第31話 ビアトリスの決意
そのまま教室に戻る気にはなれず、ビアトリスはいつものあずまやに行くと、長い間ぼんやりと座り込んでいた。
結局自分はどうあがいても、アーネストの手の内から抜け出せないのか。もう何もかもが手遅れで、自分がやってきたことは単なる自己満足の悪あがきでしかなかったのだろうか。
それでも諦めたくない、このまま大人しくアーネストのものになりたくないと思う反面、そんな無意味な行為のために、周囲の人々を巻き込んでいることに対する罪悪感がぎりぎりとビアトリスの心を苛んでいく。
――もうその辺にしておいた方がいいよ。君一人の我が儘で周りのみんなに迷惑をかけるのはとても良くないことだ。君はそれくらい分かっていると思うけど。
――お前は何年もの間、アメリア王妃を始め王宮の多くの方のご協力によって王妃教育を受けてきた。周囲の人間も皆お前が王妃になるものと認識している。それをお前ひとりの我が儘で、今から全て覆したらどうなることか。
先ほど聞いたアーネストの言葉、そして父の言葉が頭の中でぐるぐる回る。
(我が儘……なのかしらね)
思えばマリアの受けた暴力だって、ビアトリスが引き起こしたようなものである。
ビアトリスさえ、余計なことをしなければ。
ビアトリスさえ、大人しく我慢していれば。
なにもかもが自己満足の悪あがきなら、もう諦めて大人しくしている方が良いのかもしれない。そうすればアーネストも喜ぶし、父や兄や周囲の人達にも迷惑をかけずに済むだろう。
そんなことをつらつら考えながら、ぼんやりと葉むら越しに空を眺めて――そうして、それから、どれくらいのときが経ったろう。
「ビアトリス、君がさぼるとは意外だな」
澄んだバリトンが耳に響いて、ビアトリスはゆるゆると振り向いた。
案の定、あずまやの入り口に、カイン・メリウェザーが立っていた。まるであの日の再現のように。
「何かあったのか?」
「いいえ……」
「何かあったんだろう? 証言が手に入らなくて落ち込んでいるのか?」
カインはいつものように向かいではなく、ビアトリスの隣に腰を下ろし、心配そうに顔を覗き込んできた。
「いっそ俺が証言してやろうか。実際には直接聞いていなくても、聞いたと言い張れば良いだけの話だからな」
「そんな、カインさまにそこまでご迷惑はかけられません」
「迷惑じゃない。俺がそうしたいんだ。俺が介入すると余計にこじれると思って今まで我慢してきたが、ここまできたらもう控えることもないからな。俺の家の連中も、王家に一矢報いられるなら、むしろ歓迎するだろう。問題はうちと王家の不仲を知っているウォルトン公爵がそれにのって下さるかだが――」
「あの、カインさま、もういいんです」
「もういいって、どういうことだ?」
「ですからその、元々私が望んだ婚約ですし、最近まではずっとそのつもりだったんですから。それなのに今ごろになって婚約を解消しようだなんて考えて、一時の感情で周囲を巻き込んで、振り回して……馬鹿なことをしたと思っています」
ビアトリスはできるだけ明るい声で言った。そして驚きの表情を浮かべるカインに対し、熱心な調子で言葉を続けた。
「考えてみれば、そう悪い状況でもないんです。アーネスト殿下は最近私に優しくて、あまり邪険にもなさいません。生徒会に欠員が出るかもしれないから、代わりに入らないかと私を誘ってくださいました。手伝いじゃなくて、正式なメンバーにして下さるそうです。創立祭には、私にドレスを贈って下さるそうです。殿下にドレスを贈っていただけるなんて初めてなので、とても楽しみです。父が言っていました、若い時はちょっとしたことでこじれたりすれ違ったりするものだって。だけど実際に結婚してしまえば意外となんとかなるものだと――」
「ビアトリス」
ふいに強い力で抱き寄せられて、息が止まりそうになる。
「頼むから」
男の人に抱きしめられているのに、不思議なほど抵抗を感じないのは、カインが苦痛に耐えるように小さく震えていたからだろうか。
「頼むから、そんな辛そうな顔をしないでくれ」
かすれた声で、訴えるようにカインが言う。
そういう彼の方こそ辛そうで、胸が締め付けられるようだった。
いつも飄々としていて、頼りになる年上の友人、カイン・メリウェザー。
彼はこんな激情をどこに隠し持っていたのだろう。
「君にそんな顔をされたら、俺は何のために――」
あるかなきかのか細い声で、それでも確かに、カインは続きを口にした――何のために死者になったのか分からなくなる、と。
(ああ、やっぱりこの方は)
それはまさかとは思いつつ、ずっと頭の片隅にあった可能性だった。
市井で育ったにしては、あまりに洗練された所作。高い教養。シリルの態度。そして微笑んだときに感じる、いいようのない懐かしさ。ふりつもってきた小さな違和感がひとつひとつ腑に落ちていく。
(この方、は)
やがてビアトリスの身体からゆっくりとぬくもりが離れて行った。
「……すまない。今のは俺の勝手な感傷だ。君には何の責任もないことだ。君に勝手に触れたこともすまなかった」
「いいえ……」
「だけどビアトリス、これだけは覚えておいてほしい。君は自分さえ我慢すれば誰にも迷惑をかけずに済むと思っているのかも知れないが、それは酷い思い違いだ」
「思い違いですか」
「そうだ。俺は君が不幸だと心が痛む。俺だけじゃない。君の大事な友人たちだって、きっと同じように感じるはずだ」
カインの言葉は、ビアトリスの胸にゆっくりとしみわたっていった。
自分の感情で周りを振り回すのは身勝手な行為だと思っていた。だけど全てを飲み込んで、一人で我慢するのもまた、独りよがりで身勝手な行為といえるのかもしれない。
マーガレットの婚約者は海辺に素敵な城を持っていて、結婚したらシャーロットとビアトリスを招待すると言ってくれた。そのときビアトリスが暗い顔をしていたら、きっと二人はとても心配するだろう。
ビアトリスが不幸になることで、胸を痛める人たちがいる。それはなんて重くて幸せなことなのだろう。
「……カインさま、ありがとうございます。また一人で抱え込もうとして、取り返しのつかない間違いを犯すところでした」
ビアトリスは泣き笑いのような表情を浮かべた。
「おかげでようやく、アーネスト殿下と最後まで戦い抜く覚悟が定まりました」
人をどれほど傷つけても、傷つけられても、戦い抜く覚悟が今やっと。
実際のところ、真っ当な婚約解消を考えるなら、取れる手段はもはやない。
生真面目な父はカインの先ほどの提案を受け入れることはないだろう。
ならばもう、ビアトリスが取れる手段はひとつだけ。
ビアトリスに残された道はひとつだけだ。
「アーネスト殿下に打ち勝つために、どうか協力してください。カインさま……いえ、第一王子、クリフォード殿下」
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