不安──あるいはボールの行方

中田満帆

不安──あるいはボールの行方


   *


 猟銃の発射音が聞えた。北野の高台のほうからだった。たしかに聞えたはずだのに、だれも110番に電話をしないようだった。とはいえ、おれもしなかった。猪でも撃ったのかも知れない。時間は10時半、すっかり明るくなった陽差しのなかで、おれは窓をあけ、そとを確かめる。歩いてる人間はない。生きてる人間もない。この世が地獄や煉獄と地つづきだってことをおもい知らされる。どうしておれがこの場所に存在してて、別の場所にはないのかどうかってことを考えてみる。たわいもない戯れごとだ。やることがない。とりあえず、インディー雑誌をだしてる某氏にメールを送った。出版物、その販売ルートの確保について助言を乞うた。おれはもう数年、じぶんで自身の本をだしてるけど、いまだに販売ルートを持ち合わせてなかった。オンデマンドのリンクを貼って、だれかが注文してくるのを待ってるだけだった。なまえと作品を売るためにしなければならないことのすべてを学ぶ必要があった。返事を待つあいだに図書館へいった。予約の本を受け取って、地下鉄で帰る。

 けっきょく、その日返事はなかった。そういえば写真集専門の本屋にも自主制作の扱いについて、あらたに希望するメールを送ったものの、もはや1週間過ぎても返ってや来やしない。ばかにしてやがる。****、おまえについていってるんだぜ。それに××××だ。サイトの問い合わせからメッセージを送ったものの、沙汰止みになっちまってやがる。鼻につくほどの俗臭がしてる。まるで他人の屁のなかで呼吸してるようなありさまだった。つまるところ、おれはだれにも相手にされてない。だからこそ、ワッツがあって、砦があるんだぜ。救いがたいことはみな、バタートーストをオーブンにかけるほど容易いものんだ。まるで神の導きがあるようにふるまったところで、じぶんの足に躓いて転ぶのが精々の恩寵でしかなく、そして見えない相手にむかって、その腕をふるって、鉈を降ろすようなマネをしたら、今度はじぶんの足を断ち切ってしまいかねない。だいたい、おれがこの席に坐って、時間を過ごしたところで、なんの物語も降って来やしないのだから。おれはジョーン・オブ・アークを聴きながら、無為の時間を過ごし、やがて暗くなるまで過古の記憶を、あらゆる登場人物たちをザッピングしてた。それからどうにか歩いて、森まで坂を登ったというわけだ。

 じぶんでもよくわからない。傾斜の厳しい北野町に這入って、おれはその深部まで踏み入れた。上流階級の墓場のような邸宅、そして不案内な隘路を越えて、繁みのなかに這入っていく。するといるんだ、その男は。ぬかるみのなか、ゴム長にベストを着、散弾銃の口先を下げて、立ってる。おれが持つ懐中電灯にはまったく動じず、そっと発てた人差し指を唇に当てて、"音を発てるな"と警告した。

 なにもいえないまま時間が経った。男は叢を掻き分け、標的にむかって歩き始めた。そして引き金を2度引いた。だれかが悲鳴した。よく見れば猟銃じゃなかった、空気銃だ。それでもひとを傷つけるものには変わりない。男は口をひらいた。

 「もう喋ってもいいぞ」

 おれはじぶんの声を忘れるところだった。

 「こいつを見てみろ」

 胸を掻き毟りながら、痙攣する女が斃れてる。

「いままで仕留めたものより小さい、でも狂暴だ」

 若い女だった。もっといえばそれなりに好みの女だった。でも、もうじき死ぬんだ。おれは怖いとも、悲しいともなく、そいつを眺めてた。

 「待ってろ、いま介錯してやる」

 男はベストのポケットからナイフをとって、かの女の首を切りつけた。うまく頸動脈をやったらしい。血のしぶきが2フィートはあがった。かれはうまいこと、血を避けて、あとずさった。それから女を猫車に乗せて、運びだした。森のそとへ、着いていくとピックアップトラックが一台停まってる。アメ車だ。男は荷台に女を乗せ、ロープで固定すると、血が洩れないように毛布とウレタンを配置し、シートをかぶせた。そして葉巻を咥え、火を灯しながら語る。

