第55話 カインの記憶

 帰りの馬車に乗り込む直前になって、ビアトリスはようやくカインと二人きりで話す機会を得た。そこで早速メアリー・ブラウンについて伝えたのだが、カインもその正体については心当たりがないようだった。


「ただ彼女が俺がクリフォードだと気づいた理由についてはなんとなく察しが付く。今日弾いた曲は二重奏もその後の小夜曲も、母が好きで良く弾いていた曲なんだ」

「アレクサンドラさまが?」

「ああ。俺自身は母が弾いているのを聴いたことはないんだが、俺が弾くと祖父を筆頭に母と親しかった人間がやたらと喜ぶものだから、一族サービスの一環として、故郷でよく弾いていたんだよ。そういう事情のせいか、あるいは血筋的なものかは知らないが、俺の弾き方は母に似ているらしいんだ」


「それじゃあの女性は、カインさまが弾いているのを聴いてアレクサンドラさまを連想し、そこからクリフォード殿下に思い至った、ということでしょうか」

「だろうな。元々俺の髪の色や顔立ちからなんとなくクリフォードとの類似性を感じ取って凝視していたところに、あのピアノを耳にしたことで、クリフォードだと確信してショックを受けたんだろう」


 カインは考え込むような口調で言葉を続けた。


「ただいきなり失神されるほどショックを受ける理由については分からないな。俺に死んでほしい人間はアメリアを筆頭に山ほどいるが、俺が生きてることは当然知ってるわけだしな。……とりあえず家の者に連絡して、心当たりがないか尋ねてみるよ」


 その後二人はそのまま別れの挨拶を交わしてそれぞれの馬車へと乗り込んだ。

 ビアトリスはカインの演奏も素晴らしかったことを伝えたかったが、なんだかエルザに張り合っているようで恥ずかしく、結局何も言えずじまいだった。


(せっかく一緒に参加したのに、カインさまとはあまり話せなかったわね)


 帰宅する馬車の中で、ビアトリスはひとりごちた。

 先ほどのエルザの件だけではない。アンブローズ・マイアルの演奏を待っている間も、カインは歓談の中心にいて、皆が彼の言葉に耳を傾けていた。周囲から注目を集める威風堂々たる美青年。思えばあれが彼の本来の姿なのだろう。


 学院でのカインは物静かな一匹狼で、交流があるのはビアトリスを除けばチャールズとシリルくらいのものだった。それは彼の特殊な事情ゆえに、王都で他人と関わることを意図的に避けてきたがゆえである。

 しかしこの前の一件で、「メリウェザー辺境伯家の令息」としてすっかり名が知れ渡ってしまい、もはや隠れ続けることも不可能と判断したのか。その才覚をいかんなく発揮し始めた彼は、さっそうとしてまぶしいほどだ。

 彼を慕うものは男も女も、きっとこれから大勢現れるに違いない。そしてビアトリスはその中の一人になるのだろうか。あるいは――


(我ながら子供じみた独占欲ね)


 流れゆく窓外の景色を眺めながら、ビアトリスは一人苦笑した。



 帰宅したビアトリスは、父の執務室に呼び出された。

 父の話は、ウォルトン家の取引先のいくつかが提携解消を申し出てきた、おそらく王妃一派の圧力によるものだろうが、新たな取引先について当てはあるので心配はいらないということだった。


「あえてお前に伝える必要もないかと思ったんだが、他の者から聞かされて、動揺しては困るからな」

「本当に大丈夫なのですか?」

「この程度の嫌がらせでどうにかなるほど我が公爵家はやわではないよ。アメリア王妃も無駄なあがきをするものだ」


 父はゆったりと笑って見せた。その表情や口調から、無茶な強がりを言っている様子は感じられず、ビアトリスはほっと胸をなでおろした。

 アーネストに警告された王妃のたくらみとはこのことだったのだろうか。

 だとしたら学院でアーネストに会ったときにでも「大丈夫だから心配いらない」と伝えたいと思ったが、二人が話していると周囲から無駄な憶測を呼びかねないし、控えたほうが無難だろう。



 翌朝、カインにその件を伝えたところ、「もし良かったら、うちの関係がある家に声をかけてみようか」と申し出てくれた。


「ありがとうございます。だけどもう当てはあるそうなので、大丈夫です」

「そうか。だけどもし、そこが駄目になったらいつでも言ってくれ。ウォルトン公爵領の小麦は上質だし、欲しがっているところはいくらでもある。王妃の圧力なんてうちには関係ないからな」


 その後はごく自然な流れで昨日の演奏会についての話になり、ビアトリスはようやく昨日の演奏が素晴らしかったことをカインに伝えることができた。


「良かった。君にそう言ってもらえると、無理して弾いた甲斐があったよ」

「まあ無理していましたの? 落ち着いて自信満々に見えましたのに」

「合奏だけならまだしも、アンブローズ・マイアルが聴いている前で一人で演奏するなんて、俺もできれば避けたかったよ。だけどまさかあの流れで、自信がないから嫌ですと言って断るわけにもいかないだろう。」


 そう言って苦笑するカインに、ビアトリスもつられて笑ってしまった。

 昨日カインの存在がどこか遠くに感じられたのが嘘のように心地いい。昨日はやはり色々と考えすぎていたのだろう。


 そして演奏会から数日たったある日の昼休み、実に意外な人物がビアトリスのもとを訪ねてきた。


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