「ねう」
所 花紅
「ねう」
仕事が休みの日、
空は高く透き通って、すっきりとした秋の空の様相を呈している。この前までは地上を押し潰そうとするほどに濃い青であったのに、季節が変わるのはなんと早いのだろう。
早起きは三文の得と言うが、ハテ。この青空を拝めたのは果たして三文分の得なのだろうか。
首を捻る私の鼻を、ふつふつと煮える味噌の香りがくすぐった。
成程、これは三文分の得であろう。
台所へ行ゆくと、妻が
――アラ、貴方。お早う御座います。
――お早う、お前。
――御仕事がお休みなのだから、もう少し寝ていてもよろしいのに。
――なんだか早く目が覚めてね。
マァ、と妻は笑って、
ウム、と私は頷いて居間に行った。卓袱台には新聞と、桔梗の飾られた一輪挿しの花瓶が置かれていた。
花瓶に飾られた桔梗は、首をくたりと折っていた。まるで、
――お前、この桔梗はどうしたんだい。なんだかすっかり元気を無くして、草臥れきっているじゃァないか。
――アラッ。どうしたのでしょう。この桔梗はね、今朝方、隣の奥様に頂いたのです。ほら、アチラの奥様はお花を育てるのが上手でしょう。それでね、うんと綺麗に咲いたのを一本頂いたのです。私が花瓶に活けた時は、まだ元気に首をもたげていたのですよ。
――ハハァ、そうかい。
私は鶴の首のような花瓶を右手で掴み、左手で桔梗を取ってから花瓶をくるりと引っくり返した。
にゅるううぅっ……ぼたっ。
「ねう」
私に気が付いたのか、塊は私を見上げて鳴いた。
割烹着で手を拭きながら、妻がマァッ、と高い声を上げた。
――猫チャン、花瓶に入るのは駄目と言ったでしょう。
――大丈夫だよ、お前。この子は賢い子だからね。ほら、見て
猫は私達を見上げて、したした畳を尻尾で叩いた。
心地よく眠っていたのに起こされて、おかんむりのようだ。
妻が小さな湯飲みを卓袱台に置いた。くちゃりとした娘の字で、湯飲みには「猫チャンのお布団」と書かれている。
――悪戯猫チャン。ほら、これにお入んなさい。この中でなら、いくら寝ていたってかまいやしないから。
猫はにゅうと首を伸ばして、湯飲みの匂いを注意深く嗅いだ。やがて気に入ったのか、するりと湯飲みの中に入り込む。
私は湯飲みの中に指を入れて、猫の毛並みを撫でた。ごろごろと猫が雷のような音で喉を鳴らした。
――貴方、そろそろ朝餉ができますよ。娘チャンを起こしてきて下さいますか?
――いいとも、いいとも。ついでにこの、草臥れ切った桔梗に水を差し入れてこようか。
――アラ、有難う御座います。
私は花瓶を持って、立ち上がった。
■ □ ■
朝餉を終えて、私はサテと考え込んだ。
折角の休みであるが、特にしたいと思う事も無い。外に出掛ける気も起きず、私は部屋でぼんやりとしていた。
――お父さん、お父さん。
地鳴りのような足音を立てて、縁側を走ってきた娘が部屋に飛び込んできた。目をびいどろのように輝かせて、胸の前で両手をお椀のような形にしている。
――どうしたんだい、娘。そんなにどたばた走ったら、縁側の床が抜けてしまうよ。
――お父さん、ほら、見て、これ。
――オヤ、これは立派なジュズダマだね。一体これをどうするんだい?
娘は、手のひらいっぱいのジュズダマを誇らしげに揺らした。
――ほら、お母さん、明日誕生日でしょう? だからね、このジュズダマで首飾りをこしらえて、お母さんにあげようと思ったの。
――そりゃあいいね。お母さん、うんと喜ぶよ。真珠の首飾りを貰ったみたいに、飛び上がるだろうね。
――お父さんは、なにをお母さんにあげるの?
