第21話

 放心状態になることはよくあると思う。本来ならよくあってはならないことなのかもしれないけれど、何か重大なことでミスをしてしまったり、何か驚くべきものを目の当たりにしたりと、その発動条件は様々であろうことだ。


 放心状態になると、視界がぼんやりとしてしまい、思考することが一時的に不可能になってしまう。世界中には思考している人間もいるらしいのだが、それは完全な放心状態とは言えないだろう。まあ、とてつもなくそんな無駄な事実を知ったところで、世界の経済が動いたり、地球の温度が低下したりするほどのことではないのだ。


 そして今、僕はその放心状態になりかけている。なりかけだ。ここは強調しておきたいところだ。つまり実際になっているわけではないのだ。


 でももうすぐ思考が停止しそうだ。自分でも分かる。こうやって考えていられるのが、もう終わりぐらいだな。さて、僕は果たして授業に間に合うのだろうか。


 フワフワとした感覚が僕を襲う。


「おいオタク! どうしたのよ!」

「ん? ああ、蝶番さん」

「急に黙っちゃってびっくりしたし、ぼーっとしてたから心配になっちゃったわよ」

「ちょっと何も考えられなくなってただけだよ。全然大丈夫だから……って、あれ?」

「何よ?」


 何も考えられなくなってた原因は、蝶番さんが僕のメガネを取ったからじゃないか。そのため金城さんに申し訳なく思って、それで彼女に何かお仕置きでもされるのでは、と推測をしていくうちに、そのお仕置きが段々恐怖に感じてきて、そして思考が停止寸前になったのか。


 意外と覚えているものなのだな。僕の記憶力もまだまだ使えるな、と思ったけど別に大昔の話でもないから決して特段すごいことでもないし、珍しいことでもないし、逆にそれが至って普通であることを悲しくも直感した。それがいくらか記憶力の悪い人ならすごいのだろうけれど、僕はそこまで悪くはないからな。


 そもそも結構昔の思い出を覚えているのだから、何をそんなにはしゃいでいるのだ、という自分での印象だ。また嫌なことを思い出す前に、目の前に女の子の瞳をまっすぐに見た。


「? 何よ?」

「いいや、なんでもないです。とりあえずメガネ返してください。お願いします」

「返す前に、いくつかアタシの質問に答えて。昨日、アンタバイトしてた?」


 ここで嘘をつくかどうか迷った。どうにかして誤魔化して、どうにかして金城さんに怒られないようにしたかった。しかし蝶番さんは昨日の僕の姿、つまり今のメガネを外している僕の姿を確認しているわけだから、もう言い逃れなんてできないのでは?


 開始する前から詰んでいる対局なんて、誰もしたくはないだろう。僕だって面倒だし、無駄だからやりたくない。だから僕は嘘をつかず、正直に言おうと思った。開き直るくらいの気持ちでいけばいいのだ。


「はい! やってたよ! やってたのでお返し願います!」

「返しませーん。な、なんかアンタ、テンション異常に高いわね? どっかおかしくなったの?」

「あー。もう吹っ切れたからね。どこもおかしくはない。最初からこんなにテンションが高かったわけでもないけどね」

「へぇ、まあいいわ。質問、アンタ、アタシを接客してたのになんで声かけなかったの?」

「いやー……。色々とあってね……」

「答えなさいよ。メガネ割るよ?」

「弁償してくれるならいいよ?」

「じゃあ割らない。代わりにアンタのその顔の写真、アタシのクラスのチャットにばら撒くから」

「そっちの方がマズい」


 蝶番さんと金城さんは同じクラス。つまり僕のこの姿が晒されると、それは金城さんの元にも届くということ。送信者が分かるから、一発で僕がヘマをしたことが分かってしまう。……となると、彼女のお仕置きは確実なものとなる。


 やっぱり恐怖だな。彼女、なんか色々とやってきそうで怖いな。


 仕方ない。白状するか。


「あの……金城さんが……」

「音葉? なんでそこで音葉が出てくるのよ?」

「金城さんに、僕のこのバイト先での姿をバレないようにしろ、と言われたから……声なんてかけたらすぐにバレちゃうだろうから……」

「……」


 蝶番さんは考えるように口元に手を当てた。すごく、すごく考えている。まるで推理でもしているかのように、深く深く、根幹までを暴くようにして。


「なるほどね……」

「へ?」

「音葉、自分だけが知ってたんだ……オタクのこの姿を……。うんうん、つまりは、そういうことか……」

「あのー、蝶番さん?」

「あぁ?」

「そんなにヤンキーみたいに言わなくても……」

「今考えてんのよ、邪魔すんな」

「はいはい……」


 やっぱり僕は君が苦手だ。


 長考が終わったのか、彼女は僕のメガネをいじり始めた。


「返してよ」

「返しませーん」

「返して……、いや、何してんの?」

「どう? これ?」


 僕のメガネをかける彼女。遊ばないでほしい。


「どう、って……。なんの変哲もないメガネをかけた蝶番さんとしか……」

「可愛いか、可愛くないかだよ!」

「ゲフッ」


 腹を肘でどつかれた。痛い。


「で? どうよ?」

「か、可愛い可愛い……。可愛いから返して……」

「ふふーん。……ん? アンタ、このメガネ全く度が入ってないじゃない。こんなんだったら付けてる意味ないんじゃないの?」

「意味がないわけではないよ。とりあえずさ、ほら、返して」

「うーん……」


 彼女はスマホを取り出して、こちらにかざした。これはもう撮影の構えではないか。


「はい、もう証拠撮りましたー」

「マジでそれ晒さないでよ、頼むから」

「どうかなー。そうだ、音葉に送っておこーっと!」


 全力で阻止した。阻止してやった。無理やりにでも、スマホを奪ってでも、とにかくそれだけはしてほしくなかった。


「はぁ……。それより、どうして僕があの時の店員だって分かったの? だってあの時は全然気づいてなかったじゃないか」

「はぁ? アンタって記憶力ないの?」

「……」

「アンタが声かけたんじゃない」

「声をかけた? バイト先では一度も……」

「バイトの後! アンタがその姿でアタシに声かけたんでしょ? 急に知らないやつから『蝶番さん』って呼ばれたから結構怖かったけどね」

「え? あの時、あの時は確か……」


 そこでやっと思い出す。おそらく最近で一番のヘマをした。心底自分に呆れるほどのことだ。メガネをかけ忘れるなんて、そんなドジするか? それがこんな事態を招いてしまって、どうしてこうもっと見直したり、違和感を感じてなかったりするんだろう。


「んで、『アンタは誰?』って確認とったら、それがオタクだったってわけよ」

「僕ってバカなのかな……? 自分が嫌になるよ……」

「そんなに落ち込むことなの? ま、まあ、とりあえずこのメガネは返してあげるからさ、元気だしなって。授業遅れるわよー?」

「やる気なくすよ……」


 僕の弱弱しい声の後に、去り際で蝶番さんの何かを企むような低い声がかすかに聞こえた。


「音葉に少し、探りでもいれてみようかしらね……」


 その内容までは把握できていない。

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