《五話》弱き正義

 空はまだ白い。


 明け方の空気を肌に感じながら、アキは衛生施設の蛇口から流れる水を顔にぶつけた。


 各班の天幕に囲まれるようにして立つこの建物には、外に手洗い場、内部にシャワーやトイレ、そして小規模な医務室が完備してあるようで、仕組みはどうあれ、文明的な施設があって大いに助かるというのが今のアキの心情だった。


 人影は辺りにない。早くに起きて正解なのだろう。

 昨日も衛生施設を使う際に色々と批判や好奇の視線にさらされ、気分の悪い思いをしたのだ。これ以上の面倒ごとはなるべく避けたかった。


 アキが首を振ると水を良く弾くのか、鱗はすぐに乾き始める。

 この空に対して疑問は尽きない……汗一つ掻かないこの体がどうやって体温調節を行っているのか、とか。

 昨日走り回った後に、わずかに鱗が開閉していたのを見たが、熱を放出する機構でも備えているのかも知れない。


 ひょっとして洗顔や入浴の必要は無いのかも知れないが、長年身に付いた習慣からはそう簡単には逃れられそうにもない。

 しばらくは人のいない時間帯で身支度を整えるしかないのだろう。


 水場を前にげんなりしていると、土を踏む足音が近づいて来る。


「須賀谷君……で合ってるのよね?」


 後ろから忍び寄る気配は察知していたが、声を掛けて来るとは思わず、アキは億劫おっくうそうに振り向いた。


「合ってますよ。どうも」 


 背後から姿を現わしたのは、鈴見教諭だった。

 見た目二十代中盤位のまだ若い教師。担任教師としてはかなり若い部類に入る彼女だが、最近は教員も不足しがちだと聞くことも多いし、経験の浅い彼女が任されるのも仕方のないことかも知れない。


 普段は疲れた顔を見せない鈴見も、流石に今はどこか投げやりな雰囲気を宿している。

教え子が目の前で殺されたりしたのだから無理も無いことだ。

 いつもくしけずられて綺麗だった黒髪さえ、つやを失くしてくすんでいる。


 彼女はわざわざアキの隣へと並び、その顔をしげしげと眺めた。

どうも居心地が悪く、アキは軽く視線で非難しながら蛇口らしき部品を捻って水を流す。


「好奇心は分かりますが、あまりじろじろと見ないで貰えますか? 班の連中と言い、もう少し恐れてくれた方がこちらとしては助かるんですけど」

「一旦意思疎通が取れてしまえばそんなものじゃない? それに、みんな自分の事で手一杯なのよ。でも、本当にまるで、ヒーローものの映画の悪役みたいだわ……」


 アキは、浅く透明な四角い貯水容器に映った自分の顔をまじまじと見る。確かに、米国の映画でこんな《悪役ヴィラン》がいたような気がする。


 緑色の鱗に包まれた、先細りの三角顔。金色の瞳に覗く黒い瞳孔が自分の顔を捉えた。

 鱗に包まれた体は着ぐるみの様に見えるのに、感覚がそれを自身の物だと主張している。


 ――だけど……曖昧だ。


 考えてみれば、アキのこの思考は本当に以前のアキの物なのか?

 この体の様に別の物とすり替わって形作られていて、アキがそうだと認識していないだけだったりするのではないだろうか?


 ――本当に、僕は、僕なのか?


「ご、ごめんなさい……! 無神経だったわよね……」

「……いえ」


 慌てた鈴見の声が、沈み込んだアキを自分の世界から引き戻す。


 容器の水に映った自分の姿をちゃぷちゃぷかき回して消し、気つけとばかりにそれを顔に浴びせかけて心持ちを切り替えると、アキは不満を口にした。  


「……こんなでも一応中身は人間のつもりですけどね」

「……あなたの気持ちを全く考えていなかったわね、本当にごめんなさい。……でもね、少しだけ羨ましくもあるのよ。強い何かに変わることができていたら、もしかして少しは皆の助けになってたかも知れないから、ね」


 鈴見は物珍しそうにアキの硬い鱗に触れる。人の体温よりか少し冷たいそれは、不思議な弾力をもって鈴見の指を弾いた。


「勝手に触らないで下さいよ、全く」


 アキは彼女の腕を跳ね除け、高くなった頭から彼女を見下ろして言ってやった。


「これは忠告ですが……いい加減認めて割り切った方がいいと思いますよ。ここでは社会的立場なんて保証されてない。あなたも僕も何の力も持たない上、こんな腕輪まで嵌められて、まるで、奴隷みたいだ。そんな人間が他人を助けようなんて……どう見てもおこがましいでしょう。自分の事を第一に考えた方がいい」

