第2話
〇 ● 〇
これは夢だ。
――もーいいかーい、もーぉいーいかぁーい。くすくすくす。おにいさんどこかなあ。おねえさんどこかなあ。かくれんぼがじょうずだねえ。くすくすくす。くすくすくす。
「……先輩、このままだったら、二人とも捕まっちゃいます……」
――もーいいかぁーい、もー、いー、かーい?
「だから、あたしが囮になります。先輩、その間に逃げてください……!」
――もーいいかぁーい。くすくすくす。あははははは。きゃらきゃらきゃら。ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!!
「だめです、先輩は逃げてください。……あたしが悪いんです、あたしが……かくれんぼをやろうって言ったから……」
――あー、おとがしたねえ! そっちかなぁ! おねえさん! おにいさん! もーいいかーい! もーいいかーい! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!!
「ダメだったんです……ダメって言われてたんです……ここでかくれんぼをしたらダメだって……鬼が出るって……あたっ、あたし、先輩をちょっと、脅かしたくて……ホントだと思わなくって……」
――もーいいかぁーい、もーぉいーいかぁーい。あはは。おねーさんだぁ! おねえさんみぃーつけたぁ! あははは、おねえさんだぁ、おねえさんだああぁぁ!!
「大丈夫です、先輩、あいつ、食べるのは男だけで、女は食べないって昔話で、だから早く! 先輩!」
振り返った
身体がブルブル震えて、歯をガチガチ鳴らして。顔中冷や汗まみれで、怖くて怖くてたまらないのだと全身で体現していて。
それでも、「こっちだよ!」とかすかすに掠れた声を上げて、バネのように背にしていた墓石を飛び出した。
――もーいいかぁいー! もういいかーい!
べたべたべたべたべたべたっ!
裸足で石を叩くような音が家無の方に、凄いスピードで向かっていって。
「ぎゃァアああああァァッ!!」
つんざくような、喉の奥から振り絞ったような家無の絶叫がして。
塚に背を預けていた俺は。
その場から、這うようにして、逃げた。
〇 ● 〇
「佐々木! 起きろ佐々木!」
ウス先の声が耳元でして、俺は跳ね飛ぶように起きた。
勢いのままに椅子から立ちあがって、椅子の倒れる派手な音が響く。
はっ、はっ、と息が乱れる。心臓が滅茶苦茶に揺さぶられて、吐き気がした。肩で大きく息をしながら、ここは、と見渡す。自分の教室だった。正面の時計は二時を指している。
呆れた顔のウス先が、腕を組んでため息をついた。
「どうしたんだ佐々木、居眠りなんかして」
「す、すみません……」
くすくすと忍び笑う声が、波のように教室に広まっていく。カッと自分の頬が熱くなるのが分かった。
しまった。ここ最近ロクに寝てないから、ついウトウトしてしまった。
いや、これはウス先が悪い。ボソボソした細い声で教科書の内容を話すだけの授業なんて、眠くなって当然だ。そう、ウス先が悪い。
しかしここで謝らないと、反抗的な生徒と思われてしまう。内申点に響くのは避けたい。もう一度「すみません」と謝って席に着くと、ウス先がため息交じりの声を出した。
「まぁ、家無が行方不明になって、心配になるのも分かるが――」
「え」
顔を勢いよく上げて、ウス先を見る。
今、なんて言った?
家無が、行方不明?
