51 少女と叡知の神
ーーーメティスは本当に何でも知ってるのね。
それが、メティスといる時のグラソンの口癖だった。
ガイアと結ばれ母となってからのグラソンは目まぐるしい毎日に追われ、メティスと関わる機会は少しばかり減った。
だが、メティスにとっては、それこそが人間生活の充実の証と捉え、嬉しく思っていた。
ところが、そんな日々はグラソンの死によって唐突に終わりを迎える。
メティスが異変を感じ取りグラソンが生活していた村へと向かうと、そこに広がる光景は正に地獄絵図であった。
木々は数十キロ先まで根こそぎ失われ、あちこちには人の亡骸が横たわっていた。むしろ、人と認識できる状態なだけまだ幸運とすら思う程であった。
我を失って怒り狂い、大地の全てを滅ぼそうと暴れるガイアに、必死に様々な魔法を繰り出しながら、メティスは静止を呼びかけた。
だがどんな言葉も、どんな魔法も、ガイアの壊れた心には届かなかった。
クロノスから事の経緯を聞いてからは、ガイアを封印しようとしている自らの行いが正しいのかすら分からなくなった。
だがそれでも、ガイアを封印する事しか出来なかった。こんな時どうすれば良いのか、これまで読んだどの本にも書いていなかったのだから。
ーーーメティスの魔法は素敵ね。
グラソンがそう言ってくれた魔法を使って、ガイアの腕や足をもぎとった。
ーーーメティスは本当に何でも知ってるのね。
他の神々をようやくガイアを封印した後、どこまでも続く荒れ果てた大地と、グラソンもガイアも消えた世界を見て思った。この世の叡智全てを司る全知の神。知識しか持たない神が、なんと無力で、愚かな事か。
そしてメティスは、哀しみと後悔に溺れたまま深い眠りについた。
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「無駄なのだ。知識だけでは、何も守れないのだ。」
メティスの口から、全てを放棄した様にその言葉が発せられた時、まるで自分の写し鏡の様だとノアは感じた。
勤しんできた回復魔法や薬学の研究。それらは当然、この世界をより豊かにする為に大きな価値がある。だが、どんなに知識があっても、目の前で冷たくなっていく恋人を守る事も、友人を蹂躙している敵を打ち倒す事も出来なかった。
だからこそ、メティスの言葉は痛い程ノアの心に突き刺さり、途方も無い無力感が、唯一見えた光さえも塗り潰そうと押し寄せる。
「貴方も、私と同じなのね。」
ノアはメティスの前に屈み込むと、本を持つその手にそっと触れた。指先から冷んやりと冷たい感触が伝わる。
だがメティスは顔はあげないまま、変わらず本へ視線を落としていた。
「貴方も、ずっと誰かに憧れていたのね。」
ノアの言葉に、メティスの瞳から涙が一粒、また一粒とこぼれ落ちる。そして震える声で小さく答えた。
「・・・憧れていたのだ。アテナの様に、強くなりたいと。なのにアテナは、アテナはっ」
ーーーアテナ。それはガイアを鎮めた神々のうちの一人、幸運と勝利の神。
それしかノアには知り得なかった。
だがそれでも、恐るべき力を持った神なのだろうと推測した。そして、目の前の少女はそんな強い神に憧れ、自分の非力さをずっと呪いながら、この場所に閉じ籠っていたのだと。
そんなメティスの姿が、ローラの死から戦いを遠ざけ、オーネットの死に際を目の当たりにして自暴自棄になっていた自分にどうしても重なって見える。
だからこそ、ノアは両手で涙に濡れたメティスの頰をそっと包むと、優しく語りかけた。
「貴方の大切な人は、きっと貴方を今も信じているわ。」
それはメティスに向けての言葉では無く、自分に向けた言葉。
「どうせ自分なんて」と卑下する振りをして、ずっと諦め続けてきた自分への戒めの言葉。
隣で戦い続ける仲間達を見て、いつか共に立ちたいと思いながら、そんな自分を押し込めてきた臆病者への、激励の言葉。
顔を上げたメティスの紫色の瞳を真っ直ぐ見ると、ノアは力強く言った。
塞ぎ続けたメティスの心の傷を癒せる様に。
そして、何百年何千年もの間、立ち止まったままでいるその背中を押せる様に。
「逃げちゃだめよ。まだ貴方の手で、何か一つでも変えられるものがあるのなら。」
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グラソンが生まれるずっと前、メティスは夜になると高台にのぼり、度々星を観察していた。
複数の星を結びつけ、どうにかその形に名前をつけた人間達が不可解で、興味深かったのだ。
「あれが魚?どう見てもそうは見えないのだ・・・」
人間の文明は今ほど発達しておらず、夜空では幾千もの無数の星が煌めいている。
本と星座を見比べながらやきもきしているメティスに、どこからか姿を現わしたガイアが微笑みながら話しかけた。
「今夜も星が綺麗ですね、メティス。」
「もっと近くで見たいほど綺麗な夜空なのだ。」
するとガイアは珍しくからかう様に笑って言った。
「では、どうやったら近くで見れるんでしょうか?」
「・・・・・分からないのだ。」
「ふふ、叡知の神にも分からない事があるんですね。」
ガイアの言葉に、メティスはムッとした表情で答える。
「メティスにだって知らないことはあるのだ!」
「あら、それは知りませんでした。」
メティスにとってガイアは、自らが生まれた時からずっと側にいる存在だった。
