米沢燃ゆ 上杉鷹山公
長尾景虎
第1話 米沢燃ゆ 上杉鷹山公
米沢藩の中興の祖・不世出の名君
「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」
師弟の軍旗
上杉鷹山公と尊師・細井平洲先生
~為せば成る!~
200年前の行政改革
total-produced&written&PRESENTED BY
NAGAO Kagetora長尾 景虎
あらすじ
上杉治憲(のちの鷹山)が日向(宮崎県)高鍋藩から出羽米沢藩(山形県米沢市)十五万石の養子となり藩主となったのは明和四年、十七才の頃である。その頃、米沢藩の台所は火の車であった。
上杉謙信からの膨大な六千人もの家臣たちを雇い、借金で首がまわらない状況だった。
まさに破産寸前だった。そのため、家臣たちからは藩を幕府に返上しようという考えまであがった。つまり、現代風にいえば「自主廃業」であった。
そこで、上杉治憲は決心する。「改革を始めよう!」
まず治憲の改革は質素倹約から始まった。着るものは木綿、一汁一菜…。
しかし、それらは焼け石に水だった。江戸で改革をしてから2年後、治憲は米沢へと初入部する。
しかし、そこで待っていたのは家臣の反発と死んだように希望のない領民たちの姿だった。
しかし、治憲(のちの鷹山)は諦めなかった。
なんとかヒット商品を考案し、学問を奨励し、さまざまな改革案を打ち出す。
しだいに彼の改革に共鳴してくれる藩士たちもあらわれだす。だが、そうしたことを嫌うものたちもいた。芋川、須田、千坂ら七家である。これらの重役は治憲に対してクーデターをくわだてる。
のちにゆう『七家騒動』である。
上杉治憲(のちの鷹山)の改革はここでおわってしまうのか?
鷹山、一世一代の危機!彼は危機をどう乗り越えるのか?しかし、彼は危機を乗りきり、やがて米沢藩の財政も立て直る。それは彼が亡くなって一年後のことであった。
われわれはこの小説でなにを学ぶか?
米沢藩の改革に生涯をかけた鷹山のいき様を描く!渾身の作品の完全版をお読み下さい。貧窮のどん底にあえぐ米沢藩…鷹山と家臣たちは藩政立て直しに渾身する。これは無私に殉じたひとたちの、きらきらとしたうつくしい物語である。
the novel is a dramatic interpretation
of event and character based on public
sources and an in complete historical
record. Some scenes and events are
presented as composites or have been
hypothesized condensed.
~なせば成る、なさねば成らぬ何事も、
成らぬはひとのなさぬなりけり
上杉 鷹山(1751~1822)~
上杉鷹山(治憲)………… 米沢藩九代当主。のちの名君。主人公(幼名・直丸)
幸姫 ………… 鷹山公の正室(病弱で夭折)
上杉重定 ………… 米沢藩前当主・幸姫の父親。治憲の義父
竹俣当綱 ………… 米沢藩家臣・元江戸家老
莅戸善政(太華)………… 米沢藩家臣・竹俣の盟友
木村高広 ………… 米沢藩家臣
藁科松伯 ………… 米沢藩家臣・儒学の先生
お富の方 ………… 治憲の正室。年上。
佐藤文四郎 ………… 米沢藩家臣・小姓
細井平洲 ………… 治憲の師匠・尊師
七家 ………… 治憲と敵対する米沢藩重臣たち
序章
一
上杉(うえすぎ)治(はる)憲(のり)(のちの鷹山(ようざん))にとって、それは尋常でない光景だった。
貧しい領民たちががりがりに痩せて、歩いている。いや、首がひんまがった領民たちが、歩いてくるのだ。治憲は息を呑んだ。血色をなくした、泥のような顔であるが、治憲には見覚えがあった。
間違いなく、米沢の領民たちである。
治憲の頭頂から爪先まで、冷気が走り抜けた。手足が目にみえて震えだし、思うように筋肉に力が入らず、指はしばらく、戦慄きながら宙を泳いだ。
治憲は目がさめ、悪夢から解放された。
「……夢……か…」治憲は額に滲んだ汗を手でふいた。
治憲が米沢藩の藩主となる数年前、米沢藩は困窮していた。