何を言ってるんだ。家無は普通に学校に来たじゃないか。昼休みだって、俺に話しかけてきたじゃないか。
「ウス先、何言ってんすか。家無はだって、今日も俺と一緒に学校に来たんですよ?」
ウス先は、きょとんと目を丸くして俺を見た。
「何を言ってるんだ? 家無は七日前の夜に、家を出たきり行方不明じゃないか。――佐々木、どうした、顔色が悪いぞ。保健室に行った方が良いんじゃないか?」
七日前。
――もーいいかぁーい。
耳の奥で木霊する、声。
「おい、佐々木!?」
俺は立ち上がって、ウス先の静止を聞かずに教室を飛び出した。
授業中だからどこも静かで、廊下も階段にも人がいない。三年生の教室は一階で、一年生の教室は三階だ。階段を駆け上がる。バタバタと荒い足音が木霊して響いた。
嘘だ、行方不明になったなんて。
だって俺は、昨日も今日も、あいつと学校に来たんだ。くだらないお喋りをしながら。昼休みだって、普通に教室にいたじゃないか。
それに、そう、B組のあいつ。刀鏡院とうきょういん雪峯ゆきみね。あいつも家無と話をしていた。名前を呼んで、会話をしていた。
だからきっとあれは、ウス先の嘘だ。寝こけてた俺を脅すために言った、タチの悪い冗談だ。
……クソ真面目なウス先が、そんなことを言うはずは無い。
そんなことをちらっと思った時には、俺はB組の扉を勢いよく開けていた。
「家無いるか!?」
授業をしていた教師と、話を聞いていた後輩達が、俺の叫びを聞いて一斉に振り返った。
開いた教科書を手に持った教師が、不機嫌そうに眉を寄せる。
「なんだ君は、授業中だぞ」
「家無は、刀鏡院は!?」
俺は素早く教室内を見渡す。机が二つ、空いていた。教室の真ん中と、窓際の席。
「あ、あの、佐々木先輩。刀鏡院君なら、さっき早退しました……」
おずおずと声をかけてきたのは、室岡だ。
俺が視線を向けると、室岡は上目遣いで口を開いた。
「あの、千陽ちゃんのいる所が分かったから、迎えに行ってくる、って」
最後まで聞かないで俺はまた駆けだした。後ろで誰かが何か言っている。
――もーいいかーい。もーいいかーい。
頭の中で声が響く。
……そうだ、思い出した。
「――七が辻……!」
全力疾走で階段を上り下りしたので、肺が痛い。だけど行かなければいけない。
俺は踊り場で息を整えてから、一階まで二段飛ばしで駆け下りた。昇降口を突っ切って、歩道に飛び出した。道を歩く人が驚いたように、あるいは迷惑そうに俺を避ける。
そんなのにかまっていられなかった。
アルバムを開いた時のように、記憶が次々蘇ってくる。
あれはそう、七日前だ。
いつものように散歩をしていたら、墓場前の自販機で家無に会った。しばらくそこで他愛ない話をしていて、そうしていたら不意に、家無がこんな事を言いだしたのだ。
――先輩先輩、お墓でかくれんぼやりません?
墓場でかくれんぼをするなんて、なんか罰当たりな気がして嫌だった。それに月明かりも無くて街灯一つだけでは明かりも乏しくて、墓の影から何かがばあっ、と出て来そうで。
正直に言えば、俺は怖かった。
――えー? 怖いんですかぁ先輩。あたしは全然怖くないですよー。意外と怖がりなんですね、ぷぷー。
だけどそう言って茶化すように笑う家無に、ムッときて売り言葉に買い言葉で「やってやる!」と言ってしまったのだ。
そうして、墓場で二人きりのかくれんぼをした。
二人だし、墓場は狭い。暗いとはいえ、「もういいかい」「まあだだよ」と言い合って探せばすぐに見つかった。
夜の墓場という、異様なシチュエーションでかくれんぼをするのが少し、楽しくなってきたころだった。
――まーぜーてー。まーぜーてー。まーぜーてー。まーぜーてー。
知らない声が墓場に響いた。俺達は動きを止めて、声の方を見た。
一つしか無い街灯の下に、人のようなものが立っていた。人のよう、と思ったのは、その両手が地面に着くくらい長く見えたからだ。
見間違いだったかもしれない。だけど、見つかったらヤバい! そう思って、家無の腕を掴んで塚の後ろに隠れた。
――あれれ? どこいったの? かくれたのかなあ。じゃあおにだね、じゃあさがすね!
――おねえさん、おにいさん、もーいいかぁーい?
