第2話 上杉鷹山公

     八

 竹俣や藁科らは、秋月佐渡守とその次男坊の直丸とわきあいあいと話しをした。時間は刻々と過ぎていく。そろそろ夕方で辺りが暗くなってきたので、藁科が立ち上がり、

「今日は遅いので…これで。さぁ、みんな帰りますぞ」と言った。

「いや、せめて夕食だけでも食べていかれよ」

 佐渡守がとめたが、四人は、せっかくですが、と断った。

 藁科は袋に詰めていた分厚い本を取りだして

「これは儒教の書。これは『大学』こちらは孔子の書です。どうぞ」と直丸に手渡した。

 直丸は微笑んで礼をいった。

 藁科らは、黙々と秋月家屋敷を後にした。

 しかし、希望を見つけだした。あの若君は必ず名君になる。米沢を救ってくださる…四人はそう考えていた。…あの若君が米沢の希望だ。

 ……直丸は、さっそく本をめくり、熱心ににこにこ微笑みながら読み始めた。

 父・種美に尋ねられると、

「父上のような名君に、それがしもなりとうございます」

 と、のちの鷹山となる直丸は夢を語ったという。この当時、のちの鷹山公となる少年は、

源義経の伝記『義経記』織田信長の伝記『信長公記』上杉謙信の伝記『越後軍記』天才軍師・諸葛孔明の活躍する『三国志演義』に熱中していた。

 なかでも上杉謙信公は養子先の藩祖でもあり治憲は憧れた。『上杉の義』というのに憧れて、よくふざけて「上杉の義なりや!」「これぞ上杉の義なるぞ!」と歌舞伎役者のようにいったという。

 諸葛亮孔明は劉備への「忠義なところ」「軍略に優れたところ」がお気に入りであったという。

 私は諸葛亮孔明のように(米沢・上杉藩に)三顧の礼をもって迎えられるのかなあと無邪気にほほ笑んだりもしている。

だが、そう思うと背筋がしゃきんと伸びもする。皆の期待を裏切る訳にはいかない!

 ちなみにのちに上杉鷹山として知られることになる秋月(上杉)直丸(治憲)は、宝暦元年七月二十日(一七五一年九月九日)に誕生している。名を松三郎、直松、直丸、勝興、治憲、鷹山……と変えた。が、後世では『上杉鷹山』として知られている。


      九

 鷹山公の実母・春は病床の身となる。ごほごほと咳をすることが多くなる。やがて、喀血して本人も驚いたことだろう。

 春はまだ幼き息子・直丸(のちの鷹山公)に「秋になると木々が紅葉で真っ赤や黄色に色づくのは何故か知っていますか?直丸」と聞く。

「わかりません」正直な答えであった。

「木々の紅葉は御屋形である木を守る為、真っ赤や黄色くなってまで御屋形の木を守る為に身代わりになって散っていくのです。

お前もそういう君主にならねばなりませぬよ。夢夢「自分は誰よりも偉い」等と天狗になってはなりませぬよ」

「はい! わたくしは母上に誓いまする、きっと立派な殿さまに、紅葉のような絢爛な殿さまになりまする!」

 若き鷹山公(直丸公・治憲公)の志であった。

 のちの鷹山公の実母・春が、三十五歳の花のような生涯を病死という形で果てたのは、この頃である。

 のちの上杉鷹山となる直丸は、幼少期から学問と武道を学んでいる。秋月家も上杉家も文武両道方針で質素倹約の家系である。

 直丸は細井平洲先生や米沢藩奥医師・藁科松伯らに学び学殖を得た。

ここで直丸は猛勉強する訳だが、直丸にはある癖があった。

 彼は何かに集中し過ぎると先生や誰かが声を掛けても耳から聞こえない程に熱中することだ。

熱中するものがあると一直線に行動する為に成功を遂げる事も多い。が、どこか「過ぎる」ところがあって、間違えたと分かるまで一直線に行動し、自分の正義を曲げない。

 そうしてある創作や政策をひらめかせる。まあ、今でいうならアイデアマンであり、アインシュタインやエジソンのような偉人な訳である。

この時期、上杉家・米沢藩主・重定の子供が相次いで病死したり夭折(ようせつ)(幼くして死亡)したりしている。

 のちに上杉治憲(のちの鷹山)の正室となる幸(よし)姫(ひめ)が誕生している。

 ちなみにこの頃の竹俣当綱の存在意義は大きい。やがて失脚してしまう運命の竹俣当綱だが、先祖は上杉二十五将のひとりでもある。

 かなり恵まれた環境で育った当綱だが、実母が若くして死んでしまう。

当綱の父親は若い娘を後妻に迎え、祝言の席となった。

当綱は酒豪でぐいぐい飲んでいた。しかし、同僚で親友の莅戸善政は下戸である。

「まあ、莅戸よ、一杯くらいどうじゃ?」

「いいえ。私は下戸ゆえ」

「そうか。だが、舐めるくらいはよかろう?」

「はあ」莅戸は杯に酒を注がれ、舐めるだけ酒を飲んだ。たちまち顔が真っ赤になる。

「竹俣殿、わしはやはり……酒は……苦手じゃ」  

 そのまま莅戸はぐったりとなった。病気ではない。舐めた酒に酔った訳だ(笑)

「莅戸は酒を舐めただけで、泥酔してぶっ斃れおった」

 一同は笑った。

 この頃、米沢藩士改革派として台頭してきたのが、この莅戸九郎(くろう)兵衛(べえ)善政と竹俣美作(みまさく)当綱、木村丈八(じょうはち)高広、藁科松伯貞(さだ)祐(すけ)、佐藤文四郎秀(ひで)周(ちか)ら、である。

 宝暦五年(一七五五年)米沢藩は大飢饉に襲われた。

 多くの餓死者を結果として出してしまう。が、前述の米沢藩士改革派の活躍と藩の「御救い米」等により最低限の死者の数で済んだ。

 鷹山公の学問の栄達は細井平洲先生と藁科松伯にかかっているといっても言い過ぎではなかった。

 しかし、藁科の寿命は「風前の灯」であった。

 ここ最近咳き込む事が多くなり、医者として自分の病状は「風邪の羅看」と思って江戸の名医に診てもらった。咳き込み喀血して、自分でも驚いたという。

「労咳(ろうがい)(肺結核)ですな」いわずもがな、である。

 当時は、肺結核は不治の病である。しかも、余命半年だという。

 そうか。わたしは直丸殿、治憲殿の改革を…米沢の藩政改革の一翼ともならず、死んでしまうのか。

 それは絶望ではなかった。改革に自分が参加できないであろう悔しさ、であった。

加齢とストレスと食生活の乱れで毛細血管がなくなり(ゴースト細胞)にならず。上杉鷹山公(治憲公)は七十二年の生涯で、一度も大病をしなかった。

だが、上杉鷹山公は慢性的なひざの痛みを長年抱えていた。原因は大名に多い座りっぱなしの職業病。領地を歩き回ることで病気の進行をとめた。

新資料では鷹山公五十八歳のときの主治医が「鷹山公はひざの痛みを抱えていた」と。(変形性ひざ関節症)。また、正室の幸姫の発達障害や精神知能の後れは当時、病名も治療法もわからなかった。が、現代の医師は「先天性トキソプラズマ症(寄生虫感染)」という感染症であるという。生水や牛猫イヌの糞などに寄生している寄生虫が妊婦の体内に入ることで、子供がそういう生育に異常をきたす病気である。時々のひきつけの発作は「てんかん」であろうとのことだ。(NHK番組「偉人たちの健康診断」より)


