回しがよろしいですこと。貴方が私との婚約を望む理由を、一応お聞かせ願えますか?」

「そうですね。まず第一に、パーマー侯爵家とミルボーン侯爵家なら家格の点で釣り合います。第二に、僕はいずれ父の跡を継いで宰相となるつもりですから、公私ともに支えてくれる優秀で社交的な妻を必要としています。その点貴女以上の人材はいらっしゃいませんし、貴女としてもせっかくの能力を生かせるのは悪い話ではないでしょう。そして第三に」


 セオドアは軽く咳払いした。


「そして第三に、僕はずっと貴女に憧れていました」


 アメリアはセオドアをまじまじと見つめた。セオドアはまじまじと見つめ返した。

 夜のように黒い瞳がアメリアの緑の瞳をじっと覗き込んでいる。その奥に確かな情熱を見出して、アメリアは胸がざわめくのを覚えた。


「……そんなこと、ぜんぜん気づきませんでしたわ」

「表に出さないようにしていたのです。貴女は殿下のものだと思っていましたから。しかしそうではないと分かった以上、話は別です。必ず貴女を大切にします。どうか僕とのことを真剣に考えていただけませんか」


 アメリアは後になって、何度も何度も繰り返しこの場面を思い出すことになる。

 思い出しては、夢想する。

 もしあのとき彼の手を取っていたら一体どうなっていただろう、と。

 セオドアの求婚に応じて宰相夫人となっていたら、誠実なセオドアと温かな家庭を築いていたら、アルバートとは幼馴染のまま関係を終わらせていたら、一体どうなっていただろう?


 しかし夢想はしょせん夢想にすぎない。


「私は」


 アメリアが答えようとした刹那、「やあ、お邪魔だったかな?」と幼馴染の声がした。

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