第7話 あの男とは関わるな
不安は翌日になって的中した。
なんとアーネストが公爵邸に直接押しかけて来たのである。
婚約したばかりの頃は、アーネストは頻繁にビアトリスのもとを訪れては、一緒に庭を散策したり他愛ないおしゃべりを楽しんだりしたものだが、ここ数年は義務のない限り一切近づこうとしなかった。そのアーネストがせっかくの休日を潰してまでやってきたことは、否が応でもビアトリスの不安を掻き立てた。
「なんで俺がわざわざ来たのか、分かっているな?」
ビアトリスがサロンに入ると、アーネストは不機嫌さを隠しもせずに切り出した。
「大変申し訳ありませんが、私には心当たりがございません」
ビアトリスは相手を刺激しないよう、なるべく静かな口調で言った。
「とぼけるのはよせ。気付かれていないとでも思っていたのか? 昨日赤毛の男と一緒にいただろう」
「タルトのお店でのことでしたら、あそこには五人のグループで来ていたのです。彼と私の他に女生徒が二人、男子生徒が一人一緒におりました。やましいことは何もありません」
「毎朝あずまやで逢引きしているとの噂も聞いているぞ。まさかと思って聞き流していたが……それも本当だったんだな?」
「向かい合ったベンチに腰掛けて、普通におしゃべりしているだけです。あの通り壁もない開放的な場所ですし、逢引きという表現は不適当かと存じます」
「君は俺の婚約者なんだぞ。少しはわきまえたらどうなんだ」
まるで嫉妬でもしているかのような物言いに唖然とさせられる。あれだけ疎ましがっていた婚約者が、誰と仲良くしようとどうでもいい話だろうに。
(プライド、なのかしらね)
自分の所有物だと思っていた相手が、他の男と親しくすることが彼のプライドに障ったのだろう。アーネストの考えていることはよく分からないが、取り合えずそう思っておくことにする。
「もう一度申し上げますが、彼は単なるお友達です。会話する時はきちんと距離を保っていますし、王太子殿下の婚約者として、恥じるような真似はなにひとつしておりません。昨日は五人のグループで一緒に出かけたのです。二人きりで出かけたことはただの一度もございません」
「たとえ他の人間がいようと、婚約者の居る身で親族でもない異性と共に出かけるのが問題だと言っている」
そんなマナーは聞いたことがない。
それでもかつてのビアトリスならば、マナー云々に関わらず、アーネストが嫌がっていると知れば即座にやめたことだろう。実際、今も心の中には「アーネストにこれ以上嫌われないために、もう二度と彼には会わないと今すぐ誓った方がいい」と主張する声がある。
しかしその一方で、ビアトリスはカインを失いたくなかった。長らく孤独だったビアトリスにとって、カインは大切な友人だ。マーガレットやシャーロットたちと同様に。
そもそも嫌われないための努力とは何だろう。今までビアトリスは一切アーネストに逆らわず、彼の意に沿おうと必死だったにもかかわらず、容赦なく嫌われたではないか。
「……私は問題視されるようなことではないと思います。それに親族でもない異性と一緒にいたのは、アーネストさまも同じではありませんか」
嫌味に聞こえるかもしれないが、これは当然の指摘だろう。少なくとも自分はあんな風に腕を絡めたりはしていない。
「マリアは生徒会のメンバーだ」
「もちろん存じておりますが、昨日出かけていたのは生徒会の仕事ではないでしょう?」
「君は俺が生徒会の人間と親睦を深めるのが気に入らないのか?」
「いえ、けしてそのような」
「もしかして、生徒会に選ばれなかったことを未だに根に持っているのか?」
ビアトリスは答えに窮した。生徒会に選ばれなかったことに傷ついたのは事実だし、その傷がまだ完全に癒えていないのも事実である。とはいえ、それとこれとは別問題だ。
以前からアーネストときちんと話したいと思っていたが、こうして実際に話してみると、なにか絶望的にかみ合わないものを感じる。昔は視線を交わすだけで通じ合っていた気がするのだが。
どう答えるべきか考えあぐねていると、アーネストは意外な提案を持ち出してきた。
「分かった。それじゃ君に生徒会の手伝いをさせてやろう」
「はい?」
「雑務が多くて人手が足りないから、ちょうど手伝いを入れようと思っていたところだったんだ」
アーネストは「嬉しいだろう?」と言わんばかりの調子で、言葉を続けた。
「――その代わり、もうあの男とは関わるな」
「申し訳ありませんが、それは承服できません」
「なんだと?」
「彼は大切なお友達です。生徒会の手伝いはどなたか別の方にお申し付けください」
「……君は生徒会のメンバーに加わりたいんじゃなかったのか?」
「以前はそうでしたが、今はその、色々と忙しいので……もっと他に相応しい方がいらっしゃると思います」
アーネストの言う通り、かつてのビアトリスは確かにそれを切望していた。アーネストに「雑用でもいいから手伝わせて欲しい」と懇願し、にべもなく撥ねつけられたのは他ならぬビアトリス自身である。
しかし昨日の一団を見て、あの中に入りたいとはもはや微塵も思わなかった。あそこにビアトリスの居場所はない。彼女の居場所は、昨日一緒に出掛けたメンバーの中にこそ存在する。
「あとから入れてくれと言ってきても遅いんだぞ」
「それはもちろん分かっております」
「勝手にしろ」
アーネストがようやく帰宅した後、ビアトリスは深々と息をついた。
本当にこれで良かったのか、改めて己の胸に聞いてみても、やはり後悔はわいてこなかった。
(それにしても)
あの当時のビアトリスの懇願に対し、「メンバーを増やすつもりはない。俺の婚約者だからと言って調子に乗るな」と言い放ったアーネストの蔑みの眼差しを、「俺に公私混同させるつもりか」と吐き捨てた口調の刺々しさを、今も鮮明に記憶している。それなのに今になってこんな理由で「それ」を投げ与えようとするとは。
あのときの自分が味わった羞恥と絶望は一体何だったのだろう。
ビアトリスは婚約者に対する不信感が滓のように溜まっていくのを感じざるを得なかった。
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