第16話 死竜の渓谷 中
「図太くなったとは思ったが、ここまでだとは……」
自分自身に呆れる。先ほどまで戦っていた場所で、そのまま眠りに落ちるなんて、かつての自分では考えられないことだ。どれだけ疲労が溜まっていたのかとはいえ、この状況で油断するとは。
「大丈夫よ、なんの変化もなかったもの」
フレーリアが、すぐ近くから優しく声をかけてくる。彼女は決してクオトラを責めないだろう。けれど、その優しさが逆に罪悪感を呼び起こす。責められた方が、どれだけ楽だっただろうか。
クオトラは、どうしようもない後悔を噛み締めながらも、少し体力が回復したことを感じていた。立ち上がろうと力を入れると、なんとか足が動いた。だが、全身に鋭い痛みが走り、額には汗が滲んできた。とりわけ足に負担をかけた覚えはないが、もしこれが毎回続くのならば……。
「クオトラ、大丈夫……? 貴方顔が真っ青よ」
フレーリアはクオトラの腕を掴み、首に回している。クオトラは彼女の肩を借りる形になった。
「すぐ近くに、人が通れるくらいの道を見つけたの。奥に小さな空洞があるから、少しそこで休みましょう」
断る余裕はなかった。クオトラは静かに頷き、フレーリアに案内されながら歩を進める。谷底の広場の端を伝って進むと、漏斗状に細くなる通路が見えたが、フレーリアが目指していたのはその手前の小さな横穴だった。
細身の人間が屈んでやっと通れるほどの狭い入り口を抜けると、短い斜面が続いており、その先には横になって休むことができる程度の空間が広がっていた。
「よく、こんな場所を見つけたね……」
クオトラが驚いたように口を開く前に、フレーリアが笑顔で言葉を返す。
「今の状態じゃ、進むことも戻ることもできないでしょ? 少し食料があるから、ちゃんと動けるようになってから進むことにしましょう!」
フレーリアは笑顔を浮かべている。その明るさに、クオトラは心の中で少しばかりの罪悪感を覚えた。彼女を巻き込んでしまっているのではないかと、そんな思いがよぎる。だが、その思いを口に出すのは彼女の覚悟に対する侮辱だと感じ、クオトラは黙って微笑みを返す。
フレーリアは荷物から炎灯と干し肉を取り出し、クオトラに手渡してくる。
「お腹が減っているつもりはなかったけど……」
そう呟きながら、クオトラは干し肉を口に運んだ。思ったよりもお腹が空いていたのか、口に入れた瞬間、胃が求めるように腹が鳴る。干し肉は塩気が効いており、噛むほどに香りが広がった。少量でも十分に腹が満たされていく。
食事を終えると、急に眠気が押し寄せてきた。
「いいわよ、寝ても。何かあったら起こすから、少し休んだ方がいいわ。クオトラ、あなたはもう十分に頑張ったもの」
フレーリアは優しい微笑みを浮かべ、クオトラを安心させるように言った。クオトラは彼女に感謝を込めて小さく「ありがとう」と呟き、壁に背を預ける。次の瞬間には、意識は深い眠りへと溶け込んでいった。
地鳴り、呻き声、そして異様な振動。そんな最悪の目覚ましにより、クオトラは目を覚ました。
「起きちゃうよね」
目の前に座るフレーリアの表情には、少し疲労が見えていた。まだ夢と現実の狭間にいるような感覚を引きずりながら、クオトラは彼女に尋ねた。
「大丈夫?」
「ええ、でもやっぱり慣れないわね。この唸り声を一人で聞いていると、どうしても怖くなっちゃう……」
笑ってはいるものの、疲労の色は明らかで、申し訳なさが心を締め付ける。
「ごめんね」
謝るクオトラの耳には、まだ遠くから聞こえる呻き声と地鳴りが響いている。洞窟全体に振動が伝わり、空気が不気味に震えている。どうやら外はもう夜のようだ。クオトラはゆっくりと立ち上がる。鋭かった痛みは消え、今は筋肉痛のような鈍い痛みだけが残っていた。
腕を軽く振ってみるが、どうやら問題はないようだ。クオトラは、体の修復力が以前よりも格段に上がっていることを感じ取った。
「もう体は大丈夫みたいだ。今日は帰ろう」
疲弊して見える彼女を心配した言葉であったが、彼女は首を横に振る。
「私のために帰る余裕があるなら、クオトラのやりたいようにやってほしい。あなたには目的があるんでしょ? 遠回りをしてる場合じゃないと思うわ」
フレーリアはクオトラに小さな光る石を差し出した。
