第21話 衝突する紅

 現れたのは枯れ木と、赤い斑点の残った大地。


 嫌な予感がして、クオトラは一気に駆け抜けた。胸の中で焦りが渦巻く。どうして、こんなにもこの場所に戻ってきたくないのか――その理由を彼はまだ言葉にできないでいた。


 そして、丁度世界が橙色に染まり始めた頃、ようやくそれが視界に入る。駆けていた足が徐々に速度を落とし、彼は思わず立ち尽くした。


 街の最南端に佇む石碑。特別な思い出があるわけでもないのに、目の前に広がる光景に胸が締めつけられる。そして、視界がぼやけ、涙が溢れてきた。


「あれ……どうして」


 悲しくもない、嬉しくもない。だが、涙は止まらなかった。無理に拭い取ろうとするが、次々と頬を伝う涙が後から後から湧き出してくる。


「帰る場所じゃないって思ってた。でも……やっぱり、わたしたち、ここが好きだったのよ」


 フレーリアの声も震えていた。そちらを見る余裕はないが、彼女もきっと泣いているのだろう。彼女もこの場所を、かつてのアルフィグを失うことが怖かったのだ。


「大丈夫? 辛くない?」


 クオトラはフレーリアを気遣って声をかけた。


「うん……来るまでは、すごく怖かった。壊れた街を見るなんて、嫌だった。でも、今は安心してる……なんだか、ルーシュさんがすぐ近くにいるみたいで」


 止まってた足を動かす。最後の思い出は決して良い思い出では無い。それでも、微かな思い出の中には駆け回り、遊んだようなものも残っていた。


 文字は霞んでいる。近くにある門を超える大きさで、高さは大体三メイル程度あるであろう石碑は、蜥蜴と大樹を組み合わせたような造形をしている。幼い頃に見た時は特になんとも思わなかったが、今見てみると悪趣味に映る。


「七年前の地獄。終わりと始まりの場所……わたしは今すごく悲しいけど、すぐ傍にルーシュさんがいる気がしてる」


 フレーリアは石碑に手を伸ばし、そっと触れる。それは昔からずっとそこにあった。街が崩壊しても唯一無事に残った建造物。ただ一つの象徴。


 クオトラは、街全体をぼんやりと見渡した。彼の視界に広がるのは、まるで数百年放置された廃墟のような光景。崩れかけた建物は触れれば土の塊となり、地面は不自然な変色をしていた。奥に広がる街は、その姿すら見えなくなっていた。


「僕は欠片を探す。その間、フレーリアは街を見てきてもいいよ」


 クオトラの声に、フレーリアは少しだけ頷いた。彼女は泣き腫らした目を隠すように、石碑から動かず立ち尽くしている。クオトラは、彼女の気持ちを完全に理解できない。けれど、その気持ちに寄り添いたいと思った。


「分かった」


 フレーリアはそう言ったものの、石碑から動かなかった。クオトラは気にせず、近くにある崩れかけた家屋へと歩み寄る。自分の目的――欠片を探すという行動に集中しようとしたその瞬間、上空から声が降り注いだ。


「よぉ、奇遇だな」


 耳慣れた声に、クオトラはハッと顔を上げる。そこにいたのは、家屋の屋根の上に立つ赤い長髪の女、ユスティレイだった。


「……なんで、ここに……?」


 あの日、渓谷で出会った赤の器ユスティレイ。彼女がここにいる理由が分からない。偶然のはずがない。ここに来ることは誰にも知られないようにしていた。それなのに……どうして。


「まぁ、予想はついてるだろ? 俺は近いうちに会うって言っただろう。それをどう受け取ってたかは知らねぇけどな」


 ユスティレイは、長い赤髪を風に靡かせながらこちらを見下ろす。


「その様子だと、王族や兵士とはまだ会ってねぇみてぇだな。安心したぜ」


「何の……用だ……」


 分かりきったことを問いかける自分が情けなく思えた。ユスティレイがここにいる目的なんて、想像するまでもなく明らかだ。それでも、ほんの僅かな可能性に縋ってしまう。


 ユスティレイは、わざとらしい仕草で肩をすくめた。その態度は、まるでこちらを馬鹿にするかのように思えた。彼女の全身からは圧倒的な自信が滲み出ており、周囲の空気をピリつかせている。


「アンタは器じゃねぇから、知らねぇかもしれねぇが、今この状況で俺たちがやるべきことなんて一つだ。奪い合いだよ。アンタはアンタの目的のため、俺は俺の目的のための奪い合いだ」


 言い終わると同時に、ユスティレイの表情が一変した。彼女の瞳に宿った殺気が、まるで冷気のようにクオトラを凍らせる。逃げる、戦う。そんな選択肢すらも除外されてしまったかのように、ただ蝋人形のようにその場で彼女を見つめる。


「そうか。つまんねぇな……なら、そこの女でも殺せば、少しはマシになるか?」


 ユスティレイが不気味な笑みを浮かべるや否や、彼女は宙を飛び、次の瞬間にはフレーリアの目の前にいた。


「やめろ……!」


 クオトラが叫ぶ間もなく、ユスティレイの手刀がフレーリアの頬に向かって振り下ろされた。フレーリアは何とか避けたが、すぐ後ろの石碑が真っ二つに割れ、音を立てて崩れ落ちた。


「避けやがったか……残念残念。まぁ、そっちの方が面白ぇか」


 ユスティレイは、歪んだ笑みを浮かべていた。最初からフレーリアを狙っていたわけではなく、石碑を壊すことを目的にしていたのだろう。フレーリアの命を弄ぶように、そしてこの街で唯一無事だった象徴を破壊していく。


