16.バーチャルの可能性について(前編)


 奏太の手を取った後、小夢はその手を握ったまま固まっていた。


 奏太の手は見た目よりもずっとがっしりしていて、男らしさを感じた。体温がどんどんと上昇し、手汗が浮いてくる。恥ずかしい。

 男の子と手を繋ぐのは始めてで、一体どのタイミングで外せばいいのか分からない。


「根上さん」


「は、はい!」


「そろそろ手を放してもらってもいいかな」


「あっ、あっ、ご、ごめん!」


 無意識の内に奏太の手をしっかり握り込んでいたことに気付いて、小夢は慌てて手を外す。


「それじゃあ今日は夜も遅いし、家まで送ってくよ」


「え、そ、そんな! 大丈夫だって、わざわざ、悪いし……」


「いや、送ってく」


 そう言って、奏太は部屋のドアを開ける。するとその瞬間、ドアの向こうから妙な声が聞こえた。


 ドアが開いた向こうに奏太の妹——音羽がいた。音羽は部屋の中にいる奏太と小夢を交互に見ると、


「べ、別に! わたしの部屋に戻ろうと思って! 通りがかっただけだから! 変な勘違いしないでよね! バカっ! ほんとキモい!」


 早口にそうまくしたてると、音羽はバタバタと足音を立てて自分の部屋に向かった。


「さて、じゃあ行こうか」


 奏太は何事もなかったかのように小夢の方に振り返ってから、部屋を出て階段を降りていく。


「あ、あの……妹さんは……」


 小夢は少し気まずい気持ちでそう聞いたが、


「あぁ大丈夫。いつもあんな感じだから気にしなくていいよ」


「へ、へえ」


 奏太と共に家を出た所で、小夢は自分の身体を見下ろして、自分が奏太のジャンパーを着たままだったことに気付いた。


「あ、あの、奏太くん、これ」


「それは借しとくよ」


「え、でも」


「まぁ根上さんがその服で帰っても気にしないって言うなら、別にいいけど」


 ジャンパーを脱ぎかけていた小夢は、自分の着古した寝間着姿を見下ろして、静かにジャンパーを着なおした。


「……借りさせていただきます」


「うん、返すのはいつでもいいから」


「ありがとうございます……」


「根上さんの家って、どっち?」


「えっと……、こ、こっち」


 小夢が指差した方向に向かって歩み出す奏太。小夢はその隣に並ぶ。


 しばらく二人の間に会話はなかったが、ふと奏太が言った。


「ねえ根上さん、七月七日の日曜日、何か予定はある?」


「に、日曜日なら、何もないと思う」


「そっか。じゃあその日、ライブに出よう」


「えっ!?」


「知ってるでしょ? 七月七日に『バーチャル七夕フェスタ』っていうそこそこ大きいイベントがあるの。色んなブイチューバーが歌ったりするやつ」


「し、知ってるけど……でも、もう二週間前で、既に誰が出るかとか、全部決まってるんじゃ……、告知とかも出てるし。それに、まだマクアが出られるようなイベントじゃ……」


 そのイベントに出るブイチューバーは、皆『マクア』より人気も知名度も高い者ばかりだ。


「そのことなんだけど、元々このイベントに出演するはずだったブイチューバーの一人が、何かの事情で出られなくなったらしくて、枠が一つ空いてるんだよね。歌う曲は一曲だけで、もう何を歌うのかも決まってる状況なんだけど、そこを誰かが埋めないとまずいらしくて。——で、このイベントが『ミリオンスカイ』も運営に関わってるのもあって、その話が昨日僕にまで回って来たんだよね。もし丁度よさそうなブイチューバーがいたら、声をかけてくれないかって」


 昨日、カフェに行った時、奏太にかかってきた電話のことを思い出す小夢。


「それを聞いた時、僕は言ったんだ。理想の子がいるから、明日の夜まで待ってくれって。それまで、その枠を埋めないでくれって」 


 昨日の時点での明日の夜。つまり今日の夜。そして今が、その夜だ。


「え……、それって」


 小夢は驚いたように奏太を見る。しかし奏太は、「どうする?」とだけ言って、ただ薄い笑みを浮かべるだけである。


 小夢は、目の前にいる少年の底知れなさを感じた。

 一見どこにでもいそうな風貌の少年。ふとした瞬間に忘れそうになってしまうが、その正体は今や総数四万を超えるブイチューバーたちがひしめくその世界に置いて、最上位に立つ者の一人——『慈愛天使子』の魂なのだ。