昔は武蔵(むさし)国と下総(しもうさ)国の境界が隅田川だった。そこで二つの国を結ぶ街道の隅田川界隈を両国と呼ぶ。火除地(ひよけち)としてつくられた一帯が両国であり、両国広小路である。川端には茶屋が立ち並び、その両側には見世物、芝居、講釈などの小屋が賑わっている。
その行列人込みの中で藁科(わらしな)松(しょう)伯(はく)貞(さだ)祐(すけ)は足を止めた。
出羽(でわ)(現在の山形県)国米沢藩(よねざわはん)に支える医師であり、また彼は学者でもある。昨年宝暦七年(一七五七年)から江戸詰めとなり、桜田門にある上杉邸へ出仕している。
俊才の誉れが高く、白皙(はくせき)痩身(そうしん)の彼は生来病弱だった。
が、今日は気分がいい。
先だってから江戸の噂を耳にしていた。
「両国広小路の平洲先生の講釈を聞くと、毎日の仕事が楽しくなるぞ」
平(へい)洲(しゅう)先生、通称は細井甚(ほそいじん)三郎(ざぶろう)といって、尾張(おわり)(現在の愛知県東海市)から出てきた学者で、大名に招かれて講義に赴くかたわら、浜町(現在の東京都中央区日本橋浜町)に「嚶鳴館(おうめいかん)」という学塾を開いている。
大名はその数を多数という。度々両国で講釈を小屋で開いては人々を涙と仁愛の世界に導き、いつも黒山の人だかりになるという。
藁科は講釈小屋の人だかりをみて、中に入れずにいたが、平洲先生の語りであろう、よく通るやわらかな声が聞こえてくる。
「よいかな。たとえていえば、この花だ。花がたくさん咲いている木というものはそれは見事である。が、そうだからといっていつまでもたくさん花をつけていたのでは、しだいに木がひねて実も少なくなり、やがては枯れ枝が多くなって、さしもの銘木も惨めな姿にやつれ果ててしまう。
よって、惜しいけれども枝を止め、蕾を透かしてやらねばならぬ。そうすれば木はいつまでも見事な花を楽しませてくれるだろう」
思わず息をのんで藁科松柏は聞き入った。名門上杉家は今まさにそのような状態だ。干ばつや洪水で凶作が続き、藩の財政は極度に緊迫していた。
多額の借財を返す見通しも立たない。改革の声さえ消されるか、押しつぶされ過去の栄光にこだわり、このままでは朽ちて果てる日を待つばかりだ。
この先生……細井平洲先生こそ、米沢藩に是非とも必要なお方である。だが、平洲は三十歳くらいで、松柏とそれほどかわらなかった。
二
江戸の儒学にはいくつかの学派があった。朱子学派の林羅山(らざん)、山崎闇(あん)斎(ざい)、陽明学派には中江(なかえ)藤樹(とうじゅ)、熊沢番山(くまざわばんざん)、古儀(こぎ)学派には伊藤仁(じん)斎(さい)、そうして古文辞(こぶんじ)学派には荻生徂徠(おぎゅうそらい)らがいた。
細井平洲はこれらのどれにも属さない。だから平洲は折衷学派といわれた。
その説くところは文字や言葉の解釈ではなく、現実の為政および生活面に学問を生かすことであった。そこで彼は実学者ともいわれる。
尾張国知多郡平島村(現愛知県東海市荒尾町)の富農の家に生まれた。
平洲は、幼少期に近くの観音寺の住職義(ぎ)観(かん)(義寛ともいう)の教えを受けた。
その才知には大人も舌を巻くほどだったが、やがて彼は勉学を進めようと京都に出た。
京都に来てしばらくして、わが子は京都でどんな暮らしをしているのか案じた父親が訪ねてみると、平洲の家はひどいあばら家で衣食も粗末だった。
見かねた父親は五十両という大金を与えた。が、当時の平洲の師となるべき人にはついに巡り会わなかった。およそ一年後に帰郷した平洲が持ち帰ってきたものは、二頭の馬の背に積んだおびただしい書物だった。
彼は父親からもらった大金を、すべて書物を買うのにつかった。
その後平洲は、名古屋の中西淡(たん)淵(えん)に入門する。淡淵は三河挙母(みかわころも)(豊田市)出身の儒学者で折衷学派の洗掘者といわれ、自ら学塾「叢(そう)桂(けい)社」というものを開いていた。
彼の教えは高度にわたり、その卓抜な識見に感服した平洲は人に語った。
「図らざりき。わが師の近きにあらんとは(こんな近くにわたしが求めていた理想の先生がおられるとは思ってもみなかった)」
この感動に応えて、淡淵もまた「わが業を助けるのは平洲である」と漏らした。
