第15話 死竜の渓谷 上
「落ちたら死ぬでしょうね」
「垂直落下したらそうかもしれない」
洞穴の中には小さな台地があり、その先はすぐに崖となって、深い谷へと続いていた。谷底を覗き込むと、まるで鈍い刃物で削られたかのようにギザギザの側面が広がっている。遠くまで見渡せないが、崖の対岸までの距離はおよそ二十メイルはありそうだ。飛び越えるにはあまりにも遠すぎた。
もし落ちてしまえば、生き残る可能性は限りなくゼロに近い。たとえ奇跡的に生き延びたとしても、この切り立った壁を登るのは不可能だろう。左右に視線を向けると、左側には緩やかな斜面が続いており、そこからなら谷底へと降りることができそうだった。
「夜まで上で待ち構えるか、下って狩るか」
クオトラは谷底を見下ろしながら呟いた。今のところ、死竜の姿は視界には入らない。ただ待つだけ――いつ襲われるのかも、どこから来るのかも分からない不安がある中で、じっとしていることがどうしてもできなかった。
「もちろん、進むんでしょ?」
フレーリアが笑みを浮かべ、斜面を軽やかに駆け下りる。その横顔が楽しそうに見え、クオトラは苦笑した。まるで心を見透かされたかのように感じ、彼も続けて斜面を下り始めた。
「暗くなってきた」
少し進むと、洞穴の入口から差し込んでいた光はほとんど消え失せ、足元をやっと視認できる程度の暗さになった。クオトラは不安になり、隣を歩くフレーリアを確認しようと振り向いた。彼女は棒状の何かを手にしていた。
「これを……よっと」
フレーリアが棒で壁を軽く叩くと、パッと音が弾けるように響き、棒の先端に光が灯った。暖かい橙色の光が周囲をぼんやりと照らし、微かな熱が伝わってくる。
「買っておいて良かったわ」
フレーリアは誇らしげにその光る棒をクオトラに見せつけた。
「それ、なんていうの?」
「ん? これは『炎灯』よ。未熟な竜の秘炎核から作った粉で光を生み出すの」
フレーリアはもう一本をクオトラに差し出す。クオトラは受け取り、彼女の真似をして壁を叩いてみた。すると棒の先端がパチリと音を立てて割れ、細かな光が集まり、気づけば橙色の光が灯っていた。
「こんな簡単に……だいぶ明るいね」
その光は、前方数メイルを優に照らし出し、暗闇に慣れていた目には十分すぎるほどの視界を確保してくれる。安心感が少しだけ胸を満たした。
進む先は、滑らかな斜面が続いていた。まるで誰かが通りやすく整備したかのような不自然さがあり、そのことがかえってクオトラの不安を煽った。これは、もしかすると罠ではないか? そんな疑念すら抱かせるほどだった。
「ようやく半分って言ったところかしらね」
天を見上げると、入口からの光は遥か遠く、もはや微かに視認できるかどうかという程度だった。静寂の中、耳を澄ますと、何かの生き物が動く音が微かに聞こえてくる。
「もう引き返すことは出来ないんだ」
クオトラは自分に言い聞かせるように呟いた。崖の際から谷底を見下ろすと、そこには赤く揺らめく光が点々と見える。死竜だ、その確信が、彼の胸を締めつけた。
「焦らないようにね」
フレーリアが柔らかい声でそう言い、クオトラの背中を軽く押す。強ばっていたはずの足は、意外なほど軽やかに前へと動いた。焦りも、不安も、今は感じない。ただ、自分の足が滑らかに動く感覚だけがあった。
谷底までの道は思ったよりも短く感じ、気づけば二人はそこに立っていた。薄暗い空間の中、真っ赤な光を放つ二つの物体――そして、おぞましい呻き声。その正体はわかっていた。死竜だ。クオトラはその姿に目を細め、一歩前に進むと死竜たちが一斉に彼を睨みつけた。
クオトラはすかさず姿勢を低くし、短刀を抜いた。そして次の瞬間、全身を引き絞るようにして身構える。
「ーーーッ!」
死竜たちは声にならない咆哮を上げ、一斉に襲いかかってきた。数はおよそ十匹、クオトラは一匹目を狙い、短刀で正面から切り倒す。心の中には怒りが燃え上がり、刀身は加速した。竜の胸部を裂いた瞬間、炸裂音とともに爆発的な衝撃が走り、竜の体は塵と化して消え去った。衝撃波は周囲の数匹の死竜をも吹き飛ばした。
だがクオトラの後方から襲いかかった死竜の牙が背中を捉えたようだ。
「ガはッ……ッ」
死竜の牙は鈍く、背中を貫くほどではなかったが、その重量は圧倒的で、クオトラの体は弾け飛ばされる。壁に叩きつけられる寸前で、彼は短刀を地面に突き立てて勢いを殺し、なんとか踏みとどまった。
幸い、壁を背にできたことで、状況は有利になった。残りの死竜たちは、目が悪いのかクオトラの姿を見失っているようだった。腐った体を引きずりながら、死竜たちは地を這っていた。
ぐちゃぐちゃと肉が削られる音、内臓が崩れる音が耳に響く。腐臭に思わず顔をしかめたが、クオトラは再び短刀を握り直し、低く構えた。視界の端でフレーリアが斜面を登っているのを確認し、ほっと息をつく。
「良かった」
彼女の存在すら忘れていた自分に驚きつつも、目の前の敵に集中する。心の中に渦巻く怒りと殺意が、再び彼の体を支配し始めた。殺せ、殺せと波のように押し寄せる衝動が理性を塗りつぶしていく。クオトラは大きく息を吸い込み、地を蹴った
