1-10 お早くお帰りください
「きっと、魔法というのは、あの馬車と同じなんでしょうね」
リナリアがつぶやくと、バーミリオンが眉を寄せて首を傾げる。
「同じ、とは……?」
リナリアは慎重に言葉を選びながら発言を続けた。できるだけ、お互いの従者に聞こえないように小さい声で。
「……この前読んだ本に書いてありました。国や地域には、『文化』というものがあります。北方の雪用の馬車は、その地域の文化です。なら、アルカディールの魔法も文化なのでしょう。文化は尊重するものだとも書いてありました。リナは、バーミリオン様が魔法をお使いになるのを、尊重したいです」
およそ5歳児が言うような発言ではない。それはわかっている。けれど、今、言っておきたかった。バーミリオンが、魔法を嫌うこの国を憎んでしまうかもしれない、その前に。
バーミリオンは、ふっと笑った。
「ありがとうございます。リナリア様はたくさん勉強しているんですね。私も帰ったら、『文化』について勉強してみます。レガリアの魔法を使わない『文化』も、もっと知りたいです。魔道具や魔力がないときにも、役立ちそうですし」
(素直な方……。社交辞令だとしても、7歳の子供が言えることではないわ)
馬の
バーミリオンこそ、幼いのにどれほど勉強をしてきたのだろう。例えば勉強嫌いの兄に今の話をしたとして、言葉の意味から調べるところからかもしれない。
リナリアはバーミリオンの前に立ち、真剣な顔でその顔を見つめる。
「バーミリオン様。今日は、お早くお帰りください」
「えっ……?」
バーミリオンは驚いて目を丸くする。
「どなたかがお話しているのを聞きました。バーミリオン様は、もうすぐお兄さまにおなりなんですよね?」
アルカディールの王妃が懐妊中なのは、貴族の中では有名な話だ。直接聞いてはいないが、どこかで小耳に挟んだと言っても不自然ではないはず。バーミリオンは「はい」と真面目な顔で頷いた。
「赤ちゃんが産まれるの、早まることもあるって聞いたことがあります。王妃さまも、バーミリオン様のお顔をご覧になれば、きっとご安心なさいます。どうぞ、お早くお帰りください」
じっとバーミリオンを見つめる。彼の目には戸惑いの色が見受けられた。カーン、カーンと蹄鉄に釘が打ち込まれる音が響く。
「おねえちゃま、どうしていじわるいうの? ヘレナも、リオンちゃまとあそびたいし、おはなししたいのに!」
そこへ幼い声が割って入った。
いつの間にか、ヘレナが世話係と手をつないで後ろにいた。世話係のエリカは申し訳なさそうにぺこぺこと頭を下げている。
「申し訳ありません。ヘレナ様がどうしてもお兄さまやお姉さまのところに行きたいとおっしゃって……少しだけ見たら、お部屋に戻りますので……」
「まあ、エリカ! ヘレナ様は本当は5歳になるまでお客様にお顔を見せてはいけないのよ……ここにはまだお客様もいらっしゃるのに……」
「す、すみません。エンデ夫人……」
ばあやが困った顔で溜息をついた。エリカはベテランのばあやと比べて年若く、押しに弱いタイプで、子どもにさえも弱かった。
「……いじわるではないわ。もうパーティーは終わったのですから、ご用事は済んだはずです」
意地悪と言われると、ちくちくと胸が痛む。実際、自分の誕生パーティーのために来てくれたお客様に対して、「早く帰って」と言うのはいかにも感じが悪い。
それでも。
嫌われたっていい。変に思われたっていい。とにかくできるだけ早く帰って欲しい。
「お早くお帰りください。必要なら、わたくしの馬車も、馬も、お使いください」
バーミリオンはハッと顔を上げて蹄鉄を打たれる馬を見ると、ぶんぶんと手を振る。
「いえ、それは! リナリア様のお誕生日プレゼントです。私が使うわけにはいきません」
「わたくしのモノですから、わたくしが使いたいように使うのです。お気になさる必要はありません。お早く、お帰りください。バーミリオン様」
だんだん目に涙が滲んでくる。今の自分には、真っ向から訴えることしかできないのが悔しい。きっとバーミリオンの従者やばあやは怪訝に思っているだろう。バーミリオンの目を見つめて、祈るように、両手を合わせる。声が震える。
「このまま雪が続いて、バーミリオン様がお帰りになれなくなると、こ、困ります……帰って、ください」
(お願い、帰ってください。一刻も早く、帰ってください)
沈黙。蹄の焼ける匂いと、蹄鉄を打ち込む音。バーミリオンの目が揺れる。
「リオン! 外見たか? 雪、まだまだ降りそうだし、結構な高さまで積もりそうだろ。今日は城に泊まってさ、明日一緒に雪遊びしようぜ。もし溶けなかったら、2、3日いたって構わないだろ?」
兄がディートリヒを引きずるようにしてこちらに走ってきた。
動悸が激しくなる。
バーミリオンはグラジオの方を見て、少し考えるそぶりをした。
「……? どうしたんだよ。なんか変な空気……いつの間にかヘレナもいるし」
