第19話 灰燼を越えて

 死竜の渓谷に行ったあの日から、四日が経っていた。ようやく体の疲労が抜け、自由に体を動かせるようになった。


 腕も足も、まだどこか泥濘に足を取られるような感覚は残っているが、あの鉛のような重さはもうない。クオトラはゆっくりと腕を振ってみる。筋力が確実に強化されているのが分かった。竜の欠片を吸収したことで体の芯が一段階強くなったような感覚だ。


「フレーリアは、もう大丈夫?」


 彼はフレーリアを見つめ、優しく声をかける。彼女は机の上に書き物を広げていたが、すぐに顔を上げて答えた。


「ええ、私は元々大したことはなかったから。もう平気よ。でも……クオトラ、あなたのほうが、もっと辛かったでしょう?」


 彼女は少し顔を曇らせ、クオトラを心配そうに見つめていた。あの日、彼女の目に映ったクオトラは確かに限界を超えていた。それはただの「戦い」ではなく、竜の力を取り込んだことで、彼の内側に何かしらの変化が起こっていたのは明白だった。


 クオトラは精一杯の笑顔を浮かべる。それでも彼女の表情には不安の影が残っている。


「大丈夫だよ。僕はフレーリアが思っているより強いんだから」


 彼女の不安を打ち消すため、クオトラはわざと明るく言った。その言葉に、フレーリアも少しだけ安心したように微笑んだ。


「うん、分かった。信じてるよ」


 彼女の笑顔を見て、クオトラも少し照れ臭くなった。気まずさを誤魔化すように、立ち上がる。寝床の脇に置いてあったそれを手に取ると、彼は決意を固めたように歩き出そうとした。


「待って!」


 彼女が突然、強い口調で彼を止めた。


「どうしたの?」


 クオトラが振り返ると、フレーリアは少し戸惑いながらも、真剣な表情を浮かべて言った。


「夜まで待った方がいいわ。私たちは一応、監視対象なの。この時間に街を出ると、すぐに見つかるかもしれない。それに、馬も竜馬も使うのは難しいわ……」


 フレーリアは言葉を絞り出すように続けた。彼女の表情には明らかな不快感がにじみ出ていた。クオトラはその表情に驚いた。フレーリアがこんなにも強い怒りを見せるのは珍しい。


「監視されてるのか……。じゃあ、徒歩で行くしかないんだね」


 クオトラは詳しく聞きたい気持ちを抑えた。彼女の怒りに圧倒され、これ以上の問いかけを今は控えるべきだと感じた。だが考えてみれば、フレーリアも自分も、研究対象として連れてこられ、わざわざこんな高待遇を与えているのだから自由を許す道理がないのは納得できた。


「そうね。とにかく、急ぎすぎるのは危険よ。少し待って、日が落ちてから動いたほうがいい」


 彼女の冷静な判断に、クオトラも頷くしかなかった。今は焦らず、慎重に行動するのが得策だろう。外はすでに日が傾き始め、夜の気配が迫っていた。


 ベッドに腰を下ろし、少し気を落ち着けたその時、フレーリアが意を決したように切り出した。


「ねぇ、クオトラ。どうして急にアルフィグに行こうなんて思ったの?」


 その質問を投げかけられるだろうとは思っていた。だが、答えるべきか迷っていたことも確かだ。クオトラは少し目を伏せた。


「あ、あぁ……そうだよね。言ってなかったよね。フレーリアは、レクティラって覚えてる?」


「もちろん。ルーシュさんと戦っていた青い髪の……人……でしょ?」


 フレーリアは少し遠くを見つめるような表情を浮かべた。あの記憶は、フレーリアにとっても辛いものだろう。彼女の表情はやや硬い。クオトラもあの出来事を思い出すたびに、胸の奥がざわつく。


「アイツは、あの女と同じで竜人だったんだと思う。だから、きっと秘炎核も持ってたんじゃないかって……」


「なるほど。そういうことね……確かに、それなら可能性はあるわね」


 彼女はクオトラの意図を理解し、静かに頷いた。レクティラのことは、もう七年も前の話だ。今もその痕跡が残っている保証はない。それでも、クオトラはその可能性に賭けるべきだと感じていた。


