第22話 真紅の終幕
フレーリアが家屋を背にしたのが見えた。調整できる自信はない。だが、それでもやるしかない。
クオトラの視界がぼやける。右手を空に翳し、大きく息を吸い込んだ。周囲の空気が熱を帯び、肌にジリジリと焼ける感覚が広がっていく。
「やるしかない……!」
心の中で叫びながら、彼は怒りを全身に巡らせ、力を解き放った。
ユスティレイが僅かに動きを止めた。彼女もこの瞬間に何かを感じ取ったのだろう。だが、それは一瞬のことで次には、きっと彼女が消える。クオトラの頭の中でそう確信が走る。全身に込み上げる感情を押し込めることなく、彼は全力で力を放出した。
「――ッ!」
広範囲を狙うしかない。座標を正確に狙う技術はまだ無い。せいぜい自分の周囲三メイルほどの範囲を守ることができれば十分だった。目の前に迫る攻撃を覚悟し、全意識をそのエリアに集中させる。
炎熱が辺りを覆う感覚。目の奥が焼けるように熱いがその感覚が、熱によるものなのか、それとも怒りによるものなのかが、もはや区別はつかない。薄く揺らぐ視界には、赤紫色の炎が周囲を包んでいるのが見える。揺らめく陽炎の向こうに見える家屋はまだ無事な形を保っている。それだけで、クオトラは最低限の制御は成功したのだと理解した。
だが、次に感じるべき衝撃が来ない。ユスティレイはそこにいない。彼女がこちらに向かってきていたなら、確実にダメージを与えられていたはずだ。
「なるほどね」
揺らめく炎の中で、人影がぼんやりと現れた。ユスティレイの声だ。酷く落ち着いた、そして余裕のある声。
「耐えやがる……よな」
倒しきれるだなんて、奢りは無かった。それでもこんな余裕の声を聞くと心が折れそうになる。せめて……と、声が聞こえた炎の隙間に目を凝らす。
彼女の声を聞いた瞬間、クオトラの心は折れそうになる。自分では到底届かない、圧倒的な存在を目の当たりにしているような感覚。
クオトラは恐る恐る視線を炎の隙間に向けた。そして見えたのは、炎の中をまるで何も感じていないかのように進むユスティレイ。所々に焼け焦げた跡があるが、それは彼女にとって些細なダメージでしかないだろう。焦げた衣服の隙間から見える肌はほぼ無傷だった。
「なんて表情をしてるんだ。ただの人間にしては……と褒められたいか? 俺もアンタも、お互いにそんなの時間が無駄だろう。でも、アイツには遠く及ばないにしろ、そんな奴もいたんだって思い出せたぜ」
表情は特に変化していない。そう思った直後、彼女の瞳に一瞬だけ怒りが浮かんだ。鋭い視線がクオトラを捉えたその瞬間、彼女が全力で攻撃を仕掛けてくると確信した。殺すための一撃だ。
力の抜けた右手に喝を入れ、短刀を握り締めた。瞬間、目の前にいたユスティレイの胸部が赤く発光した。
「神を屠った一撃だ。誇ってもいいぜ」
クオトラの心は叫び、体は勝手に反応していた――だが大きく横に跳んだ直後、稲妻のような光と衝撃が左肩に突き刺さった。
「な、に……!?」
全身の力が一瞬で奪われ、左肩に走る鋭い痛みが体中に伝染していく。肩が焼けるように痛む。痛みに震える体が、自分のものではなくなったかのように鈍く反応する。だが、クオトラは視線を逸らさない。視界に映るユスティレイの姿。それが唯一、彼の意識を繋ぎ止めている。
「動け……!」そう心の中で命じるが、左肩は全く反応しない。激痛が脈打ち、動かすたびに骨が砕けるような感覚が襲う。それでも、彼は右手を無理やり動かした。震える手で短刀を振り下ろす瞬間、クオトラは全身の痛みを忘れるかのように力を込めた。
手応えはあった。
だが、それはわずかに爪が掠った程度の感覚だった。気づけば、肩に突き刺さっていた重い何かは消え、ユスティレイの姿もいつの間にか消えていた。
「勘が良かった……そんな言葉で片付けたくはないがそうとしか言いようがない。だけど、それは自分を苦しめるだけだぜ」
ユスティレイの声が背後から聞こえた。クオトラが振り返ると、彼女は不機嫌そうな顔をしながら、血に染まった自分の爪を見下ろしている。
「だけど、次は無いぜ」