「さっきの死竜たちの残骸の中から見つけたわ。これ、竜の欠片よ」
「ありがとう」
彼女が疲弊していたのはきっとこのせいだ。申し訳ないと思った。それでも彼女が自分の為にここまで協力してくれてる事実が、心の底から喜ばしかった。
受け取った欠片は濁った光を放っている。クオトラは欠片を握る。気を抜けば指の間からすり抜けてしまうほど小さな欠片も、力を加えた途端に考えられない位に、強い力ではね返そうとしてくる。
力と力の衝突に無理やり打ち勝つと、欠片が砕け手のひらに吸い付く。固体のはずなのにゆっくりと体の中に溶けていく。心臓を掴まれるような恐怖と共に、緩やかに力が増強される感覚が残った。
「クオトラ……? 」
「大丈夫、僕はどうやら竜に抗える体質みたいだから」
侵略してこようとする意思は確実に感じられた。それでも、僕という存在が竜を飲み込み取り込んだことがわかった。足りない。まるで足りていない。
きっとここにいる全てを狩り殺しても、雀の涙程度なのだろう。
「はは。今ならわかるよ」
彼が出していた炎を、今なら出せる気がした。
横穴を這い出でる。辺りの見た目は変わっていないが、天高くから異形の声が響く。きっと彼らも夜の終わりと共に、この辺りへ戻るのだろう。
「奥に進もう」
フレーリアは静かに頷いた。今回の目的は死竜の討伐ではない。すべての敵を倒してしまいたい衝動はあるが、それを抑え込み、二人は再び歩を進めた。
二人は奥へと進むにつれ、洞窟の雰囲気が徐々に変わっていった。広場から伸びる斜面は次第に石質になり、硬く滑らかな足元が歩みを速めさせる。登り坂であるにもかかわらず、足元から伝わる反発力が、足を軽く感じさせた。
「不気味ね……まるで人工的に作られたみたい」
フレーリアが壁に手を触れながら、疑い深い口調で呟いた。クオトラも同感だった。この洞窟はあまりに整然としていて、自然の産物とは思えない。特に、ところどころに現れた青白い光を放つ石が、異様な雰囲気をさらに強調していた。
「この光……何だろう?」
クオトラが石に目を向けると、その冷たい輝きが微かに洞窟内を照らしていることに気づく。石から放たれる青白い光は、暗闇に包まれた洞窟の中で視界を確保するには十分だった。足元に流れる小さな川の音が、静寂を破る唯一の音だ。
「きっと、ここの生態系に関連するものだと思うわ。自然のものか、あるいは……」
フレーリアが言葉を切り、耳を澄ます。洞窟の奥から、幾重にも重なった異形の唸り声がこだましていた。それはまるで生き物たちの哀れな叫び声のように聞こえ、背筋をぞくりとさせる。
「危ないと思ったら、絶対僕に近寄らないで」
クオトラが低く、しかし決然とした声で警告する。洞窟全体から響く謎の振動、そして唸り声は、明らかに何かが迫っていることを示していた。これまでに感じたものとは比較にならない数の敵が近づいていることは、直感で分かる。
「分かった。でもクオトラも無理しないで。倒れる前に引くのも大事よ」
フレーリアは後ろに下がり、クオトラの背中を守る位置に移動した。クオトラは彼女の存在を確認し、深く息を吸い込みながら前に進む。斜面は続き、次第にその傾斜が緩やかになってきた。耳を澄ませば、次第に唸り声が大きくなり、次の戦場がすぐそこまで迫っていることが分かる。
「ねぇ、クオトラ」
突然、フレーリアが声をかける。その声はいつもの元気な調子ではなく、少し落ち着いたトーンだった。
「クオトラは、生きていて楽しいって思う?」
不意を突かれたクオトラは、一瞬言葉を失った。フレーリアの顔を見ることはできなかったが、彼女の声色は冷静でありながらも、どこか感情を抑え込んでいるような響きがあった。
「思ってる……よ」
クオトラは少し間をおいてから、答える。
「そう……それならいいんだけど」
フレーリアの声は、それ以上続かなかった。二人の間に静寂が訪れる。何を返すべきか、クオトラには分からなかった。ただ、彼女の問いかけが心に引っかかったままだった。
さらに進むと、青白い光に混ざって、赤い光が視界に入ってきた。斜面は完全に平坦になり、岩盤が広がる空間が広がっていた。空は岩に覆われ、洞窟から脱出するためには、再び長い距離を戻るしかなかった。
「いる……」
