第49話

「早く塾に来い! アンタがいないと物足りないのよ! 早く!」


 電話越しに怒鳴られる。久しぶりにこんなふうに怒られたと思う。帰ってきてからというものの、説教というよりは説得というのが多かったからな。蝶番さんとの通話は自分がどんな人間なのか、しっかりと思い出させてくれた。


「感謝……」

「はぁ? アンタ何言ってんのよ?」

「なんでもないです」


 口に出したけど、とりあえず誤魔化した。


「と、に、か、く! アンタ今どこにいんのよ」

「遠くの場所」

「どこよ」

「遠く、遥か遠くの建物だよ」

「住所教えて」

「無理。色々と面倒なことになるから無理。そもそも僕がいる建物の住所が、本当の住所なのか分からない。偽装してる可能性もあるし……」

「え、何? よく聞こえないんだけど?」

「なんでもないよ。気にしないでね」


 また誤魔化した。意外と蝶番さんって誤魔化したことに気づかないのだろうか。チョロいとか思われないのかな。美人だしスタイルもいいから、男性からはそういう視線で見られているのも分かっているだろうな。


 チョロいとすぐに振り回されてしまいそうだ。……なんか嫌だなぁ。別に僕のことじゃないのに、なんでこんなこと思っちゃうんだろう。


 もういいや。もう、考えるのやめた。


「もう! 早く来なさいったら! 遠くのどこかなよか知らないけれど、とりあえず塾には来なさいよ! アンタが塾に来るのはアタシがいるからなんでしょ! なら早く来てよ!」

「ちょっ……。あんまりそういうことを大声で言われると、恥ずかしいんだけど……。周りには人もいるんでしょ?」

「知るか!」


 耳が痛い。大声すぎて鼓膜の振動が正常に効かない時もある。……蝶番さんの声って高いし、何気に鋭いんだよなぁ……。


「ねぇ! 来てよぉ!」

「だから無理なんだって……。今は無理なの……。こっちにも事情があるんだから、しばらくは我慢してよ……」

「うるさい黙れ! アンタはアタシのために来てるんでしょ? あんなこと言っといて、まさか来ないとかある? アタシはいつもアンタに教えてもらえるから毎回来てるって言うのに……!」

「ご、ごめん……」

言うんだったら、もう来なくていいわよ! 二度と来るな! このバカ!」

「え、蝶番さん……!?」


 えぇー……。キレられた。めちゃくちゃに……。


 悪いことなんて、僕、何も……。


「いや、やってるわ。今こうして塾に行っていないのが悪いことだわ。ごめんよ蝶番さん……」


 その場に本人はいないけど、謝っておくことにした。しかし、仲がこの前と比べるとかなり悪くなってしまったな。


 うん……。また罵倒される日々が続くのだろうか……。恐怖を覚えた。



 ****



 あくまでも施設の人間として生きている僕の双子の弟……晴。今日は施設で一日を過ごすらしい。そのため実家に帰っての食事はしないし、実家のバスルームに足を踏み入れることはないし、そもそも玄関にすら触らない。


 施設で食べて、施設で体を清め、施設で寝るのだ。


 そして、一生を施設で過ごす……。この上なく楽しみのない人生だと思う。早く施設から出たほうがいい。いい加減親の言うことばかりを聞くのはやめろ。そうやって、晴には何度も言っているのだけれど、しかしアイツは事あるごとに、『俺がいなかったら、誰がこの家を継ぐんだ?』と言ってくる。


 ……僕があのまま残っていれば、晴は自由になれたのかもしれない。僕があのまま親の敷いたレールを歩いていけば、アイツは楽しく生きられていたのかもしれない。


「罪だよなぁ……」


 自分勝手なところが罪だ。そう感じた。


 しばらくして、両親が帰ってきた。今日の食事は両親と僕の三人のみ。晴は施設にいる。


 黒山に呼ばれ、のそのそとした足取りで廊下を歩いた。重いのだ、足が。色々な事情があってここに滞在しており、バイトや塾などに少なからず迷惑がかかっていることを考えると、やはり申し訳なく思う。


 特に蝶番さん。彼女があんなに怒るとは思わなかった。前回に行った時に教えておけばよかったな。でも、ああ、教えるべきことでもなかったし、彼女には関わってほしくないことでもあったため、やめたのだっけ。


 ごめんね、蝶番さん。心の中で謝った。


「それより、『期待させるようなこと』ってなんだろう。そもそも期待って、何に対しての期待なんだ?」


 考えても埒があかない。この場に蝶番さんはいないし、聞いたところで返ってくる答えはお怒りのお言葉だろうし。


 そうしているうちに食事室に着いた。大きな扉を開けてみる。


「……」

「来たか」


 父さんがいた。その横には母さんも。そして……。


「え……?」

「ふん。第一声は『え』か。そんな間抜けヅラをしているということは、さまざまな状況に応じることが苦手なようだな、三司曇」

「いや……誰……」

「私か? ひどいなぁ、お前は。声を聞いているというのに、なぜ気づかない。なぜ分からない。もしや記憶を司る海馬に異常でも発生しているのか、三司曇?」


 電話。声。口調。


 男っぽい口調の、白髪の少女。ベリーショートの髪型。背が高く、スタイルがいい。足が長く、細い腕。透き通るほどに真っ白な肌は、着ている衣服に同化しそうなほどだった。


 その衣服……。それは白衣であった。


「この灰原雛ひなが直々に挨拶にやってきたぞ! 感謝しろ、三司曇!」

「はい? これはどういう……」

「何!? き、聞いていないのか!?」


 灰原雛は父さんの方を向いて、驚いた表情を見せた。


「ああ、曇。言ってなかったな」

「どういうことだよ?」

「この灰原雛はな、施設内で晴と同じくらいに成績がいいんだよ。この素晴らしい人材と……」

「それで?」


 父さんは言う。


「仲良くしてもらいたい」


 本当に訳が分からなかった。理解に苦しい。頭痛い。


 父さんのその言葉を聞いて、なぜか僕は、あの三人を思い浮かべてしまった。


 彼女たち三人の、笑顔を……。

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