ユスティレイの顔にはわずかに苛立ちが見える。クオトラの攻撃が成功しなかっただけではなく、今もなお生き残っていることに対する苛立ちだ。
左半身の痛みは凄まじく、呼吸が困難になり始めていた。だが、クオトラは倒れなかった。
「クオトラ……」
声が遠くで聞こえた。その声に、かろうじて意識をつなぎとめたクオトラは、崩れ落ちそうな身体を無理やり起こした。
「まだ余裕があるとは、驚かされるよ。だけど残念だね、ただの人間として生きれていれば、こんな苦しみを味わうことなく済んだのに。どんな経緯かは知らないけど、そんな姿にしたレウェルシュのことを恨んで逝きなよ」
ユスティレイの冷笑とともに、彼女がゆっくりと近づいてくる。彼女は絶対的な優位を確信しているのか、焦る素振りも見せない。せめてフレーリアだけでもと叫びたいが、肺が壊れているのか、息の量が足りず声が出ない。
何か手段はあるかと、思考を巡らせるが何も浮かばない。足掻くのならば、倒しきれないと分かっていても、抵抗する術は一つしかない。
力を集約させるようにして、ユスティレイの目の前の空間に火球を発生させる。
しかし、無情にも火球軽く払われただけで消え、ユスティレイは何事も無かったかのように進行を再開した。
赤紫色の凶爪がこちらに向いている。全てを貫き、切り裂くだろう恐ろしい爪。全てを壊すそれが、今この瞬間にだけは、クオトラという一人の人間を殺すためだけに存在していた。
ひたすらにまだ死にたくないと叫ぶ声が聞こえる。力の入らない右手を、ユスティレイへ向けると彼女は小さく微笑んだような気がした。ぞわりと背筋を、冷たい何かが伝った。
「クオトラ!!」
死を悟った瞬間、フレーリアの声が聞こえた。木偶のように強ばってしまった体が、無意識に動く。
その瞬間、フレーリアの叫び声がクオトラの耳に届いた。彼女が手を振ると、蒼い光がクオトラの方に向かって飛んできた。ユスティレイが反応し、焦ったように手を伸ばすが、蒼い光はクオトラの手中に収まった。
「ふざけるな……!」
ユスティレイの怒声が響く。彼女が再び腕を伸ばし、クオトラに迫る。だが、その瞬間――クオトラは迷わず手中に収まった蒼い欠片を口に入れ、飲み下した。
「――ッ!?」
胸の中心が突然、激しく熱くなる。局所的に出現した熱は瞬く間に全身に広がり、クオトラの体内だけでなく、周囲の空気すらも焼き焦がすような力が放たれる。
「あ……ああぁ……!」
クオトラの体内を駆け巡る力は、まるで圧倒的な存在が稲妻のように駆け抜けていくかのようだった。視界が揺れ、気持ちの悪さが一気に押し寄せる。意識を保つことすら精一杯だった。
「くそ……!」
視界の端に映るユスティレイは、近寄ることが出来ないのか、ただこちらを睨んでいるようだ。様々な思考、記憶、力、複雑に入り組んだ自分以外の存在が流れ込んでくるが、その全てを全力で無視する。
クオトラは必死に内に湧き上がる混乱と戦う。外から流れ込む記憶、思考、力。それらが複雑に絡み合い、自分の意識が飲み込まれそうになるのを必死に耐えた。自分以外の存在が、まるで心臓の鼓動を刻んでいるかのような恐ろしい感覚に、内臓が痙攣し、脳が震える。
「くだらない……選ばれてもいない、人間風情が……」
ユスティレイの声に覇気はない。代わりに、どす黒い恨みの籠った声が聞こえる。どうしてだろうか、つぶやき程度の小さな声が、やけに鮮明に聞こえた。知っている。同じように選ばれたはずの存在なのに、心優しく、他の人間に対しても対等に接してくれていた存在を。
「だからお前は僕に負けるんだ……一度は勝利したからと舐めきった末に……元はただの人間だったこの僕に」
力が溢れてくる。何が出来るのか、どう出来るのかを言語化することは出来ない。全身が気だるく今にも倒れそうだ。それでも、今はもう負ける気がしなかった。
「知ったような口を聞くんじゃない!!」
ユスティレイが怒りを露わにした。こちらに向かってくることが分かる。
"そこに張り付いていろ"
