第29話

 塾に来た。


「あれ? 蝶番さんはまだ来てないのか……」


 寂しくはない。彼女と面識を持つまでは、僕は一人で黙々と勉強していた。復習でも、予習でも、なんでもいいから勉強をしていたのだ。一人であることに寂しいという気持ちは、一つもない。これは自信を持って言えること。


 しかし面識を持てば、何か、どこかが変わる。本当に寂しくはないのだけれど、どうしてか、いつもとは違うという感覚に不安が生まれた。いつもならこうなのに、いつもならああなのに……。そういう感覚が生まれる。


 蝶番さんが塾をサボることは全くない。彼女は本当に真面目だし、彼女自身も勉強が、そして塾が必要だと考えているはずなのだ。そのため小鳥遊さんと金城さんとで遊んでいても、遊び終わってからの時間で塾に来ている。


 だから、来るはずなんだけどな……。それに帰り際に僕に『来る?』と聞いてきたのだし……。


 一人か……。寂しくは、ない……。


「……」


 静かにテキストを見た。その時に学習室の扉が開いた。


「ふんふんふーん……!」

「あ……」


 上機嫌な彼女は、上機嫌に鼻歌を歌いながら、上機嫌に足を動かして、そんな上機嫌なままで席についた。いつもと同じで、僕の隣である。


「ご機嫌最高潮だね、蝶番さん」

「ん? ……って、オタクっ!? なんで!? アンタ今日早くないっ!?」

「早くないよ、蝶番さんが少し遅かったんだよ。ほら、他の人ももう席についていることだし、君が最後だったってわけさ」

「あ、そうなんだ……。え、でもさ、アンタっていつもはアタシが今来た時間帯で来るよね? 今日はどうして……」

「君と話がしたかったからね」


 僕がそう言うと、彼女はうろたえる。


「へ、へぇー……アタシと話がしたかったんだ……」

「うん、ちょっと質問したいことがあるのさ。学校のことなんだけどね……。おっと、もう授業が始まるね。後からでもいいかな?」

「ん……。おっけ……」


 了承してくれた瞬間に、塾での授業が始まった。いつも通りに蝶番さんは分からないところを僕に聞いてきた。


「ここはこうだよ……。ここもこれと同じ……」

「ねぇ、オタク……?」

「はい?」


 目の前の光景は、ただただ、そこには美しい人がいる、という表現が合っているだろう。目の前の女性に、不覚にも見惚れてしまっていた。


 まさか、横を向いたら蝶番さんが間近にいるなんて……。さらに蝶番さんも僕の方を見つめているし。彼女はノートとテキストなんて放りっぱなしで、僕の方をずっと、離さず、焼き付けるように、見つめていた。


「な、なんですか……?」

「赤い……」

「え……」

「顔、赤いよ……?」

「いや、これは、違くて!」

「声、大きい……。先生、聞かれる……」


 カタコトで話す蝶番さん。囁く声が、なんだか色っぽい。


「アタシの顔見て赤くして……オタクも男の子なんだね……。そんなにアタシの顔が綺麗……?」

「うん……」

「ッ……!? そ、そっか……」


 否定する意味もないし、率直に肯定してみた。


「それよりさ、オタク?」

「は、はい……」

「オタクはどうして塾に通ってるの?」

「そりゃあ勉強を……」

「いや、オタクってアタシよりも頭いいじゃん? それにいつも塾の小テストとかって、満点じゃん? なのになんで通うの? 通う必要って、あるの?」


 素朴な疑問。素朴な質問。僕よりも先に、彼女が質問をしてきた。


「……正直、通わなくてもいいんだよ。でもね? ある人がどうしても勉強を教えてほしいからーって言って、仕方なく教えてるのが、段々と心地よくなってきてさ……。その人が頑張ってる姿を見ると、僕も頑張らなきゃって思うし、もっとその人を応援したくなっちゃうのさ……」

「え、それって……アタシじゃ……」


 あれ? なんか僕のすごいこと言ってる気が……。その人本人が目の前にいるってのに、どうして気づかずに、口が滑っちまうんだろうな。もしかして賢い陰キャのふりをした、本当は馬鹿な陰キャなのではないだろうか。


 速攻でそっぽを向く僕。自分でも物凄いスピードで反対方向を向いた。そのせいで少し首が痛くなった。


「ふ、ふーん……。アタシのため、なんだね……」


 そこから数分は喋らなかった。



 ****



「ん……分かった……。じゃあこうすればいいんだね……」

「蝶番さんは頭いいよね。スラスラ解いていくんだもん」

「なにそれ嫌味ですかぁ〜?」

「そんなわけないよ……! 本当に思ってることなんだよ……!」


 気に障ったのだろうか。そうだとしたら謝罪を……と思ったけれど、その前に……。


 この状態はなんだ?


「あ、あのー……蝶番さん……? 前にもこれやられたんですけど、その肩に頭を乗せるのは、一体なんなんですか……?」

「首の休憩……」

「でもどうして僕の肩に……」

「肩、近い……。オタクの大きさ、ちょうどいい……」

「なぜカタコト……」

「いいでしょ? 減るもんじゃないし」

「そうだけどさ……」

「それに、アンタだってアタシにこういうことされて、本当は嬉しいんじゃないの〜?」

「……」


 答えなかった。そこに蝶番さんは不満になる。


「答えなさいよー」

「分かった、答えるよ。答えてあげるから、そのあとの質問に全部答えてね?」

「ああ、言ってたわね、なんか……。ん……いいわよ……」

「ありがたいよ」

「それじゃあ、嬉しいのか嬉しくないのか、正直にお答えくださ〜い」


 嬉しいのか、嬉しくないのか。蝶番さんは何を気にしているのだろう。肩に頭を乗せることを、僕が嫌がっているのかの確認をしたいのか? それならたしかに分かる。彼女の首の休憩とやらができなくなってしまうことに繋がるのだから、それは分かる。それ以外にも興味本位で聞いてくるのもあるな。それだと、なんというか、嬉しいか嬉しくないかを興味で聞くなんて、可愛らしくて好感が持てる。


 この質問の答え。本当の僕の気持ちは……。当然……。


「嬉しいよ……。はい、答えたよ」


 うろたえた蝶番さんは、そのあとに数秒止まって、ハッと気づいてから、ブワァーっと赤面した。


「答えたから、次は僕の質問だね……」

「ま、待って……!」

「待たない、早く知りたいことなのさ。緊急のことなのさ」

「ぐぅ……」


 可愛い声だな。ギャップ萌えを狙っているのかな?


 とりあえず僕は聞く。


「剣崎蓮、彼のことを知っている限りで教えてほしい」


 蝶番さんは『なんて?』と顔を背けながら聞き返してきた。

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