「次期藩主の治憲殿(鷹山公)は養子ゆえ、粗相もあろうし、いかに人物とはいえ、ご改革などと申してもまだ若年の若君。わしも合力する覚悟である」

愚かな藩主として吉良上野介の息子・上杉三郎綱憲と並ぶほどの無能・前藩主・上杉重定は、まだ自分が愚か者である、という自覚がなかった。

改革を実行する時、一番邪魔になるのが旧体制の干渉と無能者の関与と既得権益である。

竹俣当綱や莅戸善政らは訝しがった。

「大検令とはどれほど実施するのか?」

「十年以上でございます」

「十年?…このわしもか?次期藩主は小国の生まれゆえ、謙信公以来の上杉の格式や家格がわかるまい。わしでよければ治憲殿にいくらでも教えてもよい」

何をいってやがる、当綱や莅戸らは心の中で舌打ちした。

自分が無能とも考えられないのか?この上杉重定という馬鹿殿は。釈迦に説法みたいなものだろうが!なんとも激昴するような気分になった。*



         公の教育と立志




      一

 上杉鷹山公は今でも米沢の英雄である。

 上杉家の祖、藩祖・上杉謙信公も英雄ではあるが、彼は米沢に生前来たことがない。米沢に藩を開いたのは、その甥の上杉景勝である。(謙信の遺骨も米沢に奉られている) その意味で、米沢といえば「上杉の城下町」であり、米沢といえば鷹山公、鷹山公といえば米沢……ともいえよう。

山形県の米沢市は「米沢牛」でも有名だが、ここではあえて触れない。鯉の甘煮、米沢織物……これらも鷹山公の改革のたまものだが後述する。

 よく無知なひとは「山形県」ときくと、すぐに「ド田舎」とか「田圃に茅葺き屋根の木造家屋」「後進県」などとイメージする。たぶん「おしん」の影響だろうが、そんなに嘲笑されるようなド田舎ではない。山口県や青森県、高知県などが田舎なのと同じように山形県も「ふつうの田舎」なだけである。

のちの鷹山こと上杉治憲は偉大な改革を実行していった。だが、残念ながらというべきか彼は米沢生まれではない。

治憲は日向(宮崎県)高鍋藩主(三万石)秋月佐渡守種美の次男として宝暦元年(一七五一年)七月二十日、江戸麻布一本松の邸に生まれている。高鍋は宮崎県の中部の人口二万人くらいの町である。つまり、治憲は、その高鍋藩(三万石)から米沢藩(十五万石)への養子である。

 血筋は争えない。

 鷹山公の家系をみてみると、公だけが偉大な指導者になったのではないことがわかる。けして、上杉治憲(のちの鷹山)は『鳶が鷹を生んだ』などといったことではけしてない。しかし、この拙著では公の家系については詳しくは触れないでおこうと思う。

 大事なのは、いかにして上杉鷹山のような志やヴィジョンを持ったリーダーが誕生したのか? 

ということであろう。けして、家柄や家格…ではない。そうしたことだけが重要視されるのであれば馬鹿の二世タレントや歌舞伎役者の息子、二世政治家などが必ず優れている

……ということになってしまう。そんなことはあり得ない!

 それどころかそうした連中はたんなる「七光り」であり、無能なのが多い。

そういった連中とは鷹山公は確実に違うのだ。

 では、鷹山公の教育はどのようにおこなわれていったのだろうか?

 昔から『三つ子の魂、百まで』…などといわれているくらいで、幼少期の教育は重要なものだ。

秋月家ではどのような教育をしてきたのかはわからない。

しかし、学問尊重の家柄であったといわれているから、鷹山はそうとうの教育を受けてきたのだろう。

 米沢藩第八代目、上杉重定の養子になったのは、直丸(のちの鷹山)が九才の時である。

当時、重定公は四十才になっていたが、長女の弥姫が二才で亡くなり、次女の幸姫は病弱で、後継者の男の子はいなかった。もし男の子が生まれなければ、重定にもしものことがあれば、今度こそ米沢藩はとりつぶしである。

その為、側近らや重定はじめ全員が「養子をもらおう」ということになった。そこで白羽の矢がたったのが秋月家の次男ぼうの直丸(のちの鷹山)であった。

 上杉重定はのちにこう言っている。

「わしは能にばかり夢中になって贅沢三昧だった。米沢藩のために何ひとついいことをしなかった。しかし、案外、わしがこの米沢を救ったのかも知れない。あの治憲殿を養子に迎えたことで…」


     二

 米沢藩の藩校・興譲館に出勤して藁科は家学を論じた。

次第に松伯は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。

莅戸らにとって兵学指南役で米沢藩士からも一目置かれているという師匠・藁科松伯の存在は誇らしいものであったらしい。

松伯は『西洋人日本記事』『和蘭(オランダ)紀昭』『「北睡(ほくすい)杞憂(きゆう)』『西侮記事』『「アンゲリア人性海声』…本屋にいって本を見るが、買う金がない。

だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。

あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。

「これはいくらだ?」若き松伯は主人に尋ねた。

「五百文にござりまする」

「高いな。なんとかまけられないか?」

 主人はまけてはくれない。そこで松伯は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五百文をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。

「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松伯はきいた。

「大町にお住まいの与力某様でござります」

 松伯は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。

「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」

 与力某は断った。すると松伯は「では貸してくだされ」という。

 それもダメだというと、松伯は

「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い藁科松伯でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」

  松伯は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。

 松伯の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松伯は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、

「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松伯は断った。

「すでに写本があります」

 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松伯は受け取った。仕方なく写本を売りに出したが三〇文の値がついたという。

 松伯は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松伯の名声は世に知られるようになっていく。松伯はのちにいう。

「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない。だから労咳になどに罹ったのだ」


     三

 明和四年(一七六四年)十二月、米沢藩江戸屋敷……。

その日は十一月というのに暖かく、また天気のいい日よりだった。太陽は遠くにあったが、きらきらとした朝日が屋敷や庭に差し込んでいた。

 どこまでも透明なような雲が浮かんでいて、いい天気だった。しんと輝くような晴天である。             

 そんな中、上杉直丸(のちの鷹山)は細井平洲先生のもとに歩いていった。

 細井平洲は江戸でもなうてのエリートで、教育者で、教育のスペシャリストだった。難しい学問を身につけていてもそれを気取らず、それどころか難しいことをわかり易くひとに教えるような人物だった。平洲は当時、四十代。不精髭を生やしていたが細身で、学者肌のインテリで、がっちりとした首や肩が印象的な人物であった。どこかクールな印象を受けるが、頭がいいだけでなく性格もよかった。

 人柄もよく、ちょうどよい中年で、とても優しいひとだったという。

 それゆえ、上杉重定は細井平洲先生をたいへん気に入り、養子である直丸の教育係に抜擢したのだった。

 上杉直丸(のちの鷹山)は細井平洲先生の待つ部屋に足を踏み入れた。畳に手をつき頭を下げて、

「……上杉直丸でございます」

 とハッキリとした口調で言った。

「細井平洲と申します。藩主・重定公から直丸殿の教育をまかされました」と言った。て続けて、

「…直丸殿はやがて米沢十五万石の藩主となられるお方です。習うのは王公の学です。学問は世の中の役に立たなければなんにもなりません。幕府の守る朱子学も学問のための学問になっています。賢き藩主は民の父母……という諺があります。どういう意味か「大学」にしたがって勉強してみましょう」と優しい口調で言った。

「はい」

 直丸は答えた。その後、台にのった本をひろげて、

「民の望むことを望み、民とともに生きること。賢き藩主は民の父母……」

と読み始めた。それは上杉直丸(のちの鷹山)の立志の始まりでもあった。

 あるとき、直丸は木登りから落ちて怪我をしたことがある、そのときの右肘の傷は晩年まで痕になって残る程であった。

 だが、命が危ない程の怪我ではなかった。藁科松伯が棺桶に右足が一歩入っている状態である。それなのに藁科松伯は、病気をおして正装してまで江戸藩邸に出向き、直丸を労わっている。

