最悪という名前の普通
ザルギッタという農村で、キッキリキ亭という安宿に泊まった、俺とケットシー族のマヌー。
油断していた……!
宿の亭主のことを、妖精ショウを見た客、あたしのファンだと思って、気を抜いたのがマズかった。
ふざけんな、これでもくらえ!
「
バチッバチッ!
呪文と共にあたしの指から放たれた火花が、亭主の鼻に直撃した!
「ひぎぃ!」
悲鳴を上げたセクハラ親父はあたしを床に叩きつけ(
「……やっちまいましたにゃあ、亭主さんよ。あんたはもうオシマイにゃ」
「え、えっ?」
「怒った妖精の呪いを、もろに受けてしまったのにゃ……」
「呪い……呪いってまさか、死ぬ……?」
「死よりも!」
デカ猫は前足、じゃなかった両手を広げ、芝居がかった声を出した。
こいつも芸人だ。
「死よりも恐ろしい運命が、お前を襲うだろうニャ…… 外を歩けば汚物に足を突っ込むにゃ。家にいればドアに手を挟まれるにゃ。包丁を持つときは刃のほうを持ってしまうにゃ。何も起きなかったら後でもっと酷いことが起きるにゃ。それが永遠に続く……かの美しきハイエルフ様ですら、うっかり耳を切り落としてしまったとも言われてるニャ」
「ひ、ひいっ!」
怯えきった亭主は四つん這いになり、カサコソと部屋を飛び出していった。
ゴロゴロゴロ、ドターン!
どうやら階段を転げ落ちてしまったらしい。親父本人やら従業員やらの騒ぐ声が聞こえたが、やがて静かになった。命に別状はないようだ。それにしても……
妖精の呪いは恐ろしいよなあ~
かけた覚えはないけどね!
ひと息ついた、あたしは……
急に寒気を感じて、きつく毛布にくるまった。
あれっ?
どうしたんだろう……震えが止まらない。
あ、もしかして……
ああ、そういうことか……
「何をガタガタ震えてるんにゃ? あいつはもう行ったにゃ」
あたしはマヌーの顔を見上げて、今の気持ちを告げようかどうか迷った。正直言って、男として、すげー恥ずかしい。でも、こいつには、言っとかないと……
「笑うなよ」
「たぶん笑わないにゃ」
「怖い……」
「はあ?」
マヌーは大きく猫目を見開いて、俺を見おろした。
「すごく、怖くなった」
ああ、
「おいおい、クライン、冒険者や美しきハイエルフ様に嚙みついたお前にゃら、あんな親父、スライムの屁でもないはずニャ」
「でもさ……冒険者とか、ハイエルフがもし宿屋をやってたら、そこに泊まれるか? カネを払って、ぐっすり眠れるか?」
「そりゃ、できるワケないにゃ」
「そうさ。あたしは疑わなかった。あの亭主をそれなりに疑わなかった。命を預けられるほどじゃないけど、ここに泊まっても安全だろう、こんなセクハ……いや、こんな扱いまではしないだろう、って頭の片隅で思ってた。でも、違った……」
「……クライン、言いたかにゃいけど、これは普通のことにゃ。好きでもない女の尻をなでるうす汚れた男は、どこにでもいるにゃ。それで強気な女にひっぱたかれることもよくあることにゃ。お前は立派にやり返した、それがなんで怖いんにゃ?」
「普通、だからだよ……」
そう。
世の中のすべての普通のことが、普通の仮面をつけている。ふとした拍子に、その仮面が外れて、隠されていた牙を向けてくる。自分が持つ盾を破って。
そして、俺にとっては、他人の仮面は、むやみに外れやすく、自分の盾は、とりわけ薄いんだ。
小さい、から。
……俺が覚醒したキッカケも、普通の酔っ払いにイタズラされたからだし。
忘れるな。俺にとっては、誰もが巨人だ。
そして最悪なのは、この程度のセクハラが、
「わからせ」られてしまったんだ……
怖い。
家族ではない、普通のヒトが怖い。普通の男が怖い。
ただの暴力なら、ハイエルフや冒険者どもを相手するように、逃げることができる。準備して立ち向かうこともできる。もうそれを証明してる。だけど……
その暴力が怖いんじゃない。いきなり、普通に見えたヒトが牙をむくことが怖いんだ…… しかも、酷いことしてるって自覚すら無しに!
だから。
「マヌー」
「何にゃ」
「あたし、ちょっと浮かれてた。旅気分で油断してた。自分のスキルとかどうかとか言う前に、あたしが弱いことを何とかしなきゃ」
そうだ。オルゲン座長の言葉通りだ。
「あたしは盾が欲しい。盾になってくれるヒトが欲しい。できれば女のヒトで」
だから、最優先で。
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あいつだっ!
朝。背の低いケットシー族の客が、二階からよたよた降りてくるのを見て、キッキリキ亭の亭主トンマスはビクッと身を震わせた。妖精の連れは見当たらないようだが、魔法で姿を消しているのだろうか?
頭のコブはまだズキズキと痛んでいる。とにかく、妖精の呪いとやらを何とかしないと!
精いっぱいの愛想笑いを浮かべ、亭主は猫っぽい相手に猫撫で声を出した。
「ご出立でございますか? あの、こ、このたびはご迷惑をおかけしました。そのお詫びとして、お勘定のほうは……」
「もちろん、ちゃんと払うにゃ。ふたりぶん」
ケットシー族はキッパリと言い放った。
「ひっ、いや、あの……」
「妖精サマはご機嫌ななめニャ。ちょびっとのカネで誤魔化せるにゃんて、思わないほうがいいニャ。でも……」
「……でも?」
「ちょびっと頼み事を聞いてくれたら、ウンディーネに流してもいい、呪いは解いてやってもいい、と
朝になったら、例の件を亭主に相談してみよう。あれからマヌーとクラインは、色々と話し合って、そういうことに決めたのだった。
マヌーはクラインの
しかし、震えるほど嫌な目にあわされた相手のことを、逆に利用してやろうなんて思う女はそうそういないはずだ。そういうとき普通のヒト族のメスなら、逃げるか、無視するか、でなければ単にぶちのめす、のではないだろうか。
あいつはまったく、たいしたヤツだ。小さいクセに。
マヌーはそう思った。
「ええっ、あ、は、はい! 私に出来ることでしたら、いかようにも!」
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「うまくいったな」
「……どうかにゃ。こんな田舎の親父に、期待できるかにゃ~」
「知り合いがダメなら、知り合いの知り合いに当たればいいんだよ。さらに別のヒトを紹介してもらえばいい」
「そんなトレント長者みたいに上手くいくかニャ……?」
俺とマヌーは、駅に向かいながら小声で話した。息が白い。デカ猫のチョッキにあるポケット、その右ポケットには素の俺が入ってる。そろそろこの収納方法は辛くなってきたよ。腰が痛いぜ。
そして、マヌーの左ポケットには紹介状が入っている。
宿の亭主に書かせた、紹介状だ。
日用品ならともかく、
奴隷、いや、特職を売る商店も、例外じゃない、はず。
キッキリキ亭の亭主が書いた紹介状は、毎年夏に泊まるという商人宛のものだった。そのヒトは、この国、フリューゲル王国にある領都のひとつ、ハノーバで魔法小麦農場向けの特職を扱っているという。そういう場所で働くような特職にボディガードをまかせるのはどうかと思うけど、こちらはド素人、たとえ最初はつまづいてたとしても、まずは情報収集と割り切ろう。
「さあ、行こうぜハノーバへ。特職を買いに!」
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