第3章 新次元存在との流転
第21話 ハラスメント防止研修
あの日から、うちの部署は徐々に、徐々にではあるが、労務環境が改善されつつあった。
システム開発部ソフトウェア開発課の中だけでこそあるが、日曜日に休む人も増えてきた。日曜日に休めなかった人も、他の曜日に交代で休むようにしている。
小飯塚課長がカリカリしなくなったおかげで、課内の雰囲気もだいぶ良くなってきた。課長の顔色を伺ってビクビクしなくても良くなったので、少しずつのびのびと仕事ができるようになってきた。
社内の他の部署の人たちが小飯塚課長の変貌にも慣れてきて、だいぶざわつきが収まってきた、ある月曜日のこと。俺と六反田が午後の仕事の後片付けをしている最中に、小飯塚課長が声をかけてきた。
「下唐湊、六反田」
「はい?」
「なんスか」
すっかり落ち着いて、淡々とした喋り口になった小飯塚課長に、返事をしながら顔を向ける。すると小飯塚課長は、プリントアウトしたメールを二枚分、こちらに差し出してきた。
「今週金曜、18時からのハラスメント防止研修、二人は出られそうか」
「ハラスメント……防止、研修?」
メールの印刷を受け取りながら、オウム返しに言葉を返す。ハラスメント防止研修なんて、うちの会社でやっていただろうか。すると六反田がぽんと手を打ちながら、渡されたメールの文面に視線を落とした。
「あー、今年から始まるんでしたっけ」
「上からの指示でな。各部署二名は出席必須とのことだ。出来ればお前らにお願いしたい」
六反田の言葉に小飯塚課長もうなずいた。メールの文面を見ると、確かに今年から新たな取り組みとして始めた旨、各部署から最低二名は出してほしい旨が書いてある。
今週金曜日となると、打ち合わせに出たり会議があったりという社員もそれなりにいる。俺も午後遅い時間から、お客さんとの打ち合わせがあったはずだ。スケジュールを確認しながら口を開く。
「え、えぇっと、すみません、俺は金曜日は16時からデーセックさんとの打ち合わせが」
「あ、大丈夫っス。俺もトソちゃんも参加可能っス」
だが、俺が話している言葉にかぶせるように、六反田が小飯塚課長に言葉を投げた。その言葉にぎょっとしながら俺が六反田を批判的に見るも、彼は全く意に介さない。
株式会社デーセックの本社は東京都心部の真ん中らへんにある。アビス株式会社からは徒歩移動と電車移動を合わせても片道20分以上は確実にかかるのだ。間に合うはずがない。
「え、ちょっ、ロクちゃん!?」
「そうか、じゃあ二人の名前で申請しておくぞ。打ち合わせが長引くようなら連絡をくれ」
俺が否定するよりも先に、小飯塚課長はさっさと踵を返して自分の席に戻ってしまった。追いかけようにも六反田がああ言ったことに、何も言わないというのは
少し声のトーンを落としながら、俺は六反田に文句をつけた。
「ちょっとロクちゃん、無理だって、デーセックさんとの打ち合わせと、デーセックさんの会社から戻ってくるのが2時間で終わるわけないだろ」
「トソちゃんトソちゃん、時間が被るから無理だなんて理由、時間軸を操作できる俺たちに意味があると思うか」
だが、そんな俺に六反田が呆れるようにして言葉を返してきた。
確かに四次元存在は、時間軸を好き勝手に操作することが出来る。ともすればデーセックの本社にちょっと早い段階から行って、時間軸を後にずらして16時からの打ち合わせを始めてしまうことも出来るだろう。
しかしそれは、六反田のような生粋の四次元存在や、四十物さんのような高いレベルまで契約を結んだ人間でこそだろう。俺はまだまだそんな事が出来るはずがない。
戸惑いながら、俺はなおも六反田に言葉を重ねる。
「いや、そうだけどさ、でも俺そんなこと」
「操作すんのはキネスリスに任せればいい。トソちゃんは何もせず、いつも通りに打ち合わせすれば大丈夫だよ」
しかし六反田は、これまたあっさりと言葉を返してくる。そう言いながら彼が視線を向けるのは俺の左肩の上だ。そこではわらびが、ふわふわと浮かびながら後ろ脚で首元を掻いている。
驚きながら俺が肩の上のわらびを見ると、彼女はふんと胸を張りながら自慢気に笑った。どうやら、任せろ、と言いたいらしい。そんなこと、今まで一度もやってくれなかったくせに。
