きっと海の生き物だった

軒下ツバメ

きっと海の生き物だった

「鬱陶しいからいい加減そのずるずる伸ばした髪の毛切れって」

 トンネルに入り窓から見える景色が暗くなったことで向かいに座る相手に視線を向けると、邪魔だろうに一つにまとめることもなく無造作に伸ばされた黒髪が目にとまり、ついまた小言のようなことを言ってしまった。

 古めかしい電車のボックスシートに座っていると、何かの撮影のようにも見える無駄に整った顔をした男は、俺の言葉を聞くと鼻で笑った。

「俺には髪を伸ばす権利がある」

 口の端を皮肉げに持ち上げると、冷え冷えとした声音で太一は言った。

 幼稚園の頃からの腐れ縁である太一は、なまじ顔が良いせいで成長するごとに性格がねじくれ今では偏屈を絵に描いたような男になった。

 太一が良い意味でも悪い意味でも気楽に女の子と遊べる性格だったら支障はなかったのだろうが、どちらかというと神経質で考え込む性質だったのが災いして、面倒ごとに巻き込まれるたびに偏屈さが増していったのだ。

 もともと顔立ちも雰囲気も冷たい感じはあったが、内面は外側にも滲み出すようで年々パワーアップし、しかも何を考えているのか高校を卒業してから髪を伸ばしたことで最近は特に近寄りがたい空気を放出している。

 高校の頃は一般的な短さだったはずの太一の髪は、いまや肩甲骨のあたりまで伸びていた。手入れなどほとんどしていないだろうに無駄に髪質が良さそうなところは不思議だ。

「大学デビューで長髪にするってあんま聞いたことねえんだけど」

「ほっとけ」

 嘆息して太一はトンネルの壁しか見えない窓に視線を向ける。

 顔のことで騒がれてきたこともあって太一は目立つ格好をするのは好きではないはずだった。だからわざわざ目立つ長髪にするなんて何か理由でもなければしないはずだ。どんな理由があれば髪を伸ばすのかは正直分からない。でも太一は俺よりずっと考えて動くやつだ。正当な何かがあるのだと思う。けれど考えすぎてがんじからめになるやつだってことも俺は知ってる。

 心配しているのだ。これでも。

「佑哉」

 名前を呼ばれたことで思索から浮上する。

 顎をしゃくって太一は窓をしめした。ぐっと耳に空気がつまる感覚がしたかと思うと、ふっと、窓から光が入り込み一瞬で景色が入れ替わる。

 走り続ける電車の窓からどこまでものびる水平線が見えた。

「……海だ」

 春にたどり着く直前のやわらかな光を放つ太陽が、水面をきらきらと輝かせている。

 窓に手をかける。ぐっと力を入れて窓を開ければ、ほんのり冷たい潮風が車内に流れ込んでくるはずだ。

「寒いから開けるな」

 だが、ぴしゃりと太一から制止され想像を確認することはできなかった。

「俺たち以外に乗客もいないし、いいじゃん」

「俺が寒いから開けるなって言ってんだよ」

 渋々窓から手を離す。まあ、いい。海はすぐそこにある。逃げたりしない。

「本当に好きだな。何がそんなにいいんだか」

「理屈じゃないんだから仕方ないだろ」

 俺たちが育ったのは海のない県だった。山に囲まれた町で、海に行くまで早くても二時間はかかるようなところだ。

 学生にとって二時間かかる距離の交通費を捻出するのは簡単なことじゃない。家族旅行で幼稚園の頃と、中学生と高校生の頃で一回ずつ。俺が海に行けたのはたったそれだけの回数だ。

 海は、俺にとっていつも遠くにあるものだった。馴染みのある場所じゃない。両親のどちらかにルーツがあるわけでもない。二人とも地元で生まれ育ち結婚していた。

 何か特別な、世界が一変するような劇的な出来事があったわけでもない。海に対して特筆するほどの思い出も持っていなかった。

 だというのに、焦がれる。

 海が、自分の居場所だと、そう訴える声が自分の内側からわいてくるのだ。

「前世かなんかできっと魚だったんだ」

「馬鹿馬鹿しい。阿保なこと言ってないで降りる準備でもしてろよ」

 幼稚園児だった頃は、目をきらきらさせて話を聞いてくれたというのに冷たいことだ。これについては年齢がどうこうよりも同じことを聞きすぎてうんざりしている可能性の方が高いが。

