16 少女と籠の中の鳥


ーーー雲の中みたいだ。




温かくて、ふわふわしていて、柔らかい。




「んっ・・・白い・・・」




ハルがゆっくり目を開き、その景色に呟くと、そこは湯気が立ち込める見慣れた浴室だった。


そして背後からは柔らかいものが、優しくハルを包み込んでいる。




「ハル様、目を覚まされましたか?」


「オリビア・・・?」




温かいお湯の中、揺蕩うハルを背後から包む様に抱きしめていたのは、見慣れたオリビアだった。




(あれ、私は・・・うっ)




途端に走るガンガンと頭に響き渡る痛み。そこでハルはようやく自身がクロエの悪戯によって置いてきぼりにされ、雨の中学園に向かっている最中、あと一歩のところで暴漢に襲われた事を思い出した。




「オリビアさんが助けてくれたんですね。」




ぼんやりとした頭でハルがそう言うと、オリビアがハルの手にそっと自身の手を重ねる。




「気にしないでください。主人に振り回されるのは今までも同じでしたから。それより、熱がある様ですのであまり長湯はしない方がいいですね。今は何も考えず、私に身を任せてください。」




そう優しく告げるオリビアの声を聞いたハルは、安心した様にまた意識を手放したのだった。



















オリビアは、ベッドに寝かせたハルにノアから貰った薬と水を飲ませると「何かあったらすぐに呼んでくださいね」と言ってハルの部屋から出て行った。夕食は「フルーツだけでも」と皮を剥いた林檎を置いて行ったのだが、ハルは喉を通す事ができず、すぐに吐き出してしまった。




オリビアが出て行った部屋で、また雨の音だけが静かに響く。




(苦しい・・・・・)




体は鉛の様に重く、意識は熱によって朦朧としているにも関わらず、頭痛のせいか目を瞑っても中々意識を手放す事ができなかった。


だからといって外を見ようと起き上がろうとしても、視界がグルグルと回ってしまい上体を起こす事すらできない。


ハルは仕方なく仰向けになるとそっと目を瞑った。




「・・・セシリア様、怒ってるかな。」




思い出すのは昨夜のセシリアの言葉。




ーーーあなたはもう、その生死を私の手に握られた一つの道具に過ぎない。




「なんで・・・」




天井を向いて目を瞑ったハルの目から、ぽとりぽとりと涙が流れる。




「私は・・・」




セシリアはいつも正しい事を言う。これまで何でもセシリアの言った通りになってきた。もしそのセシリアが、「利用価値が無ければ殺す」と言うのであれば、それが正しいのだろう。「ハル=リースリングと言う人間はただの道具に過ぎない」と言うのであれば、それが事実なのだろう。




(私は、セシリア様との約束を破った。街へ行き、襲われそうになり、危うく私の魔力をセシリア様以外の人間に渡してしまう所だった。)




その事実がセシリアの中にあるハルをかけた天秤を、利用価値と危険性、どちらに傾かせたのかが怖かった。


しかしそれ以上に、もっと恐ろし恐怖がハルの心の奥底から這いずる様に溢れだし、その心臓を握り潰す様にじわじわと蝕んでいた。それは、決して手に入らないものを欲してしまった絶望。孤独。寂寥。後悔。そして、そんな自分への罰。




「私は・・・セシリア様に、道具として扱われたくない・・・」




声に出す事も憚れていた気持ち。あの雨の日の夜、震えるハルの体をセシリアが優しく撫で、口づけをしてくれた日から、ハルの中には今まで感じた事がない想いが確かに芽生えていた。しかしそれは、一般に言われる様な柔らかで甘酸っぱいものではなく、どす黒く濁った、隙あらばハルのその小さな胸を濁流の様に飲み込み、バラバラに引き裂いてしまいそうなものだった。何度気付かない振りをしても、何度その感情をかき消そうとしても、それは見えない所で根を伸ばし、気付いた頃にはハルを雁字搦めにして動けなくしていた。




(気付いた所でどうしようも無い。私は咎人。役目を果たしたら殺される。役目を果たせなくても殺される。元々ここで今、こうして生きていられるのが奇跡なんだ。)




ハルは何度目かわからない言い訳を自分にし、その海の底の様に真っ暗な感情の中で溺れる苦しみを味わいながら、いつか窒息して意識を失う事を願った。そうなってしまえばもう、痛みも苦しみも、触れられた悦びでさえも感じなくなる。




「もう、消えてなくなりたいよっ」




しかし生死を握られている身ではそれすらも叶わない。


そうして自らの悲境に肩を震わせ悶えていると、ドアの向こうから微かな声が聞こえた。




(・・・オリビアかな?)




