第20話 夜明けの逃走

「誰もいないよ」


「よし、大丈夫そうね」


 クオトラは暗闇の中を駆け出した。足元の木の葉を踏む音が、やけに大きく響く。まるで、その音が誰かに届いてしまうのではないかという不安が、心の中に小さな針を刺すようだった。強化された身体能力は、今や並の兵士よりもはるかに速い。それでも、心臓は鼓動を速め、全身に血を送り込み、緊張で手汗がじっとりと滲んでいた。


 壁までは、もうあと数十メートル。三メイルの高さも、今のクオトラにとってはただの障害物にすぎない。しかし、問題は壁に取り付けられた炎灯だ。この明るさでは、もしも跳躍の瞬間を見られれば、確実に捕まってしまう。


「兵士の様子、見える?」


「ギリギリ……ね。門の前に二人いるけど、そのうち一人がこっちを向いている。向きが変わったら、すぐに合図するわ。そしたら、私を抱えて飛んで」


 フレーリアの視覚が鋭いのは知っていたが、五百メイルも離れた場所で兵士の動きを正確に見極めるとは驚きだ。だが、今はその驚きを飲み込み、クオトラは緊張の糸を張り詰めながら頷く。


「わ、分かった。頼むよ」


 クオトラも試しに門の方を見てみるが、何かがある……という程度にしか認識できない。目を凝らしてみても、ただの暗闇の中に無数の影が動いているようにしか見えない。少し集中しすぎたのか、目の奥に乾燥したような痛みを感じて、彼は無理にそれ以上の確認を諦めた。


「今よ!」


 クオトラの目では、何が変わったのか分からない。それでもフレーリアの声が響いた瞬間、クオトラは反射的に現実に引き戻された。考える暇もなく、彼女を抱え込み、脚に力を込めて前へと跳躍する。空中に舞い上がり、風が身体を包む。だが、予想よりも身体が思うように持ち上がらず、なんとか壁の縁に指を引っ掛け、ぎりぎりで着地した。


 そのまま滑るようにして、クオトラは壁の外側へと飛び降りた。足が地面に触れた瞬間、全身の緊張が一気に解け、息を整える。


「重……かった?」


「い、いや、僕が自分の力を過信しただけだよ! 」


 慌てて弁明するクオトラに、フレーリアは粘りっこい視線で彼を見つめたまま、じわじわと笑みを浮かべている。跳躍した瞬間に思った以上に重く感じたことに驚いたが、それが彼女のせいだとは決して思っていない……はずだ。


「まぁいいわ。次までに鍛えておいてね。さ、行くわよ」


 フレーリアは軽く笑いながら、前へ歩き出した。その背中を追いかけながら、クオトラは改めて辺りを見渡す。壁の外は、森が広がっていた。街の門前にはおそらく整備された道が伸びているはずだが、それを使うことはできない。森の中を進むしかないのだ。


 辺り一面は暗く、木々の陰が不気味に揺れている。気を抜けば、すぐに方向を見失いかねないような場所だった。目に映るのはただ、木々と草ばかり。クオトラは、心の中で焦りが募っていくのを感じた。


「僕が、普通の人間だったら心が折れてたかも」


 クオトラはため息をつき、冗談めかして呟いた。だが、彼の心の中には実際に不安が広がり始めていた。この広大な森の中、ただ進むだけでは道に迷ってしまうかもしれない。さらにはまだ兵士の目が届いているかもしれないと言った不安が、胸中を渦巻く。


「もしもの話をするなら、もっと楽しい話にしましょう。私たちは大丈夫よ、きっと辿り着けるわ」


 隣を駆けるフレーリアは、まるで何も心配していないかのように見える。その余裕が、逆にクオトラの不安を少しだけ和らげた。彼女の存在が、クオトラにとって心強い支えになっていることを改めて感じ、彼は小さく笑った。


 改めて周囲を見渡せば、木々の形が微妙に変わり、足元の落ち葉の色も少し違っている。わずかではあるが、確かに進んでいる実感があった。


「最悪、迷いそうになったら馬車道を確認すれば方角が分かるわ。焦らずに進んでいきましょう」


 フレーリアの言葉に、クオトラは再び頷いた。二人は、最初は軽い駆け足だったのが、次第に全力で走り出していた。



 

 どれほどの時間が経っただろう。やがて、暗闇が薄れ始め、東の空に朝日が顔を覗かせたころ、森は突然途切れ、視界が一気に開けた。


「長かったわね」


 フレーリアが呟いた。森を抜け、広がるのは見渡す限りの草原。振り返れば、木々がまるで壁のように立ち並んでいる。これほどの密林を抜けてきたという達成感が、二人の疲れた体に少しだけ余裕をもたらした。


「ほんとだ、広いな。でも、ここは開けすぎてる……」


 クオトラは、広々とした草原に不安を覚えた。視界が良すぎて、逆に隠れる場所がほとんどない。この状況で、何かに出くわせば逃げ場がなくなる可能性がある。


「フレーリア、悪いけど、馬車道の警戒をお願いしてもいいか?」


「えぇ、分かったわ。全力で見るようにしてみる」


 彼女の目を頼りにするしかない。クオトラができることと言えば、せめて馬車道から距離を取り、少しでも危険を避けることくらいだ。


「草原って、どれくらい続くか分かる?」


「確か、こんなに広い草原はそう長く続かなかったと思うわ。もう少し進めば、また木々が出てくるはずだけど……記憶が正しければ、ね」


「分かった、ありがとう」


 フレーリアの声は少し自信なさげだったが、それでもクオトラにとっては希望だった。


 日が真上に昇る頃、草原は次第に姿を変え始めた。木々がちらほらと現れ、周囲は徐々に荒れた土地へと変わっていった。

 

 乾燥した木々が並び、緑の草はほとんど見当たらない。ところどころにわずかな植物が生えているが、それは先ほどの草原に比べれば、あまりにも貧弱に見えた。


「少し休もうか」


 クオトラは立ち止まり、疲労感を感じながら提案した。フレーリアも軽く頷くと、木陰にしゃがみ込み、呼吸を整えた。クオトラもその隣に座り込み、地面に手をつく。焦りと緊張で、今まで感じなかった疲労が一気に押し寄せてきた。


「この調子でいけば、夕方には着くと思うわ」


 フレーリアが水筒をクオトラに手渡す。彼はその水筒を受け取り、一口飲むと、水が体の隅々にまで染み渡るような感覚がした。


「……ありがとう。辺りは大丈夫そう?」


「ええ、大丈夫よ」


 フレーリアの言葉に安心し、クオトラは再び立ち上がった。体を伸ばし、再び進むための力を奮い起こす。


「よし、行こう」


 二人は再び駆け出した。

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