《幕間》敗走者
――ぜっ、はっ……ぜっ、はぁっ!
熱い吐息が喉を乾かし、唾が器官に入ってむせてしまいそうになる。
岡田は、ギリギリでそれを飲み込みながら、ふらつく足を回し続けていた。
(何だって、こんなことになりやがったんだ……くそっ!)
背中側から迫る幾つもの石弾が、足元に弾け彼の体をかすめる。
すぐ後ろでは、
木を切り倒す轟音が断続的に続き、後ろから大きな物が追って来ているのを感じた。
射線を防ぐようにジグザグに走りながら、岡田は後ろを振り返ろうとするが、その時――。
目の端を黒い影が掠め、岡田は身をかがめ前転する。頭上から道を塞ぐように三体の蜘蛛が落下して来たが、なんとかやりすごす。
(魔物が多い……奥まで入り過ぎちまったのか……!?)
前からも数体が行く手を塞ぐ。
「ごらぁっ、どけぇ!」
岡田は怒声と共に支給された鉄製の片手斧を右手に握り締め、突進する。重たい
「ぐぁらぁっ、《
疾走の勢いそのままに、岡田は片足を軸として暴風のように回転し、蜘蛛たちを薙ぎ倒す。
たちまちの内にバラバラに切り裂かれた蜘蛛たちは、破片と異臭のする体液を撒き散らして息絶えた。
「見たか、雑魚がよ……はっ、はっ」
回転にふらつき、膝に手をついて足を止める……だが、その数秒が彼にとって致命的な隙となった。
頭部に何かが弾け、巨体がぐらりと揺れた。
(まずっ……!)
必死に意識をつなぎとめるが、投げ出された体は地面に重い音を立てて転がった。
右側頭部から流れ出した血が、片目を濡らして視界が半分朱に染まる。
膝をついて立ち上がろうとした彼の体を次々と蜘蛛糸が絡めとり、蜘蛛たちがその牙を手足に突き立てた。
「ぐぁっ……! くそぁっ、誰かっ……いねえのかよ!? 小林、鹿原……栄ーッ!」
混乱した岡田は大声を上げて班員の名前を呼んだが、答えるはずもないのは彼にも分かっていた。
何しろこうして逃げて来たのは、目の前で起こった惨劇のせいだったのだから。
不気味な重量音が迫り、岡田が震える。
(く、来る……あいつが!)
岡田は必死に体を動かして蜘蛛を叩き潰し、糸を断ち切って逃げようとする……だが、頑丈な蜘蛛糸は容易にその体を離してはくれない。
そうしている間にも、音はゆっくりと近づき、やがて頭上から差した影の主を……恐る恐る岡田は見上げた。
「ぁ……」
それは、例えようもない程に悍ましい存在だった。
人のような形をしてはいるが、明らかに別の何か……背丈だけで岡田の倍程もありそうな、巨大黒い生物。
体中に奇妙な裂け目が幾つも刻まれており、球体のように丸い体からは四肢とは別に追加で二本の長い腕が背中から生えている。
その四本の腕が、岡田を囲むように伸ばされる。
「く、来るなっ! 寄るんじゃねぇっ……は、ひぁっ!」
片手斧を腕に叩きつけたが、まるで分厚いゴムでも殴ったかのような感触。
ろくに刃が入らずわずかな傷を付けただけで、斧は腕の一振りで即座にどこかへと飛ばされてしまった。
そして岡田は、その生物の腕で宙に吊り上げられ、顔面を直視せざるを得なくなった。
身体に沈み込むように生えた頭部に存在する捻じ曲がった二本の角。
先の尖った耳に、反転した様な白い瞳孔を持つ黒い眼。
恐ろし気な容貌だが、岡田の目を引いたのは別の部分だった。
丸い頬や分厚い唇などの基本的な造作――変化
「やめろぉーっ!! 止めてくれぇ……殺さないでくれ――!! 桂ァ!」
すると、その生き物は愉快そうに唇を震わせた。
『フルルルル……フルッフフゥ……オォカダァ……』
その暗く濁った声に、岡田の体から汗が吹き出し、必死に手の内から逃れようともがくが、体を締め付けるその異様に長い指はびくともせず、逆に圧力を増し、尖った指先が体に喰い込む。
「やめ……ぉああああっ……ぐぇぁぁっ! 助け……て、くれぇ」