その声は、ほんの少し怒気を孕んでいた。内容までは分からないものの、誰かに対して怒っているのだろうか、珍しく感情的なオリビアの声が僅かに聞こえる。




「ーーーーさい、セシリア様!」




(えっセシリア様?)




すると途端、ハルが寝ていた部屋の扉が開かれた。




「オリビア、あなたは宿舎に帰りなさい。」


「セシリア様っ!」




寝ているハルからはよく見えないが、確かにセシリアの声が響く。しかしその声は普段よりも厳しく、言い返す事を許さない声だった。一方のオリビアも、何か譲れない事があるのか必死に抵抗の声をあげる。しかし主人と従者という関係の中では、その力の差は圧倒的だった。




「オリビア。これ以上何か発言をすればあなたを数ヶ月の暇にします。」


「・・・・・・っ」




流石のオリビアもこれ以上は言い返せないのか、「失礼致しました」とだけ言って不承不承立ち去った。


セシリアは部屋の扉を閉めると、ハルの横たわるベッドへと近寄り、その隣に無表情で立つ。そして潤んだ瞳で見上げるハルを見下ろすと、




「街へ行ったのね?」




とだけ言った。その氷の様に冷たい声がハルの心に突き刺さり、熱で頭が上手く回らない事もあり、ハルは言葉を発する事もできなかった。そんなハルに、セシリアは更に言葉を続ける。




「自分の存在価値がわかってるの?」




ーーー今、最も言われたくなかった言葉、そして言って欲しくなかった人に、ハルの心には言葉が鋭い氷の刃となって更に突き刺さっていく。




「もしその身に何かあったらどう責任を取るつもり?」




きっとこの言葉は、ハルの身を案じての言葉では無いーーーそれが痛いほどに分かり、追い討ちをかける様にハルの心へと刺さると、その限界まで水を溜めていたガラスの心はヒビ入り、バラバラと粉々に砕けていく。心はここにあるのか、とばかりに胸が痛み、どうしようもない悲しみが怒涛の様に押し寄せる。


しかしそんな中でも、まだ心のほんの片隅に、唯一微かに揺れる希望があった。それは、最後の希望。ハルはここまで追いやられても、無理矢理希望を見出し、期待しようとしている自分が、我ながらに哀れで酷く醜いものに感じた。


ハルは朦朧とした意識で気力を振り絞り、言葉を吐く。




「・・・・嫌、です。」




心の奥底に溜まっていたドス黒い思いを吐き出す様に、息を吐き出して言葉を紡ぐ。




「もう、嫌なんです・・・道具の様に、私を、扱わないで下さい・・・・」




またボロボロとハルの瞳から涙が溢れた。ただでさえ歪んでいた視界が滲んでいき、これではもうセシリアの表情を見る事もできない。


しかし、セシリアの考えている事は表情を見ずともすぐに分かった。ギシリと音を立てて、ベッドが揺れる。そしてセシリアはハルに跨ると、かけられていた布団を乱暴に剥ぎとり、着ていたシャツを破く様に脱がせ始める。




「嫌っ!やめて下さい、やだっ・・・!」




しかしセシリアが手を止める事は無い。




「あなたは一生私の道具。拒否権はあなたには無い。」




普段より乱暴な、まるで出会ったばかりの頃の様な手から逃れる様に、ハルは暴れる。このまま流されたら一生ただの道具と成り果てる、そんなのは絶対に嫌だった。しかし、熱にうなされた体ではセシリアから距離を取る事も叶わない。




「いや、やだ・・・もうやだ・・・」




ハルは泣きながら必死にセシリアに縋り、拒否する言葉を吐くが、その手は止まるどころか指を鳴らすと一瞬でハルの声と、手足の自由を奪った。




(声、が・・・・・)




セシリアはいつも強引ではあったが、情事の最中に魔法を使ってハルの声を奪ったり、拘束したりする事は一度たりとも無かった。そしてその事実が、ハルの心の支えにもなっていた。しかしそれは、今夜終わった。


完全に道具として扱われるだけの行為に、もうハルは声を発しようと試みる事も、逃げようと暴れる事もしなかった。ただただ、セシリアから顔を背け、涙を流す。




この日が、ハル=リースリングとという少女の心が完全に壊された日だった。


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