いつもこの世界の全ての調和を考え、時に哀しそうな表情を浮かべる事はあれど、怒った姿は一度も見た事が無い。穏やかに諭す様なガイアの声を聞くと、不思議と体のどこかがぽかぽか温かくなる、そんな気がしていた。
「皆はメティスの事を全知の神だと言うが、最近は分からない事ばかりなのだ・・・」
何となく口から漏れたその言葉は予想以上に暗い響きとなり、慌てて取り繕おうとしたメティスだったが、ガイアはそんな焦るメティスを隣からそっと抱きしめる。
「・・・ガイア?」
「不思議ですね。私たちは不死身の神。それなのに何故か、不安になったり寂しくなったりする。まるで人間の様です。」
ガイアの言葉には悲壮感も苦悩も感じられない。ただ淡々と思った事を口にしている様であったが、何故かその言葉は今のメティスの心を打ち、思わず押し黙る。
「メティスは不安なのですね。自分は何故、叡知の神として生まれたのかと。」
ガイアの言葉に、メティスは何も答えなかった。何を答えれば良いのかも、自分が何を考えているのかも分からなかったのだ。だがガイアは気にせず語りかけた。
「残念ながら、その答えは私にも分かりません。ですが」
ガイアのメティスを抱きしめる力が僅かに強くなる。
「これだけは信じています。メティスはきっとこの先もずっと、私の隣を歩き続けてくれると。そしていつか、あの星の輝きに辿り着けた時も、きっと貴方は側にいると信じていますよ。」
神に死は無い。生まれた時からずっと姿を変えぬままこの世界に在り続ける。
いつから存在しているのか、何によって生み出されたのか。
その謎は時折、自分自身の存在理由そのものをあやふやにする様で、メティスを不安にさせた。
だがガイアに抱きしめられた瞬間、メティスは一つの答えに辿り着いた気がした。
自分が神としてこの世界に誕生した理由は分からない、だが、それはきっと、あの遠い夜空で輝く星を見に行くt様な、きっとそのくらい些細で、強い理由だったのだろうと。
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ーーーガイアは今も、自分を信じてくれるだろうか。
ただ自らの非力さを嘆いていた自分に、果たしてまたガイアへと立ち向かい、その手を掴む資格があるのか、メティスには分からなかった。
だがそれでも、ガイアが「信じる」と言ってくれていた自分が、ただ蹲っている事なんて出来なかった。
そして何より、きっとガイアは今も自らの存在意義を見失い、長い長い孤独の中にいる。そうメティスは感じた。
「だがイザベルの力には敵わないのだ。イザベルの力は毒と一体化する事で生まれた、驚異的な再生力。メティスは叡知の神。イザベルを倒す程の魔力を与える事は出来無いのだ。」
だがメティスのその言葉に、ノアは頷く。
「大丈夫よ。必ず倒せる。だからお願い、力を貸して。」
強い意志の籠ったノアの瞳を見つめると、メティスは持っていた本を閉じた。
そして椅子から立ち上がり、ノアの胸に片手を当てる。
「チャンスは一度だけなのだ。」
忽ちメティスの掌を青い光が包み込み、ノアの全身を覆った。
いつの間にか周囲を包んでいた白い光は消え、代わりに辺りには、この世に存在する無数の物や出来事、ありとあらゆる魔法が文字となって幾重にも二人を包み込む。
「これが・・・メティスの力・・・」
「ノア=ラフィーネ。我は叡知を司る全知の神、メティス。何を望む?」
メティスの問いに、ノアは迷わず答えた。
「メティスの知る、この世の全ての回復魔法を私に。対価は、私の知る全ての魔法よ。」
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ノアが壁の先へとたどり着いた後の戦いは悶着状況が続いていた。
クロエの得意とする空間魔法は悉くイザベルの纏う瘴気の様な黒い魔力によって防がれ、どんなに風魔法によってその体を切り裂こうとも忽ち回復し、何事も無かったかのようにまた攻撃を繰り出される。
「そういうのって、普通回復回数の上限とかあるだろ!反則だ!」
クロエが息切れしながらそう言うと、イザベルは吹き飛ばされた右腕を修復しながら笑った。
「うふふふふ、これは魔法ではなく体質。私はネメシス様から認められて、ピローテス様の力を与えられた存在。」
(くそっ、クロノスの力は消費が激しい。このままじゃこっちがジリ貧だ。)
クロエはイザベルの短剣を素早く躱しながら思考していた。
決して一撃一撃の威力は高く無いが、その速さと一撃食らえば瀕死の重傷となりうる毒が、徐々にクロエを追い詰めていく。
(なるほど。こりゃオーネットもやられる訳だな。でも、きっとそろそろだ。)
イザベルから数メートル程距離を取ってクロエが着地する。
その息は乱れ、額から流れる汗が魔力切れが近い事を示していた。
「あら、もう限界?随分と魔力を消費しているようねぇ〜〜。もうそろそろ終わりにしましょうか♡」
イザベルはクロエの様子を見て愉しそうに目を細めると、新たに2本の短剣を抜いてクロエに向かって駆け出す。
だが、
グザッッッッ
「あら?」
駆け出そうとした体は、背後から深々と突き刺されたオーネットの剣によって止められた。
そして剣が引き抜かれると、イザベルはよろけながら背後に立つ人物を振り返る。
「終わりにしましょう、イザベル。」
オーネットの剣を持ったノアが、片目を深い濃紺に染めて立っていた。
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