「われのことなどよい。それより藁科松伯先生の病がよほど切迫では?」

 直丸が訊くのももっともである。

 藁科松伯は

「拙者如きは只の風邪にござる」と嘘をいった。直丸は叱った。真実が耳に入っていたからだ。

「藁科松伯先生、無理をなさるな。養生なされよ」

 すると藁科松伯は涙を流し、

「かたじけのうございまする、直丸公……拙者如きが……そのような温かいお言葉…」

 ふたりははらはらと涙を流し、号泣した。

 藁科松伯は志を公に託した。こののち直丸から上杉治憲と名を変えた鷹山公が、米沢藩に初入部する頃、藁科松伯の寿命は尽きている。

 ちなみに佐藤文四朗には好きな女子がこの頃より出来た。

 奥女中で米沢藩江戸屋敷の春(はる)猪(い)(仮名・童門冬二先生の小説では〝みすず〟という名前)という若い女性である。だが、一目ぼれの片思いであった。

 何度か話すうちにお互い惹かれあうようになるのだ。だが、それはもう少し時間が必要、であった。


    四

翌明和二年(一七六五年)、当綱は国家老に昇格して米沢へ戻った。

次の年、直丸は元服して治(はる)憲(のり)と名乗る。さらに翌四年四月、藩主重定は家督を譲って引退し、上杉治憲が藩主となる。時に十七歳であった。

なお、上杉家では藩祖である謙信を初代としているが、米沢藩主としては次の景勝(かげかつ)(上杉謙信の姉・仙桃院からの養子)が最初になるので、これから数えて治憲は九代目藩主(上杉家では十代目)ということになる。

爽やかな風が頬を撫でていく春の江戸桜田の上杉藩邸で、治憲は空を見上げて、志を確かにするのだった。松柏や美作から上杉家米沢藩の窮状は聞かされていた。そこで改革をするのは自分しかいないではないか! と思ったのだ。家督を継いだ以上は、何が何でも再建しなければならない。今日こそがその第一歩の、戦国時代で言えば初陣である。

若い藩主は重い使命感に武者震いを覚えた。その興奮を鎮めるように机に向かうと彼は自ら筆をとり、墨痕鮮やかに「民の父母」と大書した。

その下に小さく「受け次て国の つかさの身となれば 忘るまじきは」と三行に分けて書き上げた。君主たる者は民の父母にならなければならない、これは『大学』にも説かれている為政者の基本姿勢である。

慶応元年(一八六五年)米沢市の林泉寺(りんせんじ)(米沢市南西部・直江兼続の菩提寺)の学寮から出火したことがある。このとき隣の春日神社にも類焼の危機が迫った。急を知った住職が貴重品を運び出そうとしたが、その中から治憲の人知れず奉納していた誓詩が発見された。

そこにも自ら「民の父母」となることを第一と自覚し、文武の道に励むこと、礼儀正しくすること、賞罰に不公平のないことなど、自分自身への戒めが五か条にわたって記され、末尾には署名したうえに血判が捺されていた。

もし、林泉寺に火事がなければ、この誓詞は発見されなかった。

治憲は翌九月、やはり国元の白子神社に藩政の再建の宣言した誓詞を奉納している。

が、これも明治二十四年(一八九一年)になって初めて発見されている。

この虚心誠実な治憲の前にこれからも艱難辛苦が幾重にも襲いかかってくる。*


    四

♪松葉を腰にさし

 ゆずり葉を手にもち

 お正月がゆさゆさ

 ござった、ござった……

子供たちの歌声は元気溌剌だ。米沢にも新春の明和九年(一七七二年)が訪れた。

古来米沢には「正月お手掛け」というしきたりがある。年始に客が来ると主人は三方(さんぽう)に松葉、昆布、串柿、榧(かや)の実、勝栗、蜜柑、馬(ほん)尾(だ)藻(わら)などを飾り、客に「お手をお掛け候え」と勧める。客は三方に手を掛け、そこで双方が年始の挨拶を交わす(『米沢市史』)。

米沢藩恒例の鉄砲上覧も一月十六日に挙行され、この年は諸事順調に滑り出すかと思われたが、二月十九日、江戸で大火が発生した。江戸の上杉家藩邸屋敷も全焼しているが、後述しているのであえてここではこう述べるにとどめよう。*


    五

 当時の米沢藩は精神的にも財政的にも行き詰まっていた。藩の台所はまさに火の車であり、滅亡寸前のあわれな状態だった。

 上杉謙信時代は、天下の大大名であった。越後はもとより、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内までもが勢力圏であった。八〇万とも九〇万石ともよばれる大大名だったのだ。

 八〇万とも九〇万石ともよばれる領地を得たのは、ひとえに上杉謙信の卓越した軍術や軍事戦略の天才のたまものだった。彼がいなければ、上杉の躍進は絶対になかったであろう。

……上杉謙信は本名というか前の名前は長尾景虎という。上杉家の初代、上杉謙信こと長尾景虎は越後の小豪族・長尾家に生まれ、越後を統一、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内にまで勢力圏を広げた人物だ。

 だが、上杉謙信は戦国時代でも特殊な人物でもあった。

 まず「不犯の名将」といわれる通り、生涯独身を通し、子を儲けることもなかった。

一族親類の数が絶対的な力となる時代に、あえて子を成さなかったとすれば『特異な変人』といわざるを得ない。

 また、いささか時代錯誤の大儀を重んじ、楽しむが如く四隣の諸大名と戦をし、敵の武田信玄に「塩」をおくったりもした。

「義将」でもある。損得勘定では動かず、利害にとらわれず、大儀を重んじ、室町時代の風習を重んじた。

 上杉家の躍進があったのも、ひとえにこの風変わりな天才ひとりのおかげだったといっても過言ではない。

 しかし、やがて事態は一変する。

 一五七〇年頃になると織田信長なる天才があらわれ、越中まで進出してきた。

ここに至って、上杉謙信は何度か上洛を試みる。結果は、織田の圧倒的な兵力と数に押され、ジリジリと追い詰められていっただけだった。戦闘においては謙信の天才的な用兵によって優勢だったが、やがて信長の圧倒的な兵力に追い詰められていった。

 そんな時、一五七八(天正六年)年三月十三日、天才・上杉謙信が脳溢血で、遺書も残す間もなく死んだ。享年四十九歳。それで上杉家は大パニックになった。なんせ後継者がまったく決まってなかったからだ。

 上杉の二代目の候補はふたりいた。

 ひとりは関東の大国・北条家からの謙信の養子、三郎景虎であり、もうひとりが謙信の姉の子、景勝である。謙信の死後、当然のように「御館(おたて)の乱」とよばれる相続争いの戦が繰り広げられる。

景勝にとってはむずかしい戦だった。なんといっても景虎には北条という後ろ盾がある。

また、グズグズしていると織田に上杉勢力圏を乗っ取られる危険もあった。

ぐずぐずしてられない。

 しかし、景勝はなんとか戦に勝つ。

まず、先代からの宿敵、武田勝頼と同盟を結び、計略をもって景虎を追い落とした。

武田勝頼が、北条の勢力が越後までおよぶのを嫌がっていた心理をたくみに利用した訳だ。武田勝頼方からは同盟の証として、武田信玄の娘(勝頼の妹)・菊姫が上杉景勝に輿入れした。

 だが、「御館の乱」という内ゲバで上杉軍は確実に弱くなった。

しかし、奇跡がおこる。織田信長がテロルによって暗殺されたのだ。これで少し、上杉は救われた。しかしながら、歴史通の方ならご存知の通り同盟を結んだ武田家は滅亡してしまう。

 それからの羽柴秀吉と明智光秀との僅か十三日の山崎合戦にはさすがに出る幕はなかったが、なんとか「勝馬」にのって、秀吉に臣従するようになる。

 だが、問題はそのあとである。

 豊臣秀吉の死で事態がまた一変したのだ。

 秀吉の死後、石田三成率いる(豊臣)西軍と徳川家康率いる東軍により関ケ原の戦いが勃発。

……上杉は義理を重んじて、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。

上杉は勢力圏から見れば、徳川家康率いる東軍に加わった方が有利なハズである。仙台の伊達も山形の最上も越後の堀も、みんな徳川方だった。

しかし、上杉景勝は、「徳川家康のおこないは大儀に反する」という理由だけで、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。