 準備するまでもなく大した荷物はないが、数分後、電車は目的地の駅に到着した。黒のボディバッグを手にし電車を降りる太一の後ろについていく。

「……改札は?」

 降りたった古びた人気のない駅のホームに自動改札は見当たらなかった。

「ない」

 そういえば切符を購入していた。あらかじめ太一は調べていたのかもしれない。

「じゃあ駅員は?」

 改札がないのなら駅員に確認するしかないと思ったが、姿も見えなければ人の気配もまったくなかった。

「無人駅だ」

 短く答えてさっさと歩き出すと、太一は『きっぷ・運賃箱』と書かれた箱に切符を放り込んだ。どうやらそれでいいらしい。

「なあ」

 太一を追いかけるように足を進めながら問いかける。

「なんで海に来たんだよ」

 自分ならともかく太一は別に海が好きでも嫌いでもない。そもそも旅行だって好きなやつではない。なのに今回は太一が全部を計画してここまで来た。

「受験頑張ったご褒美ってやつ?」

 勉強は得意ではないがどうにか志望校に合格することができた。大学生活がはじまる前にサプライズでもくれてやろうと思ったのかもしれない。らしくないとは思うが、最近の太一は髪を伸ばしたりらしくないことばかりしてるから、そんなこともあり得るかもしれない。

「なあ、太一」

 返事がなかったのでもう一度呼びかけると「聞こえてるよ」と少しささくれだった調子の声が返ってきた。

「なんで急に機嫌悪くなってんの?」

「……うるさい、黙って歩け」

 何を考えているのやらますます分からないが、わざわざ旅行先で喧嘩をしたくもないので、言われた通りに大人しく太一について歩く。

 電車から降りた瞬間から感じていたが、歩みを進めるほど潮の香りが強くなっていく。

 閑散とした駅前をはずれてから登り続けている坂道は最低限しか手入れされていないようで、時々雑草が豪快に飛び出ていた。

 ようやく太一が足を止めたのは、一面の海が見渡せる高台だった。見晴らしのいい場所だったが、取り付けられている柵が今にも壊れそうな錆びたものであったので、あまり観光客は来ないだろうことが予想できる。

「佑哉」

 柵の手前で立ち止まり無表情で海を見つめたまま太一は口を開いた。

「お、なんだ?」

 やっと何か話す気になったようだ。

「海は、どうだ」

 分かりきっていることを聞かれ少し戸惑う。しかし声音にからかう色はなかったので、正直に答えた。

「最高。帰って来たって感じ……なにしてんの?」

 器用に手を動かして太一は自分の髪の毛を三つ編みにしていた。俺の問いには答えず髪をまとめ終えると、太一はちらりとこちらに目を向けふっと笑みをこぼす。

「じゃあな」

 言うやいなや太一はボディバッグからカッターを取り出した。ちきちきちきと刃を押し出す嫌な音が聞こえる。

「おい! 何して」




 ぶつりと、音がした。

 達成感のような高揚と、臓物が冷えるような虚脱がないまぜになった奇妙な感情で、太一が切り落とした三つ編みを確認しようとすると、つんと頭皮が引っ張られた。どうやらまだ数本繋がったままらしい。

 引っ張った勢いで一、二本ぶちりと髪が抜けた。

 確認のため軽く三つ編みを引っ張ると、まだ残っている部分がどこか分かった。首の後ろに手を回し、ざりざりと音をたてながらカッターを使い、まだ頭皮と繋がっている髪の毛の残りを切り落とす。