身を捩るほどに喰い込むそれに耐えきれず、顔じゅうを涙と鼻水で濡らす。
目の前の化け物はそれを見て楽しそうに笑った。
「うぁあああぁぁ……」
――ようやく始まると思ったのに。
終わらない痛みと悪寒に気が狂いそうになりながら、背筋を仰け反らせた彼の頭の片隅で、走馬灯のように岡田の記憶は遡っていった。
岡田広生が、何故桂をゴミのように扱うのか。
それは、ひどく単純な話で、彼もまたそう扱われていたから。
彼には二人、兄がいた、大きく年の離れた長兄の隆、そして二つ上の昇。
一番下の子供として生まれた彼が物心つく頃にはもう、彼らとの差は明らかとなっていた。
一流大学に進み、父の後を継ぐことが決まっている隆や、恵まれた運動能力と体格を生かしプロの格闘家として将来を期待された昇と比べ、多少人より大きいだけののろまで愚鈍な自分に対する評価は厳しかった。
この程度の事もできんのか……。
勉強も運動も並以下……どうしてこんな無能者が岡田の家に生まれたのだ……。
何の才能も無い屑だな、お前は……俺達の足だけは引っ張るなよ……。
心無い言葉が彼の心を歪め、広生自身はそれを当然の事だと思って育つのも無理は無い事だったのかも知れない。能力のない自分が悪い……人より劣っているものには、人生を謳歌する価値も無いのだと。
人並み以上に努力はしても、何も実らないのは虚しかった……隆のような頭も、昇のような強さも、特別な才能もなにも彼には無かった。
受験に失敗し、中程度の公立高校に進学した彼の心は一層落ち込んだ。
どうせこの先も陰鬱な学生時代の延長で、家族や他人に踏みつけにされるだけのつまらない人生を送るだけなのだ……きっと。
そんな思いは彼を寡黙でひねた性格の男に仕立て上げていく。
――自分も周りもさして光るものを持たない人間ばかり……こんな人間達に生きている価値はあるんだろうか? 一人二人位居なくなっても別に誰も気づかないのでは無いだろうか。例えば、クラスで苛められているあいつとか。
暗い妄想の中でだけ手を下すことはできたが、現実に不祥事を起こして明るみになれば、親や兄からどんな仕打ちを受けるかわからない……鬱屈した気持ちを抱えながら、部活動に勤しむ事で適度にそれを発散する毎日。
学年も二年になり、新しくできた後輩をいびる時だけが唯一の楽しみでもあった。自分より目下の者を押さえつけ、言う事を聞かせるのは気分が良い。無論やり過ぎないようには気を付けてはいたが。
兄たちほど恵まれてはいないにしろ、やはり体格によるアドバンテージは柔道では大きかった……部内では上級生を除いて敵はおらず、居心地が良かった。
だが、不意に思ったのだ……こんなのは人生では一瞬だけの輝きで、いずれ消えてなくなるものだ。いずれ、上の兄は親の地盤を受け継ぎ政治家として多くの人間に傅かれるのだろう。
下の兄は格闘家として多くの人々から注目を浴び、喝采に包まれるのだろう。
そして自分は、その彼らの活躍を指をくわえて眺めていなければならない……一生比較され続けるのだ。今までも、これからもずっと。
全てに嫌気が差し、自暴自棄になりかけていた彼だったが、唐突にそれは訪れた。
信じがたい話ではあったが、違う場所……それも海外とかちんけな話ではなく、異なる世界に突然呼び出されたのだ。
級友の死には驚いたが、特別な力を授かると聞いたとき、岡田は内心で叫んだ――ざまあみろ、と。
ようやく自分を縛る者達から解放されたと思った……彼にとっては、家が、家族こそが自分を縛り付ける呪いの鎖だった。
これは自分の為に用意されたイベントだとまで思った……神なのか誰なのか知らないが、粋なことをしてくれたものだ。
これから岡田家の三男としてではなく、ヒロキ・オカダとしての人生が始まるのだ!