 しかし、上杉景勝の思惑に反して、徳川との戦いはなかった。関ケ原役で上杉のとった姿勢は受け身が多かった。賢臣直江兼続は西軍と通じていたが、上杉全体としては西軍に荷担していた訳ではなかったようだ。

 ただし、家康には独力で対抗し、家康が五万九千の会津討伐軍をひきいて攻めてくると、上杉は領地白河の南方革籠原に必殺の陣を敷いて待ち受けたという。

 だが、家康が石田三成の挙兵を聞いて小山から引き返したので、景勝は追撃を主張する賢臣直江兼続以下の諸将を押さえて会津に帰った。のちに名分に固執して歴史的な好機を逸したというわれる場面だ。しかし、ほかの最上攻めも、伊達攻めも、もっぱら向こうから挑発してきたので出兵しただけで、受け身であったことはいがめない。

 しかるに、結果は、上杉とは無縁の関ケ原で決まってしまう。その間、景勝はもっぱら最上義光を攻め、奥羽・越後に勢力を拡大……

しかし、関ケ原役で西軍がやぶれ、上杉は翌年慶長六年、会津百二十万石から米沢三十万石に格下げとなってしまう。このとき景勝が、普代の家臣六千人を手放さずに米沢に移ったのは、戦国大名として当然の処置と言える。

西側が敗れたとの報を受け、上杉ではもう一度の家康との決戦…との気概がみなぎった。しかし、伏見で外交交渉をすすめていた千坂景親から、徳川との和平の見込みあり、との報告が届いたので、景勝は各戦場から若松城内に諸将を呼び戻して、和平を評議させた。

 その後、和平した。景勝は家臣大勢をひきつれ、米沢へ移った。これが、米沢藩の苦難の始まりである。

 当時の米沢は人口六二一七人にすぎない小さな町であり、そこに六千人もの家臣をひきつれて転封となった訳であるのだから、その混乱ぶりはひどかった。

住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。

また、それから上杉家の後継者の子供も次々と世を去り、途絶え、米沢三十万石からさらに半分の十五万石まで減らされてしまった。

 しかし、上杉謙信公以来の六千人の家臣はそのままだったから、経費がかさみ、米沢藩の台所はたちまち火の車となった。

 人口六千人の町に、同じくらいの数の家臣をひきつれての「引っ越し」だから、その混雑ぶりは相当のものだったろう。しかも、その引っ越しは慶長六年八月末頃から九月十日までの短い期間で、家康の重臣で和睦交渉のキーパーソンだった本多正長の家臣二名を監視役としておこなわれた。

 混乱する訳である。

 米沢を治めていた直江兼続は、自分はいったん城外に仮屋敷を建て、そこに移って米沢城に上杉景勝をむかいいれることにした。が、他の家臣は、いったん収公した米沢の侍町や町人町にそれぞれ宿を割り当てることにした。その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。

 そのような暮らしは長く続くことになる。

 引っ越しが終りになった頃は、秋もたけなわである。もうすぐ冬ともいえた。米沢は山に囲まれた盆地で、積雪も多く、大変に寒いところだ。上杉の家臣にとっては長く辛い冬になったことだろう。

 十一月末に景勝が米沢城に移ってきた頃には、二ノ丸を構築し、さらに慶長九年には四方に鉄砲隊を配置した。それでもなお完璧ではなく、この城に広間、台所などが設置されたのは時代が元和になってからのことである。

 上杉景勝はどんな思いで、米沢に来たのだろうか?

 やはり最初は「………島流しにあった」と思ったのかも知れない。

 米沢藩が正規の体制を整えるまでも、紆余曲折があった。決して楽だった訳ではない。家臣の中には、困窮に耐えかねて米沢から逃げ出す者も大勢いた。それにたいして藩は郷村にたいして「逃亡する武士を捕らえたものには褒美をやる」というお触れを出さざるを得なかった。また、「質素倹約」の令も続々と出したが、焼け石に水、だった。

 しかし当時は、士農工商問わず生活はもともと質素そのものだった。中流家臣だとしても家は藁葺き屋根の掘立て小屋であり、そんなに贅沢なものではない。

ただ、仕用人を抱えていたので台所だけは広かった。次第に床張りにすることになったが、それまでは地面に藁を敷いて眠っていたのだという。また、中流家臣だとしても、食べ物は粥がおもで、正月も煮干しや小魚だけだった。

 武家にしてこのありさまだから、農工商の生活水準はわかろうというものだ。

 上杉家の困窮ぶりはすでに述べた。しかし、上杉とはそれだけでなく、子宝や子供運にも恵まれていなかった。大切な跡継ぎであるハズの子も病気などで次々亡くなり、ついには米沢十五万石まで領地を減らされてしまったのだ。

 また、有名なのが毒殺さわぎである。

 有名な「忠臣蔵」の悪役、吉良上野介義央に、である。この人物は殿中で浅野内匠頭に悪態をつき、刀傷騒動で傷を負い、数年後に、忠臣たち四十七人の仇討ち……というより暴力テロルで暗殺された人物だ。その人物に、上杉家の藩主は毒殺された……ともいわれている。

 寛文四年五月一日、米沢藩主・上杉播磨守綱勝は江戸城登城のおり、鍛治橋にある吉良上野介義央の邸宅によった。

 綱勝の妹三姫が吉良上野介義央の夫人となっていて、義央は綱勝の義弟にあたる。

その日、綱勝は吉良邸によりお茶を喫した後、桜田屋敷に帰った。

問題はその後で、夜半からひどい腹痛におそわれ、何度も何度も吐瀉し、お抱えの医師が手をつくしたものの、七日卯ノ刻に死亡した。

 あまりにも早急な死に、一部からは毒殺説もささやかれたが、それより上杉にとって一大事だったのは、綱勝に子がなかったということだ。

 当時の幕法では、嫡子のない藩は「お取り潰し」である。

 さぁ、上杉藩は大パニックになった。

 しかし、その制度も慶安四年に改められて、嫡子のいない大名が死の間際に養子なりの後継者をきめれば、「お取り潰し」は免れるようになった。が、二十七才の上杉綱勝にはむろん末期養子の準備もなかった。兄弟もすべて早くに亡くなっていた。

 景勝から三代目、藩祖・謙信から四代目にしての大ピンチ……である。この危機にたいして、家臣の狼狽は激しかった。しかし、なんとか延命策を考えつく。

 まず、

 米沢藩は会津藩主・保科正之を頼り、吉良上野介義央の長子で、綱勝の甥の三郎(齢は二才)をなんとか奔走して養子につける事にした。…これで、米沢十五万石に減らされたが、なんとか米沢藩は延命した。

 だが、

 吉良三郎改め上杉綱憲を養子として向かえ、藩主としたのは大失敗だった。

もともとこの人物は放蕩ざんまいの「なまけもの」で、無能で頭も弱く、贅沢生活の限りを尽くすようになった。城を贅沢に改築したり、豪華な食事をたらふく食べたり、女遊びにうつつを抜かしたり……まったくの無能人だったのだ。旧ソビエトでいうなら「ブレジネフ」といったところか?

