《十話》昏(くら)い森①

 ――木々に遮られ視界の明度が低い……嫌な感じだ。


 日光に遮られ影が多いせいで少し寒々しさを感じながら、アキは目の前の枝をかき分けた。

 今の所視界内に魔物の姿は見受けられず、耳や鼻といった別の感覚器でも存在を感じ取ることはできない。


 フォルスルキアの森。マルバはこの場所をそう呼んでいた。


 木々の色はやや青みがかった緑だ。時折頭上の羽ばたきを捉える度にはっとして振り仰ぐ。

 彼の話では鳥型の魔物はこの付近には生息していないという聞いたが、それでもどうしても警戒してしまう。

 セオはそんな様子を揶揄やゆした。


「少し、慎重になり過ぎじゃないか?」

「いや……僕らにとっては未知の場所だし、あまりずかずかと奥に入って行かない方がいい。あの人もはっきりと危険を示唆していたから」


 マルバは言った。ここからが本番だ……しっかり腰を据えてかからないと死ぬと。


 いつもの本気かどうかわからない顔で。


 ――初日、森に同行した彼は、道中色々とレクチャーしてくれた。


「この森に潜む魔物は二種類いる。発条蜘蛛パイド・ルパと、投石栗鼠ガドゥ・ケス。どちらも魔物としては小型、サイズはまあ、お前さんらの半分もない。だが、やっかいなのは……群れで行動するという点だ。奴らは大体三体から五体前後の小規模なグループを作って行動している。そして奴らはお互いを攻撃しない」


 つまり、複数を相手取らなければならないだけでなく、同時に出くわせば相手が連携を仕掛けて来る可能性があるということ。


 マルバは地面をつぶさに見てある一点を指して手招きする。そこには黒く丸いドングリほどの球体がいくつか転がっていた。


栗鼠ケスの糞だな。縄張りを示すサインだ。これを見つけたら、取り合えず頭上に気を付けろ。ほら、あそこにいる」


 マルバは剣を斜め上の木々に向けた。そこには確かに三匹の栗鼠が背中を逆立たせてこちらを威嚇いかくしている。


「うわ……デカ」


 イツミが青ざめた顔でそれを見つめる。


「丁度いい、やるぞ……お前ら、遠距離攻撃はできないのか?」

「あるにはありますけど……」

 

 現状、手段としてはイツミの呼び出す幻獣リィスククールのスキルのみだ。

 召喚や時間経過、スキルの使用に応じて魔力が減少し、0になると幻界リシティラに戻ってしまうようだ。

 そして使える技は、先日岩を砕いて見せた高威力の突進攻撃|風破衝《フウハショウ》……それと、極薄の風の刃で敵を断ち切る《空割クウカツ》の二種類のみ。


 《風破衝》は一回、《空割》は二回使ってしまえばククールは大体送還されてしまうので、ここぞという時にしか使えない。イツミの今後の成長で魔力が上昇することを期待するしかばかりだ。


「ふむ……普段使いにはむかない類のスキルか。なら後で弓をやる。矢も作り方は教えておくからそこら辺の木でも削って調達しろ。ほら、そろそろ来るぞ。投石攻撃だ……良く見て避けろよ」


 頭上の栗鼠りすが樹の幹に体を固定して尻尾を竿だたせ、もう一方がそこに拳大の石を装填すると引き絞り、突然腕を離す。

 しなる尻尾から放たれた岩石が、矢玉の様に前にいたアキに向けて突き進んで来る。

 咄嗟に左手に装備した円形盾をかざして打ち払った。これは新しく支給された物で、右手には鉄剣もある。


 衝撃と共に砕けた石が地面を跳ねてどこかへと飛んで行った。

 中々の威力……当たり所が悪ければ骨位は普通に折れそうだ。


「精度はそこまで高くない。動き回るか木を背にして射線を切れ。こちらからも攻撃を仕掛けて行動を阻害するのも有効だ」


 マルバは冷静に言うと足元の石を拾ってオーバースローで栗鼠に向けって投げ放つ。命中したのか、短い鳴き声と共一匹が落下して、マルバはそちらへ走っていく。

大方止めを刺しに行ったのだろう。


 それを追うようにいくつかの石弾が地面に跳ね飛んだ。


「セオ……僕らで攪乱かくらんしよう。二人はすぐに身を隠せるような木を盾にしながら隙を伺って着いて来て。そう連続では発射できないだろうから、打って来た後が隙になる」

