第29話 マリアの悲鳴
(まさかアーネストさまが……? ううん、まさか、いくらなんでも)
ビアトリスの頭に一瞬「アーネストが口封じに何かやったのではないか」との考えが浮かんだが、さすがにそれはないだろうと心の中で打ち消した。
「彼女には同じ寮生の友人はいないんですか? その方に聞いたら様子が分かるんじゃないでしょうか」
「いやそれが、あいつ女友達いねぇんだよ。元々友達自体が少ねぇし」
「そうなんですか」
ビアトリスは初めてマリアに親近感を覚えた。
「では昼休みに私が女子寮に行って様子を見てきます。彼女の友人だといえば、きっと入れてくれると思います」
「ああ、悪いな。恩に着るよ」
「いえ、私も彼女に大切な用事がありますから」
今のレオナルドからは、かつて生徒会で会ったときに感じた敵意はまるで感じられなかった。これはアーネストの指示ではなく、むしろ逆の理由だろう。不正疑惑の一件でアーネストへの妄信がなくなったからこそ、ビアトリスに対する敵対心も消えたのだ。この調子でマリアも変ってくれたらありがたいのだが。
マリアのいる女子寮の寮監は、「事なかれ主義のジョーンズ」の二つ名を持つ女教師で、部外者を中に入れることを当初渋っていたものの、ビアトリスがウォルトン公爵令嬢であることや、マリアと同じ生徒会役員であるレオナルドがマリアの友人だと保証したこともあり、結局ビアトリスを寮内に入れることに同意した。
ジョーンズ女史によれば、マリアは二日前にシリル・パーマーに送られて帰って来たあと、「風邪を引いた」と言って自室に引きこもっているという。その際、うつむきがちで顔色はよく分からなかったが、足取りはしっかりしていたとのこと。
「食事は隣室の生徒が交代で運んでますよ。本人が顔を合わせたがらないので、トレイはいつも部屋の前に置くようにさせています」
教えられた部屋の前に行ってノックすると、中で人が動く気配がした。しかしドアが開かれることはなく、中にいる人物はこちらの様子をじっとうかがっているようだった。
ビアトリスはしばらく待ってから再びノックしたのち、声をかけた。
「アドラーさん、中にいらっしゃるんですか?」
答えはない。
「アドラーさん、お元気かどうか、お顔だけでも見せて頂けませんか?」
「……ウォルトンさんが、いったい何をしに来たんですか?」
ようやく返ってきたのは、猜疑心に満ちた声だった。紛れもないマリア・アドラーの声音に胸をなでおろしつつ、ビアトリスは言葉を続けた。
「レオナルド・シンクレアさまに、貴方の様子を見て来てほしいと頼まれたんです。随分と心配していらっしゃるようでした」
「レオナルドが……そうですか。風邪を引いて休んでいるだけですから、そう伝えて下さい」
「ドアを開けて、お姿を見せていただけませんか?」
「それは無理です。……その、うつすかもしれないので」
マリアが付け加えた理由は、いかにも言い訳じみていた。こう言ってはなんだが、マリア・アドラーがビアトリスの健康を気遣うとは思えない。なにか顔を出せない理由でもあるのだろうか。
「風邪がうつるくらい、私は別に気にしません」
「私は気にするんです。……用が済んだらもう帰ってくれませんか?」
「申し訳ありませんが、私も個人的に、貴方にお願いしたいことがあるんです」
「お願いしたいこと?」
「はい。この前貴方にうかがった試験の不正疑惑の件で、貴方に証言をお願いしたいんです。あれを言い出したのはアーネスト殿下だと――」
「ふざけないで!」
ビアトリスの言葉を、怒りに満ちた声が遮った。
「ふざけないでください。なんて図々しい……なんで私が貴方なんかのために……それじゃあ見せてあげますよ。貴方のせいで、私がどんな目に遭ったのか!」
ようやく扉が開き、マリアが姿を現した。その顔に、ビアトリスは思わず息をのんだ。ストロベリーブロンドに愛らしいハシバミ色の瞳は相変わらずだが、形の良い唇の端が切れ、口元に痣が出来ている。まるで誰かに殴られたような痛々しい傷跡だ。
「……それは、アーネストさまに?」
「貴方のせいです。貴方がアーネストさまに余計なことを言ったから……いいえ、今回だけじゃありません。貴方が生徒会に来た時から、アーネスト様はずっと変なんです。本当はとても優しい方なのに、貴方が絡むと、アーネストさまはおかしくなるんです。貴方さえ関わってこなければ、私たちはとても上手くいっていたのに……毎日が凄く幸せだったのに……もういい加減、私たちを放っておいてくれませんか?」
最後の方は、ほとんど悲鳴のようだった。
ビアトリスにしてみれば、マリアの言葉は言いがかりに近いものだった。生徒会に誘ったのはアーネストだし、試験についてもアーネストが一方的に仕掛けたことだ。ビアトリスの方からアーネストとマリアに絡んでいるわけではない。
とはいえマリアの発言をアーネストに対して匂わせたのは、紛れもなくビアトリスの落ち度である。
「申し訳ありません。貴方の怪我は、私の不用意な言葉が原因です」
「自覚はあるんですね。そうですよ。全部貴方のせいです。アーネストさまはこんなことをなさる方じゃないのに、貴方がおかしくさせているんです」
「あいにくですが、そちらは同意できません。アーネスト殿下が酷いことをするのは、アーネスト殿下がそういう方だからです」
「何も知らないくせに、いい加減なこと言わないでください。今まで私たちと一緒にいるときのアーネストさまがどれほど――」
「アドラーさん、信じられないかもしれませんけど、私とアーネスト殿下は元々とても仲が良かったんですよ」
ビアトリスの言葉に、初めてマリアの表情が変わった。
「……馬鹿馬鹿しい、そんなでたらめ、誰が信じると思うんですか」
「私はウォルトン公爵家の娘です。嫁ぎ先などいくらでも選べる立場です。いくら王子殿下でも、最初からあんな邪険な態度をとられていたら、婚約なんて結ぶわけがないと思いませんか?」
「じゃあなんで」
「直接的な原因は分かりません。ある時から急に変わってしまわれました。私は自分のせいだと思って、あれが悪かったのか、これが悪かったのかと随分思い悩みました。ある意味、私もアドラーさんと同じです。優しいアーネスト殿下こそが本来の姿だと思い込んで、殿下が酷い態度を取る原因を他に求めようとしたんです。それさえなんとかできれば、元の優しい殿下に戻って下さると思い込んで……でも私は最近やっと分かったんです。アーネスト殿下がああいう態度を取る原因は、結局のところ殿下ご自身にあるんです。単にアーネスト殿下がそういう方だからなんです。それが分かったから、婚約を解消しようとしているんです」
マリアはしばらく無言でじっとビアトリスを見つめていた。何かを言いかけ、ためらうように口を閉ざし、やがて力なくうつむいた。
「帰って下さい。怪我のことは絶対にレオナルドに言わないで」
「マリアさー―」
「お願いです、帰って下さい!」
「分かりました。怪我が早くよくなるようにお祈りしています」
ビアトリスはそう言いおいて、マリアのもとを辞した。
署名入りの証言は結局手に入らないままだった。
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