 「ここらでずっと仕事をしてるんだ、こいつらはみな逃亡者だよ」

 「どっから逃げたんです?」

 「実験室と政府、その両方だって聞いてる」

 「どうして殺すんです?」

 「いや、おれにもよくわからないだ。ただ殺せばいいといわれたし、おれも殺しをやるのを躊躇ってるほど金持ちじゃないってことだ。この車だって、銃だって、みんなやつらから借りたんだ。だから、こいつらが罪のない一般人だったとしても不思議じゃない」

 男は火をつけたばかりの葉巻を藪へ投げ、そして唾を嘔いた。

 「なんですって?」

 おれは驚いて問いただした。

 「じゃあ、あなたの殺しを正当に許可した組織の見当もつかないんですか? それじゃあ、いま捕まって、あなたが縛り首にされたとしても、文句のつけようだってないってことなんですか?」

 男は表情のない顔で、おれの声を聞き、いった。

 「そういうことだ。――おれには余地がない」

 おれはもうこの男に興味がなくなってしまった。帰ってしまおうと、うしろをふり返った。そのとき、男がおれの背中を叩き、おれにいった。

 「まあ、まあ、そう焦んなさんな。1杯ひっかけにいこうぜ」

 「いいでしょう、奢りなら」

 「心配するな、報酬はたんまり貰ってるんだ」

 おれたちはまず男の家にいった。家は岡本の日栄橋を渡ったところにある。そこで死体を柩に入れて、車庫に置いた。朝になれば業者が撮りに来るという。それからはかれの馴染みで酒を呑み、やがてかれが引っかけた女と一緒に、おれのアパートに雪崩れ込んでしまった。こんなはずじゃあ、なかった。ふたりはおれのベッドを占領したため、おれは台所のまえで毛布をかけて眠った。明け方になって、ふたりはおっ始めた。女が尽くす、男が褒美をやる、そのまま3回もイッて、また眠った。


   *


 ふたりを追いだそうとしたときだった。男はおれに鍵を渡した。それは車と家の鍵だった。おれはそんなもの欲しくはない。

 「でてけよ!」

 「やだね」

 「どういうつもりだ?」

 「今度はおまえさんだ、おまえさんが殺せばいい」

 「おれが? どうして?」

 「もういやになったんだよ。これからはここで暮らす。ここで眠る。もう殺人とはおさらばだ、ハッハッハッ!」

 怒りに震えたがなにもいわなかった。おれはおもてへでた。やつの車に乗ってやつの家にいった。車庫をあける。柩はもうなかった。その代わりに空の柩があたらしく用意されてた。銃を確かめる。おれにはどうしようもない。とりあえず、腹が減ったから台所で喰いものを漁った。ちょうどいい具合の豚バラの燻製が仕上がってる。おれはそいつを喰いながら、これからについて考えた。アパートに帰れない以上、おれは作家になり得ない、ここにいる以上はそのうち命令でも受けて、ひとを殺さなきゃならない。どうしたわけか、たかが森に入っただけで、進退窮まってしまってる。そのとき、電話が鳴った。おれはなんと名乗ればいいのだろう。あの男のなまえも知らない。でも、でるしかない。

 「もしもし、きみがあたらしく就いた捕獲者かな?」

 「そうらしいが、おれの意志じゃない」

 「まあ、まあ、それもけっこうなことじゃないか」

 「ぜんぜん、けっこうじゃないね。おれはアパートも追われ、ここに来るしかなかったんだ。くそ、いったいなにがどうなってんだ?」

 「きみは現実を受け入れることだよ。それがいやなら前任者を殺して、柩に入れることだね」

 「どういうことだ?」

 「じぶんで決めることだよ」

 電話は切れてしまった。おれは豚バラを喰い尽くした。それからタリスカーを呑み、やつの葉巻を吸った。コロナ・スマトラだった。煙のなかで、おれ自身を燻製にしてしまいかねない事態が進んでる。おれはじぶんの室に電話した。

 「もしもし、おれだよ」

 「で?」

 「取引きしねえか?」

 「なんの?」

 「おれはその、政府と実験室の連中と戦いたいんだ」

 「やれば?」

 「あんたの協力がいるんだよ」

 「協力ねえ・・・ ・・・」

 なんとか、おれはやつを誘いだした。そしてガレージの万力で後頭部を打撃した。1発じゃあ、死ななかった。それから5発ほどやってようやく、くたばった。あらかじめ、ビニール袋をかぶせておいたから、血のほうは大したことにならなかった。引きずって、柩に入れ、明け方まで待った。やがて車の音がして、停まった。ひとが降りて来る。黒服の男たちが柩を持ち上げる。そして車に運ぶ。おれはやつの空気銃を構え、そのなかのひとりを撃った。片方の足が血で染まった。