 

 鈴見はそんなアキの変わりように目を見開く。


「随分とはっきり言うのね。まるで、別人と話しているみたい……」

「大して僕の事を知りもしないのにそんなこと、言われたくないですね……あの教室に僕と親しい人間なんていなかったはずだ」


 そんな皮肉にも、彼女はくすりと微笑む。


「……少しだけ安心したわ。ずっとあなたのことも、どうにかならないかなって思ってたの。何もできなかったけどね」

「しなかった、の間違いでしょ。誰も、何もしなかった……僕自身も」


 今更だが、本気で行動を起こそうとすれば、方法はあった。

 苛め動画を拡散するとか、不登校になって転校を掛け合うとか、公序良俗に反するようなやり方までを考えれば、自分の身を護る術は何かあったはずだ。


 だがアキにはそこまで思い及ばなかったし、例え思い付いても実行には移せなかっただろう。そして、彼女は自分の立場を優先した。ただそれだけのことだ。


「僕があなたやクラスの人間を許すことは無い。だから、あなたももう僕の事は放っておいて下さい。これからずっとこんな状況が続くわけでもあるまいし、僕としては早く顔を見なくて済むように、あなた達から離れられるよう祈るばかりですね」


 それを聞いても鈴見は笑みを崩さない……どこか悲しさを漂わせてはいたが。


「償いは、できないのかしら」

「できないでしょう。あなた達から何かを受け取るのは僕にとって苦痛でしか無いんです。だから僕は利害関係と割り切って班の人間とも接するつもりです。自分が生き延びる、それだけの為に」

「そう……わかったわ。ただ、もしもあなたが……本心から誰かを必要とすることが有れば、もう一度だけ私にチャンスを与えて欲しい。この訓練の間はこうして、なるべく多くの生徒とコンタクトを取るつもりだから」

「……そんなのは勝手にやって下さい。僕は知らない……もう行きます」


 その孤独な背中に、気弱だった少年の姿が重なったのか、鈴見は胸を押さえたまま去ってゆくアキをじっと見ていた。


(謝って許されようなんて……浅はか過ぎるわよね。でも……)


 罪悪感に心を押し潰されそうになって、鈴見はその場にしゃがみこむ。


「……疲れたな。担任なんて、引き受けなければよかった……」


 彼女の小さな背中から、そんな密かな呟きが地面へと吸い込まれた。




 レベルを5に上昇させた翌日。昨日とは違う面持ちで五班の面々は顔を揃えていた。ちなみにコウタだけはアキの姿を見て怯えていた。余程粘瘤バブ塗れはこたえたらしい。


「よし、揃ったな。各自情報データを出せ」


 いつもと変わらず有無を言わせない様子でマルバは亜樹達に指示をした。

 青い瞳は、まるで氷のように動かない。


 全員が腕輪を操作したのを確認し、マルバはある個所に注目させた。それは[empty]の表示があったスキルの項目だ。


「貴様らもレベル5に達した。ならばそこに一つ目のスキルが発現しているはずだ」

「うぉっ、やっべ何か出てっし……マジ? ゲームみてぇ」


 調子の良いコウタが口笛を吹く。

 他にも全員が様々な反応を見せる中、マルバが補足をする。


「現在はスキルの名前しか表示されていないはずだが、詳細を知りたければその項目を指で触ってみろ。そうすればある程度の情報を知ることが出来るはずだ。後は自分で使ってみて確かめることだな」


 使い道は自分で考えろという事なのだろう。

 アキもマルバの指示に従い、そこに触れる。感触はないが、宙に浮いた半透明の円画面に長方形の枠が重ねられ、そこには簡潔な文章が表示された。


火炎吐息ヒートブレスⅠ】(Active)《CMP5》……熱属性攻撃。息を溜め、小範囲に炎の息を吐き出して敵にダメージを与える。


 攻撃方法が増えたようだ。Ⅰはスキル自体のLV、Activeというのは能動……つまり自らの意思で発動させるタイプだということだろう。CMPとは消費魔力を表しているのではないだろうか。


