58 少女と勝利の神

 


 ボタタッ


「ぐ、ふっ」


 一瞬の間に切られた肩口からは血が溢れ、瞬く間に白い制服が真っ赤に染まっていく。

 セシリアは倒れそうになる上体を両足を踏みしめて耐えると、その傷口へ回復魔法を施した。

 だが消費尽くした今の魔力では血を止めるのが限界で、腕を捥がれたような痛みが絶えず全身を襲う。

 だが休んでいる暇は無い。


(何も見えなかった・・・)


 痛みを堪えるようにレイピアを強く握りしめ、そして辺りを見渡そうと振り返ったその時、全身を突き刺す様な殺気を感じて咄嗟にレイピアを振るった。

 その瞬間、目の前に現れる真紅の騎士と、ぶつかり合う二本の剣から火花が散る。


 ゴギィィィィィインッ


 その剣から放たれる重い衝撃に耐えきれず、後方に弾き飛ばされるセシリアの体と根元から折れたレイピア。


「うがぁっ」


 ドシャッ


 地面を転がる体は土と血に塗れ、普段のセシリアからは想像も出来ない姿だった。


(なんて無茶苦茶な力・・・魔獣?)


 呼吸をする度に、立て続けの戦いで折れた肋骨や深く切られた肩が激しく痛む。

 折れたレイピアを握ったまま何とか立ち上がるセシリアだったが、立ち上がった瞬間に今度は顔面へ横から殴打された様な衝撃が走る。


 ズザザザザァッ


「ぐ・・・あぁっ・・・」


 口の中一杯に血の味と砂の感触が広がった。今の衝撃に寄って片目が潰れたのか、視界の左半分が真っ黒に染まる。


「はっ・・・はっ・・・・」


 折れた肋骨のせいか、肺がゴロゴロと音を立てて口から血が滴った。

 そして俯せに倒れた身体で顔だけを何とか上げると、そこに映るのは目の前に立つ赤い死神の脚。

 纏った甲冑には傷一つついておらず、セシリアのボロボロとなった顔を鏡の様に映していた。美しかった琥珀色の瞳は片目が潰され、清廉な青い髪は血で固まっている。


(もう、身体中に力が入らない・・・)


 圧倒的な力の差。

 目の前に立つのは、間違いなくセシリアのこれまでの人生で一度たりとも戦った事が無い程の猛者であった。


「貴方は・・・一体何者なの・・・・」

「・・・・・・・。」


 返事は無く、聞こえるのは刀身をセシリアに突き刺す様に構える、鎧の重々しい音。


(逃げ、なきゃっ・・・)


 魔力も体力もとっくに限界を越え、朦朧とした意識の中でそう考えるも、ここから遠くまで逃げ切る程の体力は到底残されていない。

 セシリアの強さは、膨大な魔力量や剣技もさる事ながら、戦いながら敵の弱点を炙り出して逆転を図る、並外れた頭脳に寄る所も大きかった。

 だが、目の前に立ち塞がる真っ赤な騎士には、弱点すら見当たらない。それ所か、生や死といった概念があるのかすら定かで無かった。


 振り下ろされた刃の気配を感じ、咄嗟に身を翻す。だが当然満身創痍の動きで躱せる筈も無く、振り下ろされたロングソードがセシリアの脇腹へと深々と突き刺さった。


 ガシュッッッ


「う、がっ」


 そして引き抜かれると同時に吹き出す血飛沫。仰向けになった視界を覆う様に噴き上がる真っ赤な血飛沫が、その向こうに立つ深い緋色の鎧を彩る。

 脇腹に走る激痛も肩の痛みももはや麻痺し、徐々にセシリアの視界が狭窄していく。そして指先から冷んやりとした冷たさが這い上がった。


(勝てない・・・・)


 アテナは、過去の伝説の武人か何かを蘇らせたのだろうか。それとも、これも自分の知らないだけで、魔獣の一種なのだろうか。徐々に回らなくなっていく頭で懸命に考えるも、答えは出ない。

 赤と黒に染まっていく視界の奥で、再びロングソードを掲げる騎士の姿が見える。だがセシリアの体にはもう、指一本動かす力は残っていなかった。


(こんなの、勝てない・・・)


