第70話 フランソワーズの指輪(ナイジェル視点)

 移動した先は、王都でも指折りの名門ホテルの一室だった。フィリップは王都にいる間はここに滞在しているとのこと。

 老支配人の立会いのもと、二人はさっそく勝負を始めた。フィリップの指し方は相変わらず単純でぎこちなく、ナイジェルは気持ちよく駒を進めることができた。

 ところが予想に反して、勝ったのはフィリップの方だった。


「いやぁ、こんなことがあるものですね」


 とまどいの声を上げるフィリップに、ナイジェルは思わず苦笑した。

 どうやらたまたまフィリップが指した手が、意図したのとは違う形で上手くはまってしまったらしい。偶然に偶然が重なった、奇跡のような一局だ。


「いやいやお見事でしたよ。やはり環境を変えたのが良かったのでしょうね。ところでもちろんもう一勝負してくださるでしょう?」

「ええ、もちろんです」


 二人は再び盤をはさんで向かい合った。

 あんなまぐれは二度とない。次で全てを取り返す。そう意気込んでいたナイジェルだが、次の勝負もなぜかフィリップの勝利で終わった。その次も。またその次も。

 いつも途中まではナイジェルの方が優勢なのに、終盤になると魔法のように、フィリップに有利な形が出来上がっているのである。

 何かおかしい、そう気づいたときはすでに手遅れだった。


「……負けました」

「では、これでラングレー家のタウンハウスも私のものになりましたね」


 フィリップの楽し気な声に、ナイジェルの背筋に冷や汗が流れた。目の前の盤はすでに負けが決定しており、もはや挽回の余地はない。

 もう一勝負、という気にもなれない。今自分が相手にしているのは、間違いなく一流のプレイヤー――いや、それを通り越した怪物だ。


「いや、その……タウンハウスについては、どうかご容赦いただけませんか? あとで相場の二割増し、いや五割り増しの金銭をお支払いしますので」

「申し訳ありませんが、私はあの館が欲しいのですよ。名門侯爵家が代々使っていた由緒あるタウンハウスがね。何しろ私はこの通りの成り上がり者ですから、その手の伝統に憧れがあるのだと、いつも申し上げているでしょう?」


 フィリップの言葉に、ナイジェルは思わず歯噛みした。

 ナイジェルが普段クラブで賭けるのは金銭であり、負けたときは支払いを待ってもらっている間に、アメリア王妃に建て替えてもらうのが常だった。

 しかしフィリップは「名門侯爵家への憧れ」を理由に、いつも金銭よりもナイジェルの持ち物を欲しがった。そして相場よりはるかに高い値段をつけるので、ナイジェルの方も冗談半分に身の回りの品を賭けるのが癖になっていたのである。そうしたところで、どうせナイジェルが勝つのだから構わないだろうと思っていた。これまでは。


(いっそ踏み倒してやろうか)


 ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。しかしこの勝負には老支配人が立ち会っている。彼は貴族でこそないものの、名門ホテルのベテラン支配人だけあって、国の内外を問わず多くの貴族とコネクションを持っている。彼の口を封じるのは、ナイジェルや王妃の力をもってしてもなかなか難しいことだろう。

 思い悩むナイジェルに、フィリップは意外な言葉を投げかけた。


「――とは言っても、親しい友人である貴方から屋敷を取り上げるのは、私も心が痛みます。そこで一つ提案があるのですが、よろしければ、このまま位置を入れ替えませんか?」

「……は?」

「位置を入れ替えて、改めて勝負いたしましょう。貴方が勝ったら、タウンハウスはお返しします。その代わり私が勝ったら……そうですね、タウンハウスに加えて、貴方がはめている指輪を私にいただけませんか?」

「この指輪を?」


 ナイジェルは思わず指を押さえた。それは亡くなった婚約者、フランソワーズと揃いで作らせた物だった。


「ええ、いつも大切そうに着けてらっしゃるんで、前から気になってたんですよ。きっと一族に代々受け継がれてきた由緒ある品なのでしょう?」

「いえ、とんでもない。これはほんの十数年前に作ったもので、そんな大層な品ではありませんよ」

「それなら私に下さっても構いませんよね」

「申し訳ありませんが、これはちょっと」

「何か特別な思い入れでも?」

「いえ、そういうわけではないのですが……」

「まあどうしてもお嫌なら、もちろん無理強いはしませんよ。これはほんの思い付きですから。それじゃタウンハウスは私の物、指輪は貴方の物ということで――」

「……待って下さい!」


 立ち上がりかけたフィリップを、ナイジェルは咄嗟に引き止めた。そして改めて、目の前の盤を見直した。

 形勢は完全に定まっており、あと数手でチェックメイトだ。今からどうあがいたところで、ここから勝負がひっくり返るなどありえない。相手が何を考えているのか知らないが、これは望外のチャンスと言えるだろう。