くすくすくす。あははははは。
子どものような舌足らずなのに、そいつの声は老人のようにしわがれていた。
きっと俺達の隠れ場所は、最初からバレていた。なのにそいつは、わざと遠くの方に向かったようだった。
――どこかなあ。こっちかなあ。あれえ、いないなあ。かくれんぼじょうずだねえ。
わざとらしく声を上げながら、べたべた、べたべた。足音が遠くの方で聞こえる。
遊ばれている、そう思った。
獲物をじっくりいたぶるために。わざと時間をかけている。
現にそいつは、少しずつ俺達の方に近づいてきていた。べたべた、べたべた。裸足の足音がさっきより近く聞こえる。「もういいかい」と楽しそうに笑う声。
「……先輩、あたしが囮になってる間に、逃げてください……!」
家無はそうして、俺を逃がすために走って行って、それで、それで、そいつの楽しそうな笑い声と足音がして、家無の絶叫がして。
俺は逃げた。悪い夢だったと。受験勉強疲れで見た夢だったのだと。明日になれば家無だって「おはよーございます、先輩!」と元気に挨拶してくれると。自分に強く言い聞かせて。
そうして次の日、家を出た俺に家無が駆け寄ってきて、「おはよーございます、先輩!」と声をかけるから、ああ良かった、あれはやっぱり夢だったんだと安堵して。
――七日前から行方不明に……
ウス先の声が頭をぐるぐると回る。
じゃあ、あれは家無の幽霊だったのか? お前はあそこで死んで、幽霊として俺の前に現れたのか? 何のために? お前を助けられずに逃げた俺を恨んで? 毎日見るあの夢も、お前が見せてたのか? 刀鏡院は本当に霊能者だったのか? だから家無の幽霊が視えたのか?
はあ。はあ。息が切れる。心臓がどこどこ鳴っている。
がむしゃらに駆けた。もう訳が分からなかった。
走って。走って。走って。
「……こ、ここは」
足を止める。足ががくがく震えて、肩が大きく上下する。全身から流れる汗で、シャツやズボンがべたついて不快だった。
俺はいつの間にか、七が辻の墓場に辿り着いていた。
墓場は静かだった。
いや、墓場だから滅多に人が来なくて静かなのは当たり前なのだが、それにしたって静かだ。
真夏の暑い盛りで、墓場の道路に面していない方は小さいながらも森がある。なのに、蝉の声も聞こえないなんてどういうわけだ。
「家無、いるのか……?」
なんでここに来たのか、分からない。
家無を探すためなのか。だが警察も、この辺はとっくに探しているだろう。家無の家だって、この辺りなのだから。捜査範囲のはずだ。ならとっくに、生きてても死んでても家無は見つかってるはずだ。
俺は、ふらふらと墓場に足を踏み入れた。
墓場の真ん中には、塚がある。誰が作ったか分からない、古い塚だ。一面灰色の墓場の中で、そこだけがくっきりとした緑に染まっている。だから墓場に入れば、否が応でもそれに目が吸い寄せられた。
塚の前に、人影があった。
こちらに背を向けて俯いて、立ち尽くすワンピース姿の少女。
「家無!?」
それは、間違いなく家無だった。七日前のあの時に着ていたワンピースを着て、両手をだらりと垂らして俯いている。
生きていたんだ……!
七日間どうして姿を現さなかったのか。一体どこにいたのか。それは気になったが、俺はとにかくほっとしていた。駆けよろうと足を踏み出して、
「もういいかーい」
「!」
風に乗って、家無の声が俺の耳に届く。
途端に、毛穴という毛穴からブワッと冷たい汗が噴き出した。
「おにいさん、もどってきてくれたんだあ。またあそぼうね。さいごまであそぼうね、ほらほらにげてよかくれてよ、もーいいかぁーい?」
こちらを向かず、家無がきゃらきゃらと笑った。首をがくんと垂らして俯いているのに、楽しそうに笑う。
声は家無だ、姿も家無だ。
だけど、違う。この、どこか舌足らずな喋り方は、七日前のあの時の。そして、夢でいつも聞いていた、あのしわがれ声の主だ。
「お、お前……家無をどうした!」
「もーいいかーい。もーいいかーい。にげないの? かくれないの? おわりなの? あはははははははははははは! じゃあつかまえていい? つかまえるね? このおねえさんみたいにつかまえるね?」
ごきん。硬いものが折れる音が墓場に響いた。
俺は目を離せなかった。動けなかった。
家無の首が、真横に折れた。ごぎゃ。また音。真横に折れたまま、家無の頭がぐりんと回転した。身体は塚を向いたまま。人ではとてもありえない動き。
ひ、と俺の喉からそんな声が漏れる。
子どもがクレヨンでぐりぐりと塗り潰したように、家無千陽の可愛らしい顔には、ぽっかりと三つの黒い穴が空いていた。両目と、口。真っ黒な楕円に変わったそこから、しゃがれた声が這い出てくる。
「もーいいかーい。もーいぃかぁーい」
土で汚れたヨネックスのテニスシューズが、ざり、と土を踏んだ。
俺の方へ、一歩、足が動く。
呪縛が解けた。
「うぁっ、うわあぁぁッ!!」
情けない悲鳴を上げて、俺は逃げた。
規則正しく立つ墓石を縫うように、ジグザグに走る。
逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ!