クオトラは思わず呟いた。地面を覆うように無数の赤い瞳がこちらを睨んでいる。まだ気づかれてはいないようだが、彼らがこちらに気づくのは時間の問題だった。クオトラは気づかれぬように壁伝いに近づき、短刀を右手に抜く。
フレーリアは後方で静かに構えていた。クオトラは、彼女に微かな合図を送り、慎重に一歩ずつ前進する。異形の瞳がこちらを捉えた瞬間、クオトラは鋭く短刀を振り下ろした。
一匹目の死竜は、眉間を割られてそのまま崩れ落ちた。その瞬間、他の死竜たちも気づき、一斉にこちらに襲い掛かってきた。
「来る……!」
クオトラは短刀を握り直し、咄嗟に横へと薙ぎ払う。数匹の死竜が瞬く間に灰と化し、体に巻き上がった灰が舞い上がる。しかし、それでも次々と死竜たちが迫ってくる。数は多いが、その一匹一匹はクオトラの力に敵わない。しかし、相手は数だ。焦らずに戦わなければ、一気に押しつぶされてしまうだろう。
「焦るな、冷静に……」
自分に言い聞かせるように呟き、さらに二匹の死竜を一撃で切り倒す。しかし、右腕に鈍い痛みが走った。筋繊維が裂ける感覚。二度目の全力攻撃で、腕が限界に達したようだ。
「チッ……」
クオトラは短刀を左手に持ち替え、再び正面を見据える。灰が視界を覆い、敵の姿がぼんやりとしか見えない。だが、敵の気配は近い。クオトラは低く構え、次の攻撃に備える。だが、突然、足元から這い出てきた死竜が迫っていた。
「しまった……!」
右手で短刀を構え直す時間がない。背負っている長刀を抜く余裕もない。しかし、クオトラはその瞬間、意識の奥底で何かが弾けた。
「燃やして……やる」
心の中に沸き上がる怒りをそのまま力に変え、クオトラは右手を振りかざす。すると、目の前の死竜に向かって、突如として小規模な爆発が巻き起こり、死竜は衝撃で弾き飛ばされた。爆風はクオトラ自身にも影響を与え、体が後方へ押し戻される。
「……ルーシュさん」
かつて見た炎の力。クオトラは思わず笑みをこぼした。右目に僅かな熱を感じ、視界がかすかに赤く染まっていく。右手に熱が集まり、今なら分かる。自分の中に眠っていた力が目覚めつつあるのだと。
「クオトラ……今のは……」
フレーリアが驚いたように問いかけるが、その声はどこか冷静だった。彼女も気づいていたのかもしれない。クオトラの中にある力の片鱗に。
「今のはルーシュさんの力だよ。きっと死竜達の秘炎核を取り込んだから、使えるようになったんだと思う」
本当は違う。自分の力だということをクオトラは感じていた。胸の奥が熱くなり、内側から炎が湧き出てきそうな感覚。自分の体の中で目覚めた「秘炎核」が、この力を引き出したのだ。
深く息を吐くと、まるで吐息が炎になったかのように錯覚する。だが、その熱さが次第に全身を巡り、頭の中が重くなってきた。次第に体中の感覚が麻痺し、やがて立っていられなくなる。
「大丈夫、クオトラ!? 」
直前までは何ともなかったのだから当然だが、慌てた様子で駆け寄ってきた。いつもは温かいその手が、今の熱を持った体では冷たくすら感じる。
「ちょっと……」
クオトラはその場にしゃがみ込んだ。頭が重い、全身が熱い。体を動かす力が残っていない。フレーリアが慌てて駆け寄り、その手をクオトラに伸ばす。冷たい感覚が伝わり、彼女の手の温もりを感じることができなかった。
「クオトラ……!?」
彼女の心配そうな声が耳に届いたが、クオトラは応じる余裕がなかった。視界の先、灰が消えかけている。その先に見えたのは、無数の異形たち。彼らは再び襲い掛かってくる準備をしている。
「まだ……終わってない……」
クオトラは朦朧とする意識の中、無理やり立ち上がった。体は重く、足は震えていた。それでも、立たなければならない。ここで倒れるわけにはいかない。
「クオトラ……やめて……」
フレーリアが小さな声で訴えた。しかし、クオトラは無言で笑みを浮かべ、右手を再び翳した。
「全て……燃えろ」
クオトラは残された全ての力を振り絞り、目の前の死竜たちに怒りを叩きつけた。その瞬間、クオトラの中の炎が爆発し、目の前の全てを焼き尽くすように広がった。
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