 小夢が再び胸に抱いた〝夢〟を叶えるという事は、目の前にいるこの人物も越えるという事でもある。


「やる。——やりたい」


 小夢は拳を握りしめて、真っ直ぐ奏太を見つめた。


「おっけい。じゃあ、そう連絡しておくね。根上さんの電話番号も教えていいよね」


「う、うん、大丈夫」


「じゃあまたしっかりとした連絡がそっちに行くと思うから。一応連絡が来たら、僕にも教えて」


「わ、わかった。でも、その、奏太くん、私……、マクアの3Dモデル持ってなくて」


 小夢がブイチューバーの『小悪魔マクア』として活動する時に使っているのは、動きがかなり制限される2Dモデルである。

 一方、ライブイベント等に出演するブイチューバーが使うのは、現実リアルとほぼ同じような動きを再現することのできる3Dモデルがほとんどである。小夢はそれを持っていない。


 そしてモデリングなどの技術を持っていない小夢が精巧な3Dモデルを手に入れるためには、しかるべき所に依頼をする必要があり、その費用も、完成までにかかる時間も馬鹿にならない。

 どう考えても、あと二週間で『マクア』の3Dモデルを用意することは不可能である。


「あぁそれは大丈夫」


 が、しかし、それは何も心配いらないと、奏太はあっさりした口調で言った。


 奏太と積極的に関わり始めて、まだ一週間足らずという所であるが、小夢は奏太の次の言葉が予想できる気がした。


「マクアの3Dモデルはもう作ってもらってあるから、明日取りに行こう」


 この少年に常識を求めてはいけないと、小夢は心の底からそう思うのだった。




 翌日の月曜日の放課後、小夢は奏太に連れられて隣町のとあるマンションを訪れていた。

 見るからに高級と分かる高層マンションである。奏太はマンション入り口に立つと、慣れた手付きでインターホン横にある機械を操作すると、誰かと何か話していた。やがて機械の駆動音と共に、入り口のロックが外れる音が鳴る。


 奏太は振り返って小夢の方を見ると、「じゃあ行こうか」とどこか楽しげに言って、扉を開けた。

 小夢は奏太と共にエレベーターでマンションの最上階付近にまでやってくる。


 エレベーターから降りてすぐの所にある『七海』という札が付いている扉の前に立つと、奏太はインターホンを押した。澄んだ音が鳴り響き、スピーカーから女性の声がした。


『あ? 奏太か?』


「はい」


『そうか、じゃあ勝手に入って来い』


「いや七海ななみさん、ここオートロックなので入れません」


『がんばって入って来いや』


「むりです」


『チッ! めんどくせーなぁ』


 やけに荒々しい舌打ちが聞こえて、通話が途切れる。

 その後すぐ乱暴に扉が開けられ、中からタバコを咥えた女の人が出て来た。

 腰にまで届きそうな長い黒髪のジャージ服姿の女性だ。目付きが鋭い美人だが、その下にできている大きなクマが余計に彼女の目付きを悪く見せている。


 彼女はガシガシと頭を掻いて、気怠そうな雰囲気を漂わせながら、奏太を、そしてその背中に隠れている小夢を見る。その女性——七海と目が合って、小夢はビクリと肩を震わせる。


「そこのちっこいのが例のブイのやつか?」


「ええまぁ、そうです」


「見るからに覇気のなさそうなやつだな。それはテメェも一緒か。まぁいいや、入れ入れ」


 ぶっきらぼうに言って、七海は家の中に戻っていく。奏太と小夢はそれに続いた。

 玄関付近には缶ビールや酎ハイの空き缶が大量に詰め込まれたゴミ袋がいくつも散乱していた。タバコのにおいが至る所に染みついている。


 ゴミ袋によって狭くなっている廊下を慣れた調子で進んでいく七海と、それに続く小夢と奏太。七海は突き当りの部屋の戸を開け、中に小夢たちを誘う。


 その部屋の中は、機械だらけだった。至る所に機械が置かれ、コードが入り組んでおり、光がチカチカと点滅している。


 七海は一番奥の大きなディスプレイの前にあるゲーミングチェアに腰掛けると、グルリと回転してこちらを向く。そしてスラリとした長い脚を組んだ。


「ほら、そんなとこに突っ立ってないでてきとうなとこに座れ」


「七海さん」


「んだよ」


「座れるところがありません」


「そうか。じゃあ突っ立ってろ」


「はい」


 七海は隣にあるテーブルに乗っている灰皿に咥えていたタバコを押し付けると、新しいタバコに火をつける。白い煙を吐き出している七海を見て、小夢が隣の奏太におずおずと尋ねた。


