第14話 竜の渓谷

 何時なのかは分からない。目を開けた瞬間、光が差し込まない空間に違和感を覚えた。まるで時間が止まったかのような、奇妙な静けさが漂っている。体が重い。だが、それは目覚めたばかりだからだろう、自分にそう言い聞かせて、なんとか身を起こした。


「危ないよなぁ……」


 クオトラは目の前に転がる二本の刀を見て、苦笑した。無造作に置かれたそれらは、もし寝返りを打っていれば、体を傷つけていたかもしれない。彼は刀を拾い上げ、壁際に移動させると、再び座り込む。壁に背を預けながら、昨日の疲労がもう一度体を蝕むように押し寄せてきた。頭を振って、体のだるさを振り払おうとするが、そう簡単には消えてくれない。


「昨日の一日は……無駄じゃなかったよな」


 ぼんやりと誰にともなく呟く。その言葉は、空間に溶け込むように消えていった。体は休まっても、心はざわついたままだ。焦りが胸の奥からじわじわと広がり、何かを急かすように迫ってくる。すぐに動かなければ、自分が自分でなくなってしまう気がして、呼吸が荒くなる。落ち着け――自分に言い聞かせ、深く息を吸い込む。


 深呼吸を何度か繰り返すうちに、ようやく呼吸が少し整ってきた。


「今、何時?」


 突然、フレーリアの声が聞こえた。彼女は大きく伸びをしながら起き上がり、まだ眠たげに目をこすっている。


「僕も分からない。日が見えないし……」


「そっか……うん、行こう」


 彼女はあっさりとした調子で言うが、その足取りには迷いがなかった。


「うん」


 クオトラは二本の刀を手に持ち、工房の方へと歩き出す。ほんの一日しか滞在していないはずなのに、まるで長い間ここにいたような錯覚に襲われる。


 扉を開けると、シズキとフィニアが待っていた。シズキは手に二本の筒を持ち、クオトラに差し出す。


「依頼されてた鞘が出来たぞ。持っていけ」


「……完全に忘れてた」


 クオトラは受け取った鞘に刀を納めた。鞘はしっかりとした作りで、これだけでもかなりの重さがある。だが、これで背負えるようになったことが嬉しかった。


「嬢ちゃん用のも、これだ。長刀でいいんだな?」


 シズキがフレーリアに差し出したのは、彼女の背丈に迫るほどの長い刀だった。


「えっ、こんなに長い棒、あったっけ?」


 クオトラは不思議そうに首を傾げる。確か、最後に残った棒はもっと短かったはずだ。


「嬢ちゃんには長刀が必要ってことで、特別に作ってやったのさ。安心しろ、刀身には例の棒を使ってある」


 フレーリアはその刀を受け取ると、ためらうことなく背負った。


「訓練用よりは少し短いけど、十分ね」


「二人とも、ありがとう!」


「大事に使わせてもらうよ」


 クオトラはシズキに礼を言い、外へ出た。辺りはまだ暗い。ここが地下であることを再認識させられる。しかし、少し歩を進めると、斜めに差し込む陽光が緩やかな坂道を照らしていた。


「案内お願いしてもいい?」


 クオトラがフレーリアに声をかけると、彼女は笑みを浮かべて前に出た。


「任せて! クオトラのために色々調べておいたんだから!」


 フレーリアの声は活気に満ちていた。彼女は西に見える山を指さす。


「前にも話したけど、ネヘングルブの渓谷があの山の中腹にあるの。山脈を越えた先には『白の大地』と呼ばれる場所があって、その裂け目が嵐を呼ぶ……なんて伝説があるけど、まぁ、実際に行った人はいないみたい」


「裂け目か……」


 その言葉を聞いた瞬間、クオトラの中で何かが引っかかった。大切な何かを忘れているような気がするが、それが何なのか、どうしても思い出せない。


「大丈夫、クオトラ?」


「うん、大丈夫。続けて」


 フレーリアは少し不安げな表情を見せたが、それを振り払うように軽い足取りで坂を駆け上がる。クオトラもその後を追うと、暖かい陽の光がふたりを包んだ。太陽の光を浴びると、自分が生きているという実感が沸き上がってくる。


「ここは街の北西にあって、そこから西へずっと進むといいわ。あの山、見える?」


 彼女が指差す方向には、遠くにそびえる山脈が壁のように連なっていた。家々の隙間から見えるその巨大な山は、西から北にかけての空を遮るようにそびえ立っている。


「あの山の中腹に大きな渓谷があって、それが北の方までずっと伸びてるって話よ。王都の人がそう言ってたから、間違いないと思うわ」


 家々が次第に姿を消し、風景は木々に覆われ始めた。石畳は草の絨毯へと変わり、足元が沈み込む感覚が心地よい。深い緑が広がり、その中に焦げた色の葉が混ざっている。


「少し休むか?」


 額に汗が滲み、クオトラはフレーリアに問いかけた。


「これくらい、平気よ」


 彼女はそう答えたが、その声には微かに力が入っていた。クオトラはそれを察しながらも、これ以上突っ込むことはせず、歩調を合わせて歩き続けた。


 やがて、二人は山の中腹にたどり着いた。そこは、人の気配が完全に消え去り、自然が支配する場所だった。


「見える……?」


 息を切らしながらフレーリアが指を指す。クオトラが目をやると、そこには赤黒く澱んだ空間が広がっていた。その不気味な光景に、クオトラの胸がざわめく。既視感がある――それは、かつて見たものに似ていた。


「外からは、見えなかったんだな……」


 山の麓からは、この異様な空間が見えなかった。それが何故なのかは分からないが、何かが隠されていることだけは確かだ。恐怖というよりも、不快感が体中を覆っている。


「この渓谷の入口は、洞穴みたいになっていて、近くに来ないと分からないのよ。斜面と木々が覆いかぶさってるから、外からは隠れて見えないわ」


 フレーリアは淡々と説明しながら、洞穴の方へと足を向けた。


「渓谷って言うから、もっと開けた場所だと思ってたけど……」


 クオトラは不安げな気持ちを抱きつつも、彼女の後を追った。心の奥で何かが警鐘を鳴らしている。だが、ここが目的地だ――そう自分に言い聞かせて、一歩、また一歩と歩を進めた。


 洞穴の前に立つと、周囲の空気がどろりと体にまとわりつくような感覚が広がった。精神を引き締めなければ、この場所に飲み込まれそうだ。


「ここから先は……もう」


 フレーリアが静かに呟く。クオトラもその言葉に呼応するように、大きく深呼吸をした。


——奴らが出てくる。


 クオトラは理解していた。この洞穴の中で、暗くなれば何が待っているのかを。全身が緊張に包まれる。


 決意を込め、クオトラは洞穴の中へと足を踏み入れた。

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