あの家無の姿をした化け物から逃げなければ!
「きゃらきゃらきゃらきゃらきゃらゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!! もーいいかぁーい! もーぉいーぃかぁーい!!」
ばたばたばたばたばたばたっ!
硬い足音が後ろから聞こえる。つかず離れずの距離を置いてついてくる。後ろを振り返りたくなかった。振り返ればきっと、俺の足は崩れ落ちてしまう。
さりっ、さりっ。時々、俺の髪や肩に、硬いものが触った。耳の後ろできゃらきゃらと笑い声が聞こえる。背筋に氷を突っ込まれたようにぞわっとした。
俺の脳内に、唐突に映像が浮かんだ。
後ろから追いかけてくる家無。それが時々一気に距離を詰めてきて指を伸ばし、俺の髪や肩を掴もうとする――
遊ばれている。嬲られている。
すぐ捕まえると面白くないから。じわじわ追い詰めて、長く楽しんでいる。
「もーぉいいーかぁーい。もーいいかぁーい。もういいかぁーい」
家無の声で、家無じゃない奴が嗤う。
とにかく俺はその声を振り切りたかった。墓場の中を必死で逃げ惑う。
逃げても逃げても、墓場の出口に辿り着かないことも、いつの間にか見渡す限りの景色が墓石で埋め尽くされていたのも、その時の俺には関係無かった。
逃げなければ! 俺の頭はただそれだけだった。
きゃらきゃらきゃら。背後から声が聞こえる。
「もういいかーい! もういいかーい! おにごっこなのおにいさん! かくれんぼしようよ! ほらはやくかくれテかくレテかくれてカクれてかくれロよおオォォぉぉぉぉ!!」
「ひぃっ、ひいぃっ!」
汗で背中に張り付いたTシャツが、引っ掴まれた。後ろにぐいっ、と引っ張られる。それほど強い力じゃなかったのに、膝ががくんと砕ける。
転ぶ!
「うあっ、あっ、わぁあああ!」
訳の分からない叫びが喉から出た。身体を遮二無二よじると、あっけなくTシャツが解放される。たたらを踏んで、バランスを崩した身体が横によろめいた。
あっ、と思う間も無く、俺は勢いよくその場に転倒した。
ざりっ、と右肘の辺りで嫌な音がした。
「ちだ! ちだちだちだちだちだちだちだ! ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!! もーいいかーい! おにいさんもういいかーい! もういいかーい!!」
もういいかい。
もういいかい。
見つけてもいいかい。
捕まえてもいいかい。
食ってもいいかい。
もういいかい。
「……っ、う……!」
立ち上がれなかった。ずっと走り続けてきた身体はとうに限界で、逃げたくても鉛のように重い足はぴくりとも動いてくれない。
ざり、ざり。土を踏む音が近づいてくる。ゆっくりと、ゆっくりと。俺を捕まえるために。
俺は倒れたまま、首だけを起こしてそいつを見た。
家無千陽の身体を乗っ取ったそいつはそこにいた。
空が赤い。血を塗りたくったように真っ赤だ。赤い空を背負って、そいつは俺のすぐそばにいた。
「おにぃさん、みぃーつけたああああぁぁぁぁぁぁぁ」
顔に空いた穴の一つが、にいぃぃっと笑みの形に歪む。。
身体は後ろ向きのままだった。
――凄いな家無。後ろ向きのまま走ってきたのか。凄い身体能力だ、オリンピックに出れるぞ。
思考が空回りして、そんな場違いな考えが脳に浮かんだ。
ごきん、ごきん、べき。家無の両腕が、そんな音を立てながら伸びる、伸びる、伸びる。
地につく長い腕の先には鋭い爪。鎌首をもたげた蛇のように、その右腕がゆらりと持ち上がって――
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前!」
パン! パン!