 もともと質素倹約・文武両道の上杉家とはあいまみれない性格の放蕩人……。これには上杉家臣たちも唖然として、落胆するしかなかった。

 それから、会津時代から比べて領土が八分の一まで減ったというのに、家臣の数は同じだったから、財政赤字も大変なものだった。

 もともと家臣が多過ぎてこまっていた米沢藩としては、減石を理由として思い切って家臣を削減(リストラ)して藩の減量を計るべきだという考えは当然あったろう。すでに藩が防衛力としての武士家臣を雇う時代ではないからだ。

 四十六万石の福岡藩に匹敵する多すぎる家臣は、藩の負担以外のなにものでもなかったから、家臣をリストラしても米沢藩が世間の糾弾を受けることにはならないはずだった。

 だが、今度の騒動で、藩の恩人的役割を果たした保科正之は、家臣召放ちに反対した。 

米沢藩はその意見をききいれ、棒禄半減の措置で切り抜けようとして悲惨な状況になるのだが、それでも家中に支給すべき知行(米や玄米など)の総計は十三万三千石となり、残りを藩運営の経費、藩主家の用度金にあてると藩財政はにわかに困窮した。

 だが、形のうえでは救世主となった上杉喜平次(三郎)あらため綱憲は贅沢するばかりで、何の手もうたない。綱憲は、ただの遊び好きの政治にうとい「馬鹿」であった。

 こうして数十年……上杉家・米沢藩は、長く苦しい「冬の時代」を迎えることになる。借金、金欠、飢饉…………まさに悲惨だった。

 明和三年(一七六七年)、直丸という名から治憲と名を改めた十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は米沢藩主となった。が、彼を待っていたのは、膨大な赤字だった。

 当時の米沢藩の赤字を現代風にしてみると、

  収入 六万五○○○両…………百三十億円

  借金 二十万両    …………四百億円

 という具合になる。

 売り上げと借金が同じくらいだと倒産。しかし、米沢藩は借金が三倍。

……存在しているほうが不思議だった。米沢藩では農民二 .八五人で家臣ひとりを養っていた。が、隣の庄内藩では九人にひとり……だから赤字は当然だった。

 しかし、米沢藩では誰も改革をしようという人間は現れなかった。しかし、そんな中、ひとりのリーダーが出現する。十七才の上杉治憲(のちの鷹山)そのひとである。

「改革をはじめないかぎり、この米沢藩は終りだ。……改革を始めよう! 米沢を生き返らせよう!」

 十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は志を抱くのだった。






         改革



     一

 治憲は江戸の米沢藩屋敷の庭を散策するのを日課としていた。

 庭はあまり広くないのだが、朝の散歩はとてもここちよい気分にさせてくれた。少なからず目の前の不幸を忘れさせてくれるかのようだった。

 朝も早いためか、きらきらとした朝日が庭に差し込み、庭が輝いても見えた。それはしんとした静けさの中にあった。

 治憲は散歩の足を止め、朝日を浴びてきらきらとハレーションをおこす小さな池を指差した。一緒にいた若き側近、佐藤文四郎も池を見た。しかし、そこにはいつもと変りのない池があるだけだった。

治憲は確かに、不思議な印象を与える人物だった。年は文四郎と同じように見えた。すらっと細い体に、がっちりとした首、面長の鼻筋の通った青年で、クールな力強さを感じさせた。着物もぴったりしているが、瞳だけは違った。彼のまなざしは妙に深く、光っていた。瞳だけが老成している、といえばいいのか。

佐藤文四郎もハンサムだが、髭面で汚かった。

 佐藤文四郎秀(ひで)周(ちか)は、

「御屋形様、いかがなさいましたか?」、と尋ねた。

 それに対して、治憲は言った。

「文四郎………この池の中の魚をどう思う?」

「魚……でございますか?」

「うむ」

「さぁ………」佐藤文四郎の顔がクエスチョン・マークになった。公の答えをまっていた。

 治憲は言った。

「この池はあらゆる藩。この中の魚はあらゆる家臣たちだ。泳ぐ魚をみてみるがよい。鯉は自由自在に泳ぐ。つかみどころのない鮒。池の中にありながら泳ぎを忘れないハヤ。しかし………国元の米沢の家臣たちは金魚だ」

「金魚?」

「そう。金魚だ。みずから泳ぐことをしない。……今、私の改革の手助けをしてくれるのは……誰だろう?」

 ふたりはしばし沈黙した。

 それから、治憲はハッとしたような顔をしてから佐藤文四郎に、

「本国の重役たちから好かれてない人物たち。改革の志を持った者たちをあつめよ」

 と命じた。

 文四郎は呆気にとられた顔をしたまま

「私もそのひとりですが…」と呟くように言った。

 すると治憲はほわっとした微笑みを口元に浮かべて、魅力的な横顔のまま、

「だからこそ頼むのだ」と答えた。

「はっ!」

 佐藤文四郎はすぐに動きだした。


     二

こうして、竹俣当綱(三十七才・千石・前江戸家老・現在閉職)、莅戸善政(三十三才・百八石・馬廻組)、藁科松伯(三十一才・米沢・待医・細井平洲門下)、木村高広(三十七才・二十五石・御右筆)らが呼ばれた。莅戸や木村はとてもいい顔で、華奢な体つきだ。木村は少しうらなり顔で、莅戸善政は背も低く、おちょぼ口で、しかし堂々たる男であった。

 奥座敷ではすでに上杉治憲と江戸家老の色部照長が待っていた。

 色部照長は初老の男で、がっしりとした体躯のわりには気の小さな男であったという。この色部の前の江戸家老が竹俣当綱だったのだが、国元の重役たちのクーデターによって竹俣は失脚させられたのだった。失脚のことを思うえば思うほど、焦り、怒りで体が震えた。

 集まった竹俣ら四人集と佐藤文四郎は座敷に足を踏み入れ、正座して、頭をさげた。

「御屋形様、連れてまいりました」佐藤文四郎が言った。

「うむ。ごくろう」

 竹俣ら四人集は

「御屋形様、ごきげんうるわしゅう」と言った。

「うむ。おぬしらに話しがある。さっそくだが………ここにいる色部が毎月金を借りにいっている商屋に金を借りにいった。が、断られた。もはや、誰も米沢藩に金を貸してはくれぬ。それについて色部から意見がある。よく聞くように」

「はっ」

 色部照長はためらってからゴホンゴホンと咳払いをして、心臓が二回打ってから話しだした。

「御屋形様からのお話しの通り……もはや誰も米沢藩に金を貸してはくれません。藩の台所は火の車でして………正直なところ……そのお…」

「色部、申せ」

「はっ」色部照長は少しためらってから

「……もはや米沢藩の命運尽きたかと。もはや…幕府に藩を返上して…一からやり直すのが得策かと。家臣。藩士はじめ、皆、浪人になりますが……このまま死ぬのを待つよりはマシかと…思います」

と呟くような苦しい声でいった。心臓がかちかちの意思になるような感覚に、色部は驚いた。

 治憲は「うむ」と頷いてから

「なるほど、そういう考えもあろう」と言った。続けて、ハッキリとした口調で、

「しかし、私はこう考える。私は日向高鍋から養子にはいったばかりだ。それがすぐに藩をつぶしてしまったのでは謙信公以来の藩主に申し訳がたたぬ。同じ潰すなら、やれるだけやってみようと思う。米沢藩を立て直し、自立できるようにする。しかし、私のいっている改革は藩に金を集めることではない。領民の幸福のための改革だ。そこで、おぬしらに命ずる。……改革案をつくれ!」

 と言った。

 色部照長はまた少しためらってからゴホンゴホンと咳払いをして、

「………しかし…」といいはじめた。

「色部、遠慮なく申せ」

「はっ」色部照長はまた少しためらってから

「……御屋形様のお考え、まことにご立派。しかし…このような重要なことは…まず国元の重役たちに相談してからがよろしいかと……」

 それにたいして治憲は「いや」と首を軽く振ってから

「それではことが進まぬ。米沢藩はいまや大病にかかっている。すぐにでも大掛かりな手術が必要なのだ。おぬしらの怒りを改革案にぶつけよ! 米沢を生きかえらせるのだ!」

 と言った。それはすざまじい気迫のある声だった。

 こうして治憲(のちの鷹山)の改革はスタートしていくので、ある。


 米沢・前藩主・上杉重定は放蕩の限りを尽くしていた。

 ……能に酒に若い女……重定は藩財政の窮乏そっちのけで贅沢三昧の生活を続けていた。

〝無能〟重定は自分の藩がどれだけ財政難か、という簡単なことさえ理解してなかった。これにたいして竹俣が、治憲に申告した。

「御屋形様!」

「なんだ?」治憲がきくと、竹俣が、

「重定公は放蕩の限りを尽くしております」

 と、怪訝な顔でいった。

「……うむ」

 治憲はなにもいわなかった。

 竹俣は「御屋形様から大殿様に節約を進言なされては?……藩の財政は窮乏しておりますれば…」

 竹俣の言葉を治憲がさえぎり、治憲は寂しそうな顔で微笑み、

「大殿さまに自由に遊ばせてあげてくれ」というばかりであった。

「……しかし…」

 竹俣当綱は何かいおうとしたが、やめた。これも御屋形様の優しい配慮なのだな、と考えたからだった。

 重定は、さきの藩主宗憲、宗房に子がなかったので、幸運にも、跡釜になっただけの男である。凡庸にして無能…。その無能さが森利真の独裁を許し、また森の前の清野内膳秀祐に、前主から続く二十六年にもわたって独裁政治を許した。

