第30話 気は済んだかい?

 まさか女性に暴力をふるうとは、信じられない、信じたくない思いだった。

 ビアトリスは今までアーネストに邪険にされたことは散々あるが、さすがに暴力を振るわれたことはない。これはマリアとビアトリスを区別しているということなのか。それともシリルの言っていた最近の不安定さの表れなのか。


 ――今殿下は少々不安定なんですよ。仲間をこんな風に扱うデメリットはわきまえておられるはずなんですけど、最近はちょっとたがが外れてきていると言いますか……そういうわけでビアトリス嬢、アーネスト殿下といい加減に仲直りしていただけませんか?


 シリルが自分に告げた科白が、今になって重くのしかかってくるようだ。自分に対するアーネストの感情が分からない。あれだけ冷たく遠ざけていたというのに、なぜ今になってここまでビアトリスに執着するのか。彼にとって自分は一体なんなのか。


(……ううん、今はそんなことを考えている場合じゃないわね)


 今考えるべきは、アーネストの内心ではなく、目の前の問題をどうするかだ。婚約解消のための善後策と、マリアの案件への対応措置と。

 マリアはああいっていたが、本当にこの事態を放置していいのだろうか。表ざたにするのはともかくとしても、せめてレオナルドには相談するべきではないか? 


(だけど彼に相談するのって、ほとんど表ざたにするのと同じことじゃないかしら)


 レオナルド・シンクレアはどうも直情的に行動するきらいがある上、マリア・アドラーに特別な好意を抱いているようだ。その彼女が傷つけられたとなれば、いくら「マリアが望んでいない」と言ったところで、大人しく引き下がるとは思えない。いっそそれが良い方向に働けばと思わないでもないのだが、事態を楽観できないのは、やはり相手があのアーネスト王太子殿下だからである。


 レオナルドが騒ぎ立てることで、アーネストの行為が白日の下に晒されるならそれでいい。マリアがそれを否定して、レオナルドがピエロになるのも仕方ない。


 最悪なのは、それが回り回ってマリアの狂言扱いされてしまうことである。「人前でアーネストにいさめられたマリアがそれを逆恨みして、他の理由でついた傷をアーネストの仕業だと吹聴し、真に受けたレオナルドが激高した」というのは、「俺たちのアーネスト殿下」を持て囃す生徒たちにとっては、実におさまりがいいストーリーだ。アーネスト自身もそう誘導するであろうことは想像するに難くない。


(やっぱり彼に伝えるのはいったん保留にするべきね)


 これはもう少し冷静に対処できる人間――カインかマリア本人にでも改めて相談すべき案件だ。それでは外で待っているレオナルドに対して、とりあえず何というべきか。単に風邪を引いたとだけ言って、素直に納得してくれればいいのだが。


 などと思い悩んでいたのだが、結局のところ、ビアトリスに選択の余地はなかった。女子寮を出たビアトリスを待っていたのはレオナルドだけではなかったからである。


「やあトリシァ、ご苦労様」

「……なんで殿下とパーマーさまがここに」

「僕たちはレオナルドを探しに来たんですよ。彼はここのところ生徒会をさぼりがちなので、どうしたのかと思って教室に行ってみたら、ビアトリス嬢と一緒に女子寮に行ったと聞いたので」

「トリシァはマリアの調子を見に行ってくれたんだってね。俺たち男性陣は女子寮には入れないから助かるよ。――それで、どうだった?」


 そう尋ねるアーネストは、まるで面白がっているようだった。


「……アドラーさんとはドア越しにお話ししましたけど、お元気そうでした。風邪を引いたから、うつすわけにはいかないとおっしゃっていたので、直接顔を合わせることはありませんでしたけど」

「マリアは元気そうだったのか。それは良かった。なぁレオナルド」

「ああ……」


 レオナルドはどこか不安げな眼差しをビアトリスに向けたが、それ以上何も言わなかった。


「それじゃシリルはレオナルドと一緒に先に帰ってくれないかな。俺はトリシァと婚約者同士の話があるから」

「分かりました。それじゃレオナルド、行きましょうか」


 まるでシリルに連行されるようにして、レオナルドは校舎の方に戻っていった。


「殿下は――」

「その呼び方はどうかと思うな。婚約者同士なんだから、今まで通りアーネストと呼んで欲しい」

「……もうすぐ婚約者ではなくなりますから」

「ふうん、それじゃマリアから証言をもらえたのかな?」

「いいえ」

「他の生徒からはどうなんだ?」

「いいえ」

「そうか。いろいろ頑張ったのに、残念だったな」


 アーネストは労わるような笑みを浮かべて言った。


「――それで、もう気は済んだかい?」


 ――気がお済みですか?


 まるでいつぞやの意趣返しのように、アーネストが問いかける。

 ビアトリスはなにも答えられない。


「なぁトリシァ、君はもう十分がんばった。やれるだけのことはやった。精一杯力を尽くした。だから……もう気は済んだろう?」


 アーネストの右手がビアトリスに伸び、その頬に優しく触れた。


「もうその辺にしておいた方がいいよ。君一人の我が儘で周りのみんなに迷惑をかけるのはとても良くないことだ。君はそれくらい分かっていると思うけど」


 指先がこめかみを、頬を、唇を撫でる。


「やっぱり婚約期間が長すぎたのが良くなかったのかな、お互いに。卒業したら結婚する予定だったけど、もう少し早められないか、父上と母上に相談してみるよ。君もそのつもりでいてほしい」


 最後にマリアが怪我をしたのと同じ場所をゆっくりとなぞるように触れてから、指はようやく離れて行った。


 それからしばらくの間、アーネストは楽しげに話し続けた。

 もしかしたら生徒会に欠員が出るかもしれないから、そのときはビアトリスに入って欲しいとか、もうすぐ創立祭だからビアトリスにドレスを贈りたいとか、そんな他愛もない話を、とても楽しげに。


 笑顔で話しかける貴公子と、静かに耳を傾ける令嬢。それは傍から見れば、仲の良い婚約者同士そのものだったかもしれない。


「君は俺のものだ。今も。そしてこれからも」


 予鈴が鳴って、立ち去るアーネストの後ろ姿が見えなくなるまで、ビアトリスはその場を一歩も動けなかった。


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