第20話 暴君の変貌
会議室を出てから、小飯塚課長は何事もなかったかのように脇目も振らずにすたすた歩いて、自分の席へと戻っていった。
だが、途中ですれ違った社員のいずれも、ちらとその姿を伺った社員も、一様にぎょっとした表情をしてすぐさま視線を戻していた。
まぁ、そうだろうなとは思う。表情が違う。目の色が違う。そして何より身にまとっている空気が違う。
今までの小飯塚課長といえば、いつもしかめっ面、足音はうるさくドカドカと歩き、ふとした瞬間にキレて壁だのロッカーだの扉だのを蹴るような、爆弾みたいな人だったのだ。
見れば、戻ってきた小飯塚課長を見ていた印出井部長も目を剥いている。そんな彼へと、小飯塚課長は席を立つまでの激情が嘘であるかのように静かに告げた。
「部長、ただいま戻りました」
「あ、ああ、うん。大丈夫だったかい」
声をかけられた印出井部長は、戸惑いがちにうなずいていた。それはもう、先ほどまで目の前で大荒れに荒れていて、自分にガンガンに詰めてきていた部下が、一気に真顔の平静になって戻ってきたのだ。戸惑うだろう。
そんな印出井部長に、さらに混乱を与えるように小飯塚課長はぺこりと頭を下げた。
「はい、お気遣いありがとうございます。ついては、10時から少々、お時間よろしいでしょうか」
「えっ」
頭を下げながら、丁寧な言い方で言葉をかける小飯塚課長に、いよいよ印出井部長は面食らって言葉に詰まった。
今までの小飯塚亘という男は、人を怒鳴りつけて頭を下げさせることは枚挙に暇がなかったが、自分から進んで頭を下げるようなことなど一度としてなかった。取引先に謝罪に行くときにすらも、最後の最後まで頭を下げないで屁理屈を並べ立てながら謝罪をかわし、終いにはキレていたそうなので、俺が入社した頃は既にそういう謝罪に赴くのは印出井部長の仕事だった。
それが、こうもあっさりと頭を下げたのだ。印出井部長がもうすっかりびっくりしながら、どもりつつ口を開く。
「う、うん。いいよ」
「助かります。では、後ほど」
了承の言葉を得られて、それで必要な会話は終わったと判断したのだろう。もう一度頭を下げて、小飯塚課長は自分の席の椅子を引いて腰を下ろした。そのまま自分のパソコンを操作して仕事に戻る。
もう、キーボードを叩いているのがうちの部署内で小飯塚課長と六反田しかいない。それだけ今のやり取りは、課内で驚きを以て迎えられた。
俺がそうっと席につくと、こそこそと席を立ってこちらにやってきた印出井部長が、耳打ちをするようにして俺に聞いてきた。
「し、下唐湊くん、下唐湊くん、小飯塚くんなに、どうしたの、随分人が変わったけど」
「い、いやぁ、その」
聞かれて、正直返答に困る俺だ。
一部始終は見ている。小飯塚課長の変貌の理由も知っている。だけれど、その真実を話せるわけがない。異次元から侵食を受けていて、それを切り離したから中身が空っぽになって、別の異次元生物を詰め込んだなんて、信用されるはずがないのだから。
結局、なんかそれっぽいことを言ってごまかすしか無い俺だ。
「なんか、四十物さんにすごく叱られていて。『このままだと懲戒解雇もありますよ、あなたの』とまで言われていたんで、それが堪えたんじゃないですかねぇ」
「そ、そうかぁ。それは、まぁ、うん、そうだねぇ」
俺が言った言葉を聞いて、印出井部長がこくこくと頷く。まぁ、そうなるだろう。四十物美都のぶっきらぼうなところと、会社に対する貢献度合いの大きさは車内の誰もが知るところだ。役職こそ平社員であるものの、社内で公然と逆らえる人間はあんまりいない。
四十物さんの名前を出したことが効いたのだろう。印出井部長は身を持ち上げてこちらに背を向けつつ言った。
「ま、まぁいいか。なんか久しぶりに、だいぶ穏やかになってくれたみたいだし、皆も働きやすいでしょ、うん」
「そ、そうですね」
俺の返事を受け取るより早く、印出井部長はそそくさと俺のそばから立ち去っていく。コーヒーでも買いに行ったのだろう、その足は会社の外へ。
立ち去っていく印出井部長を見送っている俺に、六反田がにやりと笑いながら声をかけてきた。
「な、大丈夫だっただろ」
「うん……まぁ、うん」
言われて、なんともいい難い顔になりながら返事を返す俺だ。正直、これを大丈夫だ、と言ってよかったのかどうか、未だに少々自信がない。
小飯塚課長は確かに「まとも」になった。しかしそれまでの「まともじゃない」のとの落差が酷すぎて、これはこれで新たなトラブルを生み出してしまわないか、と、少々不安になる。
だが、そんなことは気にしないというふうに、六反田は言う。
「これで、小飯塚亘って男は真っ当な人間になった。部下をどやしつけることもなく、理不尽にブチ切れることもない。会社のひずみも小さくなる。いい事だらけだ」
「だ、だよな……でも、いいのか、こんな人格改造みたいなこと」
