34 少女と大遠征(5)

 


 グラソン王国の東の外れ、首都イスタニカから馬車で数日はかかるカタルという小さな街に、クロエ=ウェストコリンは生まれた。

 魔物が多く住む森に面した街は、一攫千金を目論む冒険者達の溜まり場ともなっており、昼夜問わずギャンブルや酒、薬に溺れる者も多く、決して治安の良い街とは言えなかった。


「クロエ、今日の夕飯は何がいーい?」

「お母さんが作ったものなら、なんでもいいー!」

「ふふ、本当にクロエは良い子ね。」


 狭く入りくんだ路地の奥、ボロボロの木の板を小屋の形になる様になんとか重ねた様な場所、そこでクロエは母親と2人で生活していた。

 父親はクロエが2歳の頃に出て行ったそうで、その顔すらも憶えていない。しかし、それでもクロエは母親と過ごす毎日の日々に、貧しいながらも不満は感じていなかった。


「今日は母さん仕事で遅くなるから、先に食べていてね。」

「はーい!」


 クロエの母親はクロエを育てる為、昼過ぎから明け方近くまで働きに出ていた。まだ幼いクロエには母親がどうやって日銭を稼いでいるかは知らなかったが、帰ってくる時の酒の匂いや、クロエの寝てる間に苛立った様に怒声をあげている事から、普通の仕事では無いことを子供ながらに察していた。

 だがそれでも毎日働き、どんなに苛立っても決してクロエに暴力を振るう事なく優しく接してくれる母親が、クロエは大好きだった。


「私も、もっと大きくなったら沢山働いて、お母さんを幸せにする!」

「ふふふ、嬉しいわ」


 母親はいつもクロエの顔を見ては、愛おしそうに目を細めていた。


(友達はいないけど、お母さんがいてくれればそれでいい。)


 空腹に耐えながらも愛情を噛み締めて生きる毎日が、クロエにとってはまさに宝物だった。そしていつかは自分が母親を幸せにしたい、そんな漠然とした夢の様なものが心に芽生えた頃、幸せに満ち溢れた現実が粉々に崩れ去る事件が起きる。



「誕生日おめでとう、クロエ。」

「ありがとうお母さん!」


 それは雪が降りしきる静かな日だった。クロエが寒さでかじかんだ手に白い息を吹きかけながら布団を出ると、母は簡素な暖炉に薪をくべながら、クロエに微笑んだ。


ーーー今日はクロエの6歳の誕生日。


 貧しい生活の為特別な何かをする訳では無いが、自分が生まれた日を嬉しそうに祝う母親と過ごせるこの日は、物心ついた頃からクロエにとっては最も待ち遠しい1日になっていた。


「今日はクロエの誕生日だから仕事はお休みなの。一緒に過ごしましょう。」


 母親のその言葉に、クロエの表情がぱっと明るくなる。


「本当に!?嬉しい!」


 そう言って飛びつくクロエの体を、母親がそっと抱きしめた。


「元気に大きくなってくれてありがとう、クロエ。」

「私もお母さん大好き!」


 暖炉で燃える炎が二人を照らし、徐々に部屋を暖める。母親はその火でスープを温めると、欠けた器によそってクロエに差し出した。


「実は今年は特別に、クロエにプレゼントを用意したの。いつも生活に余裕が無くって、クロエには苦労ばっかりさせてたからね。」

「プレゼント!?」


 差し出されたスープを飲みながら、母親の言葉にクロエが目を輝かせる。


「ええ。でもただ渡すだけじゃつまらないから、宝探ししましょ。この紙にプレゼントを隠した場所を書いたのだけど、わかるかしら?」


 母親はそう言って微笑むと、一枚の紙を差し出した。


「うーん、鳥?こっちはお星様…あ、アリエスだ!」


 アリエス。それはクロエの家から数百メートル程離れた奥まった場所にある雑貨屋の名前である。鳥をモチーフにした看板が目印で、国外からの輸入品やここでしか手に入らない商品も多く扱っているらしく、一部の冒険者は頻繁にこの店に出入りしていた。


「ふふ、クロエはやっぱり頭が良いわね。」

「正解!?探してくる!!!」


 母親の言葉にクロエはスープを急いで飲み干すと、茶色い上着を引っ張って家から飛び出した。この上着は母親から貰った物だ。明らかに大人の男物であるが、子供服など買う余裕は無い。何より運が悪ければ冬の間に道端で死ぬ浮浪者も少なくないこの街で、暖炉付きの家に住み、寒さを凌げる上着まで着れるだけで、クロエは自分が恵まれていると感じていた。


