第30話
「剣崎蓮?」
そう言ってまた聞き返してきた。聞いているのはこちらであるため、この場合だと質問者がこんがらがってしまうことに気づいた。念のため知らせるが、今は僕が質問している番である。僕のターンなのである。
不思議そうな顔をしている蝶番さん。なぜ塾で勉強をしている間にそんなことを聞くのだろう……なんたら思ってそうな、そんな顔をしている。たしかに僕としても、場というのをしっかりと理解した上で質問すべきだったな。先ほどの蝶番さんとの会話から、突然登場人物が増えるのだし、突然授業中に聞いてくるのだし。たしかに困惑する。
彼女は首を傾げてみせた。頬をぽりぽりと掻きながら、不思議そうな顔のままで、僕を見つめて、考える。何かを考えるなら、あまり僕の顔は見ないほうがいいと教えないとな。気を散らしてしまうだろうから……。
「んぅ〜〜〜……」
唸る声。彼女のその声は珍しくて新鮮だった。なんだか可愛くてつい頬が緩む。
「何よ……!」
しかし僕の微細な動きを見逃すことはなく、彼女の視界には入っていたからか、指摘され、確認されてしまった。
「剣崎蓮君、ねぇ……」
「そもそも知ってるの?」
「知ってるも何も、アタシたちの学校、私立泉が丘高校理事長の息子だよ? 学校内じゃ超有名だって……! 逆に知らない奴がいないほどっ! 彼を知らない奴がいるなら、会ってみたいくらいだわ!」
「……」
今、目の前にいるんですけどね……。会えてよかったね……。
ふむ。やはりそれなりに顔は広い、ということか。なるほどね。放課後のあの時、彼と初めて交わした会話。正直半分ハッタリだと思って、からかいつつ話を聞いていたが……
「あ、知ってるんだ」
「そりゃあね。アンタは?」
「え、僕? し、知ってました、けど……?」
「絶対嘘だー」
嘘をついた。二秒でバレた。もう嘘はつかないと誓おう。バレやすいのなら、最初から本当のことを言えばいいだけだ。
開き直る僕。
「うん、知らなかったよ?」
「マジかよ、アンタ……。マジで泉が丘の学生か? それくらい知っておかないといけないよー?」
「別に知らなくて困るようなことでもないけどね」
「アンタねぇ……」
困る蝶番さん。二秒でため息をついた。
「それにしても、どうしてそんなことを聞くわけ? 何か緊急事態だとか言ってたわね? 何か重要なことでもあるの?」
「うん。今日の放課後……三人と別れて帰ろうとしてた時にさ、その剣崎くんに会った」
「ふーん。それで?」
「喧嘩した」
僕がそう言うと、ギョッとした顔でこちらを見てきた。驚いたのと、少し怖がるような表情であった。この表情も蝶番さんとしては珍しい。新鮮だな。
「え、それ、マジ?」
「うん。喧嘩というよりは、いちゃもんをつけられたという感じかな? 彼は僕になんらかの……」
「喧嘩の内容より、喧嘩したってことがヤバいのよ! アンタ分かってんの? あっちは理事長の息子なのよ? 親にお願いしたら、アンタなんてすぐに退学になるかもしれないのよ!?」
「あー、その危険性はあるね。でも大丈夫だと思うよ?」
「大丈夫……? 大丈夫なわけないでしょ! アンタが退学なんてしたら、アタシに勉強を教えてくれる人が……」
「いや、塾と学校は別でしょ……。パニックにならないで……」
「あ、そっか」
何かに納得した様子を見せる彼女。そんなに僕の退学が心配なのか?
「でも退学なんて……!」
「だから退学なんてしないってば……」
「どこからそんな自信が……!」
「自信? 自信ねぇ……。別にないよ? でもなんとなく分かるのさ。どうせ大丈夫なんだろうなぁって」
「なんとなく……」
蝶番さんは、僕にもたれかかってくる。
「アタシ、いやだよ……。アンタがいなくなるなんて……。いや、だよ……」
「いなくならないよ。いなくならないであげるから……。だからもたれかかってこないでくれ……」
ハッ、という声が聞こえ、彼女はすぐに飛び起きる。ブンブンと猛スピードで首を振り、何度も何度も『いやいやいやいや……!』と何かを否定していた。
「いや、今のちがうし! 別にアンタがいなくても、何も困らないし!」
「さっき完全に『いやだ……』って言ってくれてたんだけどな……」
「忘れろぉ……!」
赤い顔で、肩を思いっきり殴ってきた。あらら、また暴力が戻ってきたか。最悪だ。そして痛い。
「いてて……」
「あ、ごめん」
「はぁ……。とにかく、僕はその剣崎くんのことで気になることがあるのさ。例えば……」
「例えば?」
「小鳥遊さんとの関係とか」
「綾との関系? あぁー……なんか綾から聞いたことあるけどなー……何だったかな……」
「覚えてる限りでいいよ? もし彼女と関係があるのなら、本人からも聞けるし」
「いや! ちょっと待って、全部思い出した! えーっとね……」
「うん」
待つ僕。無限に待てるぞ、この時間は。
「たしか、綾とは幼なじみだったんじゃないのかなー……? ほら、剣崎って理事長の息子じゃん? だからそれなりにお金も持ってる。親同士が知り合いで、そこから綾とも前から面識があったそうだよ?」
「小鳥遊さんって、実は富豪の娘さんなんだっけ?」
「そうよ? でも、あんまり綾はそういう肩書き知ってほしくないんだってさ。肩書きだけで判断されたり、肩書きのせいで優遇されるのが嫌なんだって……」
「優遇……」
優遇されるのが、嫌。全て僕と同じじゃないか。何でもかんでも、有名な名家というだけで優遇された、判断された。
そして何より、恐れられた。それが嫌だった。だから僕は……名字を捨てたかった……。わがままなことだった。わがままなことだと分かっていた。それでも、僕は普通というものに近づきたかった。
優遇も判断もされず、恐れられることもない。そして今に至るのだ。
小鳥遊さんもお互い大変な思いしてるんだな……。
「オタクー? どうしたー?」
「ん? ああ、何でもないよ。ちょっと小鳥遊さんのこと考えてた」
「む……」
「それ以外には、何か剣崎くんのことで……って、あれ?」
そっぽを向いている。よく見るとペンを握って、ノートにサラサラと書き進めている。
「後は明日、本人から直接聞こうと思うよ。色々とありがとうね、蝶番さん」
「ふん……!」
彼女は鼻を鳴らした。
「アタシとの時間なのに、他の女のこと考えてんじゃないわよ、バカ……」
その時、僕は剣崎くんのことについてノートにメモを取っていた。蝶番さんが何か言ってたけど、声が小さすぎてよく分からなかった。
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