第17話 死竜の渓谷 下

 目の前の空間を埋め尽くしていた死竜たちは、全て消え去っていた。体は思うように動かず、まるで誰かに脳を支配されているような感覚が続いている。重い眠気が全身を襲っていた。


「心配しないで……ただ眠いだけだから……」


 体は鉛のように重く、痛みは感じない。心の中に不安はなく、ただひたすらに疲れ果てた感覚だけが残っていた。少し眠って目を覚ませば、いつも通りに動けるだろう。そんな確信がクオトラの中にはあった。


「クオトラ……どこにも行かないで……お願いだから、もういなくならないでよ」


 フレーリアの震えた声が耳に届く。彼女が怯えているのは、僕がまたどこかへ消えてしまうのではないか、という恐怖からだろう。彼女は、僕がいない間に異形の姿を思い出すのが怖いはずだ。


「大丈夫、怖がらなくてもいいよ。すぐに起きて、君を助けるから」


 クオトラはフレーリアを安心させようと微笑むが、その笑顔はすでに力を失っていた。


「だって……クオトラ、もう起きないかもしれないじゃない……」


 フレーリアの声は震えていた。その言葉が不安と恐怖で染まっていることに気づいたが、クオトラは理解できないままだった。


「どういう意味だい……?」


「気づいてないの? 貴方の右目……燃えちゃってるのよ」


 彼女の言葉が耳に届くが、その意味は理解できなかった。右手はすでに動かず、自分の体を確かめることもできない。燃えているというのは比喩なのか、それとも現実なのか。視界は赤く染まっているようだが、まだ何とか見える状態だった。


 「ごめん、フレーリア……でも、本当に眠いんだ……」


 どうしようもない眠気がクオトラを襲い、体全体が粘ついた感覚に包まれる。目を開けていることすらできず、瞼が自然と閉じていくのを感じた。


 その時、別の声が洞窟内に響いた。


「何かあったのかと思って来てみたけど……どうして死竜がこんなに減ってるのかしらねぇ」


 女性の声だ。クオトラは重い瞼を何とか開き、声の主を確認しようとする。


 目に飛び込んできたのは、真紅の髪を腰まで垂らした女性。鋭い翠玉色の瞳が印象的で、彼女は白地に赤の差し色が施された燕尾服を着ていた。金属製の装飾品があちこちにあり、歩くたびに軽い金属音が洞窟内に響く。


「貴方、どうしてこんな所に居るの?」


 女性はクオトラに問いかけたが、その口調には敵意は感じられなかった。むしろ、探るような態度だった。


「そんなこと、俺が聞きたいんだけどね。ここは元より俺が住処としていたんだが。いやぁ、まさか侵入者に我が物顔で聞かれるとは思わなかったね」


 女は挑発するようにわざとらしく大きな身振りで話す。体を動かす度に、装飾品が揺れ、金属質な高い音が洞窟の壁に乱視反射する。


 敵意があるのか、無いのかは表情からは読み取れない。それでもフレーリアと二人きりにしてはいけない気がして、今にも眠気に負けそうな意識を何とか保つ。


 「なるほど、そういうことだったのね。ふぅん」


 女性の表情は、どこか楽しそうに見えた。彼女はフレーリアに向かって軽く視線を送ると、にやりと笑みを浮かべた。まるで見透かすように、彼女の目がフレーリアを捉えている。さらには遠目でも分かる妖艶な口元が薄らと歪んでいた。


 女がゆっくりと近づいてくるのが見えた。心臓を鷲掴みにされたような恐怖に、体が強ばるが頬の肉を噛み切り、硬直を解除する。眠気を吹き飛ばすような威圧感に立ち向かうべく、体を起こそうとするが膝立ちで精一杯であった。


 女はあと数メイルまで近づいた所で足を止めた。


 「ただの人間に見えるけど……あなたからは、妙にルーシュの香りがするわね」


 その言葉にクオトラは反応した。ルーシュという名前を聞いた瞬間、胸の奥で再び熱が湧き上がってくる。


 言葉はイラついているように聞こえる。だと言うのに、その表情は嬉しそうに見え、恐怖を倍増させる。


 「あぁ、そういうことか……ルーシュを探して来てみたら、こんなことになってるなんてね。まさか、こういう形で幸運が転がり込むとは思わなかったわ」


 女性は舌なめずりをし、まるで獲物を前にした獣のような表情を浮かべた。その不快な仕草にクオトラの怒りが爆発しそうになるが、体はすでに限界を迎えていた。


 「俺は赤の器、ユスティレイ・アーレインよ。あんたの心臓を頂くわ」


 ユスティレイの瞳が鋭く輝き、明確な敵意がクオトラに向けられる。彼女の声には冷たい刃のような鋭さがあった。


 恐怖と怒り。二つの感情は入り交じることは無く、それぞれが独立した意志を持ってユスティレイを見据えているようである。奪われたくはないと思う自分と、逆に奪ってしまえと叫ぶ自分がいた。


 「く……」


 クオトラは反射的に右手を掲げ、ユスティレイに向けて力を込めた。燃え尽きろ。心の中で叫ぶと、視界が一瞬赤黒い光で覆われ、耳をつんざくような地鳴りと爆発音が響いた。


 空気が熱で歪み、クオトラは思わず目を閉じる。次に目を開けたとき、ユスティレイは遥か後方に移動していた。彼女は避けたのか、爆風で飛ばされたのかは分からない。


 「小癪な真似を……」


 ユスティレイは苛立った表情で体についた砂や煤を払いながら、再びこちらに向かって歩み寄ってくる。その瞬間、天井から大きな岩が崩れ落ちた。


 「に、逃げろ……!」


 クオトラは足を動かそうとしたが、体が言うことを聞かない。終わりを悟り、フレーリアだけでも助けようと後ろを振り返った瞬間、彼の体が宙に浮いた。


 激しい地鳴りが響く中、背後からフレーリアの荒い息遣いが聞こえ、彼女はクオトラを地面に降ろした。


「わたしだって……」


 フレーリアの顔は青ざめていた。彼女はその場で言葉を続けられず、ただクオトラを助けたことに安堵している様子だった。


 「自分一人では身動きも取れず、一般人の女に助けてもらうとは……随分と無様じゃないか」


 ユスティレイは崩れた天井の瓦礫の山を前に、何事もなかったかのように立っていた。彼女は洞窟の中央にそびえる大穴を背に、薄く笑っている。


 「今は見逃してあげるわ。けれど、近いうちに必ずまた会うから、奪われないように気をつけなさい。特に王族には注意することね……次は必ず、あんたの心臓をいただく」


 その言葉と共に、広場の中央が大きく崩れ落ちた。爆発したかのような衝撃と共に、巨大な穴が広がっていく。クオトラはその光景を呆然と見つめていた。


 力が抜けて、体は完全に動かなくなった。仰向けに倒れ込み、目の前には崩れ落ちる天井が映っていた。


 「あいつ……あの場所が崩れることを分かっていたのか……」


 天井に走るひび割れが、いつ崩れてもおかしくない状態だった。しかし、恐怖も感じず、体を動かそうとも思わなかった。脳が麻痺しているのか、あるいはすべての感覚を使い果たしてしまったのか。自分でもよく分からなかった。


 「ここに居たら……死んでしまう。絶対に貴方は死なせないから」


 フレーリアの声が遠く聞こえた。再びクオトラの体が宙に浮かぶ。彼女の暖かな手に包まれた瞬間、クオトラの意識はぷつりと途絶えた。 

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