 「おれも同行する」

 やつらはなにが起こったのかもわからない。眼をぱちくりさせて、こっちを見てる。白いワゴンのまえで立ち尽くしてた。

 「やめておけ、きみは得をしないぞ」

 「どうだろう?」

 「なにが目的だ?」

 「殺しを指揮してる張本人に会いたい」

 「会ってどうする?」

 「金を頂くんだ、これまでのことを口にしないために」

 おれは助手席に坐った。やつらは観念して車をだした。車は神戸を過ぎ、六麓荘にむかった。ネットの画像でしか見たことのないところだ。いったい、ここでなにが待ってるというのか。おれはじぶんが大物にでもなった気分で、車窓を眺め、スマトラを吸う。ここは禁煙だと運転手がいった。おれはかまわずに吸った、吐いた、吹かした。頭が鈍くなっていく。気分がロウに入る。まるで陶酔でも憶えたように、くらくらと頭蓋をゆらす。そのとき、後部座席から物音がした。声をあげる閑もなく、首に紐が絡み、呼吸がとまる。おれは慌てて運転手を蹴りあげた。車は縁石に乗りあげ、大きく跳ねあがる。メカジキのように勢いよく飛びあがる。坂の中腹で、急ブレーキがかかり、紐がゆるくなった。紐を解いて、うしろの男を撃った。急所は外してある。

 「おい、眼を醒ませ」

 運転手はいったんバックしたあと、車の方向を正し、坂を上り始める。なんてこった。やつらはおれを殺すつもりなんだ。まあ、そんなことは最初からわかってることだ。やがて防風林に囲まれた、U字型の建物に出会した。コーヒー・カラーの壁、丸い窓、5階建てで、屋上は庭園になってる。おれたちは降りて、屋敷にむかった。U字のちょうど底辺の部分に門がある。ひとりが呼び鈴を押す。挨拶と用件を述べる。やがて庭石を渡りながら、小さな執事らしいのが歩いて来る。

 「お待ちしてました。あたらしい捕獲者の方ですね?」

 「そうらしいですが、くわしいことはなにもわかっていません」

 「これから主がご説明致します」

 どうぞ、といわれ、歩きだした。おれのほかはだれもついてこない。不安になったが、どうでもよかった。庭石は55個あった。玄関口につく。靴はそのままでいいと執事がいうから、おれはそのまま土足であがった。


 「お飲みものはいかがですか?」

 「スコッチ・アンド・ミルクを」

 「銘柄はいかがなされますか?」

 「馬でいい」

 「それは、それは、謙虚なお方ですね」

 微苦笑を浮かべてかれはおれをエレベータまで連れてった。屋上の庭園に主がいるということだ。――お先におあがりくださいといって、かれは姿を消した。おれは屋上にいき、植えられた観葉植物、ハーブ、そして桔梗の花の群れを見る。どうしたものか、花は桔梗しかなかった。いったい、どんなやろうが人間狩りを企てたのだろう。そうおもいながら、U字の上を一週した。そして小さなサボテンの鉢植えに手を触れようとした矢先だった。

 「待って、そのサボテンには毒がある」

 ハーフ・トレンチを着た女が、おれに声をかけた。動揺と冷酷さが混じり合ったようなおもざしでおれをぢっと見てる。

 「あなたですか、殺戮の司令塔は?」

 「なんていい方を!」

 「でも、現実に起きたことだ」

 「そうね、でもあなたもひとを殺したんでしょ?」

 「あいつは仕方がなかった。おれを殺しに招き入れた挙げ句、アパートまで奪いやがったからだ。どのみち、長生きはできない質だったろうぜ、だってあいつはじぶんが殺す意義さえも持ってなかったからな。生活のため?――ひどいいいわけだ」