平洲は中国人から中国語を学び、さらに韻文、漢文、詩文、書道、南画、禅学などの教養も身に着けた。干天の慈雨のように細井平洲は日本屈指の大学者になる。
師が主君である尾張藩付(つけ)家老(かろう)・竹越山城守に従って江戸に出ると、平洲はあとを追うように江戸に出た。入門して六年目だった。
江戸で私塾「嚶鳴館(おうめいかん)」を開塾、だが師は急死する。平洲は十巻にもおよぶ『詩経古伝』を著して声望を高めていたが、伊予西条藩主松平頼(より)淳(あつ)が、中国黄檗山(おうばくさん)住職大鵬(たいほう)禅師を迎えたときの通訳を務めたことで、その実力を一段と高く評価された。彼の門人は千人をすでに超えていた。
三
米沢の冬は厳しい。しんしんと雪が降って、やがて豪雪となり、辺りを一面の銀世界にかえていく。雪が完全に溶けるのは四月頃だ。
田畑も城下町の屋敷の屋根も、道も、すべてが真っ白に衣を着て、ときおり照りつける陽射しできらきらとハレーションをおこす。
それはしんとした感傷だ。しかし、そんな幻想とはうらはらに、領民はみんな飢えていた。
若い儒学者の藁科(わらしな)松(しょう)伯(はく)は米沢にいた。
藁科は米沢藩の儒学者で、頭脳明晰な男である。
彼は確かに不思議な印象を与える人物である。
禿頭で、ぴしっと和服を着て、年はまだ三十代にみえる。痩せていて、手足が細く、病気がちである。ちょっと見にも、学者とわかるのだが、瞳だけは光っていて、唯一、力強さを感じさせた。
弟子の寺脇孫兵衛門が急いでやってきた。その顔には笑顔があった。
「見付かったか! 米沢藩のご養子が……」
「はっ!」
松伯はほっと安堵の溜め息をつき、寺脇孫兵衛門は場を去った。
手紙は江戸にいる米沢藩の江戸家老・竹俣当綱からだった。
米沢藩主・上杉重定公には姫しかなく、このままでは藩は取り潰しになる……そこで養子を取ろうということになったのだ。
「なになに、日向高鍋藩主・秋月佐渡守種美公の次男坊で、名は直丸殿…か」
藁科松伯は口元に笑みを浮かべた。しかし、そんな平和も一瞬で、彼は胸が苦しくなって激しく咳き込みだした。しかし、もう皆帰って誰もいなかった。
「ごほごほ…」藁科松伯は痛み止めの薬を飲んだ。……それでなんとか胸の劇痛が弱まった。彼は、
「はやく江戸にいって直丸殿にお会いしたい!」と強く願った。
「私が死ぬ前に…」藁科は医師でもある。だから、自分の病のことはだいたい把握していた。自分がもう長くは生きられないこと……もう生きられない…。
「…私が死ぬまえに是非…直丸殿にあっておきたい。是非…」彼はそう強く願った。
そうして、自分がその名君となるはずのご養子の成長や改革を目のあたりにできぬだろうことを残念がった。
…私は死ぬ…だが、米沢のことは……直丸殿に頼るしか……ない。
藁科松伯と弟子の寺脇や莅戸善政や木村高広らは雪道を歩き、興奮しつつ江戸へと旅立っていった。
…雪深いため、ぬかるみ、転び…難儀した。
「……いやあ、こわい、こわい(疲れた、疲れた)」
藁科松伯は珍しく米沢の方言をいった。
松伯は江戸生まれで、米沢の人間ではないはずである。しかし、それにしても「自分も米沢の人間でありたい」と思っていた。だから、訛りを使った。
「先生、少し休みますか?」
弟子の寺脇がいうと、藁科松伯は
「いやいや、急ごう! 直丸殿に一刻も早く会いたい」
「……無理しないでくだされよ、先生」
莅(のぞ)戸(き)善政(よしまさ)が、木村も笑って
「そうそう。先生あっての拙者らですから」といった。
「さようか」
松伯は笑った。息がきれて、しんどかったが、それでも余裕の素振りをみせた。
四
数日後、一行は江戸に辿り着いた。江戸の町は活気にあふれ、人がいっぱい歩いていた。
人々の顔には米沢の領民のような暗い影がない。
「米沢のひとに比べて江戸の庶民は…」藁科はふいに思った。
米沢藩の江戸屋敷に着くと、竹俣(たけのまた)当綱(まさつな)が一行を出迎えた。
竹俣当綱は三十七歳。目がキッとつりあがっていて、髭も濃くて、黒い着物を着て、浅黒い肌にがっちりとした体が印象的な男だ。