「あ、あの、奏太くん……この人は……」


「昨日言ったように、主にブイチューバー関連の仕事を請け負っている3DCGモデラーの七海さん」


「いやそれは聞いたから知ってるんだけど……」


「七海さん」


「んだよ」


「彼女に七海さんのもう少し詳しいこと話してもいいですか」


「好きにしろ」


 奏太は頷くと、七海の方を手で軽く示しながら、小夢に向かって言う。


「あの人は七海ななみ星宇宙きららさん。星に宇宙って書いてきらら。下の名前で呼ぶと拳が飛んでくる。二十七歳。来月二十八歳。独身彼氏ナシ。好きな食べ物はシュークリーム。最近の悩みは——」


 その瞬間、凄まじい速度で中身が詰まったタバコの箱が飛来して、奏太のこめかみに命中する。


「バカかてめぇは!? んなこと話してどうすんだよっ!」


「いえ、七海さん初対面の人からよく怖がられるイメージがあるので、まずは親しみを持ってもらおうかと」


 少し赤くなったこめかみを押さえながら奏太が言う。


「余計なお世話だ! ぶっころすぞテメェ!」


 七海は怒号と共にまたタバコの箱を投げつけ、精密なエイムで奏太の額を撃ち抜いた。額の真ん中を赤くした奏太が頭を下げる。


「すみませんでした」


「普通ブイやってる奴にアタシのこと話すなら『星空ヒトデ』からだろうが!」


「ではその話から、と言っても、根上さんなら知ってるかな」


 その名前を聞いて、小夢は素直に驚いていた。


「『星空ヒトデ』って、あの……?」


「うん、そう」


 『星空ヒトデ』というのは、既に引退したブイチューバーの名前だ。ブイチューバー黎明期にデビューした〝美少年〟で、男子層からも女子層からも大きな支持を得ていた。

 中性的で無垢そうなビジュアルと、それにギャップのある歯に衣着せぬズバズバした物言い、ゲームの腕がプロ並みに上手いこと、そして3DCGモデリングをはじめとしたPC関連の卓越した技術を生かしたバーチャルの世界ならではのエンタメ作りが人気の理由だった。


 しかし、ブイチューバーとしてのコンテンツが広がりを見せ、良くも悪くも安定した時期に入った辺り——元々動画のアップを主な活動としていたブイチューバーたちの主流が、生配信という形に変わり始めた頃、突然引退という形で『星空ヒトデ』は表舞台から姿を消した。


 その魂が、目の前にいる女性だというのか。


 確かにそう言われてみれば、声の質や口調、言動が『星空ヒトデ』とそっくりである。


 小夢は驚きに目を見張って、七海のことを見る。そんな小夢の視線に、七海は小さく舌打ちをした。


「本当に、そうなんですね」


「あぁ、そうだよ。イメージと違うか?」


 むしろイメージそのままだったが、小夢は黙っておくことにした。


「星空ヒトデさんの引退は……ショックでした。でも、まさかこんな所で……」


 小夢がそこで言葉を切ると、七海は若干きまりが悪そうな表情になる。


「……悪かったよ。まぁでもあれ以上アタシは『ヒトデ』をやれる気がしなかったんでな。物好きのファン共の夢を壊しちまう前に、『星空ヒトデ』を産んだアタシが責任をもってアイツを殺した。それだけだ」


 一体なぜ、と小夢は口を開きかけたが、口に出す前にその言葉を呑み込む。


「テメェ、名前は?」


「あ、す、すみません。私、根上小夢です」


「小夢、か。で、小夢がやってるブイの名前が『マクア』だっけか」


「は、はい! そうです」


「はっ! じゃあせっかくこうして顔を合わせてからには言わせてもらうけどな。テメェがやってるあの活動はなんだ?」


「え」


「わざわざブイチューバーを名乗ってやることが、二次元キャラの絵を貼っつけただけの、ゲームやらへったくそな歌やら世間話だ? そもそもだ! テメェがやってるあのキャラは『小悪魔』だろうが! で? 設定が『地球を支配しに魔界からやって来た美少女小悪魔』だったか? どこがだよ! 悪魔要素どこだよ。テメェがやってる配信の悪魔要素、貼っつけてちょっと口パクするだけのキャラの〝ツノ〟オンリーじゃねーか! ふざけてんのか?」


「う……」


 痛いところを突かれて、小夢が押し黙る。小夢がやっている『小悪魔マクア』は、悪魔らしからぬ丁寧な言動というギャップでウケている節もあるのだが、別にそれは狙ってやっている訳でもない。