「ちょっと待ってよっ! 無理だってば……怖いって!」

「相手の行動をよく見て……最悪無理だと思ったら木の陰から動くな! じゃあセオ、出るよ!」

「オーケイ!」


 仕留めたのか、騒がしい断末魔が響き渡り、視認できる内二体が、マルバに顔を向けた。


 それを見てアキはセオと別れて飛び出す。驚いて栗鼠の投石が何度も飛ぶが、土を抉っただけに終わった。


「よっ!」


 投石が飛んだ……セオの投げたものは樹上の二体の栗鼠の間をかすめ、内一体がそのまま地面へと落下する。


 丁度前方に転がったそれに向け、アキは鉄剣を振り上げた。


 ――ここで躊躇ちゅうちょしたら、この先やっていけない!

 拳ほどもある黒々とした瞳に、アキの姿が移り込むと同時に、その首は胴体と離れた。


 ぞっとするような肉を断つ感触と、鼻を刺す血臭。

 思わず顔を背けるアキに、後方からまばらな拍手が飛ぶ。


 マルバも一体を仕留めたらしく、衣服に血が飛んでいる。


「いい思い切りだ。わずかな逡巡しゅんじゅんが生死を分けることもあるからな……その割り切りは大事にしろよ」

「……ええ」


 この男に褒められるのは、セオを止めた時に続き二度目だった。

 複雑な気分になりながらアキは頭上を見上げるが、栗鼠は枝伝いに遁走したようで、追跡は無謀だろう。


投石栗鼠ガドゥ・ケスは図体がデカい分、木には登っても飛び移るようなことはあんまりないんだが、まあ仕方ない。二匹仕留めれば上出来だろう。基本は相手の攻撃を躱しつつ、追い込んで慌てて降りた所を仕留めるって感じだ。要領はつかめたか?」

「まあ、何となくは……蜘蛛も似たような感じなんですか?」

「いや、あいつ等はもっと距離が近いな。歩きながら話すから、嬢ちゃん達を引いて来い」


 後ろを見ると、カホとイツミが木の間から顔を覗かせていた。

 死骸を見るのが嫌なのはわかるが、もうこれは全員慣れていくしかない。

 鉄剣に付いた血を落ち葉や土でこそげ落とすアキに、マルバは愉快そうに言った。


「どうする? 肉を喰いたいなら解体の仕方を教えてやるが」

「げぇー……冗談止めてよぉ」

「はは、冗談ではないぞ」


 指の隙間から恐る恐る栗鼠の死骸を見るイツミを、マルバは愉快そうに笑った。


「魔物なのに食えるんですか?」

「大抵の動物型はな。喰って死んだって話も聞かない。戦場だと食う物を選んでられん時もある。そういったいざって時にいい食料になるのさ。覚悟も決まるし、やっといて損は無いと思うがね」

「……お願いします」


 迷いはしたが、やれることはやっておいた方がいいと判断し、アキは頷く。


 ――他にもこんな風にマルバは森林内での行動の注意点や、魔物の痕跡の辿り方、方角の確認、危険時の狼煙のろしの上げ方などの生存術等諸々を四班に伝えていった。


「本日からは二十レベルまで、三日に一レベルずつの上昇を確認していく。その位でないと無茶をして死ぬ馬鹿が出て来るからな。物資の補給も今まで通り行うが、必要な物や重篤な怪我を負った場合は衛生員のリーゲルに相談しろ。後、希望があれば個別の鍛錬にも付き合おう……俺達の都合優先ではあるがな。しっかり先を考えた行動を心掛けろ」


 その日の訓練を終え、それだけ言い残すと監督官の居住エリアにマルバは戻って行く。


「面倒見がいいんだか悪いんだか……よくわかんない人ですね……」

「信用しちゃ駄目よ……どうせ甘い顔見せて油断させるつもりなのよ」


 イツミは口調に刺々しさを滲ませながらマルバの後ろ姿を睨みつける。

 舞島を失くして以来、イツミはマルバに対しての警戒心を隠そうとしていない。


 すっかり立ち直ったように見えていても、やはり舞島の死はイツミの心に大きな傷を残しているのだろう。

 彼女に自死という行動をとらせた《導士団》への憎しみと、それを止められなかったという自責の念が、うまく処理できないままで彼女の胸の中に渦巻いているのかも知れない。


(思い余って無茶なことをしないでくれよ、頼むから……)