屋敷を歩くと、ぎしぎしと音がした。屋根からは雨漏りがする。戸も壊れていてなかなか開かなかった。……財政難で金がないため、直せないのだ。
「ところでご家老」藁科松伯は切り出した。
「…ご養子が見つかったそうですな」
「はい、先生。日向高鍋藩主・秋月(あきづき)佐(さ)渡守(どのかみ)種(たね)美(みつ)公の次男坊で、名は直丸殿と申す」
竹俣は笑顔でいった。
「賢き若君ときいております」
「そうですか…」藁科は微笑み、続けて
「ぜひに、一刻も早く…直丸殿にお会いしたい」 と願った。
竹俣当綱は、
「先生……わしもまだ会っておらん。だが、今、直丸殿は高鍋藩(たかなべはん)江戸屋敷にいるときいております。近々、拝謁させて頂きましょう」と言った。
「……直丸殿は今、御年いくつなので?」
「八歳です」
「そうですか」
藁科松伯は満足気に深く頷いた。
「それは重畳」
「……まぁ、いい年頃ではありますな」
「楽しみです」
松伯はもう一度、満足気に深く頷いた。
「…拝謁が楽しみです」
竹俣当綱は
「先生……わしもはよう会いたい」
「我々もでござる」
莅戸や木村も笑顔をつくった。
竹俣は、
「女房殿よりも愛しい方じゃな?」と冗談をいい、一同は笑った。
秋月(あきづき)直(なお)丸(まる)、出羽米沢藩八代藩主・上杉(うえすぎ)重定(しげさだ)の養子となる。上杉直丸公、元服して上杉(うえすぎ)治(はる)憲(のり)公、後年・晩年・上杉(うえすぎ)鷹山(ようざん)公となる。
父親は日向(宮崎県)高鍋藩主・秋月佐渡守種(たね)美(みつ)公で、母親が上杉家の遠縁(米沢藩四代藩主・上杉綱憲の次女・豊姫と黒田長貞(筑前秋月藩主)との娘)の春姫である。
俗な話をすれば上杉鷹山公は二○十四年度の大河ドラマだった『軍師 官兵衛』の主人公・黒田官兵衛(如水)の子孫でもある。
また年末恒例でやる歌舞伎やドラマ『忠臣蔵』の悪役・吉良上野介の子孫でもあるのだ。
つまり、治憲公にとっては母方(春姫)の祖母・豊姫の父親が上杉家養子。吉良上野介の息子・吉良三郎こと上杉綱憲であり、母方の祖父が黒田如水(官兵衛)の親戚の筑前秋月藩主・黒田長貞だ。
まさにサラブレッドである。
頭脳明晰で忍耐強く、私心がない訳だ。鷹山公の父親と母親はいわゆる「政略結婚」である。上杉綱憲の娘・豊姫と結婚して子を授かった筑前秋月藩主・黒田長貞(ながさだ)公が娘(のちの鷹山公を産む)春姫を、日向高鍋藩主・秋月種美の元に嫁がせた訳だ。
では、米沢藩第八代藩主・上杉重定はというと、上杉綱憲の子供・嫡男・上杉吉(よし)憲(のり)(米沢藩第五代藩主)の三男(長男・第六代藩主・宗(むね)憲(のり)、次男・第七代藩主・宗房(むねふさ)である。
上杉家は子宝に恵まれない家系である。
藩祖は「生涯独身」を通した「合戦無敗伝説」の上杉謙信だが、米沢藩では謙信公の息子・姉の仙桃院からの養子・上杉景勝からを米沢藩第一代…と数えるのが一般的だ。
上杉謙信公は米沢藩としては〝藩(はん)祖(そ)〟、となる。
後述するが上杉家三代目・上杉綱(つな)勝(かつ)は養子も跡取りも決めないまま若くして病死する。
普通の藩ならば徳川幕府から「お家断絶」されてもおかしくない。だが、会津藩主・保科正之の取り計らいで、上杉綱勝の妹の参姫(さんひめ)と結婚していた幕府高家衆・吉良上野介義央の子供(吉良三郎)を無理やり上杉家第四代藩主とする。
何故、会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)は上杉家を助けたのか?「上杉家は名門だから」というのもあるだろう。
しかし、正之は徳川家康の息子・秀忠の愛人との子であり、それを会津藩主としてもらった、という過去を持つ。
幕末に会津藩に米沢藩が加勢したのも正之への恩である。保科正之には上杉の窮乏が「哀れ」に感じたに違いない。
確かに米沢藩・上杉藩は、上杉綱(つな)憲(のり)を米沢藩第四代藩主とすることで「お家断絶」の危機は脱した。
だが、かわりに領土・禄高を出羽米沢三十万石から、出羽米沢十五万石まで減らされたのだ。
新たなる危機は禄高減少である。
ただでさえ越後七十万石から、上杉景勝の時代、秀吉の命令で会津百二十万石に禄高も領土も増えた。が、歴史通なら当たり前に知るところだが、関ヶ原の合戦で、上杉景勝方は西軍・石田三成方につく。