 一撃も目で追う事すら出来なかった攻撃。その刀身に触れただけで体は吹っ飛ばされ、防ぐ事すら叶わない、圧倒的な力。

 目の前に立つ騎士に比べれば、ここまでのデュラハンやヒュドラなど、全く比べ物にならなかった。


(これが、私達の挑もうとしている、神々の本当の力なら・・・)


 今にも振り下ろそうと掲げられた刀身が、赤い血を滴らせながらぎらりと光る。


「・・・勝てる筈ないじゃない。」


 口からこぼれる様に吐き出された言葉。そして、唯一開かれた右目から一筋の涙が頬を伝った。


ーーー必ずご無事で戻ってきて下さいね。


 幻覚の様に頭の中に響く、ハルの声。だがその約束を果たすほどの力はもう残っていなかった。


「ごめん、なさい、ハル・・・もう、戦えない・・・」


ーーー駄目よ。貴方は戦わなくてはいけないの。


 響いていたハルの声が、ほんの少し嗄れた声へと変わる。


ーーー貴方は私の娘、セシリア=セントリンゼルトなのですから。


 ザシュッッッッ


「があっ」


 腹部めがけて体を貫く赤い騎士の剣。傷口から赤い血が広がり、僅かに残されたセシリアの命を削り取っていく。

 もう動く力は残っていない。動ける筈が無かった。だが、


ーーー守りなさい。この世界に生きる、全ての人を。


 ガシッ


 血濡れた傷だらけの両腕が、セシリアの腹部へと突き立てられた剣の刀身を掴む。

 そしてセシリアは血を吐き出しながら、地面から剣を抜く様にして無理矢理上体を起こす。

 両腕から伝う様にして、その剣を純白の魔力が覆う。それはまるで、命が発しているかの様な強い輝き。


「ぐ、うぅっ」


 吐き出される大量の血。だがそれでも、セシリアの体は止まらない。


「・・・・・・」


 騎士は無言で掴まれた剣を振りほどこうとするが、真っ白い魔力を纏った両腕は決して離さなかった。

 セシリアは渾身の力を右腕に宿すと、目の前に立つ騎士の兜を思い切り殴りつける。何故だかは分からない。だが、そうしなければならない気がした。


「ああああああああああっ!!!!!!!」


 真っ白く光り輝く拳。その光は固い鎧にぶつかると、霧散する様に消え去る。

 そして、


 パキパキパキッ


 拳が当たった所から、徐々に赤い鎧が崩れ、騎士の顔が僅かに覗いた。


「・・・・・・っ」


 赤い騎士は狼狽えるようにして剣から手を離すと、顔を隠すように両手で顔を覆う。だがそれでも僅かに覗く、その顔。


「貴方が・・・アテナ・・・・・」


 振り解かれたように広がる長い金髪と、霞の様な紫色の瞳。そして全ての感情を失ったかの様な表情に、セシリアは悟った。

 いや、もしかすると最初に斬りつけられた瞬間から、どこかで気づいていたのかもしれない。

 セシリアを越える程の神の如き力を持つ人物など、恐らくこの世に一人しかいない事に。


「・・・・・・。」


 アテナはセシリアの言葉には一切答えずに、その命を絶とうと片手で剣に手をかける。この剣を抜かれた瞬間に、セシリアの命は果てるだろう。それは誰よりもセシリア自身が分かっていた。

 だが、セシリアは怯まない。剣を掴んだその腕を両手で掴み、その紫色の瞳を真っ直ぐに見据えて言った。


「貴方が・・・ここへ戻ってきたのは・・・後悔しているから・・・・・」


 アテナの剣を引き抜こうとする力が増す。数センチ程剣が抜け、思わずセシリアの口から血が溢れる。

 それでもセシリアは言葉を続ける。


 ーーー光があれば、闇が生まれる。


 それはこの第三の試練、アテナの扉が開かれる前にデュラハンが言った言葉。闇とは大地を混沌に落とし、無数の命を奪ったガイアの事であろう。それならば、目の前にいる彼女はーーー