 三つ編みにしてまとめた髪の端と端はヘアゴムでとめられているので、散らばらずに縄のようになっている。

 カッターをボディバッグにしまい、次いで太一は何かを包んだ白いハンカチをバッグから取り出した。

 ハンカチを開く。中から、ころんと小さな白い欠片が姿を見せる。

 形は不揃いで、ひび割れ、少し黄色味がかった白い欠片――骨だ。

 太一は三つ編みの真ん中にハンカチから出した骨を埋めると、そこを起点に髪をぎゅっと縛り結び目を作った。ほどけて散らばらないように気をつけながら、強く結び目を作る。

 結び目を作り終えると、太一は一度ふうっと息をついた。そして勢いをつけるように息を吸い込むと、骨を埋め込んだそれを、高台から海に投げ入れた。

 波に押されて戻ってこないように、なるべく遠くに、海に永遠に漂っていられるように遠くに、力一杯投げ入れた。

「礼の言葉の一つもなしかよ」

 ぽちゃりと、音をたてて着水したのを見届けてからしばし待って、太一はぽつりとこぼす。

「本当に、消えたんだな」

 太一の周囲には誰もいなかった。

 髪を切っただけ。髪を切り落としただけだ。

 それだけで煙のように消えてしまった。

 髪の毛で隠れなくなったむき出しの首筋を潮風が撫でていく。べたべたしたその感触を太一はちっとも好きではない。

 それでも、頼まれたわけでもないのに、自分の意思でここまで来た。


 佑哉は、高校の卒業式の翌日、人をかばって歩道橋から落ちて死んだ。

 らしい死に方ではあったけれど、到底納得はできなかった。

 納得できなくとも、通夜があり、葬式があり、火葬され、四十九日を終え、佑哉は墓の下におさまった。

 現実味がなさすぎて、涙は一滴も流れなかった。

 佑哉は、たった十八才で死んでいいような人間ではなかった。葬式であいつのために涙を流す人間が一体何十人いただろう。

 太一が死んだところできっと佑哉の半分も泣いてくれる人はいないだろうに、どうして佑哉だったのだと、何かに恨み言を吐いてやりたかった。

 まだ十八才だったのに、佑哉は、死んだ。

 そして太一は人が一人死んだところで、現実は淡々と進んでいくことを知った。

 大学生活は特に問題なくはじまった。隣県の国立大学に進学したため、佑哉を知っている人間は一人もいない。平凡な日常がそこにあった。

 なんの問題もなかった。

 けれど日に日に眠る時間が長くなっていった。

 どれだけアラームをかけても、目覚まし時計を新しく用意しても、起きられなくなり講義に遅刻したり欠席することが増えていった。

 そしてそれと時を同じくして、佑哉のまぼろしが見えるようになった。

 二十四時間いつでも見えるわけではない、それは時折ふらっと現れてはふらっと消えていった。最後に会った彼のままの姿で、最後に会った彼のままの言葉を口にした。どうやら卒業式の翌日、死ぬ直前の彼のまま見た目も中身も止まっているようだった。

 それが自分の頭が生み出した幻覚だったのか、それとも幽霊だったのかは、結局最後まで分からなかった。

 ただ、なんとなく、佑哉が死んだときから伸ばしっぱなしだった髪に触れた時、自分が髪を切った瞬間にこのまぼろしは消えるのだろうということだけを奇妙な直感で理解していた。

 だから、今日この日まで、髪を伸ばし続けた。

 先日、佑哉の一周忌を終えた。

 遅刻と欠席を繰り返して留年した太一は、四月から大学一年生をやり直す。

 節目だった。

「墓の下より俺は海がいいよ」

 いつだったか、何かを見たのか読んだのか知らないが佑哉がそんなことを口にしたことがあった。

 死なんてまだまだ遠い話だったから、本気で言っていたかは分からない。だが、どれだけ佑哉が海に焦がれていたのかを太一は知っていた。

 骨上げの時に、こっそりと、多分足のどこかの骨をポケットにすべりこませていたのは、衝動でしかなかった。帰宅したあと骨を眺めて馬鹿なことをしたものだとすら思っていたのだ。

 しかし結果としては、このためだったのだろうと、今なら思う。

「海だ、佑哉」

 お前が焦がれた、海だ。

 死人の気持ちなんて知ることはできない。自分の行動の全てがエゴでしかないことも分かっている。

 だがそれでも、これ以上に太一ができることはなかった。

 死んだ友達のために、できることは、これだけだった。

 三月のひやりとした潮風が軽くなった髪の隙間を流れていく。塩辛さで喉が痛んだ。上に視線を向けてみれば雲ひとつない青空が広がっている。

 同じ青でも空と海には境目があり、交わらずに存在している。どちらも果てしなく広く、大きく、美しかった。

 どこまでも青い世界。それは、泣きたくなるほどに美しかった。

 息を、吸う。

 潮の香りが体内を満たす。

 やっぱり自分は海が好きでも嫌いでもないな。と思うと、妙に笑えてきてしまった。

 最後にもう一目だけ、目に焼き付けるように海をじっと見つめる。

 目を閉じ息を整えると、柵から離れ、登ってきた坂道を今度は一人で下った。

 駅に到着するまでには、きっと潮風が何もかもを隠してくれるだろう。

 海は好きでも嫌いでもないけれど、たまには、時間をかけてまた来てやってもいい。そんなことを考えながら、太一は軽くなった頭でずんずん前に進んでいった。

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