「僕の記憶だと、アルフィグまでは二日くらい歩く距離だったと思うけど、実際にはどうだろう?」


「そうね、二日っていうのは、ずっと歩き続ければって話だと思うわ。現実的には、三日くらいかかるかもしれないわね」


 フレーリアは少し不安げな表情を見せた。クオトラもそれを感じ取り、再び彼女に問いかけた。


「僕たち、街を抜け出したらどうなるのかな?」


 クオトラの声には少し戸惑いが混じっていた。監視されているということが、二人の行動にどんな影響を与えるのかが心配だった。


「正直、バレたらすぐに追われると思うわ……監視はされているけど、それほど厳重ではない。でも、私たちがいなくなったら、すぐにどこへ向かうかは予想されるはず」


 フレーリアの言葉に、クオトラは考え込んだ。確かに、僕らの行き先はアルフィグ以外に考えられない。街を抜け出せたとしても、追手が来るのは時間の問題だ。


「そうか……それなら、早めに行動しないといけないね」


「ええ、できるだけ急いで進んだほうがいいわ」


 ため息をつきながら、クオトラは窓の外を見る。いつの間にか日は完全に落ちかけ、街は暗闇に包まれ始めていた。


「よし、行こうか」


 フレーリアも外の変化に気づき、短刀を手に取って立ち上がった。クオトラは少し緊張しながら扉に手をかけた。フレーリアは小声でささやいた。


「大丈夫よ、堂々としていれば兵士以外に気づかれることはないわ。でも、東門を通るときは必ず見つかると思う……だから、壁を乗り越えるのがいいと思う」


 クオトラは彼女に頷き、歩き出す。街の中を進むたびに、人の気配は薄れていく。夜風が頬を撫で、心を落ち着けてくれる。


「ここからは、普通に歩いていれば問題ないわ。あまり慌てると逆に目立つから。でも、街の外れに着いたら慎重に行動するのよ」


 クオトラはその言葉に従い、自然に歩を進める。やがて民家の並ぶエリアを抜け、視界が開けた。東門はまだ遠く、木々がちらほらと見える。


「ドイシュタイムに住んでいる人たちも、僕たちみたいに他の土地から連れてこられた人が多いの?」


「ええ、そうね。境遇はそれぞれ違うけど、私たちみたいに故郷を失ってここに流れ着いた人は多いわ」


 フレーリアは少し考え込むように言った。クオトラも考えた。この街の人々は、皆帰る場所を失った者たちなのだろうか。


「でも、監視してるって割には結構警備が甘いように感じるけど、どうしてだろう?」


 クオトラは不思議そうに言った。それに対して、フレーリアは少し苦笑いを浮かべる。


「たぶん、逃げることがほとんどないからよ」


「え?」


 クオトラはその言葉の意味がすぐには理解できなかった。


「さっきも言った通り、ここにいる人たちは、もう帰る場所がないの。私たちも同じ。アルフィグは壊れて、もう誰も住んでいないわ。それに、あの場所には近寄ることも危険だって言われている。トラウマを抱えている人も多いし、誰もわざわざそこに戻ろうとは思わないのよ。もっと言えば戻る先なんて故郷以外にないから、追うのも楽だものね」


 フレーリアは皮肉めいた表情を浮かべそう言って見せる。


 そんな彼女の言葉に、クオトラはハッとした。確かに、アルフィグには彼にとっても、決して良い思い出は残っていない。胸の奥に残る不快感は、その場所が彼の記憶に刻み込まれている証拠だった。


「そうか……それなら、僕たちが消えたら向かった先はアルフィグだってバレるよね」


「ええ、きっとすぐに追ってくるわ。でも、だからこそ早く進むべきよ」


 フレーリアは静かにそう言い、再び歩き出した。クオトラもそれに続く。彼女の決意を感じ、クオトラも心を奮い立たせた。


やがて、街の外れに着く。遠くを見やると街を囲む壁がそびえ立っているのがうっすらと見える。木々の高さから推測するに高さは三メイルほどあり、普通の人間なら一苦労だろう。しかし、それも今のクオトラなら問題ない。


「ここから一直線に進んで、登って行ったら見つかるかな?」


「門の近くは兵士がいるけど、目が届かない場所なら大丈夫よ。クオトラなら余裕で登れるでしょ」


 フレーリアが微笑む。クオトラは力こぶを作って応える。


「もちろん、フレーリアを担いでも余裕だよ」


 二人は門から少し離れた壁を目指し、木々の間を駆け抜けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る