 「それで、あなたはなにが知りたいの?」

 「実験室、政府、逃亡者、捕獲者撰び、すべての計画、そしてあんたとの関係だ」

 「素直に教えるとおもって?」

 「おもっちゃいない。条件がある」

 おれは一切を口外しないことを誓い、かの女の答えを待った。長い時間があった。おれはカウチに坐って、吸いさしのスマトラに火をつけ、重い溜め息をついた。ひとの死についていままで本気で考えたこともなかったような気がする。おれはやつを殺すんじゃなかった。でも、なにもかも遅い、遅すぎる。

 「わたしたちの組織の狙いは、人工的に無垢な天使を創りだすことよ」

 「なんだって?」

 「無垢な天使よ。生まれるまえから実験室で育成し、最高の教育を施し、抑圧と俗臭のない環境で育てた天使たちを世界に送り込むことにある。でも、わたしたちの政府の力ではなかなか、それもうまくいかない。それに天使たちもそのままではいられなくなって逃げてしまう。秘密を知られてはいけない、だから殺す。わたしの子供もいまは実験室にいる、これは決して殺戮ゲームのためなんかじゃない」

 「あんた、妄想狂だろう。くだらない話だ。殺しの動機にしてはできすぎてる。ほんとうのことをいってくれ」

 「なら、こういうのはどう? わたしたちは一般社会から疎外されたものを殺人者に仕立てることで、あらかじめ社会の不安定要素を減らしてるとしたら?」

 「そうだとしたら、おもしろい。しかし、そんなものはなんの利益にもならないね。ばかげたユートピア思想だ」

 「なら、どういったら納得できるの?」

 「まあ、現実的にどうやっておれの身の安全を保障してくれるかってことだ。おれは好きで殺しをやったんじゃない。身を守るためだ。今後も敵が現れるたびに殺すような、殺されるような現実は欲しくない。だから、おれについての情報を抹消し、おれの生活をもとに戻してくれ、そして少しでいいから口止め料をくれればいい」    

 「なるほど、そんなことだったわけ?」

 「ああ」

 「なら、いま手つづきをしてあげる」

 女はでてった。入れちがいに執事が飲みものを持ってきた。スコッチと特濃牛乳、氷だ。まずは氷を入れ、濃いめに酒を入れ、そのうえから牛乳を注ぎ、マドラーでステアした。そして呑む。あきらかに酒は濃すぎた。でも、うまい。そのまま3杯呑んだ。こんなときにおれは警戒心を喪ってしまうんだ。薬が入ってたみたいで、おれは床に手をついて、米つきバッタのように全身で撥ね、そしてエレベータのボタンを押した。かの女が現れる。おもったよりも、画質がいい。画角も申し分ない。4Kウルトラの女だ。電熱器で即席麺をつくる下着姿の男が、筋肉を見せびらかす。おれは驚いて、土間をめぐる通勤快速で、手を切ってしまう。それでもスコッチがまだ黄金だからか、緑色になったかの女の髪が上映できない。信号燈の瞬きのなか、枯れ葉が舞い、スケルツォが流れる。おお、時よ、城よ。言葉なんか逃げて吹っ飛ぶだけのことだ。ふいに植物たちが振動する。これが最期の戦いなんだ。おれはふくらはぎからくるぶしまでダクトテープで武装し、いまジャックナイフの鞘を払った。


   *


 地下の実験室のなかには大勢の人間がいた。年齢も性別もばらばらなひとびとが高画質8Kモニターから流れる、高等数学の講義をみんなが聴いてる。どうやら三角法についてだった。おれにはまったくわからない。でも、だれもがノートをとって、勉強してる。いったい、なんなんだ。おれはまだジャックナイフを握ってる。天使たちを殺すわけにはいかない。――わたちたちの天使、気に入って頂けた?――おれのうしろに女が立ってた。

 「気に喰わないね。まるで鼡だ」

 「まあ、失礼ね。これが人類の要なのよ」

 「いいだろう。――おれはぜんぶ忘れてやる」

 「そうすることね」

 おれたちは2階にあがった。書斎に入って、かの女から金を受け取った。そして企てのすべてを聴いた。でも、もうおもいだせない。かの女の唇しか、記憶にはない。かの女の顔さえ、もはや憶えてはない。どんな髪型だったのかも。