目を白黒させている俺に対して、六反田はため息をつきながらなおも言葉をかけてきた。
「それにだ、トソちゃん。部長が俺とトソちゃんを指名してくる理由、ただ俺たちがその時間ヒマだから、ってなだけなわけないだろ」
「えっ」
六反田の言い方に、俺はますます戸惑った。いや、そもそも俺は別にヒマしているわけでは決して無いのだが、問題はそこではない。
小飯塚課長が俺と六反田をわざわざ指名してくる理由が、どこかにあるというのか。確かに小飯塚課長の魂を補填しているのは六反田の親戚の人だし、何かと気にかけてくれるようになったのはあるけれど。
それ以外になにかあっただろうか、と思案を巡らせる俺に、六反田は先ほど課長から手渡されたメールの印刷をぺらぺらと振った。
「トソちゃん、メール見てみろよ、ハラスメント防止研修のメール。先週水曜日の午後5時に届いてるやつ。さっき課長が持ってきたやつにも書いてあるけど」
「え、えぇっと……」
言われて、俺は手元に置かれた紙面に視線を落とす。
ハラスメント防止研修。9月某日、金曜日。18時から大会議室にて開催。各部署から二名以上の参加を必須とする。研修テーマは、下記の通り。
「……セクハラ?」
「そう、セクハラ」
セクハラ。つまりセクシャルハラスメントだ。
立場や職位を悪用して、部下だの他部署の社員だのに性的な連想をさせる軽口だの、ボディタッチだのをやってくるような人間は、うちの会社の中にもいる。そしてそういう人間が原因で、心を病んだり、会社を辞めたりする人も結構多い。うちの会社でもたびたび問題になっていた。
そして俺ははっと気がついた。そういう問題の渦中にいる人間は、大体決まっている。六反田も険しい表情をして口を開いた。
「そして、ソリューション事業部の
その言葉に、俺は息を呑んだ。
ソリューション事業部の部長である俵積田右作は、以前からたびたびセクハラで問題を起こしている人だった。自分の部下は言うに及ばず、総務部や財務部、果ては取引先の会社の人間にまで、色目を使ったり下世話な言葉をかけたり、挙句の果てには胸やお尻に触ったり。たびたび減給処分も受けているのだが、一向にセクハラが収まる気配はない。
会社としても当然放置は出来ないだろう。ハラスメント防止研修に、業務命令で参加を強制することも、俵積田部長に関しては大いに予想できる。
だが、それはそれとしてだ。まさか、研修の最中に切除を行うつもりだろうか、この男は。
「あの、ロクちゃん、もしかしてだけど……研修の席で、やるのか?」
「他に手がねーからな。ま、心配すんなって。やり方はいくらでもある」
俺が恐る恐る問いかけると、六反田は肩をすくめながら返してきた。
その発言に俺の顎はストンと落ちた。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
俺が口をあんぐり開けていると、黒い鼻から鼻息を漏らしながら六反田が言ってくる。
「それになトソちゃん。研修の現場には確実に四十物ちゃんが出てくる。俺とトソちゃんが研修に参加すれば、至極自然に俺、トソちゃん、四十物ちゃんが席に不在の状況を作れるだろ」
「た、確かに……」
六反田の言葉に、俺は納得するしかなかった。確かにそういう研修となれば、四十物さんは絶対に研修に出てくる。運営側の人間として、だ。
そして俺と六反田が研修の受講者として参加すれば、確実に三人が揃う。そこに俵積田部長がいれば、状況は完璧だ。研修受講中だから、席を離れている大きな理由にもなる。
と、俺が納得したところで六反田がひらりと手を振った。そのまま椅子に腰を下ろして仕事を再開する。
「そういうこった。じゃ、手はずの相談は後で、メシを食う時にでもな。四十物ちゃんにも声かけとくから」
「あ、ああ……うん、分かった」
その言葉に、俺もすぐさまうなずいてパソコンの画面に視線を戻した。
確かにこの後で、四十物さんを交えての相談は必要だろう。俺としてもいろいろと確認したいことはあるし。
そのためには問題なく夕方の休憩で外に出られるように、今ある仕事を片付けなくてはならない。僅かに逸る心を落ち着かせながら、俺はキーボードを叩いていった。
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