 しかし、重定の前から米沢藩は窮乏しており、米沢藩窮乏をすべて重定のせいにするのはかわいそうである。

 しかし、あきらかに重定は〝無能〟…であった。

 だからこそ、その反発から、のちの名君・上杉鷹山が誕生することになったのだ。



         大倹令




      一

 改革案作成のため、竹俣当綱、莅戸善政、藁科松伯、木村高広ら四人の男達に官邸の奥の部屋が与えられた。

 そこで四人は五ケ月を費やした。

 改革案は多岐に渡り、非常に優れていたが為に、作成には手間ひまがかかった。そのために五ケ月を費やさなければならなかった。が、結果としていいものができた。

 その改革案がまとまったころには、竹俣当綱、莅戸善政らの顔の髭は伸び、本多髷のちょんまげの髪はバラバラになり、服はぼろぼろになり、それは見苦しかった。しかし、それでも男たちは気にすることなく、改革案に満足するのだった。

「よし、出来た……これだ!」

 竹俣当綱はニヤリと笑って、筆をおいた。

 ちょうどそんな時、

「失礼つかまつる」

 と、佐藤文四郎が訪ねてきた。

「おお、文四郎。なんじゃ?」

「御屋形様からの差し入れにございます」       

 佐藤文四郎はそういうと、籠にはいった美味しそうな葡萄を差し出した。

「おお、葡萄か。これはうまそうじゃ」

「御屋形様も気がきくな」莅戸が言った。

 そうして竹俣ら四人は葡萄をほうばった。で、

「文四郎………そちも食え」と竹俣当綱は言った。

「いいえ、なりません。この葡萄は御屋形様から皆さんへの差し入れにございます」

「堅いこというな、食え! 旨いぞ」

「いいえ、なりません!」

 佐藤文四郎は頑固として首を振った。それにたいして莅戸が、

「文四郎……おぬしも頑固だな」と笑った。

「そうそう」それからしばらくして竹俣当綱が思い出したように、

「米沢藩の改革は藩士、家臣だけ……という訳にはいかん。御屋形様にも率先してやってもらわなくてはならん。文四郎、それについて御屋形様から何かきいておるか?」と尋ねた。

「はっ、御屋形様も率先して改革に協力する所存かと」

「そうかそうか」竹俣は文四郎の答えに満足気に頷いた。

「………改革案はできましたでしょうか?」

「うむ…」莅戸が首をひねってから「それなんだがな、文四郎。ちょっと困ったことがあってな」と言った。

「なんでございましょう?」

「奥女中を減らそうと思うのだが……」

「何人…でございますか?」

「九人」莅戸や竹俣当綱がハッキリとサバサバした口調で文四郎に言った。

「九人?……奥女中が六千人いる中から九人だけ減らす…と」

「いや、違う!五千九百九十一人に暇を与えるのだ。つまり……結果として残る奥女中が九人…ということじゃな」

「なんですと?! 六千人いる中からたった九人に? しかし…紀伊さまはお体もすぐれず…」

「そこじゃ!」唖然とする文四郎をよそに、竹俣は続けた。

「やはり残すのは十人がよいか?それとも八人か?………文四郎、おぬしはどう思う」

「………わかりません!」

 文四郎はどう答えていいかわからず、そう言うしかなかった。

 この時期に佐藤文四郎と春猪の関係が深くなるが、鷹山公の奥女中削減案で離ればなれとなる、というのは小説上のノンフィクションである。

だが、小説通りの文脈なら、佐藤文四郎は奥女中の「紀伊の世話をかいがいしく行って紀伊の信頼の厚かったその奥女中の娘(春猪という名前は仮名で本名ではない)」だけは特別に江戸藩邸に残してください、と文四郎は鷹山公にお願いする。

 一端はその提案を鷹山公は受け入れるものの

「やはりのう、文四郎。やはりひとりだけ特別扱いは卑怯である。謝って改めるに憚ることなかれ、だ。その奥女中だけ特別視する訳にはいかん」と朝令暮改みたいなことをいう。

「むごい。……御屋形さまはむごいお方です」

 で、春猪(仮名)という奥女中の娘は米沢藩邸から「お払い箱」となり、小説の面白味を消して、結果だけ書けば春猪は米沢藩の小野川温泉旅館の女中となり、佐藤文四郎と再会……やがて結ばれる。まあ、この物語は「恋愛小説」ではないのでまあいいだろう。


 しばし沈黙ののち、

 莅戸や竹俣当綱らが、

「そういえばこう悩んでいるとあの時を思い出すのぉ」としみじみと言った。

「……森か?」

「そう森平右衛門利真じゃ」

 ふたりはニヤリと言った。




         元凶、森平右衛門利真




      一

 莅戸や竹俣当綱は思い出していた。

 数年前……。まだ治憲が幼い頃の米沢藩……。

そこには、元凶、森平右衛門利真がいた。竹俣当綱はその当時、江戸家老で、千坂から手紙を受け取っていた。

千坂とは、千坂対馬高敦のことである。

「うむ。」といって、竹俣はもう一度手紙をひろげて、目を走らせた。

 手紙は、その当時の郡代所頭取と御小姓頭を兼ね、藩政を一手に切り回している米沢藩最大の権力者・森平右衛門利真の近況を伝えていた。

「ふむ」

 竹俣当綱はそう唸った。その後、

「つまり、森を排除せよ………ということじゃな?」

 と独り言をいった。

 確かに、そのような内容だった。

 また手紙には、

〝………森を排除せよ……但し、責任はすべて竹俣当綱にあり…〟

 とかなんとかで結んであった。つまり、

「責任は俺がすべてとれ……か」

 竹俣はボソリと言った。

 …森を排除せよ……但し、責任はすべて竹俣当綱にあり…我々は知らぬ、存ぜぬ…?

なんともまぁ手前勝手な。竹俣当綱は人一倍濃い髭をなでて、「勝手なものだ」と独り言った。なんというご都合主義(オポーチュニズム)だ。

 竹俣当綱のいかつい髭顔が、渋面になった。

「だが………森をのぞくのには反対ではない」

 いや、むしろ除くべき人物である。

 当綱が伸び始めた髭を片手でなでていると(朝剃ったのが濃いために生えてきた)、ギシギシと床のきしみ音がした。米沢藩は困窮のために、国元の城屋敷どころか桜田門の江戸屋敷の床や屋根のいたみさえも直せなかった。金がない、金、金、金、金欠……なのだ。 近付いてきたのは藁科松伯だった。

「ご家老はおいでですか?」

 藁科松伯の声がきこえた。だから、

「おりますぞ。どうぞ中へ」

 と竹俣当綱は答えた。それと同時に、自分から率先して襖を開け、中へ入れた。

 それは師のためであり、藁科の非力な力ではかたむいた襖は開けづらいのを考慮してのことだった。この当時から藁科松伯は病気がちだった。肺と心臓が悪く、虚弱体質のために手にも足にもどうにも力がはいらないのだ。

「どうもご家老」

 藁科松伯がにこりと微笑んで言った。

 彼は医師ではあるが儒学にも卓越した才能と知識をもつ人物で、上杉直丸(のちの鷹山)の教育係りだった。若輩ながら国元の米沢で家塾を開き、竹俣当綱や莅戸九郎兵衛善政、木村丈八高広などの傑出した人物を世に送りだした人物でもある。

