第60話
「あ、あはは……」
蝶番さんは血相を変えて僕を見ていた。後ろにいた人は不思議そうにしていたけれど、しばらくしてからすぐに席へ座った。ちなみにこの人との面識はなく、喋ったことなど一切ない。しかし邪魔をしていたのは僕である。大いに反省。
蝶番さんは動かなくなってしまった。石にでもなったかのように、再生中の動画が突然止まってしまったかのように、一切の動きをしなくなった。静止してしまった。息もしていないのかもしれない。それはもうすでに生命活動を停止しているな。逆に怖い。
動かなくなった彼女を再起動させるべく、声をかけてみる。
「あのー、蝶番さん?」
「……」
「あのー……」
「……」
反応なし。対処法なし。しかし問題あり。
どうしよう。どうすればいいのだろう。どうしたら、彼女は僕に反応を示すのだろう。
今度は声をかけるだけではなく、軽く肩をポンポンと叩いてみた。
「蝶番さん?」
「……あ、オタク」
「蝶番さん……。やっと反応してくれた。僕、心配になってたよ……」
「え、え……。て、てか、オタク……?」
「え? うん。そう呼ばれてはいるけど」
「オ、オタ、オタク……、なんで……」
「なんで、と言われても。塾に来たんだけど」
「い、今の会話……聞いてたの……?」
「ん?」
今の会話、というのは、先程の彼女が停止する前に塾の先生と話していた時のことか。
「ああ、うん。それなりには聞こえてきたよ。聞いてたわけじゃなくて、聞こえてきたってことが重要だね」
「あ、あぁぁぁぁぁ〜〜〜……!!! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬぅ〜〜〜……!!!」
急にどうした。いきなり言葉にもならないような悲鳴をあげて、本当にどうしたのだろう。死ぬ? 蝶番さん死ぬのか? それは大変だな、大丈夫だろうか。
その後の蝶番さんは、自分の会話を僕に聞かれていたということで、急激に恥ずかしくなってしまったためか、顔を赤くしてすぐに両手で隠してしまった。ただ、彼女は手で隠しているものの、隠す寸前に僕とバッチリ目が合い、さらに彼女の赤くなった顔を確認した。
それに反応したのか分からないけれど(多分そう)相互関係のように、僕も顔を赤くしてしまった。はい、こうして何が作り上げられたのか答えてみてほしい。正解はこれまで以上に気まずい空気が作り上げられたのだ。
まだ塾に着いたばっかりだぞ。蝶番さんとはしばらくの間会っていなかったし、そもそもその間は塾には顔すら出していなかった。会う前から僕としては気まずいようにも感じられたが、ここまで来ると、なかなか気まずいという空気を超えるものになるぞ。
彼女は顔を覆い隠している。
さて、ここからどうするよ、僕。
****
チラチラと視線を感じる。
「隙間から見てるよね、蝶番さん……」
「……」
「……」
何か言えよ。
指と指の隙間からの視線はすごく分かりやすかった。チラリチラリと僕の方を見ては、視線を外す、もしくはその指の隙間をなくすようにして、あたかも何事もなかったかなように装った。いや、めちゃくちゃ分かりやすいからね?
しばらくそのやりとりをする。遠くにいる先生はずっとニヤニヤとしていて、冷やかしてもからかってもいないのだが、妙にイライラする。なんだよその、楽しそうな表情は。こっちは気まずくてしょうがないんだぞ。
ま、まあ……気まずくさせたのは僕なんだけど、僕が気まずいと思ってしまうのは、完全に蝶番さんが原因だと思っている。期待、という言葉を使った彼女。その意味をようやく察して、ようやく察した挙句に待っているのが、この気まずさ。
「ご、ごめんね。勝手に、何も言わずに来なくなったりして……。僕としても理由があったんだ」
「……」
「実家に帰っててさ、まあ、それだけが理由になるんだけど。ただ、これはとても重要なことだったから、その……外せないことだったから」
「……ん」
顔から手を離した彼女。
「ん? 今、何か……」
「ん。分かった。言ってくれてありがと」
気まずさが薄れた……気がする。よく分からんけど。油断禁物だけど。僕が彼女の気に触るようなことをしなければ、言わなければいい。
「アタシもごめん……。あんなこと言って……。強く言いすぎた……」
「い、いや、いいよ。僕の方が悪いんだし」
「あの後、ずっと悩んでた……。アンタ、本当にもう来ないんじゃないかって……。それは、嫌だった……」
「僕も考えたけどね。行こうか、行かないか。なんか、蝶番さんとは仲が悪くなっちゃって、行きにくかったし」
「……ん」
「そ、それに……」
掘り返すつもりはなかった。でも、口走ってしまう。
「き、期待ってなんだろうって考えてたら、もっと行きにくくなっちゃうし……」
蝶番さんは何も言わなかった。何も、何も。静かに、していた。
その瞳は、確かに綺麗なものだった。それでいて、どこか希望に満ち溢れて、とても嬉しく思っている、そんな瞳の色だった。嬉しそうにしつつも、それを表情では表さない。静かに、彼女は佇んでいた、
「……ん。勉強」
「あ、ああ、うん。勉強だね」
「ここ」
「ここだね? うん、ここはこれを使えばできると思うよ」
「……ん。ありがと」
「どういたしまして」
いつもの感じに戻ったけれど、しかし、どこか恥ずかしさも感じられた。
先生はニヤニヤから、ニコニコとした優しく見守るような笑みを浮かべていたのだった。
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