「おにいちゃま、おねえちゃまがリオンちゃまにいじわるいうの」
ヘレナが兄の近くに行き、甘えるように手をとってゆらゆらと揺らす。
「意地悪?」
「うん、あのね、」
グラジオが泊まるように説得を始めたら、話がこじれそうだと思ったその時、ヘレナを遮って、バーミリオンが口を開いた。
「グラジオ。誘いはありがたいけど、今日は帰るよ」
バーミリオンは、キッパリとそう言った。
グラジオは意外そうに「えっ」と声を漏らす。
「そうは言っても、もう積もりかけてるし、絶対泊まってったほうがいいって。森もあるし、雪道危ないだろ」
「ねえ、リオンちゃま、あそびましょうよ。ヘレナねえ、ゆきうさぎつくるの!」
雪道の心配はもっともだし、兄としては王都ではめったにない大雪の日にちょうど隣国の友人がいるなんて、今後二度とないかもしれないと思っているのだろう。その気持ちもわかるので、少し胸が痛い。
ぐっと、唇を噛む。
リナリアだって、前のときは一緒にいたかったし、遊びたかった。きっと楽しい一日になると思った。誕生日が二日続くような気がして、わくわくしていた。けれど、その後で「バーミリオン様がパーティーに来ていなければ」と何度思ったことだろう。
バーミリオンはグラジオに首を振り、庭園側の窓を眺める。雪はまだ強くはないが、確実に降り続いている。
「これからうちの御者や従者とも相談するけれど、気になることがあって。できるだけ早く城に帰りたい。ええと、グラッセン子爵の……」
少し間があって、自分が呼ばれたことに気づいたディートリヒがぴんと姿勢を正した。
「あ、ぼ、ぼくですか。ディートリヒと申します」
「ディートリヒ殿。馬や馬車について、相談に乗っていただいてもよろしいですか」
「えっと、はい。ぼくたちで良ければ。全然」
「じゃあ、グラジオ。帰る時には改めてご挨拶するよ」
ディートリヒはこちらに一礼してから、バーミリオンをグラッセン子爵や御者のいる方へ連れていった。
「なんだ。帰るのか……ちぇ」
兄はつまらなさそうに口を尖らせ、ヘレナをひょいと持ち上げた。
「わぁ〜!」
「ヘレナはいつの間にリオンに会ってたんだよー。父上に怒られちゃうぞ」
それからチラッとリナリアの方を見たが、肩をすくめてヘレナをエリカに渡した。
「エリカ、そろそろヘレナを部屋に戻した方がいいよ。ヘレナ、明日はいっぱい遊んでやるから今日はおとなしくしてな」
「は、はい。王子……」
「むうー……おにいちゃまも、ゆきうさぎつくるのよ! ぜったいよ」
エリカはまだ不満げなヘレナを抱いて、慌てて戻って行った。グラジオも従者に声をかけ、その場を後にするらしかった。去り際にくるっと振り返る。
「リナも! 今日は誕生日だけどさあ。もう赤ちゃんじゃないんだから、あんまりわがまま言って人を困らせたらダメなんだからな」
兄が、兄らしいことを言っている。
「……はい」
「……はあ。リオンのやつ、言い出したことは曲げないからなあ……」
元気のない足取りで戻る兄の後ろ姿を見送ってから、馬の側で集まって何やら話しているバーミリオンたちを見つめた。ばあやが遠慮がちに近づいてくる。
「姫さま、よかったのですか。バーミリオン王子にはもう一日泊まっていただいても良かったのでは……」
「いいの。早く帰っていただきたいの」
「姫さまのできたばかりの馬車をお貸ししてでも……?」
「うん」
(だってそのために、用意してもらったんだもの)
最後にバーミリオンの横顔をじっと見てから、改めてばあやに笑いかけた。
「……今日は、きっと全部上手くいくのよね」
ばあやは優しい顔で、リナリアの頭をなでてくれた。
結局、グラッセン子爵とその御者の見立てでは、「今すぐに帰るならば、国境までは専門の装備がなくても大丈夫だろう」ということであった。リナリアの雪用馬車は、晴れて翌日の雪遊びでデビューを果たすことになったのだった。
バーミリオンが国王にこれから帰ると挨拶に行くと、国王は「泊まっていけば良い」と言ったが、丁重に断ったそうだ。リナリアが早く帰るよう言い続けたことは、一言も言わなかったらしい。
リナリアは、廊下の窓からバーミリオンを乗せた馬車が出ていくのを静かに見送った。
〈あやつ、帰ったのじゃな。お前の『わがまま』は効いたか〉
クロックノックがパタパタと肩に飛んできた。ふわふわの羽毛が頬に触って気持ちがいい。
(多分……。でも、強引でしたわね。真正面から言うより他、思いつかなくて)
〈結果的にはなんとかなったからええじゃろ。これが良い方に向かえばいいんじゃがな〉
馬車が森に飲まれていく。あの時、火の手が上がっていたのが脳裏に浮かんで反射的に後ろを向いた。
(頑張ります。そのためにも、今日から色々とお話をお聞かせくださいませね。クロックノック様)
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