「プレゼント!」


 クロエは降りしきる雪の中を駆け出した。時刻は午前8時。街の人たちはまばらで、雪は誰の足跡もついておらず、一歩一歩踏み込むたびにギュッギュッと音を立てて沈む。雪が音を吸収しているのか、普段よりも街が静まりかえっている様に感じた。


「あった!アリエス雑貨店!」


 角を曲がると見えた鷲の様な看板。時間が時間なだけに店は閉まっており、シャッターは下されている。


「プレゼント、どこだろう…」


 クロエは店の前まで辿り着くと、辺りを見渡した。

 周囲は細い路地裏。積み重なった木箱や丸められた布が辺りに無造作に置かれている。


「この辺に隠してあるのかな?」


 クロエは木箱によじのぼり、隙間などに何か置かれていないか探す。


「お嬢ちゃん、探し物かい?」


 突然背後からかけられた声。クロエが振り返ると、そこにはこの街にしては異様に身なりの良い服を着た男女が4、5人、通路を塞ぐ様に立っていた。


「えっ・・・いや、その・・・」

「探し物なら人手は多い方が良いでしょ、手伝ってあげるわよ。」


 男の隣に立つ女が、そう言ってクロエの肩に手を乗せる。一見優しげに声をかけている様だが、クロエの肩に乗せられた手はクロエの顎を掴み、くいっと女の方を向かせた。そんなクロエの顔を隣に立った男が覗き込む。


「おいおい、こいつは本当に上玉だな。こんな質の良いガキ、10年ぶりじゃねぇか?」

「そうね、これは高く売れそうね。」


(売る…奴隷商人!?)


 グラソン王国では全面的に奴隷の所有や人身売買は禁じられている。しかしその一方で、一部の愛好家によって他国の奴隷が輸入されたり、カタルの様な貧民街で攫われた子供が奴隷として売られる事件は少なくなかった。


「離してっ!」


 身の危険を感じたクロエは、咄嗟に女の手を振りほどいて木箱から飛び降りると、道を塞ぐ男に体当たりをする様にして駆け出した。しかし、


「いってーな」


 6歳の少女の体当たりなど、たかが知れている。体格の良い男はぶつかって来たクロエの首元を掴み、その華奢な体を持ち上げる。


「肉付きは良く無いが、そういうのが好きな奴も多いからな。こりゃ良い。」

「嫌っ、離してっ離せっ!」


 持ち上げられたまま、クロエは自分を掴む男の腕に爪をたててジタバタと暴れるが、当然そんな抵抗など、男には一切通じない。男は持ち上げたクロエを肩に担ぐと歩き出した。


「どうせすぐ薬に漬ければ何も分からなくなるさ。」

「やだっ、やめろっ、離せ、離せよぉぉぉおお!」


 瞬間、担がれて暴れるクロエの手を、僅かに淡い緑色の光が包む。


「待って、その子供・・・」

「ん?」


 後ろを歩いていた女がその光に気づき、男を静止させようとした瞬間、


 パァァァァァァァンッ


 その場にいた誰もが、一瞬何が起こったのか分からなかった。クロエを担いでいた男の首が引き裂かれ、辺りの雪に真っ赤な鮮血が飛び散る。


「危ないっ!」

「えぎゃ」


 立て続けに縦横無尽に駆け巡る風の刃に、女が咄嗟に防御魔法を展開するが、他の2人は反応が遅れ、男と同様に全身を引き裂かれ真っ白な雪の中に倒れ伏した。その体はこと切れたのかピクピクと痙攣し、やがて動かなくなった。

 肩から落ちたクロエは雪の中で跪くと、目の前に転がった自身を攫おうとした男の亡骸から後退りし、叫ぶ。


「私が、やったの?・・・・違う、いやっ、いやぁぁぁぁあああああ」

「エレクト・・・ぎゃっ」


 クロエを取り巻く空気が逆立ち、暴風雨の様な魔法を展開する。そんなクロエに女が咄嗟に魔法を繰り出そうとするが、その掌から魔法が放たれる前に、女の体は腰から真っ二つに引き裂かれた。


「あああ、ああぁぁぁ、あああああっ」


 目の前に広がる地獄の様におぞましい光景と、自分の力によって人の命を奪ったという事実にクロエは咆哮した。そんな激情を表すかの様に、制御できない力はクロエ自身の肌をも引き裂く。