「あの、あたしゲームとかやらないから良く分かんないんだけど、あくてぃぶとか、しーえむぴーとか何なの? あんまり意味わかんない」


 するとマルバは肩をすくめる。


「さあな。言っただろう、自分で確かめてみろと。お前達、なんでも人頼りにしているようだが……俺はただの監督役で貴様達の行動に違反が無いか見守っているだけだ。そうやって何でも周りに委ねていると、いざという時に何もできずに死ぬぞ」


 正論に全員が喉を詰まらせた。この先彼らがずっと面倒を見てくれるわけでは無いのだから、確かに今から自分達で考えて行動する癖を身に着けておかなければならない。

 

 全員が理解したことで気を良くした訳では無いだろうが、マルバはそのまま、こちらの気が重くなるようなことを言った。


「重ねて言うが、嘘や脅しではない。本日これから移動する次のエリアはまだいいが、その次位からは下手をすれば死人もでる。本格的な戦闘というにはまだほど遠いにしろな。そして俺達はお前達の生存確認等は随時行うが、緊急時以外は救出に行くことはしない。死にたくなかったら自分達でどうにかしろ。こちらの世界では、それが基本だ、覚えておけよ」


 やはりアキ達は丁重に扱われるべき客人などではなく単なる消耗品に過ぎないのだ。

彼らにとっては取り換えの聞く便利な道具でしかない。


 そのような境遇を脱するには、自分達が不用品では無く、替えの効かない部品であることを証明しなければならない。

 人生のハードルは、とんでもなく高い場所まで上げられてしまったのだ。


「では、これより撤収作業を行い、次の訓練地へと徒歩で移動する」

「移動って、あの飛空機とかいう奴で連れてってくれねえのかよぉ!?」

「飛空機も無駄に遊ばせておくわけにはいかんからな。貴様らは今から荷物を纏め、天幕を回収して足並みが揃うまで待機だ」

「うへぇ~……」


 マルバは不満を漏らすコウタやイツミを歯牙にもかけずに、撤収作業の指示を出し始める。

 手つきの覚束ない人間には容赦ない叱声が浴びせかけられ、各自重い荷物を背負いながら隊列を組んでの行軍が開始した。




 合間に休止を挟みつつ、四、五時間ほど歩き続けた頃……心無しか、吹く風が湿り気を帯びて来る。


 「全隊停止! これより、各班に別れ再び天幕の設置を行う。速やかに作業に当たれ!」


 前にいた場所と同じ衛生施設が近づいて来て、指揮していたマルバが停止を指示し、行軍は止められた。


 付近を見渡せば、どうやら広大な湿地帯が拡がっているらしく、そのせいで湿気が体に纏わりつく。


 アキは余分に背負った荷物を下ろす。

 道中遅れがちになったイツミとカホの分を請け負わざるを得なかったのだ。


 行軍を遅らせればまたも罰則があるとマルバにせっつかれ、仕方なくセオとアキで彼女達の荷物を分担して背負った。

 コウタは昨日足を引っ張ったことなど綺麗さっぱり忘れており、頑として手伝わず、道中無駄に不満をぶちまけただけだ。皆相手にするだけ体力の無駄だと無視している。


(基礎体力がこんなに必要になるなんて。前の体だったら、どうにもならなかっただろうな……)


 天幕の設営を始めつつ、アキは以前のひ弱な自分を思い浮かべて嘆息する。

複雑な気分で作業を進めていると……慌ただしい物音、そしてその後に悲鳴と殴打音が響いて来た。

 

「ヒィアッ! す、すんません、すんませんっ!」


 地面に這いつくばり、頭をこすりつけているのは第二班の桂という生徒。

樽の様な体にぼさぼさの頭髪、どことなく卑屈な顔立ち。

 交友関係は無かったが、アキと同様にいじめやからかいの対象になることの多かった生徒だ。


「黙りやがれ、この役立たずのボール野郎が!」


 そんな彼の横腹を蹴り飛ばしたのは柔道部の岡田だ。

短く刈った髪に強面の顔立ちは強い威圧感を醸し出している。

彼は這いつくばった桂の頭を掴み上げ、強引に上を向かせた。


「ぐぁあ……勘弁して、下さいっ」

「うるせえぞ……足ばっかり引っ張りやがって。おめえには班員が皆迷惑掛けられてんだ。こん位されても仕方ねえんじゃねえのか、あぁ?」


 寡黙かもくで他人に関心のないタイプだと思っていたが、内面はまた違ったのか、それとも度重なるストレスで感情を制御できなくなったのか、彼は残虐ざんぎゃくな笑みを浮かべ桂の頬を張った。