 竹俣当綱は一礼して労をねぎらい、

「ごくろうさまです、ところで直丸殿のご教育はいかがですかな?」

 と尋ねた。

「それがです、ご家老」

 藁科松伯が言った。

「もともと実直で勤勉な性格のお方ゆえ、勉強がはかどります。よほどの才能を持っていらっしゃるのでしょう」

「……うむ。そうですか」

「はい」

 彼は頷いた。

 直丸は昨年の宝暦十年に正式に米沢藩主上杉重定の養子に決まり、麻布の高鍋藩から外桜田の米沢上屋敷に移ってきた少年で、年は当時十二歳だった。彼は、その才能から、江戸の米沢藩士たちから「臥竜(がりょう・野に隠れて世に知られぬ大人物)」と期待されてもいた。

「……直丸殿はまさに臥竜です」

 松伯がにこりと言った。

 藁科松伯は禿頭で、姿勢も正しく、きりっとした学者肌の二枚目だった。病気のために何度か咳こむことはあったが、立派に背筋をのばし、とても好印象だった。態度や性格は謙虚そのもので、こういうひとを本当のエリートと呼ぶのだろう、と感じさせた。

 だが、病弱なのは紛れもない事実で、竹俣などは

 ……師がこのままあの世に旅立たれるのでは……? と不安になること度々だった。

 藁科松伯は明晰の人だった。

 家塾で経書を講義するかたわら、竹俣などに米沢藩の財政や政治、経済再生の案などを話したりもしていた。だから、もし今芽生えつつある改革の前にしてこの師を失うことになれば残念である……だが、

 先生は医者だ。ご自分のことは誰よりもわかってらっしゃる。心配無用……だ…?


    二

「直丸さまは、ただ賢いだけではありませんぞ、ご家老」

 藁科松伯は活発な声で言った。

「ほうほう」

 竹俣当綱は請け負った。「それは…さもありなん」当綱は勘のいい男だ。松伯がまだ言いたいことがあるのはわかっていた。だから、

「今日は他になにかありもうしたか?」

 と尋ねた。

「はい」藁科松伯は言った。

「今日、世子さまがお泣きになられました」

 竹俣当綱は大きな目を丸くした。……世子が泣いた? 十二歳にもなって人前で泣いたというのか……。なんと軟弱な……。泣いた?………なぜ?

「ご勉強の後で、いつものように米沢の話をしました」

 藁科松伯は言った。彼は、直丸に藩主としての心得として、米沢藩の歴史、気候、財政、産物、政、人情といったものをじっくりと教えていた。

江戸生まれの、しかも三万石の小藩の直丸にとっては、この教育は大事に思えた。さいわいにして、直丸は国元の話に興味を示した。講義の合間に、少年とは思えない鋭い質問をすることに、藁科松伯はビックリさせられっぱなしだった。…けしてなおざりに聞き流しているのではないことは十分にわかる。だから、松伯はこっちの講義にも力を入れた。

「本日は、わが藩の人別銭について話しました」

「困窮しているとはいえ……あれは稀にみる悪税じゃ」

「お泣きになられたのは、その人別銭の話しが佳境にかかったところででした」

 藁科松伯は頷いた。その後、続けた。

「講義の間、世子さまは頭をもたげ、伏し目がちになっておりました。これはお行儀が悪いことだと注意しようとしました所、なんと直丸さまはその姿勢で泣いておられたのです」

「ほう、……泣いた?」

「はい。それで、何故お泣きになられているのかききました。その間、直丸殿の両方の瞳から熱い涙がぽたぽたと頬を伝わり、畳に落ちます。……どうなされましたか?と」

「それで?」

「はい、そうして直丸殿は懐紙で涙をふき、不覚を詫びた後、それでは国元の米沢の家中、領民があまりにもあわれであると」

「憐れ?」竹俣当綱はびっくりした。

 十二歳の子供が意見を言った。……意見? いや、違うな。きっと、自分がそのような情ない困窮藩の藩主になるのが嫌で泣いたのかも知れぬ。きっとそうだ。

 竹俣当綱はにやりとひとり苦笑した。

 ちなみに、人別銭とは人頭税のことで、世にも稀な悪税だった。問題なのは領民ひとりひとりそれこそ赤ん坊から老人・男女問わずに税をとる。しかも、米沢だけでなく江戸の米沢藩人からも税をとるところだ。この人別銭(人頭税)を考えて実施しているのが森平右衛門利真だった。貧すれば鈍する…で、困窮・米沢藩はこのような汚い税収に頼らなければならぬほど「憐れ」だった。税史の通った後は草も生えない…といわれるほど。

「なるほど……「憐れ」か」

 竹俣当綱はもう一度、ひとり苦笑した。

 そんな時、

「ご家老」と、藁科松伯は言った。

「われわれはたぐい稀な名君にめぐりあったのかも知れません」

「だが、まだ十二歳であろう?」

「年齢は関係ありません」

「では、先生も、直丸殿は臥竜だと?」

「はい」

 藁科松伯は満足気に深く頷いた。「直丸殿はまさに臥竜です」

「そうですか」竹俣当綱は話題をかえた。「…千坂対馬高敦から手紙が届きました」

「森氏のことですな?」

「はい。対馬は森の屋敷に伏嗅(スパイ)を入れるのに成功したそうです。それによると、森平右衛門利真は贅沢ざんまいな生活を送り、大きな池には贅沢な錦鯉を大量に飼い、なんと藩の金をも私的に流用していたといいます。これは許しがたい」

「まさに元凶ですな」

「まったく」

「色部さまにはそのことは…?」

「伝えて申す」

 竹俣当綱は言った。元凶、森平右衛門利真打倒のために集まっているのは千坂対馬高敦、芋川縫殿正令、色部修理照長と、竹俣美作当綱の四人である。藁科松伯は四人の結束を大事にするように日頃から申告していた。