「まぁでも、テメェみたいな奴がいくらでもいるのが今のブイ界隈だよ。バーチャルも仮想もへったくれもねえ。ただの絵貼っつけてゲームやってるヤツなんてブイチューバー以前からいくらでもいんだよ! ただ流行りに乗ってブイチューバーを始めて、中身の人間を隠そうともしないわ、当たり前のように現実リアルの写真ツイッターにあげるわ。バーチャル舐めてんのか!? それに加えてだ! ブイチューバーって存在に対するリスペクトも無しに好き勝手自分本位にやりやがって、妙な騒ぎを起こして、〝ブイチューバー〟って看板そのものの価値を貶めてる奴もいる。ふざけんなよマジで、ぶっころすぞッ! ——チッ、まぁそういう意味ではテメェはまだマシかもな」


 七海の言っていることは事実だ。


 実際、様々な形で〝ブイチューバー〟というものが広まった昨今、色んなタイプの者がいる。


 視聴者の夢を壊さないよう仮想バーチャルの設定を徹底する者、

 現実リアル仮想バーチャルでの両方の姿を持っている者、

 ただの人間が仮想バーチャルの皮を被っているだけの者、


 仮想バーチャルの世界に住み、あくまで電子世界の存在と名乗っているにも関わらず、実写で動画を取ったり、実写の写真を上げたりと、現実リアルの色を一切隠さない者(そういった実写のモノを、無限ピクセルの画素数の電子物質という体で扱っている者もいる)、


 果てには、ぬいぐるみやマスクを被ってバーチャルの世界からリアルの世界に飛び出してくる者もいる。


 〝ブイチューバー〟が流行しだした頃——まだVtuberブイチューバーという名称が無く、〝バーチャルユーチューバー〟と彼ら彼女らが呼ばれていたその時には、小さくまとまっていたバーチャルの世界が、今となっては収拾がつかないほど様々な形に分かれている。それが良い事なのか悪い事なのか、人によって思うことは違うだろう。


「つまんねえんだよ。今のブイ界隈は。せっかくバーチャルっていう好きに理想を叶えられる世界にいるのに、ほとんどの奴らが今までと同じことしかしてねえ。もったいねえ。ブイが流行り出した頃にはその夢が見えてた。色んな奴らが色んなことを利益度外視で好きにやってたよ。あん時はワクワクした。だからアタシもブイを始めたんだ。でも結局こうだ。酷い所じゃ、アホなオタクから金をむしり取ってるバーチャルキャバクラ、なんて言われたりもしてる。一番楽なやり方で、一番多く金を稼げる方法が横行するのはどこの場所でも一緒だが、空想や理想を謳ってる仮想バーチャルまでそんな世知辛くて薄汚ぇ現実リアルに侵食されてるのを見ると反吐が出るぜ」


 七海は吐き捨てるように言って、「まぁ、全員が全員そうじゃないってのは分かってるんだがな」と付け足し、一瞬だけ奏太に視線を向けた。


「だけどアタシはそんなつまらねえモノばかりが見えちまって、白けたんだよ。だから『ヒトデ』を殺した。これ以上こんな酷い場所にいる『ヒトデ』を他でもないアタシが見てられなかった」


「アタシのエゴだよ」とどこか寂しそうに言って、七海はまた新しいタバコに火を付けた。


「わ、私は……、今のブイチューバーも、好きです」


 その時、小夢が七海の目を真っ直ぐ見て、言った。


「あ?」


「確かに、七海さんが言っていることは分かります。私も、似たようなことを思うことがあります。でも、今のブイチューバーの世界を、私は楽しんでいます。楽しいゲームをする人が居て、面白い話をする人が居て、バーチャルならではのことをする人が居て、色んな人がたくさんいて、好きなブイチューバーさんたちもたくさんいます。尊敬できる人もいます。私は、たぶんちょうど『星空ヒトデ』がデビューした時くらいから、ずっとこの世界を見てきました。でも、嫌いだった時はありません。確かに見たくないものが見えたり、嫌な事が起こったりすることもあります。けど、それ以上に好きな所があります。昔のブイチューバーも、今のブイチューバーも、そしてきっとこれからのブイチューバーも大好きです」


 七海は鋭い目付きで小夢のことをジッと見ていたが、小夢が肩を震わせながらも視線を外さないことを悟ると、ふっと口元に微苦笑を浮かべた。


「……ま、そういう考え方が一番賢いかもな」


 小さくそう呟いて、七海は立ち上がった。


「別にアタシは今のブイチューバーを見限った訳じゃねえ。じゃなきゃこんな仕事してねえよ。ついてこい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る