その言葉は、クオトラの心の中から自然に出たものだった。肩に刺さっていた痛みすら感じない。無意識に発した言葉が、彼の身体を動かし、ユスティレイに向けて意志を放った。
「な、なんだ……?」
ユスティレイが驚愕の表情を浮かべる。彼女は、まるで見えない力に押さえつけられるかのように、地面に倒れ込んだ。うつ伏せになったその姿は、何とか動こうとしても、まるで地面に吸い込まれるかのように身動きが取れない。
「くそっ……!」
あの時のルーシュですらも逃れられなかった力。きっとユスティレイにも逃れることは出来ないはずだ。
ずきりと突き刺すような痛みが、前頭部を襲う。これ以上使うべきではないのだと、体が信号を出しているような気がした。それでも、そんな叫びすらも聞かぬフリをして、ユスティレイへ歩み寄る。
「忌々しいね。もう居ないと思っていたのに、またアンタの力にやられるなんて。俺はいつからこうなってしまったんだろうな」
うつ伏せのまま、ユスティレイは静かに呟いた。彼女の声は、もはや戦いの意志を失っているかのようだった。
「僕はお前が嫌いだ。理由は……分からないけど、嫌いなんだ」
クオトラの声は震えていた。それでも、彼の左腕は迷わず動いた。白銀に輝く爪をユスティレイに向ける。彼女がかつてどんな存在だったとしても、今はもう迷うことはできなかった。だが、震える右腕が彼の内心を物語っている。憎しみだけではない。怒り、哀しみ、そしてほんの少しの共感。
「どうした……。今更人間アピールは辞めろよ。俺だって死ぬのは怖いんだ……とどめを刺すならさっさとやれよ」
ユスティレイはかすかに笑い、挑発するように言った。その言葉には怒りも苛立ちもない。むしろ、どこか清々しささえ感じられる。
「……俺だって、死ぬのは怖いんだよ」
ユスティレイの声が、酷くかすれていた。それは、彼女の本音なのだろう。強がりも、怒りも、その声にはもうなかった。
「でも、これは一度目じゃない……俺は、何度も死んだ。そしてその度に蘇り、長く生き過ぎた……。人間であったはずの自分が、今じゃ何なのかすらも分からない。竜として支配されるこの体が、何なのかも……」
その言葉に、クオトラは一瞬立ち尽くす。ユスティレイの目は、虚ろに遠くを見つめているようだった。彼女が抱える苦しみ、哀しみ。クオトラには、それがどこかで自分とも重なって見えた。
「もういいんだ……奴には悪いが、最後くらいは、竜ではなく一人の人間として……終わらせてくれ……」
ユスティレイはそう言って、力なく笑った。威圧するような声色はもう見る影もない。
「そうか」
ユスティレイが、呪縛に囚われた一人の人間だと分かったせいか、体の震えが止まったようだ。それでも、貼り付ける力を使っている限り、命を削られているような気持ち悪さは消えない。
「もういいよ。私はもう竜に支配されてないから」
彼女の心境は分からない。だが、クオトラは早く楽にしてやるべきなのだと思っていた。左腕が白銀の光に包まれる。頼りなく、柔らかそうな背に左腕を振り下ろすと、真っ赤な血と嗚咽が聞こえた。
「これを……」
ユスティレイは顔を見せようとはしなかった。だが、彼女の手が差し出された。クオトラがその手を見ると、深紅の光を放つ石が握られていた。
「ありがとう」
受け取ると、その腕は力をなくした。
「クオトラ……」
まだ憎いと思う自分と、不憫に思える自分がいた。どんな事情があったのかは分からない。それでも完全な悪者だと断定したくなかった。ルーシュから見たユスティレイと、クオトラが見たユスティレイ。表面上は同一だが、根本にあるものは別物の様に見えた。
赤い石を握り締め、そこに居る人を見つめる。
「埋めてあげよう」
二人は、かつて生まれ育った街の入口にユスティレイの墓を作った。彼女がかつて、どんな存在であったとしてもそれが、クオトラの心に決着をつけるために必要なことだったのだ。
暗い気分を立て直す余裕もなく、クオトラの体には激しい疲労感と吐き気が襲ってきた。
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