 その姿を見て不安になったアキは、まだしばらく目を離すべきではないのだと思い直す。

 そして翌日以降、様子見をしながらの森林での探索行動が始まったのだ……。




(――思った以上に神経を使うな……)


 平地とは違って視界が遮られている中、上下を気にしながら視野を広くして道を進まなければならない。聴覚をフルに稼働させ、かすかな物音を聞き逃さないように神経を使いながら、一歩一歩踏みしめるように進む。


「あまり深くまで入らないように気を付けないといけませんね……」


 そういうカホは、手の平に収めた円形の板を度々気にしていた。丸い青水晶で出来たようなその道具は、マルバから与えられたもので、円盤には中心から端へ一本の光の線が伸びている。


 《導の跡アシュレト》というその道具は、水晶球とワンセットになっており、本体が置かれている方角を永久に差し続けるらしい。これがあれば最悪、迷っても時間さえかければ野営地に辿り着くことが出来るだろう。腰には支給された真新しい白樫の杖が差してある。


「これ、役に立つのかな……本当は、あいつらに貰ったのなんて使いたくないけど」


 イツミが細い短弓をぷらぷらと揺らして弦を弾いた。背中には円筒型の矢筒に十数本の矢が刺さっている。受け取る前に基本的な取り扱いを聞いてはいたが、弓の扱いは難しいと聞く。彼女にそのセンスがあるかどうか……現時点では見込みはなく思える。


牽制けんせい程度にでも使えれば上々じゃないか? 後は何でも練習次第だろ、ある程度はな」


 セオは拳に付けたナックルカバーを打ち鳴らす。手の甲側が金属板で覆われたそれは彼が使えばかなりの威力が発揮できるだろう。

 そしてアキの手には、先日切れ味を披露した鉄剣と、縁を鉄板とリベットで補強されたの円形の鉄盾があった。


 全員が真新しい装備に身を包み、少し浮き立ったような気分を隠しきれていない。まるでアトラクションの中に迷い込んだかのようだ。

 ……その事をアキは強く不安に感じた。早いうちに接敵して適度な緊張感を取り戻しておきたいのが本音だ。


「皆、何度も言うけれど、慎重に行動してくれ。安全第一だ」

「わーってるって。大丈夫……昨日も結局何ともなかったじゃん。蜘蛛は気持ち悪かったけどさ」


 イツミが思い出してうえっと舌を出す。マルバが発条蜘蛛パイド・ルパと言っていた魔物のことだ。

 体長は50センチ程度の丸い頭部を持った黒い蜘蛛。

 特徴的なのはその動作だ。通常より短く太い脚部を折り曲げ、ピンボールのように跳ね飛んで移動する姿はユーモラスといえばそう見えない事もない。


 主な攻撃手段は突進攻撃と、口から吐き出す粘着糸による拘束バインド


 糸の射程距離は三、四メートルと短いが、一度絡みつかれてしまえば脱出には時間がかかる。

その間に突進され、強靭な顎で食いつかれれば致命傷もあり得るだろう。

 だが糸を吐いた後、必ず糸を巻き込む動作をするので、その時に大きな隙が出来る。 


 マルバは遭遇時、その辺で拾った木の棒で糸を絡めとり防いだ後、間合いを詰めて容易く斬り伏せていた。動体視力もそうだが半端ではない胆力をしている。


 相手の攻撃を見極めて余裕を持って仕留めていた彼のように、冷静に行動できる自信などアキ達にあるわけもない……どうにか被害を少なくして生き残り、少しずつでも経験を積んで行くしかないが、それができるのか。


 そして一番の懸念は他にある。

 マルバは言った……本当に厄介で危険なのは、単独では無く混成された群れに当たった時だと。入り口付近にいるのは大体はぐれで、奥に入る程そういった大きな群れに出くわすことが多くなるらしい。

周囲に気を配りながら、とにかく慎重に……。


 ――カサッ。


 聴覚が捉えた僅かな音……そして視界の外から伸びる白線。


 横合いの木陰から飛び出した糸を反射的に右手でガードする。粘つく感触と共に剣の柄の根元にそれが巻き付いて、茂みから蜘蛛が飛び出した。延長線上にはカホが無防備な首元を晒している。