耳慣れない呪文と、乾いた音が二度、墓場中に響いた。
びく、と目の前のそれが動きを止める。
「なぁにしてんだお前えええぇ!」
怒声が響いた。身体を動かさないまま、ぐりんと家無の首がねじれて声の方を向く。俺もつられてそっちを向いた。
「先輩と家無になにしてんだあああぁぁ!」
刀鏡院。
刀鏡院雪峯。
霊能者だとうそぶいた、あの茶髪の後輩が、墓石の上に仁王立ちしていた。眼鏡の奥の目が、ギラギラと鋭い光を放っている。
「黙って寝てりゃいいものを、ホイホイ起きて来やがって。しかも俺のダチと先輩に手ぇだしやがって!」
ぱぁん!
刀鏡院が手を叩く。よく響く良い音だった。
「きぃィイぃぃぃぃィアァあああぁァぁぁぁぁァァあああアあァ!!」
家無の姿をしたそいつが、奇声を上げて飛び上がった。
長い腕を鞭のように振り回しながら、刀鏡院に上空から襲い掛かる。
「よんでないよんでないよんでないよんでないおまえはよんでないくるなくるなくるなくるなくるなおまえはよんでないとうきょういんのこせがれこせがれおまえはかえれかえれかえれえええぇええええええぇぇぇぇぇ!!」
「お前こそ呼ばれてないのに、出てくんな!!」
対する刀鏡院はそれに怒鳴って、人差し指と中指を合わせて立てた。
「縛!」
鋭い言葉が聞こえた直後。
そいつの動きが、ビタリと止まる。上空だというのに、まるで見えない糸に縛られたかのように、そいつはピクリとも動かなくなった。ビデオのポーズボタンを押したかのようだ。
刀鏡院はそいつを睨みながら、俺に向かって声をかけた。
「先輩、ケガある? 大丈夫? 食われてない?」
「あ? え、あー……肘がいてぇ」
落ち着くと、肘が物凄く痛かった。というか、ぐっしょり濡れているような感覚がする。恐る恐る右肘に目を向けると、肘のすぐ上がばっくり裂けて、血がだらだらと流れていた。
うわ……ひどいなこれ。縫わなきゃダメなのでは。てか止血、俺ハンカチ持ってたか?