結果はやはりであった。関ヶ原では小早川秀秋の寝返りなどで、たった一日で(徳川家康方の)東軍の大勝利
……その間に東北地方の長谷堂で最上義光軍勢・伊逹政宗軍勢と戦っていた(長谷堂合戦)上杉軍に「西軍大敗・三成敗走」の報が届く。
上杉軍は焦ったに違いない。知将でも知られる(二○○九年度大河ドラマ『天地人』の主人公)直江兼続は殿をつとめ、なんとか会津領土に帰還。
しかし、その後の戦後処理で、上杉景勝・上杉軍は石田三成(近江の山中で捕えられ京三条河原で斬首)側についたとして会津(福島県)百二十万石から出羽米沢三十万石に禄高を減らされ転譜となる。
上杉景勝や直江兼続らは、家臣を誰も減らさず六千人の家臣団を引き連れて米沢に転住する。
土地も禄高も減らされ、しかも山奥の雪深い盆地に「島流し」にあった訳だ(笑)。
苦労する訳である。今は上杉の城下町・米沢市には新幹線も通り、豪雪で知られた米沢だったが、最近はそんなに積雪も酷くなくなった。地球温暖化のおかげだろう。
私の親戚のひとに聞くと、七十年くらい前は、米沢の積雪は茅葺屋根の高さと同じくらいだったという。出入りの為にハシゴを玄関から積雪にかけて……モグラみたいに暮らしていたのだという(笑)
雪国では、冬季には公費で除雪車が深夜道路などの除雪をしてくれる。
除雪車は巨大な黄色のトラック程の巨大なものだ。だが、それは田中角栄首相(当時)が、豪雪を「激甚災害」に指定して「公費での除雪」を推進したからだ。
私は、田中角栄は大嫌いだが(金満政治の元凶の為)、「除雪」に関しては感謝している。しかし、昔はほんとうに豪雪で大変であったろう。昔のひとは偉いものだ。話がそれた。
平洲の講釈が終わるのを待ちかねていた藁科松柏は、改めて挨拶し、是非とも今の話の先にあるものを聞かせていただきたいと懇願した。
平洲は潔く承諾し、浜町の「嚶鳴館」まで松柏を同道する。と、求められるままに自分の考えを語り聞かせた。それは辻講釈とは違って、高度な直接経書に基づくものであった。
松柏の身分を聞いた平洲は、特に国を治める指導者のあるべき姿について熱心に語った。
それは経世済民(経済)であり、現実主義(リアリズム)であり、論語と算盤、でもあった。
〝上杉の義〟等という理想論ではなく、〝成果主義〟でもあり、平洲は現実主義者(リアリスト)でもあった。平洲は拝金主義を嫌ったが、同時に綺麗ごとだけの主義も嫌った。
平洲は
「どんな綺麗事を並べ立てても銭金がなければ一粒のコメさえ買えない。それが現実であり、銭金は空からは降って来ないし、法令順守(コンプライアンス)を徹底し、論語と算盤で正しいやり方をして努力して善行を尽くせばほとんどの幸福は叶う」という。
平洲の話に時がたつのも忘れて傾倒し、感動を抑えきれず、その場で平洲に松柏は入門した。
藁科松柏自身は米沢本国にいるときには「菁莪(せいが)館」と名付けた書斎で多くの若者たちの教育にあたっていた。彼の教えを仰ぐ者の中には竹俣(たけのまた)美作(みまさく)当綱(まさつな)、莅(のぞ)戸(き)九郎兵衛善政(よしまさ)、木村丈八高広、神保容助綱忠らがいた。
その頃の米沢藩は長年の貧窮に打ちひしがれ、息が詰まるほどの閉塞状態から脱出することも出来ないでいた。
しかも、藩主上杉重定は寵臣(ちょうしん)・森平右衛門利(とし)真(ざね)に籠(ろう)絡(らく)されて、自ら藩政を改革出来ないでいた。
竹俣当綱や莅戸らは密かに会合を持ち、後述するような森氏への謀殺を謀る訳だ。
が、望みの期待の〝改革派の頼りの綱〟はわずか九歳の御世継の直丸(直丸→治憲→鷹山)だけであった。
松柏は〝大人物〟細井平洲先生を一門に紹介し、積極的に御世継の教育にと便宜をはかった。
「上からの論理ばかりでは〝死角〟ができる」、
「諌言をさまたげ、甘言によっては〝大きなツケ〟ばかり残る」
平洲の主張もごもっともであった。
竹俣も莅戸も木村も神保も平洲門下に列座する。
「われわれには臥竜先生と臥竜の卵の御世継さまがおられる」
竹俣は
「細井先生はいいが、失礼ながら直丸殿はまだ九歳の童べであろう」