全く何事もないかのように、淡々と仕事をしている小飯塚課長を見ながら話す彼の視線を追って、俺は小飯塚課長を見た。驚くほど静かで、落ち着いた空気をまとっている。課外の人や部外の人が見たら何事かと思うだろう。
俺が戸惑いながら言うと、六反田は小さく肩をすくめて微笑んだ。
「いいんだよ、っていうかむしろ、異次元存在が深く根付いて『ひずみ』を撒き散らすようになった段階で人格改造されたようなもんで、元の人格から大きくねじ曲がっちまってるんだ。それが元に戻っただけのこった」
「そういう、もん、なのか……」
そう言われて、なんとも言えない表情をしながら俺はまじまじと小飯塚課長を見る。
確かに、切除をする前の、ウームベアトゥに取り憑かれていた小飯塚課長は、以上とも思えるほどに攻撃的で、いつもイライラしていた。いつからそうなったのかは俺には分からないが、知っている人からしたら何事か、と思うのも無理はないだろう。
だが、俺には分からない。知りようもない。
「じゃあ、あの、真面目で淡々としたのが、小飯塚課長の、元の姿って、そういう?」
「多分なー。俺が来た時にはもう根付いていたのか、あのブチギレキャラだったから、元の姿なんて知る由もないけどよ。印出井部長なら知ってんじゃね?」
俺が問いかけると、六反田はこてんと首を傾げながら他人事のようにそう言った。頭の上で大きな三角耳がピコンと揺れる。そりゃ確かに、俺と同期入社の六反田には知りようもないことだろうが。
あまりの無責任な言い方にぽかんとして俺が何も言えないでいると、六反田がニヤリと笑いながら自分の額をこつんと叩いた。
「ま、ともあれ、あれだ。小飯塚課長はもとに戻った。会社の『ひずみ』もいくらか小さくできた。これで少なくとも、システム開発部ソフトウェア開発課の環境は良くなるはずだ」
その抽象的な言葉に、ますます首をひねる俺だ。確かに良くなるとは思うし、良くなってくれないと困るが、こんな最悪の状況から一体どう良くなるのか、イメージが掴めない。
「良くなるって……例えば?」
「ん、まぁそうだな」
俺が問いかけると、六反田がしばし考え込む姿勢を見せた。彼としても、即答できるようなことではないらしい。
少し時間を置いてから、六反田が口を開く。
「なってみねーとわかんねーけど、一週間に一日は休みが取れるようになるんじゃね? さすがにいきなり週休二日は無理だろうなと思うけどさ」
「ええ……いや……」
その言葉に、げっそりしながら肩を落とす俺だ。
確かに、週に一日確実に休みが取れるようになるのはいいことだ。今の、法定休日も何もないような状況から比べたら大進歩だ。
だが、それでもまだまだブラックであることから脱却は出来ていないだろう。月の残業時間が多少減った程度にしかならない。日本の一般的な企業に比べたら、この程度じゃ焼け石に水だ。
「完全週休二日とまではいかなくても、週休二日が普通の形じゃないのか、日本の企業って」
「気持ちはわかるけどさトソちゃん」
思わず本音がこぼれた俺に、六反田がため息をつきながら言った。
苦々しい表情をして、眉間と鼻っ柱にシワを寄せながら、淡々と六反田が言ってくる。
「会社全体で週休一日すら取れない、代休も何もあったもんじゃない状況なんだぞ。うちの部署だけいきなり週休二日になるわけねーだろ」
「ま、まぁ、そうだけど」
彼の言葉に、何も言い返せなくて俺は言葉に詰まる。
そう、まだ一部署の中だけの話なのだ。うちの部署だけがまともになったとして、他の部署はまだまだブラック真っ只中。もしそうなったら、突き上げを喰らうのは免れない。
まだまだ、小さな変化でしか無いのだ。しかしこの変化は、意味のない変化ではないはずなのだ。六反田も表情を緩めながら言う。
「ここから、徐々に徐々に良くなっていくんだよ。俺たちがそうしていくんだ。だからまだまだ、やることはいっぱいあるぞ、トソちゃん」
そう言いながら、六反田は柔らかく微笑んで頷いた。確かにそうだ、まだまだ「仕事」は始まったばかり。やるべきことはたくさんあるのだ。
「そうか……そうだな」
六反田の言葉にそう呟きながら、俺もこくりと頷きを返す。
まだまだこの会社の中に、異次元存在に侵食されて心を病んだ人はいる。長時間労働に苦しめられている人もいる。そういう人たちの助けになるのなら、まだまだ俺も頑張れる。
さて、仕事の残りを、と再びキーボードを叩き始めたところで、六反田がさっさと席を立って鞄を掴んだ。ジャケットも肩に担いですっかり帰り支度を済ませている。
「うーし、んじゃ22時になったから上がるか。やること済んだだろ?」
「え、ちょっ、待って、まだ客先からのメールが」
そう言いながらもうすっかり帰る気満々の六反田に、慌てて書いている途中だったメールを打つべくキーボードを叩く。
そんな俺たちを、これから打ち合わせをしに行くのであろう小飯塚課長と、コーヒーを手に戻ってきた印出井部長が、キョトンとした様子で見ていた。
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