ここでも班というコミュニティーは存在する……だが、所詮とびぬけた存在はいない烏合の衆だ。
役に立つ者は傍に置いておき、不要なものは排除すればいい。
そして、桂は見せしめにするのに丁度いい存在だった……不健康に太った、愚鈍で何の取柄も無い男が、そこにいるのだ。使わない手はない。
思った通りに事は進んだ……最初は抵抗していた小林などもすぐに、何も言わなくなった。
他人を支配するのは気分が良い。
額を擦りつける桂を見て、岡田は心に何かが満たされて行くのを感じていた。
そして、桂と橋尾の班員交換が決まった時も、さして動揺はしなかった……相手は女だ、従わないようならまた、力に物を言わせれば済む。
その日も、しばらくして、気分が落ち着けば許してやるつもりだった。
無様な桂の姿を見るのもあと数日かと思うと名残惜しく、いつもより長くそれは続く。
だが、小林がそれを途中で遮った……身を挺して庇おうとまでするその姿は岡田を苛立たせた。
――よくわからせないといけない……今後の為にも。許してはならない事だ、誰が上のなのか知らしめなければならない。
岡田は、対象を小林へと移した。
良く従っていた鹿原という男に桂を押さえさせ、気の弱い栄には周りを見張る様に言って遠ざけた。
長身の小林を押し倒し、腕を押さえつけて上半身の衣服半ばまでを引き裂く。
もちろん本気では無く、脅しのつもりだった……泣き叫んで許しを請えば、離してやろうと思っていた。だが、小林はこちらをきつく睨みつけて、岡田を諫めた。
思い通りにならない小林に、ここへ来て初めて焦りが生じた。
もっと、もっと恐怖を与えないといけない……気が付くと、岡田の手は小林の首に伸びていた。
もう少し追い詰めれば、きっと子供のように泣き喚いて許しを乞うはずだと信じた。
どこを押せば意識を落とせるかくらいは心得ている。
彼女の顔が赤く染まってゆき、顔から汗が吹き出す。
――早く言え……許して下さい、もう二度と逆らいませんと言え!
小林の瞳の焦点が合わなくなってゆき、離れた所で鹿島に抑えられた桂が何かを叫ぶ。
小林が気を失い仕方なく岡田は、手を緩めて振り向こうとしたが、その顔に何かが飛んできて付着した。
こすると指先は赤く濡れていて、金臭い。
「……?」
――血……誰の?
そう思った岡田の傍を何かが飛んで転がった。
木に叩きつけられたそれは鹿島だったが……一瞬誰なのか分からなかったのは、顔の半分が損壊していた為だ。
何が、何故、誰が……混乱する頭に栄の叫び声が響く。
岡田は戻ってきた彼女の視線の先に、よく分からない物体が鎮座しているのを見た。
黒い水風船のようなそれには、歪な細長いものが幾つも生えている。
呆けた表情でそれを見つめていた岡田の意識を引き戻したのは、その中の一つから未だぼたぼたと滴る血液が見えたからだ。
そして、その中心が割れるようにして、醜い男の顔が生まれた。
先程まで、ここで地面に這いつくばっていた男のそれが湿った音を発する……。
『オ……オカダァ』
「ひぁあああぁぁッ!!」
岡田の喉から叫び声が迸った……。
咄嗟に、馬乗りにしていた小林の体を持ち上げ、入れ替わる様にして地面に倒れ込む。
直後、先程まで岡田の体が有った位置を槍のように尖らせた指先が貫いた。
そこにあったのは、小林の体だ。
気を失っていた彼女は目を見開き、体を大きく震わせると血の塊を吐いた。
何かを言おうとしたのか唇が開かれたが、そこから言葉は出てこずに、目の光は消えた。
脱力し崩れ落ちた背中の向こうに桂の姿が見える。その顔は……笑っていた。
――その辺りからは記憶が飛んでいて、どこをどう逃げたのか定かではなく、今桂の手中に捕らえられた岡田は混濁して薄れゆく意識の中で思っていた。
(ただの……夢だったのか?)
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