 おれは森のなかで標的を見つけた。空気銃を構え、伏射の姿勢で、首を撃ち抜いた。いったい、なにがどうなってるのか。おれはどうしてひとを殺してるのか。かの女と取引きしたはずだ。金だって懐に入りきれないほどにある。でも、これが保全活動なんだ。暮れる日のなかで、幽かに光るもの、流れる血の光沢、おれは15歳くらいの少年を猫車に乗せて、車へと運んだ。でもおれには免許がない。かの女には失効したとはいわず、はじめからない、運転できないといってあった。だれかが車を運転しておれを取り残した。手をふる。それからアパートに帰る。ここはどこだ? どうやら兵庫区のようだった。なんとか列車に乗って、三宮で降りた。地下鉄で新神戸にいき、アパートの室に帰った。だれもいない。棄てられたコンドームが悪臭を放ってる。ごみ罐の蓋を閉じた。 

 時間は17時半、すっかり暗くなった夕暮れのなかで、おれは窓をあけ、そとを確かめる。歩いてる人間はない。生きてる人間もない。この世が地獄や煉獄と地つづきだってことをおもい知らされる。どうしておれがこの場所に存在してて、別の場所にはないのかどうかってことを考えてみる。たわいもない戯れごとだ。やることがない。とりあえず、映画を観ることにした。古い洋画をいっぽん、あたらしいものをいっぽん。後者にはハリー・デーン・スタントンが主演してた。最期の出演作だ。好い役者だった。かれはブコウスキーの友人でもあったっけ。どうにかこうにか、時間を潰して、夜を過ごした。あしたで、9月も終わり。ようやく金が入ってくる。来月はとにかく委託販売を始めよう。おれの作品をひろめていくしかない。喰っていかなきゃならないんだ。福祉は削減されていくだろうし、就職するには歳を喰いすぎた。特にこれといった技術も持ち合わせてない。そう来ればできることは限られて来る。そういえばかの女は毎月金を送るといった。おれの才能に賭けてみるとも。ほんとうのところはなにもわからない。ただいまは安い酒を買って呑んでる。無難にジョニ黒やりながら、屁をこく。まちがいだかけのおれの人生に乾杯だ。世界はおれなんか待ってないのは、とうの昔にわかってる。けれども、生きる以上は書かなくちゃならない。ほかのひとびとよりも10年は遅れてしまったという意識、さもなくば終末が訪れるまえに生まれてしまったという意識がおれを苛む。過古から未来へと、触れるのが怖ろしくなるほどの寂滅の響きが、おれの足許を掬う。生まれるという事実、その無欠なる欺瞞とともにおれは人類を蔑む。天使たちはそんなふうに考えたりしない。かれらかの女らは無欠なる欺瞞を、おのれの無垢の源泉と捉え、楽園のなかに棲む条件と考える。ばからしい、思想家ごっこなんかしてる場合じゃない。おれはまたしてもひとを殺したんだ。でも、もうやらない。電話がかかってきた。女の声がして、おもわず、おれは「もうやらないからな!」と呶鳴ってしまった。

 「え?――あのう、こちら電気料金の件でお電話したんですが?」

 「あ、そうですか。すみません、取り込み中でして」

 「では、きょうは?」

 「いえ、またいずれかに」

 おれは金勘定をした。ざっと1千万があった。惜しむらしくは、それは一千万円分の普通紙だったということだ。おれは紙を可燃物の袋につめて玄関に置いた。じぶんの存在の空虚さを埋めることがどうしてもできない。いくら過古を漁っても、おれの慰みになるような声や、人物はいなかった。どうやら薬が切れてしまったらしい。

 あくる日の未明、おれは六麓荘にむかった。かの女を縛りつけ、執事を閉じ込め、地下の天使たちをぜんぶ逃がしてやった。かれらかの女らは屋敷から世界へと放たれ、おれは女から金をせしめようとした。しかし、そのとき歴史が呼吸した。恐慌が起こり、ひとびとが獣のように雄叫びをあげ、ドクター・ペッパーの看板がすべて落下する。転覆し始めた地平で、なにもかもが誤解と錯誤の種になる。体感幻覚で苦しんだ、かつてのおれのようにみんなが身体の異常を訴える。判事は不在、検察官は非在を表明し、裁判所が架空になる。そしてついに、第三次世界大戦がはじまる。要するに記憶を取りもどした、このおれが地下組織に加わるまでに時間はそうかからなかったってことだ。


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不安──あるいはボールの行方 中田満帆 @mitzho84

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