とため息をついた。
望みがわずか九歳の御世継・秋月直丸、養子縁組で上杉直丸、のちの治憲公、鷹山公で、ある。
溺れる者は藁をも掴むというが、何ともたよりない船出、であった。*
五
上杉鷹山公は公人、つまり公(おおやけ)のひと、である。
何故、鷹山公は私心を捨てて、公人となったのか? やはりそこには江戸の学者であり、師匠でもある細井平洲先生による教育のたまものなのだ。
米沢市立図書館は私がよく執筆する際の資料の為に利用する。
その米沢市立図書館は二十年くらい前に「上杉鷹山公の伝記漫画」の資料と調査研究をしてマンガ本を刊行した。(資料を提供して無名の漫画家さんがコミックを描いた)
当時の図書館員は*「鷹山公に関する資料等を調査研究していくと、その人間像が浮き彫りにされ、あたかも私たちの目の前で鷹山公が「為せば成る。米沢の未来のため頑張りなさい。」と優しく励ましてくれるような錯覚におちいる。
さらに、現代の私たちに近い、赤裸々な人間「鷹山公」を捜し求めたが、「公は」その姿を現してくれなかった。その分だけ、この漫画は面白味に欠けているかもしれない。
鷹山公は「真心の人」であった。自分の信じるところに従って行動し、勇気を持ってあらゆる困難とよく闘った政治家。
郷土と民衆を心から愛した世界に誇る代表的日本人である。
鷹山公の遺徳とその精神は、私たち米沢人の心の光かも知れない。それは、何時の時代にも消えることなく、我々の生きる道を照らしてくれるものだと信じたい。*(「上杉鷹山公物語・監修 横山昭男 作画・小川あつむ」百四十九ページ参照)」と記している。
当時の米沢市立図書館員たちには「上杉鷹山公」は「現代の私たちに近い「赤裸々な人間像」」を現してくれなかったのかもしれない。まあ、時代だろう。
二十年前はわからなかったことでも現在ならわかることもある。
鷹山公が少年期に、利発で天才的な才覚を見せている姿からは普段想像も出来ないくらい涙もろかったり(藁科松伯から米沢藩の惨状を聞き「それは米沢人が憐れである」と涙をはらはら流したり)、幼少期に寝しょうべんがなかなか直らず布団に毎朝「日本地図」を描いていたり……私にはこれでもかこれでもかと「公は」「赤裸々な人間像」を見せてくれる。
まあ、時代だろう。調べが甘い。夜郎自大も甚だしい。
宝暦九年(一七五七年)、三月、秋月直丸は米沢藩主重定の養子に内定している。
(注・鷹山公の母親・実母・春姫は宝暦七年(一七五七年)六月九日に三十五歳で病死しているが、この物語では話の流れでまだ生存していることになっている)
(注・上杉鷹山公の生まれは宝暦元年(一七五一年)七月二十日、秋月家二男として生まれている。つまり、鷹山公はわずか七歳で実母を亡くしている訳だ)
実際問題として、上杉重定の放蕩は目を伏せたくなるほどである。
このひとは馬鹿ではないか? とおもうほど能や贅沢三昧の生活をする。
でも、まあ、鷹山公や藩士にしたら「反面教師」だ。(注・「反面教師」という諺は中国の毛沢東(マオ・ツートン)の唱えた諺であるからこの時代の人々にはなじみのない諺かも知れない)
借金まみれの米沢藩で「贅沢三昧」とはこれまた馬鹿野郎だ。
が、まだのちに「七家騒動」をおこすことになる須田満(みつ)主(ぬし)ら老中もこの世の春を謳歌し、重定とともに財政悪化の元凶・贅沢三昧な大老・森平右衛門もこの世の春を謳歌していた時代である。
上杉家の養子になった治憲公(直丸公)は秋月家家老三好(みよし)善(ぜん)太夫(だゆう)に、
「わたしのような小藩からの養子の身分の者が……謙信公からの名門・上杉家の米沢藩をひとりで動かせるだろうか?」
と不安な心境を吐露したという。
すると秋月家庭園で、木刀で稽古をつけて、一服していた三好は平伏して
「確かにおひとりでは無理にござりまする」
「……やはりそうか」
「されどにござりまする、若。どんな大事業もたったひとりの力では無理なのです。米沢藩上杉家中は名門ゆえ優秀な人材も多いことでしょう。家臣の者たちとともに粉骨砕身なされませ」
三好善太夫は鷹山公の傅役である。