「うぐぁっ……誰か」


 桂の瞳が恐怖に震え、涙がにじみ出す。


 アキの心がざわついた。

岡田の顔が、あの教室での港と重なって見える。

あの時に、今のような力と体が有ったなら……僕は。


 ――決して許さない。


 灼けた鉄の様な怒りが腹の中で渦巻き、周りにいた生徒が恐れて逃げ出す程獰猛どうもうに顔を歪める。

 だが、憎しみに駆られたアキが飛び出そうとした時、一人の少女が桂を庇うように前に立った。


「そろそろやめな。見てるこっちは気分悪いのよ……。そんなことしても何にもならないでしょうが!」


 それは同二班の小林……確か女子バレー部に入っていた生徒だ。

 さらっとした短髪の気真面目そうな小女は腰に手を当てて気丈にも岡田と睨み合う。

 桂の頭を離した岡田は、それを鼻で笑った。


「んなこた分かってんだよ! だがな、憂さ晴らしでもしなきゃやってられねえのよ。考えてもみろよ、俺達は訓練中ずっとこいつのせいでハンデを背負わされるんだ。お前だってどうせ内心では不満に思ってんだろうが」

「……仕方ないだろッ、どうにかやってくしか! 連帯責任で寝る暇も無く働かされるなんて御免だろ! あんたがどうにかできるのかよ!」

「簡単じゃねえか……このクソ豚が死ねばいいんだよ」


 息を荒げる小林に、笑う岡田は桂を指差して、ぞっとする目付きで見下ろす。

 提示された恐るべき解決法――誰もが忌避するその言葉を、岡田は平然と口にした。


「この事態がいつまで続くのかは分からねえさ。だが……足を引っ張る屑は早いうちに切り捨てちまわねえとなぁ。あんだろ、植物や家畜とかにも間引きってのが。生き残る為にはそういうのが必要になってくんだよ」

「あんた……よくもそんな。自分の言葉の意味を分かって言ってんの?」


 場が凍り、冷や汗を滲ませながら、小林は信じられない目で岡田を見る。

 少なからず他班の人間も居るような場所で、当然非難するような目が外から向けられるが、彼は悪びれる素振りも無く言い放った。


「平和過ぎたんだよ、向こう側は……。俺達がこれからさせられるのは命のやり取りなんだぜ? 粘瘤バブだか何だのをぶち殺したのと何が違う? お前さ、もし殺されるのがこいつか自分かって時、こいつのこと助けんの? んなわきゃねえよな? ヒーローじゃあるめえし」

「あ、あたしは……。そ、そんな状況来るとは限らないだろ」


 小林は岡田の言葉を否定できず、目を背けて話を逸らす。そしてこの場にいる誰もが岡田の言葉を否定しなかった。

 誰もが、自分の命を秤にかける覚悟の必要ない世界から来ているのだ。

 そんな彼らにとってこの質問はあまりにも厳しすぎた。


「来てからじゃ遅えんだよなぁ……だから俺はもしそいつが邪魔だと判断したら躊躇ためらわねえ。俺達に与えられたのはその為の力なんだよ。お前みたいに切り捨てる覚悟のねえ奴が、他人を危険に晒すんだ。わかったら偉そうな口きくんじゃねえ!」


 岡田の放つ怒声に小林は何も言い返せずに、悔しそうに視線を俯けた。


「おらデブ、死にたく無けりゃ精々荷物にならないよう足搔けよ? お前ら、設営はこいつ一人にやらせるから手を出すんじゃねえぞ」


 勝利を確信した彼は、愉快そうに笑うと桂の襟首を、分解された天幕の前に引きずっていった。


 残された小林が、握り締めた両手を心細そうに見つめ、頭を垂れる。


「あたしは……偽善者なのか?」


 その場に佇み、悄然と呟かれた小林の呟きは、多くの生徒達の心に波紋を投げかける。

 正しいはずの行いは、何の救いももたらさなかった。


(どうして……正しい事がこんなにも、弱いんだ)


 ぶつけどころのない悔しさを持て余しながら、アキは必死に頭の中で答えを探したが、明確な答えは見つからず、辛い思いを募らせるばかりでいた……。

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