ポケットを探ろうとした時、甲高い奇声が轟いた。
「ぃぃィィィいいイイいいぃぃィぃぃいいィイいいいいイ!」
「家無の身体、そんなにしやがって……とっとと消えろ!」
刀鏡院が立てた指を掲げた。ざわりと、茶髪が風に煽られたように揺れる。
「ノウマク、サンマンダ、バサラダン、センダンマカロシャダヤ、ソハタヤ、ウンタラタ、カンマン!」
爆風に煽られて、俺はごろごろと転がる。ぐらぐらと頭の芯が揺れて、水の中にいるように五感全てが曖昧になっていく。
駄目だ……意識が保てない……。
――ありがとう、先輩。
意識を失う直前、そんな家無の声が聞こえた――
〇 ● 〇
目を覚ますと、綺麗な夕暮れが見えた。黒い影が、カァカァ鳴きながらどこかへ飛んでいく。
「あ、先輩おっはー。どっか気分悪ぃとこある?」
ぴょこっと、刀鏡院の顔が視界に入り込んできた。
「……なんか、あちこち痛ぇ」
限界まで走った足も痛いが、特に肘の上が痛い。ずきんずきんと、脈打つような痛みが襲ってきて俺は顔をしかめた。
「あー、血は止めて包帯巻いたけど、病院行った方がいいよ先輩。多分それ縫わなきゃダメだし」
「……だよな」
ずきずきと痛むそこが、さっきまでのあれが夢ではないと教えてくれた。
――ありがとう、先輩。
ほっとしたような、嬉しそうな家無の声が耳の奥で蘇った。
あの声はきっと、別れの挨拶だったのだろう。
いっそ、恨み言を言ってくれても良かったのに。お礼を言われることなんて、なにもしてないのだから。
「……家無は」
「行ったよ」
刀鏡院はさらりと言う。冷たいくらい普通の声音だった。
「……本当に、霊能者だったんだな。あんなこと言って、悪かったな……」
「べっつにー。俺も弁当食べてた時に先輩が話しかけてきたもんだから、ムカッとして変なこと言ったしー。おあいこおあいこ」
手を振ってけらけらと笑う刀鏡院は、本当に普通の高校生にしか見えない。さっきの気迫が嘘のようだ。
俺はどうやらベンチに横になっていて、頭の近くに刀鏡院が座っているようだった。
じわじわ夕焼けは赤みを増していく。だがそのうち紺色が勝ってきて、夜になるのだろう。
ぼんやりとそれを眺めていた俺は、自然と呟きを漏らしていた。
「……あの時、もっと強く止めてればきっと、家無があんなになる事は無かったよな……」
「だろうねー。あいつってさ、普段は別に無害で寝てるだけなんだよ。でもさ、夜にかくれんぼをしてる男女がいると目ぇ覚ますんだ。絶対男女。それ以外だと出ねーの。そんで女の身体を乗っ取って、男を食う」
ひのふの、と刀鏡院は指を折った。
「七日。七日かけてあいつは獲物を弱らせて、そんでから食う。だから先輩、マジ危なかったよ」
「七日? ……なんでそんなわざわざ……?」
「あー、えーっと、なんだっけ?」
刀鏡院の目線がふっと上を向いた。ふんふん、と何かに話しかけられているかのように、何度か頷く。
「……え? はぁはぁなるほど。そういう枠組みに縛られてるから、だって」
「……?」
よく分からない。
だけどしょうがない。俺はそういった事は何も分からないのだから。分かるのは、俺が助かって、家無が助からなかった、それだけ。
「……家無……親御さんになんて説明すればいいんだよ……」
「そうですねー。そこはあたしも悩みどころです」
「あ、家無おっかえりー。つぶつぶオレンジソーダあった?」
「無かったからつぶつぶブドウソーダにしたー。先輩、ウーロン茶でいいです?」
「ああ。ありがとう家無…………家無?」
「はい、家無千陽ですよ?」
ジュースを三つ抱えた家無が、きょとんと首をかしげた。
俺はがばりと起き上がった。そして叫んだ。
「なんで生きてるんだ!?」
「え、あたしが生きてちゃダメなんですか!?」
家無がショックです! と叫ぶ。
いや違う、そうじゃないんだ。
生きてる事は素直に嬉しい。本当だ。
ただ、確か俺の目の前で家無は――というより、家無を乗っ取ったあいつは、刀鏡院の術を受けて木っ端微塵になったはずでは? なんでピンピンしてるんだ?