一歩踏み出すと同時に、短刀を振り下ろす。技術も戦略もない。ただの暴力の一撃。腐りきった死竜の肉は、一瞬で裂け、骨をも砕きながら破壊された。死竜はその場で崩れ落ち、血と腐敗した肉片が飛び散る。
だが、奇妙なことに、その返り血はクオトラの体に触れた瞬間、瞬く間に蒸発して消え、まるで初めから存在していなかったかのように跡形もなくなった。残ったのは強烈な死臭と、空気中を舞う塵だけだ。
「なんだこれ……」
クオトラは短刀を振り払って塵を散らすが、その視線の先には、残った数匹の死竜がこちらを再び捕捉し、襲いかかろうとしていた。不意を突かれたクオトラは、右手に痛みを感じた。次の瞬間、鋭い衝撃が走り、短刀が手から弾き飛ばされてしまう。
「クソッ!」
死竜の牙がかすめたようだった。驚きに声が漏れるが、自分は意外にも冷静だった。体をくねらせて体勢を整え、即座に背負っていた長刀に手をかける。
「行くぞ……!」
長刀を抜き放ち、同時に地面を強く踏み込む。叫び声を上げると同時に、力任せに横薙ぎに振り払った。短刀に比べれば、その振りは遅く重い。だが、遠心力に任せて振り下ろされた極重の長刀は、簡単に死竜たちの身体を真っ二つにした。
残った死竜が断末魔の声を上げる中、クオトラは全てを斬り終えたことに安堵した。だがその瞬間、全身に電撃のような激しい痛みが走る。まるで外的な攻撃ではない、内側からくる痛みだ。
「これは……筋肉痛……いや……」
すぐにそれが何かは分かった。長刀の重さに耐えきれず、体が限界を迎えたのだ。まるで体の中の筋肉が悲鳴を上げ、肉が裂けるような感覚。足元は重く、木の棒のように固まった腕は、もう刀を持ち上げることすらできなかった。疲労感が波のように押し寄せ、その場に座り込んでしまった。
「クオトラぁぁあ!」
フレーリアの叫び声が聞こえ、彼女が駆け寄ってくるのが視界の端に入る。彼女の顔は青ざめていた。クオトラが怪我をしたと思ったのだろう。
「僕は……大丈夫だよ……」
立って安心させたかったが、足は言うことを聞かない。仕方なく、倒れたままでそう言った。死竜にやられた背中や腕に鈍い痛みを感じるが、幸い骨が折れているような感覚はない。牙が鋭くないせいか、背中に受けた一撃も表面を削る程度の傷で済んでいるようだ。
「心配するわよ。急に倒れ込むんだもの。でも、こうして笑ってる元気があるなら、大丈夫そうね」
フレーリアが少しだけ安堵した表情を浮かべる。彼女の表情は、クオトラの想像していた以上に強ばっており、恐怖や不安が色濃く現れていた。
クオトラは軽く笑みを浮かべた。痛みはあるものの命に別状はないことを確認し、なんとか少しでも彼女を安心させようとした。
「僕は大丈夫。心配しなくてもいいよ」
そう言いつつも、体は動かない。フレーリアは「良かった」と呟きながら、炎灯を地面に突き刺し、そのまま隣に座り込んだ。
「……思い出すよね」
「うん……」
彼女が何を指しているのか、すぐにクオトラにはわかった。嫌な匂いが鼻をつく。この腐敗した匂いは、かつて彼らが見た地獄の光景を思い起こさせる。しかし、慣れてきたのか、体が拒否反応を示すことはなかった。
「私、足手まといだよね……」
フレーリアの声がか細く聞こえる。その弱々しい声に、クオトラは驚きと嫌悪感を同時に覚えた。彼女のこんな姿は彼の知るフレーリアではない。いつも強く、気丈であった彼女が、今はまるで別人のように感じられる。だからこそ、その「らしくなさ」がどうしようもなく嫌だった。
しかし、強い言葉を投げかけようとした瞬間、誰かが心の中で「やめておけ」と制止するかのような感覚がした。
「……僕は、もう昔の僕じゃないかもしれない。でも、フレーリアがいてくれるから、昔の僕を思い出せるんだ」
自分でも驚くほど静かな声でそう言った。彼女の顔を直視することはできなかった。代わりに、クオトラは真っ暗な天井を見上げた。隣から小さな笑い声が聞こえてくる。
「なんだか、クオトラらしくないね」
「それは僕のセリフなんだけど」
彼女の言葉に、ムキになって反論してしまう。こんなやりとりが、まるで昔の二人に戻ったかのようで、少し不思議な感覚に襲われる。この場にはあまりにも不似合いな軽口――だからこそ、どこか懐かしく、そして心地よかった。
やがて、二人は顔を見合わせ、ふっと笑い合った。
「ちょっと安心した」
この場所がいつまで安全でいられるのか、誰にもわからない。だが、お互いその事実を知らないふりをしていた。クオトラが休んでいる間、フレーリアは立ち上がり、辺りの散策を始めた。
クオトラは釣られるようにして立ち上がろうとしたが、その瞬間、フレーリアの制止が入った。
「クオトラは少し休んでて。無理しないでいい」
彼女の静かな言葉に、クオトラは再び体を地面に横たえた。彼女の言う通り、この体では動けないし、まともに戦えもしない。今は無理せず回復に集中するしかなかった。
疲労にまみれた体を横たえながら、クオトラは洞窟の奥に目を向けた。当初の目的であった秘炎核、竜の欠片を回収するために――そして、自分の戦いを終わらせるために。
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