「……いいでしょう、お受けしますよ」

「では指輪を外して、ここに置いていただけますか」

「分かりました」


 指輪を外した瞬間、言いようのない心もとなさがナイジェルを襲った。まるで愛する婚約者を悪魔の生贄に差し出そうとしているような、そんな――。


(大丈夫だ。たかが数分外すだけだ)


 あとほんの数手で勝負は決まる。そうしたら指輪を取り戻して、タウンハウスに帰ればいい。そして強い酒をしこたま飲んで、朝までぐっすり寝てしまおう。

 ナイジェルは己にそう言い聞かせ、示された場所に指輪を置いた。

 そして実際に、ほんの数手で勝負はついた。


「チェックメイト。では、これは私のものということで」


 あっさりと逆転勝利したフィリップは、呆然とするナイジェルの目の前で、指輪をひょいと取り上げた。そしてためつすがめつ検分すると、拍子抜けしたような口調で言った。


「なんだ、本当に大したものではありませんね」

「え? ええ、だから言ったでしょう? 大したものではないのです。だから――」

「では処分することにしましょうか」

「え?」


 怪訝な声を上げるナイジェルに、フィリップは笑顔で言葉を続けた。


「ちょうど暖炉があることですし、火にくべてしまいましょう」

「え、あの、冗談ですよね?」

「本気ですよ。ダイアモンドが燃えるというのは本当かどうか、一度試してみたかったんです」

「いやそんな、ひどいことはやめてください!」

「私の物をどうしようが自由でしょう?」

「待ってください! お願いします、燃やすくらいなら指輪を返し……ああああああっ」


 取りすがろうとするナイジェルをひらりかわし、フィリップは指輪を暖炉に叩き込んだ。指輪はナイジェルの目の前で、炎に包まれ見えなくなった。

 絶叫し、両手を暖炉に突っ込もうとするナイジェルを、支配人が間一髪で押しとどめた。


「おやめください! 火傷します」

「離せ! 離してくれ! 指輪が……っ」

「もう無理です」


 諭すように言われ、ナイジェルはその場に床に崩れ落ちた。

 目の前で、紅蓮の炎が燃えている。

 まるで地獄の業火のように。


「婚約者がそんなに大切か。他の女性は平気で踏みにじる悪党が」


 蔑みに満ちた声に顔を上げると、こちらを見下ろす深紅の瞳が目に映った。

 いつの間にか彼の背筋は伸び、訛りは綺麗に消えている。

 そしてナイジェルは唐突に、己が誰を相手にしていたのか理解した。


「立ち合いありがとう。あとは二人にしておいてくれ。大丈夫だ。このホテルに迷惑をかけるようなことはしないから」

「かしこまりました。何か御用の際はお呼びくださいませ」


 支配人が一礼して部屋を出ると、カイン・メリウェザーは膝をついて、ナイジェルの顔を覗き込んだ。


「お前はもう婚約者のことなど、どうでもいいのではなかったのか?」

「……そんなわけが、ないでしょう」

「ではお前の婚約者は、お前がほかの女性を凌辱しても笑って許してくれるのか?」


 カインの問いかけに、ナイジェルは思わず唇をかんだ。


「天国のフランソワーズも、今のお前など願い下げだろう。指輪もお前に持っていられるより、火にくべられた方が幸いなのでは?」

「貴方に何が分かるんですか……」


 ナイジェルとて、真面目で慎み深いフランソワーズが、今の自分をどう思うのか、まるで考えないわけではなかった。王妃から犯罪まがいの「仕事」を持ち込まれるたび、フランソワーズの顔がちらついて、断ろうとしたことだって、一度や二度ではなかったのである。


「私だって、好きでやっているわけではありません」

「ではやめればいい」

「簡単に言わないでください。今さら王妃を裏切ったらどうなるか」


 最初は本当に「ちょっとした仕事」だったのが、少しずつ道を外れて、気が付いたときには後戻りできなくなっていた。今ナイジェルが王妃から離れようものなら、今まで彼がやってきた犯罪まがいのあれこれが、王妃との関連が念入りに消去されたうえで、大々的に公表されることだろう。そうなれば、一族郎党地獄行きだ。


「あの女が何もできないように、叩き潰してやればいい」

「そんなこと、できるわけがないでしょう」

「お前は何でも簡単に諦めすぎる」


 カインは拳を突き出すと、ナイジェルの鼻先で手を開いた。

 そこには失われたはずの指輪が、無垢な輝きを放っていた。


(それじゃ、さっき投げ入れたのは偽物か?)


 ナイジェルがとっさに手を伸ばすも、カインはあっさりと引っ込めた。


「今のお前にこれを手にする資格はない。お前が自ら手放したのだから。――ただし、再び手に入れるチャンスをやろう」


 カイン・メリウェザーは人を従わせることに慣れたもの特有の声音で言った。


「協力しろ、ナイジェル・ラングレー。アメリアを我々の手でつぶすんだ」


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