――お父さんはね、
娘はフゥン、とこましゃくれた顔をした。
――分かった、お父さん、カフェーの女給さんと良い仲になったんでしょう。それでお母さんに怒られて、硯を送って墨と一緒に胡麻をすろうって了見なのね。
――お前ね。
私は呆れてしまった。
――お父さんがそんな事をするように見えるのかい。大体お前、どこからそういう事を知ったのだい。
――近所のお兄さんが言っていたわ。男の人は大抵カフェーの女給をアイジンに持っているって、カストリ雑誌に書いてあったって。
やれやれ、と私はため息をついた。
カストリ雑誌の言う事を鵜呑みにして、娘におかしなことを教え込むとは、ほとほと呆れて物も言えない。
その近所のお兄さんには、後で娘におかしなことを教えないように、うんときつく言っておかないといけないようだ。
――お父さんはね、お母さんを一等好きなんだよ。カフェーの女給を愛人にだなんて、そんな阿呆な話があるものかい。それよりお前、お父さんになにか用事があったんじゃないのかい?
娘はアッ、と甲高い声を上げた。
――そうそう、そうだったわ。それでね、ジュズダマに虫が付いてたら、お母さんがびっくりするでしょう。だから、昨日のうちに水でうんと洗って、乾かしておいたの。それでね、早速首飾りを作ろうと思ったら、ほら、ねえ、お父さん。見て。
――どれどれ。
娘は手のひらのお椀を左右に揺らして、ジュズダマをころりころり転がした。
途端に、十数個のジュズダマから、
「ねう」「ねう」「ねう」「ねう」「ねう」「ねう」
と、くぐもった猫の声がいくつも聞こえてきた。
おやおや、と私は笑う。
どうやらジュズダマに開いた細い穴は、猫達のお気に召したらしい。
――ウチの猫チャンだけじゃないの。こっちは三丁目の猫チャン、そっちはお向かいの猫チャン。この小さいのには、盆の暮に生まれたちびちゃん達。この大きいのには、どこか分からないくらい、遠い所から来た猫チャン。
娘は柔らかな頬をふうと膨らませた。
――みんなこの中に入っちゃって、出てこないの。おかげで首飾りが作れないわ。
――そうだね。猫達が起きるまで、そっとしておいで。そのうち起きて出てくるだろうからね。
悪戯っぽい笑みを娘がふと浮かべた。
――ネェ、お父さん。針でチョンと突っついたら、みんな驚いて出てくるかしら。
――ああ、そりゃあいけないよ、娘。
私は娘の提案に笑ってしまった。
――もしそうして御覧。
■ □ ■
私はどうやら縁側で眠っていたようだ。目を開けると、だいぶ空が赤く染まっていた。ひやりとした風に冷やされて、顔や手の先がすっかり冷えている。
やれやれ、結局ぼんやりとして一日が終わってしまった。
そろそろ夕餉の時間だろうか。私は身を起こそうとする。しかし首がやけに重くて、置き上がるのにひどく難儀した。
どうしたのだろう、これは。
私は、喉になにかが詰まっているのに気が付いた。握り飯が詰まったように、喉が重たくて息苦しい。
ハテ、と首をかしげて喉を
ごろごろごろ……。
私の喉から、雷様のような音が鳴った。
また喉を擦ると、
ごろごろごろ……。
低い振動が私の喉を鳴らした。
大きな空気の塊を飲んだように、ごろりと喉が動く。喉の奥がちくちくとして、私は何度か手のひらで口を押えて咳込んだ。
口から手のひらを離すと、夕日に照らされて細い毛が針のようにきらり、きらりと光った。
ハハァ、成程。
――ねえ、お父さん、起きてる。
――貴方。猫チャンがいないんです。夕餉の時間だっていうのに、どこにも姿が見えなくて。
――お布団の中にも、花瓶の中にも、ジュズダマの中にもいないの。お父さん、どこにいるか知ってる?
――アァ、どうしましょう。お隣の奥様に声をかけた方が良いかしら。
――きっとそれがいいわ、お母さん。お隣のおば様、猫探しの名人だもの。
娘と妻が私の部屋にやって来た。心配そうな顔をしている。娘は孫の手を持っていた。猫が見つかれば、あれでえいやっ、と掻きだす気だろうか。
なに、心配する事は無い、二人とも。
私は自分の喉をくすぐりながら、にっこり笑って口を開いた。
「ねう」
「ねう」 所 花紅 @syokakou03
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