「森は許しがたい男でござる」

 当綱は強く言った。その瞬間、当綱は心臓に杭を打たれた感覚に、肩を震わせた。

「まったくその通りでございます。世子のためにも、早めにのぞくべきです」

「悪貨は良貨を駆逐する……と申すから、森をのさばらせておくとよからぬ事になり申す」

「朱に交われば……」松伯はそう言いかけて、ごほんごほんと咳をした。

「とにかく、森は許しがたい男でござる。早めに除かなくては」

「まったく」

 当綱は強く頷いた。松伯は「われわれには名君もいますしね」と、にこりとした。

 ……名君か。たとえ世子が名君のたまごとしても、わが米沢藩は大病にかかっている。ひとりの名君が出現したとしても……藩の再生はむりじゃ。

 夕暮れのオレンジがセピア色にかわり、障子を赤く染めていた。わが米沢藩は大病にかかっている。ひとりの名君が出現したとしても……藩の再生はむりじゃ。

 森は片付ける……しかし……それでも、藩はつぶれるだろう。

 竹俣当綱はひとりそう考えてしまった。

         米沢藩の借金と困窮



     一

 米沢藩の財政や台所事情は悪化の一途を辿った。

 綱憲の跡をついだ吉憲の代には、参勤の費用が捻出できず、ついに人別銭を徴収するにいたったという。

「人別銭……とな?」

 上杉吉憲は、城内で家臣に問うた。

「人別銭とは領民すべてから税をとることでございます」

 家臣がいうと、殿は笑って、

「たわけ! そのようなことはわかっておる」

「はっ」

「……人別銭を徴収せねば、参勤の費用も捻出できぬのか? ときいておる」

「はっ。……なにぶん米沢藩は困窮しており…そのぉ…」

「はっきり申せ!」

 上杉吉憲が声を荒げると、家臣は平伏して、

「御屋形様のおっしゃる通り、人別銭を徴収せねば、参勤の費用も捻出できぬ……ということでござる」

「領民は納得するかのう?」

「…しますまい。しかし、仕方がござりませぬ。藩の窮地ですから…」

「さようか?」殿は溜め息をついて、

「仕方…ない…であるか」といった。

 人別銭とは、人頭税のことである。

 だいぶ前に英国のサッチャーが導入しようとして、国民に反発され、デモが激化しサッチャー首相(当時・二○一三年死去)が退陣に追い込まれたエピソードは記憶に新しい。

 それは、困窮米沢藩はそんな人別銭(人頭税)を敷かねばならぬほど混乱していた。

 だが、財政困窮はさらに続いた。

 つぎの藩主宗憲の代、享保十八年には、江戸城のおほりの浚渫という国役を命じられ、家中の棒禄半分を借り上げて急場をしのぐという事態も起きたという。

 綱憲以来、家中の借り上げは半場習慣化していたそうだが、棒禄半分をもの借り上げははじめてであった。

 つぎの藩主宗房は、兄・宗憲の急死の跡をついだ藩主だが、このような藩財政の緩和に心を砕いた形跡があるという。襲封五年目の元文三年には、領内郷村の困窮がひどくて年貢がとどこうっているのを知ると、古年貢の七ケ年延納と当年分年貢の完納を命じた。で、米沢藩の年貢は半米半銀が建て前であるが、その年の年貢は米蔵にあふれて急遽用意した仮屋に積むほどに集まり、また銀も蔵の床が抜けるほど集まったという。

 この触れを、膠着する年貢未進の状況を打開する藩の一工作とみるむきもあるという。事実、旧債に喘いでいた農民がこの触れに善政の匂いを嗅ぎつけたのは確かなようである。

「…やればできるではないか。こんなに年貢が集まった」

 藩主宗房は、にやりとしたことであろう。

 実際、この年(元文四年)は漆の実や青苧など豊熟で、宗房の代で米沢藩の窮乏も一服という感じになった。

 しかし、藩主宗房も二十九歳の若さで死去して、さらにその弟で吉憲の四男にあたる重定が新藩主になると、ふたたび米沢はきびしい窮乏に直面することになる。

 延享三年に、兄宗房の跡を継いだ重定は、翌年五月に初入部したが、八月に至って家中藩士に文武ならびに歌謡乱舞に心がくべきだという論告を出したという。

 重定は、「これからは家中藩士みなが歌謡乱舞に心がくべきだ」

 といったという。

 それにたいして家臣が「御屋形様……歌謡にございますか…?」

 と問うと、重定は、

「さよう。みなで能や狂言をやれば楽しいであろう?」と飄々といった。

「ですが……財政が…」

「なんじゃ?」

「…しかし……能とは…」

「武家というものはのう。……能芸をたしなんでこそ武家なのだ」

 重定はそういって笑った。

 家臣一同は唖然とし、沈黙するしかなかった。

 しかし、次第にそうしたひとびとも「御屋形様のいうことだから…」と、家臣はみな歌謡の稽古に熱中し、学問弓馬の道を顧みる者はいなくなったともいわれる。

 この新藩主を『綱憲の再来』と思った者もいたに違いない。

 とにかく、重定は綱憲のように〝暴君〟であり、〝馬鹿〟であった。

 ……藩の財政が困窮しているのに〝能遊び〟とは何事のことだろうか?

 延享、寛延のつぎに宝暦という時代、重定の治世下であったが、その薄氷を踏むようなやりくりをしている米沢藩財政に、致命傷ともいうべき打撃が到来した。

 脆弱な米沢藩財政に加えられた最初の一撃は、重定が藩主となってから七年目の宝暦三年末に幕府から下命された上野東叡山の中堂の修理、仁王門再建工事の助役であったという。

その費用は九万八千両もかかると概算されたので、藩はただちに費用の調達にとりかかった。が、領内からは家中、商家、郷方を合わせて六千二百六十両、越後商人の渡辺儀右衛門千七百両、与板の三輪九郎右衛門四千五百両というところが借入金の主で、これらの借金集めても一万二千五百両に満たなかったともいわれているそうだ。

 あとの不足分を上方からの借入金と、領内に宝暦四年三月から毎月徴収の人別銭を課すという非常手段に訴えて米沢藩は財政難をなんとかした。

 辛うじて危機を乗り切った。だが、このときの作業手伝いは、借財の急増と人別銭による家中、領民へのダメージと傷や禍根を残すこととなった。

 米沢藩では、こうした経緯はありながら、宝暦四年十月幕府に「手伝い完了」の報告ができたというが、翌年五年は奥羽一帯を覆う大凶作となり、米沢藩もこの宝五の大飢饉を免れることはできなかった。

 大雨で河川が氾濫し、田畑の損失は二千七百四十九町歩に達し、三万七千七百八十石余の収穫が消滅した。

 米価が高騰するのは状況上しかたないことだった。米は一俵一貫七百三十文になり、藩が一俵の値段を一貫五百文に指定すると、八月には村からの米穀の出回りがぴたりととまった。

藩では市中に横目を放って米を探させたところ、町中の米は百九十七俵しかなかったというのは、東町の長兵衛が六、七百俵の米を隠していたからだという。

 こうした状況と飢饉に憤った南町の下級藩士に率いられた関村、藩山村などの農民五、六百人が、九月十日馬口労町酒屋遠藤勘兵衛家、南町の酒屋久四郎家、紺屋町の喜右衛門家を襲い、その三日後の十三日には城下に住む微禄の藩士五、六百人が、一揆で米座のある商人の土蔵を破った。

 ……百姓だけでなく、武家も〝一揆〟に走った訳だ。

 暴徒たちはすぐに鎮圧されたが、その次の年も次の年も飢饉は続き、ついに餓死者まででたという。

 凶作で、高二十三万石のうち十九万石もの損失をだした弘前藩、あるいは飢饉に悪疫が重なって死者五万人を出した盛岡藩ほどではないにしろ、米沢藩でも、ひどいことになった。禄高を三万も五万も損失したという。

 こうした状況の中で、家中、領民はどのような暮らしをしのいでいたろうか?


      二

 馬廻組、五十騎組、与板組は三手組と(総称で)呼ばれ、米沢家中の中核であったという。馬廻組は藩祖謙信の馬前のそなえを勤めた勇猛な旗本百騎を淵源で、五十騎組は出生地上田以来の景勝の旗本で、とくに景勝が征服に手をやいた大敵であった新発田重家を攻めて戦を挑んだときに直参の五十騎の武功が著しかったのでその名を冠された。与板組は、上杉の柱石直江兼続の与板城以来の直参で、兼続の戦役の功名をささえてきた者たちであるという。

 三手組ともに、しだいに人数が多くなり、家臣の二割を占めるまでになった。が、それは、それぞれ戦時下の戦仕事よりも、日常の重要な職務をゆだねられたからである。

 馬廻組が勤める役職は、大目付、御中之間年寄、御留守居、群奉行、宗門奉行、町奉行、御中之間番頭、藩主に近侍する御中之間詰二十四人などであった。このうち御中之間年寄六名は奉行の下で重要政務に参与する要職で六人年寄などと称したという。

 五十騎組とは、関所(板谷など)の職や、江戸での仕事、奉行職の仕事で、与板は足軽や大筒、鉄砲などの職であったという。

 だが、足軽たちは早くから棒禄による生計をあきらめていて、商農工に道を探していたという。それぐらい藩財政は困窮していた訳だ。まあ、屯田兵みたいなものだ。

 ……あまり難しくてどうでもいいようなことは省略して、これからは鷹山公の改革などに言及する。しかし、どうしても詳しい事情が知りたい方は古い文献を参考のほど。

 とにかく、こうした困窮した米沢藩の状況のなか登場した政治家が、森平右衛門利真であった。森は、長く藩政に専権をふるった筆頭奉行清野秀祐が職をしりぞいた翌年の宝暦七年に奉行職についた。その後、独裁的な権力をふるった。

〝無能〟の藩主は森の正体を見抜けず信頼し、自分は領民が飢えて苦しんでいるのにもかかわらず「能」や「茶」ばかりに熱中していたという。

 名君・上杉治憲(のちの鷹山)、改革の数十年前の出来事である。

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