「光があれば、闇が生まれる・・・貴方が、ガイアを生んだ光だったのね・・・・。」





 バギバギバギバギバギッ


「セシリア様っ!」


 突如空間を裂く様にして生じた巨大な亀裂。

 そしてその奥からハル、クロエ、アリスが必死の表情で飛び込んで来た。

 アテナは三人を一瞥すると、セシリアへと刺ささった剣から手を離して身を翻し、一瞬にして姿を消す。

 その後を追いかけようとアリスが剣を抜いて駆け出した。


「アリス・・・追いかけてはダメよ・・・」

「セシリア!おいしっかりしろ!」

「・・・うっ・・・・ぐっ・・・・」


 倒れた体をハルとクロエに支えられながら、セシリアはアテナが去って行った空間へ手を伸ばす。


「アテ・・・ナ・・・」


 どうしてもセシリアには、アテナが去り際に見せた表情がどこか寂し気に見えた。




 ・

 ・

 ・

 ・

 ・




「・・・・う、ん・・・」


 ぼんやりとした視界の中、豪華に装飾が施された天井が目に入る。


「・・・・ここは、グルゴ・・・・」


 僅かな重みを右腕に感じて視線を向けると、そこでは見慣れた真っ黒な髪が風に揺られて僅かに揺れていた。


「・・・・ハル。」


 ハルの事だ。ずっと側に居てくれたであろう事はすぐに察した。

 寝息を立てるハルを起こさぬ様にゆっくり起き上がるが、深く斬りつけられていた腹部が鋭く痛む。


(これだけで済んだなんて、きっとノアももう起きているのね。)


 ようやく起き上がった体で、彼女はホッと溜息をついた。あの時、ハル達が飛び込んで来なければ、間違いなくセシリアは死んでいた。

 だが恐らく三人があの空間に入り込めたのは、クロエの並外れた空間魔法の力も当然あるが、それ以上に、アテナが侵入をわざと許したのだろう。

 アテナにはあの場でハル達をまとめて始末出来る程の力がある事を考えると、そう考えるのが自然であった。


「幸運と勝利の神、アテナ・・・」


 ーーー彼女は一体、何を考えているのかしら。


 そんな事を思っていると、気配を察したのかハルの肩がピクリと動いて起き上がる。


「あれ、私寝てた・・・?」

「おはよう。ハル。」


 セシリアがそう笑いかけると、ハルは飛び上がった様に驚いてセシリアの方に顔を向ける。そして、


「セシリア様ぁぁぁっ」


 涙を零しながらハルがセシリアへと抱き着いた。


「私、あの時本当にセシリア様が死んじゃったかと思って、すぐに気を失っちゃうしっ、体は冷たいしっ、剣は刺さったままだしっ」


 そう言って泣きじゃくるハルの頭を、セシリアは苦笑いしながら優しく撫でる。


「本当に死ぬ所だったんだもの、しょうがないでしょ。でもありがとうハル。貴方のお陰で助かったわ。」

「外で待っていたら、どんどんセシリア様の魔力が弱くなっていって・・・それで心配で、クロエ様達と助けに行ったんです・・・」


 中々泣き止まないハルを見る限り、余程心配だったのだろう。悪い気はしなかったが、そこでふと疑問がよぎる。


「ハル、私どれくらい寝ていたの?」

「3日間です。オーネット様は昨日、ノア様は一昨日目を覚ましました。」

「クロエ以外の四賢聖はことごとくやられていた訳ね・・・。」


 だが、オーネットが無事に戻ったという事は、法の神テミスとの交渉に成功して新しい力を得たのだろう。

 そして連れ去られたグラソンの生徒達が、確実に咎人とされる程の時間は経過していない。

 そうなると残すは、ナタリーとシオンが進めている転移魔法陣の完成を待つだけだった。


「ハル。皆に伝えて頂戴。最後の会議を開く。」


 万全の体制が整ったとは言えない。


 寝返った記憶の神レーテ。奪われた死の神タナトス。謎に包まれた最強の神アテナ。そして邪神ガイア。


 だがそれでも着実にセシリア側の戦力は増えている。


 ハルとセシリアの出会いから始まった、神の力を借りた人間と、闇に堕ちた神との最終決戦は、もうすぐそこまで迫っていた。



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