「……フレーリア、ごめん」


 クオトラは歯を食いしばった。フレーリアを守るために動けなかった自分が許せない。彼女が無事だったことに安堵しつつも、もしユスティレイが本気で殺しにかかっていたら。その恐怖が脳裏をよぎる。心は怒りで焦げそうになる。吐く息が熱く燃えているような感覚に襲われ、視界が真っ赤に染りゆく。


「この前は守ってもらって、今回は助けもしない。酷い話だとは思わねぇか?」


 ユスティレイの言葉がクオトラの胸に突き刺さる。正論だ。彼女の言葉に、クオトラは追い詰められる。


 悔しい。自分は何もできなかった。それでも――。


「だからどうした」


 クオトラは震える声でそう返す。挑発に乗っていると分かっていても、怒りが勝った。正論を言われたところで、この怒りが収まるわけではない。


 ユスティレイの顔に驚きの色が一瞬浮かんだ。それは呆れなのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。今は、ただ自分の感情に従いたい。勝てるかどうかなんて関係ない。目の前の敵が、許せないのだ。


「なるほど……まるで子供みたいだが、悪くない目をしてやがる」


 ユスティレイは薄く笑いながら言った。その目は冷たく光り、クオトラを見定めている。彼女の狙いは、クオトラの中にある秘炎核。それを奪うことが彼女の目的なのだろう。だからこそ、彼女にとってこの戦いはただの奪い合い、目的のための手段に過ぎないはずだ。


「俺の目的はアンタの秘炎核だけだ。別に、いい戦いをする必要もないし、アンタに花を持たせるつもりもない……が、どうせ奪うなら、少しくらい楽しませてもらおうか。その覚悟が如何ほどのものか、見せてみろよ」


 ユスティレイの狂気に満ちた笑みがクオトラを貫く。その感情は、怒りとも喜びともつかない、不気味な混じりあった感情だった。その目はクオトラを見てはいないのかもしれない。その後ろに見える彼にしか……。


「そんなこと、どうでもいい」


 クオトラは短く返し、短刀を抜く。手が震えているのが分かった。けれど、その震えは恐怖ではない、怒りだ。自分が抱えているこの怒りを、彼女にぶつける。それしか今は考えられなかった。


「クオトラ、挑発に乗っちゃダメ……!」


 フレーリアがそう言ったその瞬間、ユスティレイの視線がフレーリアに向けられた。まるで獲物を狙うかのように。


「どこを見てるんだよ」


 先程の光景が頭をよぎった。短刀を抜き、全力で駆ける。一歩目の跳躍で開いていた距離を潰し、二歩目はユスティレイの背中を捉えた……はずだった。


 ユスティレイは上段からの斬撃を軽々と躱し、クオトラの攻撃が届くよりも早く身を翻した。まるで風を読んでいるかのように、滑らかな動きでクオトラの刃を避けていく。なぜ避けられたのか分からず、踏み出そうとした足を引くが、強い衝撃を受け足は行き場を無くす。


「くそっ……!」


 何が起きたのか分からず、足を見るがどうやら衝撃を受けたのは脇腹のようで、遅れた痛みに顔をしかめてしまう。


「痛がってる暇はないぜ」


 ユスティレイはさらに近づき、クオトラに追い討ちをかけるように蹴りを放つ。咄嗟に短刀で防御しようとしたが、ユスティレイの動きはそれすらも見透かしていたかのように鋭く、クオトラの防御をすり抜けて体に直撃した。


「ぐっ……!」


 体を捻ったことで運良く長刀が体を守り、直撃を回避したようだった。それでも内臓がせり上がるような感覚に襲われ、クオトラはその場に膝をついた。歪む視界に、ユスティレイの姿がぼんやりと映る。


 「クオトラ!」


 フレーリアの声が遠くで聞こえた。その声に反応しようとするが、身体が言うことを聞かない。まるで身体中の力が一気に抜けたかのように、地面に寝そべる形となってしまった。


 目の前がぐちゃぐちゃに歪んでいく。右手で地面を掴もうとしたが、指先に力が入らない。痛みが遅れてやってくる。脳が、何が起きたのか理解しようとするが、その速度が追いつかない。


「粋がってた割にはずいぶんと早いお休みね。期待させるだけさせて、結局態度だけなんて本当にただの子供じゃない。仮にもアイツの力を持ってるならもう少しマシに立ち回って見せて欲しいんだけど」


 ユスティレイの声が嘲笑を帯びて耳に届く。彼女は髪を指でかき上げ、気だるげな目でクオトラを見下ろしている。


 圧倒的だった。


 あまりにも力の差がありすぎた。ユスティレイの動きについていくことすらできない。彼女が本当に力を使っているのかすら分からない。単に、彼女の素の力だけでこれなのかもしれないという絶望感が脳を埋め尽くしていくのがわかる。


 それでも自身を鼓舞して立ち上がり、奴を見据える。異常な速度で動く奴の動きは目で追えない。何をされてるかすらも分からず、秘炎核の力なのかすらも把握出来ない。


 だが関係がない。例えただの運動能力だとしても、特殊な力によるものだとしても捉えるしかない。


 そして、捉える手段が一つだけある。


 クオトラの視界が赤く染まり、胸の奥で何かが燃え上がる。自分の中の秘炎核が目覚め、力が体内を駆け巡る感覚があった。ユスティレイはその変化を感じ取ったのか、少し驚いた表情を浮かべた。

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