「く、蜘蛛っ!? ……ぁ、ありがとございますっ!」

「いいから下がって! 敵の攻撃範囲から出ろ! 周りは?」

「右に二体、前方に一体いる!」

「セオ、前は頼む! カホとイツミは後退。イツミは邪魔な蜘蛛が近づいて来たら足止め、カホは退路を確認しろ!」

「ええ!? 無理無理無理、逃げるだけもう一杯一杯だって!」

「なら隠れてろ! 危なくなったらククールを呼べ!」


 ――味方の流れ矢に当たるよりかマシか。

 強引に自分を納得させ、アキは飛び込んで来た蜘蛛の顎を剣の腹で受け止める。

 軽い硬い衝撃を跳ね返し、地面に落ちた蜘蛛を追撃……頭部を粉砕する。


 視界の隅を糸が横切り、もう一体の蜘蛛の場所を確認した後、亜樹は後ろを見る。


「このヤロッ!」


 軽快なフットワークで相手の糸を躱したセオが、引き込み動作の隙を突いて相手に駆け寄り、頭を叩き潰す。蜘蛛の体は結構硬さがあったが、打撃力が上回って体液を吹き出し勝負が決まる。

 マルバの教えをすぐに実践できるあたり、セオはやはり運動神経と判断力に優れているようだ。


 そして弱気に襲われながらも、イツミはなんとか矢を構え、奥の方の蜘蛛を威嚇する様に狙っていた。頼りない弓勢の矢が地面を削り、不利を悟った残り一匹は跳ねながら森の奥に姿を消してゆく。

手つきは少し危なっかしいが、最低限の仕事はしてくれた。


 油断は禁物……死骸から剣を引き抜き周りを確かめていると、仕留めたセオが走って来て笑顔でアキの肩を叩く。


「お疲れ。蜘蛛は何とかなりそうだな」

「そうだね、後は同時出現したときの対処ができれば……」


 他方ではイツミが鼻高々に胸を張るのをカホが褒めたたえる。


「流石イツミちゃん、追い払ってくれて助かりましたよ……」

「ふん。そりゃ……やる意外にどうしようもなかったら、やるわよ」

「うんうん、それっぽい感じで格好良かったですよ……それにアキくんも的確な指示をしてくれて。良くあんなに冷静でいられましたね?」


 カホには褒められたが別に冷静だったわけでは無い。

余程の事が無い限り、この程度の魔物に傷を負わされることが無いと判断できていたからこそだ。

 他人は最悪どうでもいい……自分さえ無事ならば。


「別に普通だよ……。さあ、気を抜かないで移動しよう」


 例えこの中の誰かを犠牲にしても自分を護る……そんな覚悟はできているはずなのに。

 勝利に沸く面々の中でアキは、僅かに胸を刺した苦々しい思いにふたをして、移動を促し始めた。

 



 陽の沈む赤い光が木々の間から漏れ出し、アキ達はその日の探索を終える。

 徐々に影が濃くなり始めた森から出た所で、男の悲鳴が耳に付いた。

 