彼は少年の鷹山、いや治憲に『奉贐書(はなむけたてまつるのしょ)』を送った。三好は鷹山が上杉家に養子に行く前に『殿さまとして守るべきことをしたためた『上言集』と『奉贐書』』を送り、宝暦十年(一七六○年)十月十九日に治憲が江戸の秋月家一本松邸より上杉家桜田邸へ移りおわったのを見届けたのち十一月二日、五十七歳の生涯を終える。
鷹山はこの三好からの書状を一生の指針として、善太夫の死に涙をはらはら流したともいう。
鷹山公は涙もろいのかも知れない。
江戸から遠い米沢藩の田舎ではのちの竹俣(たけのまた)当綱(まさつな)が江戸家老になり、莅(のぞ)戸(き)善政(よしまさ)が奉行になる。藁科(わらしな)松(しょう)伯(はく)らが米沢藩士としての志を新たにするのだった。
時代は混沌としていた。改革前夜であり、米沢藩は深い闇の中、にあった。
「当節の、わが藩の借財はいかほどになるのか?」
「されば」
書院の外の畳敷きに膝をおとして当綱は、少し考えてから言った。
「それは若君にはまだご承知なくともよろしいのではないでしょうか?」
直丸がきびしい目で自分を見ていた。答えがなかったので当綱が思わず言い直そうとしたのを遮るようにして、直丸が言った。
「竹俣、若年とみて直丸を侮るか?」
「え、いいえ……いや」
当綱はどっと顔が熱くなるのを感じた。
「そのようなこころはございません。失礼しました! わが藩の借財は、ざっと十数万両と承知しております」
「………十数万両か」少年世子は衝撃を受けたようだった。だが、当綱はのちの鷹山公の本気度をひしひしと感じた。
「藩邸の維持運営費を隠すのか?」
「めっそうもございません。只今、すぐに調べさせまする」
「いいか。竹俣。――――争いはならぬぞ」
「は……?!」
「争いには荒れた土地しかもたらさぬ! 最後に苦しむのは民なのだということを決して忘れてはならぬぞ……!」
のちに竹俣当綱に松柏は、
「ご家老も、一本取られましたな」
「取られた」
当綱は言った。正直な感想だった。
「いや、おどろいた。直丸さまはもう大人であられる」
「むろんです。臥竜さまですゆえ」
松柏は言った。*
六
こうして竹俣当綱、藁科松伯、莅戸善政、木村高広の四名は、高鍋藩江戸屋敷に徒歩で向かった。江戸の町は活気にあふれ、人がいっぱい歩いている。
武家も商人も、女子供にも…人々の顔には米沢の領民のような暗い影がない。
「米沢のひとに比べて江戸の庶民は…」藁科はまた、ふいに思った。
その日は快晴で、雲ひとつなく空には青が広がっていた。すべてがしんと輝いていくかのようにも思えた。きらきらとしんと。すべて光るような。
高鍋藩邸宅は米沢のそれとは違いしっかりした屋敷の建物の作りで、あった。
高鍋藩は財政が豊かで、金のない米沢上杉藩とは違うのだ。
……貧乏藩は米沢十五万石だけではないはずだがなあ。財のある藩邸じゃのう。
竹俣当綱がそう不遜に思っていると、藁科松伯は低い垣根から、邸内を熱心に覗いていた。
彼の横顔は笑顔だった。
「…いましたぞ、ご家老」
と藁科。
木村も覗き「あの若君が直丸殿ですか?」と竹俣に尋ねた。
莅戸は「拙者にも見せてください」といった。
竹俣当綱も垣根から邸内を覗き見て、
「…おぉ。あれじゃ、あの方が直丸殿じゃ」と笑顔になった。「別名・松三郎殿ともいう」
「本当に賢そうな若じゃ」…邸内の庭では、秋月直丸という若君が剣術に励んでいた。
一生懸命に木刀を何度も降り下ろす運動のためか、若君は額に汗をかいていた。
直丸は八歳。すらりと細い手足に痩せたしかし、がっちりとした体。眉目秀麗で美貌の少年である。唯一、瞳だけがきらきら輝いている。
この、秋月直丸こそが養子となり名を「上杉直丸」と変え、さらに元服後「上杉治憲」と名をかえた、のちの名君・上杉鷹山公そのひとであった。
「……いい顔をしている」
四人は微笑んで、呟いた。
七
「……どちら様でしたか?」
ふいに藁科ら四人に声をかける女がいた。
…それが直丸の生母・春だった。(注・歴史的にはこの時期に鷹山公の実母・春は病死しているが、話の流れの為に存命していることにしている)
確かに、春は美人であった。背も低くて、華奢であったが、三十五歳の着物姿は魅力的なものであった。
「あ、私は藁科松伯と申します。こちらが江戸家老の竹俣殿、こちらは莅戸殿に…木村殿です」