「あああ、お母さん、お母さん、、」


 辺りの家屋までをも破壊した竜巻が徐々に収まると、残された血まみれのクロエは、譫言の様にそう呟き自宅の方へと歩き出す。


(帰りたい…お母さんの所に帰りたい…)


 足が鉛の様に重く、頭の中がもやがかったように思考できない。自らの手で人を殺した。状況がどうであれ変わらない事実に、6歳の心は受け入れられず、ただただ温もりを求めて朝の街を彷徨う。


(お母さん…)


 お母さんに話せば、きっとどうにかしてくれる筈、お母さんなら抱き締めてくれる筈、だがそんな縋るような混沌とした感情は、辿り着いた家の中から聞こえる母親の声によって、一瞬にして消え去った。


「最高の気分!これであの子供ともおさらばよ!6年間何度も殺そうかと思ったけど、本当に殺さなくてよかったわ…私の子供いくらで売れたと思う?5億よ!?これで私はもう働きに出る必要もない、都心の近くに家を買ってあなたと一緒に過ごすの。」


 聞いたこともない様な母親の声。だがそれでも聞き慣れた声である事に変わりはなく、クロエは一瞬言葉を忘れてしまったかの様にその内容が理解できなかった。


「本当に長かったわ…これでもうこのクソまずいスープやボロボロの家ともお別れできる。あの子はきっと明日にはどっかの金持ちの慰み物になるんでしょうけど、お似合いよ。あのクソ男の顔にそっくりな子供なんだから!」


 心臓が痛み、気道が詰まった様に呼吸ができない。頭は狂った様に熱く、手足は氷の様に冷たい。


「誕生日プレゼントって言ったら喜んで飛び出して行ったわ。でも、嘘じゃないわよ。だってあの子を奴隷商人に売り捌くのが、私からの最後のプレゼントなんだから。あははははっ」


 ドゴンッッッッッ


「な、何!?」


 突風の様に凝縮された風魔法が、薄っぺらい木の扉を粉砕し、家の中へ吹き荒れた。

 そして家中の壁紙やベッド、棚を薙ぎ倒して引き裂き、窓ガラスを粉々に砕くと、消える様に収まる。


「誰っ!?」


 クロエはふらついた足取りで、荒れ果てた家の中に足を踏み入れた。粉々に砕けたガラスがボロボロの靴の裏を突き抜けて足の裏に突き刺さるが、痛みは感じない。痛みどころか、匂いも、色も、五感全てが何も感じなかった。

 そして、家の奥で怯える様にしゃがみ込んだクロエの母親と恰幅の良い男は、その瞳に血まみれになったクロエを捉えると、ヒッと小さく悲鳴をあげた。


「な、なんでアンタがここにいるのよ…あんたは、あんたは…」


 クロエがちらっと男の方の顔を見ると、その瞬間男の右足が切断されたように吹き飛ぶ。


「ギャァァァァアアア」


 ぼとりと落ちる右足。そして男から吹き出した血を浴びて真っ赤に染まったクロエの母親は、奥歯をガタガタ言わせながら叫んだ。


「ば、化け物・・・ああ、あんたなんか、あんたなんかっ、産まなければぁぁぁぁああああっ」


 だがその叫び声は、腹部を切り裂く無数の風の刃によってパタリと止んだ。


「ばけ、もの・・・・・」


 そう呟き、ピクリとも動かなくなった女の前で、返り血で真っ赤に染まった小さな少女は呟いた。


「お母、さん・・・・・?」




 この日、クロエ=ウェストコリンは6歳の誕生日にして自身の魔法の才能を覚醒させた。そして同時に自分の母親と奴隷売買のブローカー4名を殺害、奴隷売買に関わっていた男1名に重傷を負わせた事で、厳重なセキュリティが敷かれた孤児院へ移送された。男の供述によって、クロエの母親がクロエを奴隷商人に売り、その金銭で男との新生活を目論んでいた事が明らかとなった。

 年齢と状況、そして被害者が国を挙げて追っていた奴隷売買の構成員であった事からクロエは重罪とはならなかったものの、隔離に近い生活を余儀なくされた。


「いつか、対等に話せる奴、できるかな。」


 孤児院に併設された教会の塔のてっぺん。お気に入りの場所でぼんやりとそう呟きながら、クロエは遠くの街を眺める。

 そんなクロエの元に、数百年に一度の天才と謳われる魔法士、セシリア=セントリンゼルトが現れるのはもう少し先の話であった。





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