第18話 赤の器

 あの女はどこかで見たことがある。


 ああ、思い出した。あの眠りの間に見た、前の僕が一度殺された相手だ。胸に腕がめり込む感覚。経験したことがないはずなのに、その痛みがあまりに鮮明に再現される。


 あいつは、きっと僕を狙っている。自身の存在を存続させるために、僕の中にある秘炎器官を奪いに来るだろう。


 怖い。けれど、それ以上にどこか幸運だと思っている自分がいる。渓谷にいるすべての死竜を取り込むよりも、彼女から力を奪ったほうが、ずっと確実に目的に近づける。その恐ろしいほどの力の鼓動を、自分のものにしたい。胸の奥で燃えるこの炎が、そう強く叫んでいる。


 体が熱い。まるで燃えているかのように熱い。怒り、恐怖、悲しみ、そして期待――さまざまな感情が渦巻いているが、すべてはただ一点に収束しているようだ。どろどろとした思考の中で、最後に残ったものは、あの力が欲しいという、あまりにおぞましい思想だった。


 今すぐにでも手に入れたい。その焦りが心を駆け巡る。しかし、体は反応してくれない。彼は今、復讐に燃えているのだろうか……僕には、それすらもよく分からない。


 唐突に、忘れていたことが脳裏に浮かぶ。



「……あっ」


 何度目か分からない光景が広がる。視界に映るのは、木製の天井。すぐに小さなため息を吐くと、胸に痛みが走った。右目に違和感を覚え、手で確かめる。どうやら焼け落ちたわけではないようだ。少し安堵しながら、一息つく。


 そのとき、人の気配に気づいた。寝床の下を見ると、フレーリアがいる。彼女は、まるで力尽きたかのように、無防備な姿で横たわっていた。よほど疲れていたのだろう。その寝相は、少し乱れている。


 申し訳なさと、不甲斐なさが胸を締め付ける。こんな状態にさせてしまった自分が情けない。近づいて毛布でも掛けてやりたいが、体は自由に動かない。足はまるで鉛のように重く、立ち上がることもままならない。


 罪悪感を味わいながら、仕方なく仰向けに戻る。強烈な眠気は消え、疲労感も完全には消えていないものの、少しずつ薄れていくようだ。もっと自由に力を扱えれば……。


 ふと、右手の手袋を外してみる。そこにあるのは、やはり人間とは思えない異様な手だ。クオトラはため息を漏らしかけたが、それをぐっと堪えた。


「どうして僕は……こんなにも復讐に支配されているんだろう」


 ぽつりと呟く。本当は分かっているのではないか。そう自問しながらも、自分を納得させることができず、その問いかけは宙に浮いたまま終わる。


 元々、自分は争いを好む性格ではなかったはずだ。しかし、記憶は曖昧で、「あの日」以前のことは断片的にしか思い出せない。もしかすると、昔から血の気が多かったのかもしれない……だが、少なくとも今残っている自我は優しいものだったはずだ。


「クオトラ……?」


 ふと、彼女の声が聞こえた。寝言だろうか。クオトラは何とか上半身を起こして、彼女の様子を確認する。


「あ、起きてたのね」


 フレーリアはゆっくりと目を開け、クオトラの方を見ていた。


「うん。ここまで運んでくれてありがとう」


 彼女は少しやつれているように見えた。クオトラは、彼女の疲れを心配して声をかける。


「大丈夫? すごく疲れているようだけど」


 その問いに、フレーリアは少し照れくさそうに笑う。どうしたのかとクオトラが首を傾げると、彼女が軽く冗談を交えながら答えた。


「驚いたわ、クオトラ。びっくりするくらい重いんだもの。ここまで運ぶだけでも重労働だったし、その前にも無理やり体を動かしたから、さすがに疲れちゃった」


 彼女の笑顔はいつも通りに見える。それを見たクオトラは、少し安心して溜めていた息を吐き出す。


 しかし、冷静になると、再び心を満たすのは彼女への申し訳なさだった。


「ごめん……僕が守るなんて言っておいて、逆にフレーリアに負担をかけてしまった」


 怒りに身を任せて無謀に行動し、その結果倒れた。あの女が見逃してくれたおかげで最悪の事態は免れたが、もしあのまま戦闘になっていたら……。


「無事だったんだから、それでいいじゃない。クオトラはちゃんと約束通り、私のことを守ってくれた。少し手助けするくらい、逆に嬉しいんだから」


 フレーリアは疲れを隠すかのように明るく振る舞っているが、その体には無理が見える。長年一緒に過ごしてきたクオトラには、その微妙な違いがはっきりと分かる。しかし、それを指摘するのは無粋だと思い、彼もまた微笑んで返す。


「ありがとう」


 何度目の「ありがとう」だろうか。結局、クオトラは一生、彼女に頭が上がらない気がしていた。


 フレーリアはふらつきながらも近づき、手を差し出す。クオトラがその手を取ると、彼女は数個の欠片を手渡してきた。


「助かるよ」


「クオトラにとっては物足りないかもしれないけどね」


 彼女はわざとらしく舌を出して、冗談めかした口調でそう言った。クオトラは呆然と彼女を見つめるが、フレーリアはすべてを見透かしたような目でこちらを見ていた。


「分かるわよ、貴方の反応くらい。でも無いよりはマシなんでしょう? 」


「もちろん」


 クオトラは右手に力を込め、欠片を砕く。それがゆっくりと体に染み込み、少しだけ疲労が和らいでいくのを感じた。


 重かった足の感覚が、徐々に軽くなっていく。


「それで、これからどうするの? 」


 フレーリアも分かっているのだろう。渓谷に通うだけでは、もう意味がないということを。そして、あの女、ユスティレイと再び出会う可能性を考えると、渓谷にとどまるのはあまりにもリスクが高いことも。


 だが、その状況を打破する手段はすでにある。しかし、彼女がその提案を受け入れてくれるかどうか、それが一番の不安だった。


 息を飲む。今はきっと互いの考えは入れ違っている事だろう。彼女に負担を掛けたくない……だけれど、そんなことを言っている余裕なんてない。


 右眼が疼いたような感覚に、目を擦る。


「あっ……」


 彼女の声が聞こえる。視界は赤く染まり、擦った右手にはべっとりと血が付着していた。


 ようやく分かった。右眼の上、あの日竜の血が暴れ、蚯蚓脹れのようになった血管が、原因だったのだ。少し上に手をやれば、角のように固まった髪がありその根元も出血しているようだった。


「大丈夫、眼は問題ないよ」


 痛みはある。さらには激しく脈動することによる違和感や、不安もあるが眼そのものが問題な訳では無いため気にしないように努める。前髪をかき上げ、彼女に見せると痛々しそうに表情を曇らせたものの、安心したように肩の硬直を緩ませていた。


「アルフィグに行こうと思うんだ」


 生まれ故郷、アルフィグへ行こう、そう提案する。フレーリアの表情が固まるのを感じた。脈打つ心臓が妙にうるさく響く。もし彼女が拒否したら……。だが、それでも進まなければならない。


「……クオトラが行くって言うなら着いていくわ」


 少しの沈黙の後、彼女はそう答えた。


 無理はしてほしくない。あの街には、きっと彼女にも辛い記憶があるはずだ。それでもついてきてくれることが嬉しくて、どうしようもなかった。


 二人は、体調が戻り次第、アルフィグへ向かうことを決意した。

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