「はぁ」春はそういい、続けて
「どちらの国の方です? 江戸の方ではないように思いますけど」
「わかりますか」竹俣は笑って
「拙者たちは出羽米沢藩十五万石の上杉家家臣のものです。今日は、藩主・重定公の名代として参りました」
と丁寧にいった。その後、一行は頭を深々と下げた。
「まぁ!」春は思い出して、
「養子の話しですね? 直丸の……。こんな外ではお寒いでしょうから、中にお入りくださいまし」
と、恐縮して一行を屋敷に招いた。
秋月家江戸邸宅は質素そのものだった。
…春は、恐縮しながら
「申し訳ござりません。今、殿は外出しておりまして…」と言った。…竹俣や藁科らが座敷に案内されて座ると、
「……粗末な食べ物ですが。御腹の足しによろしかったらどうぞ」
と、そば粥が運ばれた。
「いや! 奥方様、われらなどに気をつかわなくても…」と竹俣。莅戸は食べて
「おいしいです」といった。
「馬鹿者。……少しは遠慮せぬか」竹俣当綱は彼の耳元で囁くように注意した。
秋月の奥方様(春)は笑った。すると藁科と木村も笑った。
「米沢は今どうですの?」
春は竹俣に尋ねた。すると竹俣は「政のことでござろうか?」と逆質問した。
「いいえ」春は首をふって笑顔になり、
「気候や風土のことをききましたの」
といった。
「……それなら、今、米沢は雪景色です。毎日、家臣たちは雪かきに追われて…くたびっちゃくたびっちゃ(疲れた、疲れた)といっています」
竹俣は笑った。
「どうして直丸を上杉家の養子にすることになったのですか? 他にも若はいっぱいおりますでしょうに」春が言った。すると藁科が、
「いえ。直丸殿ではなければダメなのです。拙者はよく巷で直丸殿の噂を耳にしました」
「……どのような?」
「秋月家の次男坊は賢く、心優しい方で、学問や剣術に熱心だとか…」
「直丸が? ですか?」
「はい」藁科はにこりと頷いて、続けて
「直丸殿のような傑出した若君が…どうしても米沢では必要なのです。ご存じの通り米沢藩の財政は火の車、殿には姫しかなく、この危機を乗り越えるためには傑出した名君が必要なのです」
「…直丸が、名君に? まだ八歳の童子ですのに?」
春は、少し、訝し気な顔になった。
「歳は関係ありませんよ、奥方様」莅戸がいうと、続けて藁科松伯が
「直丸殿はきっと米沢の名君におなりになります。拙者にはわかります。直丸殿は臥竜なのです」
「……臥竜? まぁ」
春はびっくりした。そんな時、直丸の父親・秋月佐渡守種美が屋敷に戻ってきた。春は
「少し失礼します。ゆっくりしていてくださいまし」というと、座敷から出て夫を出迎えた。
「…殿。いかがでしたか?」と夫に尋ねた。
「うむ。種茂(のちの鶴山・嫡男)の病気もそんなに悪くないらしい。すぐに退院じゃと。これで日向高鍋藩は助かった……。疲れた」
秋月日向高鍋藩は、米沢上杉藩とは違い、財政は健全で豊かな藩である。
秋月佐渡守は、深く安堵の溜め息をつくと、座敷へと向かった。
座敷に座る「みすぼらしい服を着た四人の侍」を発見し、後退りして障子の陰に隠れてから、
「…なんの客だ? ずいぶんガラが悪そうではないか」と春にボソボソと尋ねた。春は
「出羽米沢十五万石の家臣の方のようです」と答えた。
「あぁ。そういえば松三郎の養子の話しか…」
種美は頷いた。春は「出羽米沢は十五万石。殿の日向高鍋は三万石……養子なんていい話しですこと」と微笑んだ。
「う~む」種美はそう唸ってから、「……とにかく話しをきこう」といい座敷内に入った。「わしは日向高鍋藩藩主、秋月佐渡守種美である。そちらは…?」
藁科らは平伏してから、自己紹介をした。そうして、
「直丸殿に是非、拝謁したい次第で参上つかまつった」といった。
「よかろう」秋月佐渡守は満足そうに頷いて
「松三郎(直丸)をこっちへ」と家臣に命じた。
まもなく、八歳の直丸がやってきた。
「…秋月直丸にございます。以後お見知りおきを」
彼は正座して頭を下げて竹俣らに言葉をかけた。その賢さ、礼儀正しさ、謙虚さは、藁科たちを喜ばせるのに十分だった。……これなら名君になれる。
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