そんな混乱が顔に出てたのか、刀鏡院がぺんぺんとベンチを叩きながら説明してくれた。
「えーっと。アイツさ、さっき言ったみたいに男の肉しか食わねーの。だから狙いは最初っから先輩だったのね? んで、家無は身体を乗っ取られてただけ。俺がやったのはー、家無の身体からアイツを引き剝がしてー、調伏するための術だったの」
「そうなのか? いやでも、あの時木っ端微塵に……」
「えーっとねー、あー……なんだっけ? アンパン。家無がアンコでー、アイツがパン生地。俺はパン生地だけ食べてアンコ残したの。分かる?」
「ああ……うん」
こいつ、説明下手だな。
「やー、よく分かんないですけど、そんな感じであたし無事でした!」
くぴくぴと嬉しそうにコーラを飲む家無は、至って元気そうだ。少し顔色が悪いように見えるが、やつれてる様子も無い。
ん? いや、だとすると俺の傍にいたあの家無は? あれはなんだったんだ。
「おい刀鏡院。じゃあ今日、ってか七日前から俺と登校してた家無はなんだ?」
「あー、あれは家無の生霊ね。身体奪われて魂弾かれて、先輩の影に隠れてたの。先輩に視えたのは、まぁ家無と相性良かったからじゃね? でなきゃ先輩にも視えないはずだし」
家無が恥ずかしそうに頭をかいた。
「いやー、あたし自分が魂の状態だってのぜんっぜん気づかなくって! なんか最近ムシされるなーって思ってたんですよ。したらほら、先輩が教室出てった後に刀鏡院が、『お前どこに身体落っことしてきたの?』って言うんで気づいたんですよねー」
「お前なぁ……」
「やー、ビビったよね。先輩の傍にヒッソリいるの見た時さー。ホント死んだと思ったもん。生きててよかったけど」
「えっへへへ。まあ生きてたから良かったってことで。……あ、でもマジで家になんて言おう。絶対怒られるどころじゃないよね……」
「……多分、お前捜索願い出されてるぞ」
「ですよねー……」
家無は家出をする子ではないし、家族仲も良好だ。それが七日いないとなれば多分、いや絶対死に物狂いで探しているに違いない。
俺達が額を突き合わせて悩んでいると、ブドウソーダを飲み終えた刀鏡院が、ひらひら手を振った。
「あー、それならだいじょーび。こーいうお化け関係の事件をうまーく揉み消してくれる警部がいてさ、その人に連絡したから。まあテキトーになんとかしてくれんじゃない?」
パチパチパチと家無が惜しみなく拍手した。
「さっすが刀鏡院! よっ、日本一の霊能者! イケメン! ベビーフェイスのエクソシスト!」
「誉め言葉はいいから、家無も先輩も報酬ぷりーず。俺わりと頑張ったんだけどー?」
報酬。そうか、霊能者として仕事をしてるなら、報酬は必要か。いやしかし、それって一体いくらなんだ?
命を助けてもらったし、払うことに問題は無いのだが……。
今は受験に集中したいからアルバイトもしていない。貯金はあるにはあるが、こういうのの相場が分からない。
「報酬はね、先輩は今度、学校前のファミレスでチーズインハンバーグ奢って。サラダとスープとデザートセットで。んで家無はチョコね。ゴディバの」
「へ?」
「はぁ!? あたしのが先輩よりなんか高くない!?」
「元はと言えば、お前が悪いだろーが! お前がかくれんぼしなきゃ鬼は起きなかったし先輩は怪我しなかったんだぞ! 大体、お前ばーちゃんにちゃんと鬼がいるって教えてもらってただろうが! なんでやらかしたんだよ! 自業自得だばーかばーか!」
「ぐ、ぐぬ……そりゃ確かにあたしが悪いわよ! でももう一声まけて! せめてチロルチョコ! チロル一ダースで!」
「きゃーっか!」
「お、おい刀鏡院」
話が終わりそうになかったので、俺は間に割り込んで二人の言い合いを止める。
「はい? どしたの先輩」
「その、奢るだけでいいのか? 報酬でいくらか支払ったりってのは……」
「いーのいーの。俺、霊能者って言ってもまだ見習いだし、報酬貰える立場じゃないんだよね。それに、育ち盛りの身体にはご飯が何よりの報酬だし! だから先輩、今度奢って?」
両手を揃えて小首をかしげ、お願い、とねだる刀鏡院。
可愛い女子がやればともかく、男子高校生では全く可愛くない。
しかしまあ、それくらいだったら奢ってやるか。なんだったら、もう一品くらいサービスしてもいい。むしろ安いくらいだ。
「分かった。んじゃあ、今日は無理だから今度の土曜にでも奢ってやるよ」
俺が頷くのと同時に、ファンファンファン、とパトカーのサイレン音が夕闇に響いた。
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