「ちょっと、待って下さい! お願いします……岡田さん、お願いします」


 そこには、重い荷物を一人で背負わされる桂と、第二班の生徒達がいた。

 彼は膝から崩れ落ち、荒い息を吐いている。

 その頭を岡田が地面に押し付けた。


「あぁ? お前、こん位でへばってるんじゃ根性足りねえんじゃねえか? 生き抜こうって根性が、よぉ!」

「ぷぁっ!」


 掴み上げられた桂は右頬を張られて、情けない声を出して盛大に荷物を撒き散らした。

 瞳に力はなく、倒れた体を起こそうともせずに寝転がったままだ。


「ったく……この豚さえいなけりゃもっと早く森に入れてたのによ。経験値も食わせなきゃなんねえし、足手纏いもいいとこだ……まだ牛や馬の方が良く働くぜ、ええ?」

「ぐうっ……」


 そのまま腹部に蹴りを入れられて、桂は大きく咳き込む。


「……酷い」


 惨たらしさにカホが目を背けて呟く。

 近くにいた小林も、今回は止めようとはしなかった……ぐっと悔しそうに唇を噛んでいるだけだ。

 自分では止められないと悟ってしまったのだろう……他の二人も見てみぬ振りをしている。


「……やりすぎでしょ、気分悪い。……止めて来る」


 伺う眼差しを向けたイツミは、アキが反応しないのを見て首を振って彼らの後ろから呼びかけた。


「やめなって、あんた達! こんなの……良くないって。度を越えてるよ」

「あん……? なんだお前ら、四班だっけか。人様の班に御意見とは、随分余裕みてえだよなぁ」


 振り向いた岡田が向かって来るのを見て、セオが頭を搔いて立ちはだかった。


「今時スパルタかよ。流行らんだろ、そういうの」


 部活動とはいえ双方とも武道経験者の睨み合いに、緊張の度合いが加速する。


「二度も言わすなよ……他班の事に口を出すんじゃねえ! こいつが足を引っ張った時割を喰うのは俺らなんだからな。手前らはまだマシだよなぁ……苛められてた、クラスで一番の屑が化け物になったおかげで楽できてんだからよ」

「あぁ……!?」


 セオの瞳が剣呑さを増し、岡田の瞳と強く視線をぶつけ合い、互いが構えを取る。

 一触即発――。その殺気だった雰囲気を止めたのはアキだった。


「セオ、止めるんだ。岡田の言う通り、僕らが無理やり干渉することできないんだ。それとも、班員の交換でもしようってつもりか?」

「それは……わかってるが」


 不満を表すセオの肩を突き飛ばし、岡田が今度はアキを見据えた。

クラスで一二を争う位の巨漢と対峙しても目線が上向くことは今やない。

 舐めるような視線を向けた後、岡田はにやついた笑みを浮かべた。


「くっくっ……ほぉ、あのチビがねぇ。堂々としたもんだ。何があったか知らんが、上手くやったみてえだなぁ。確かに手前の言う通りだよ……この豚野郎とならどいつだって喜んで交換を受け付けてやるぜ……と、いいたいとこだが、あいつは売約済みだ。鈴見の奴も未だ教師気取りでいやがる。どうせ何もできやしねえのによ……お前もそう思うだろ?」


 肩を彼の強い握力を感じさせる大きな掌が掴み、締め上げる。

不快に思ったアキは反対に彼の腕を握り返そうとしたが、岡田はそれを弾いた。

 巨体に似合わない、柔道家らしい素早い動きだった。


「おっと、怖え怖え。ただの挨拶じゃねえか。まさか桂の為にここで戦り合うなんて馬鹿なことは言い出さねえよなぁ?」


 桂は、責め苦に耐えるようにギュっと身を縮めている。


「……悪いけど、そこまでしてやる義理も僕らにはないし、移籍の話も聞いてる。邪魔をした、皆行こう。僕らが出来ることはもう無いよ」

「ちょっと……アキ!」


 イツミは悔しそうに岡田を睨んだ後、背を向けたアキに続く。それを後ろから岡田が揶揄やゆする。


「随分うまくやってんだなぁ、アキちゃんよぉ。全くこのクソ野郎にも見習わせたいもんだぜ……おら、とっとと立てや」

「……は、ひぃっ」

 

 息も絶え絶えの桂が、胸倉をつかみ上げられてのろのろと立ち上がる。

その様を見て、イツミはアキを引き留めようとした。


「あんた……本当に何も感じないの? あいつの気持ち、一番わかってあげられるのがあんたなんじゃ――」

「君に! そんなことを言う権利があると思うな……!」


 イツミが掴んだ手をアキは強く振りほどき、視線に憎しみと苛立ちを乗せた。


 理不尽な暴力に対する怒りは確かにアキの中にも存在するし、彼女達の中にかつての過ちを悔い、非道な行いを咎めようとする気持ちが生まれようとしているのも理解している。

 だがそれでも、どうしてもアキの中では未だに割り切れない気持ちは依然としてわだかまっている。


「……あの場で怒りのままに岡田をぶちのめして、桂を護ってやれとでも? あと数日もすれば、彼はあの状況から解放されるっていうのに……それに手を出して無理に話をこじらせるなんて愚の骨頂だ」 


 救われなかった人間が、同じ境遇の人間を救う……それは確かに美談だろう。

しかし、痛みを、苦しみを受けた者の誰がそんな美しい心持ちでいられるというのか。


「もし彼がそれを望んでも……僕はやらないよ。僕は……ヒーローじゃないんだ」


 『周りの人を支えろ』――父の言葉が、どうしてかこんなときに頭をかすめる。


(無理だよ……僕には)


 今のアキには背負いきれないその言葉を否定して、 黙って背を向ける。


「……待ってよ、ねえっ!!」

 

 その遠ざかる背中を、辛そうなイツミの声が追いかけた。

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