第3章 百合と魔法と紫の侵略者
14 少女と雨
グラソン王国では、乾季と雨季が繰り返し訪れ、それらがもたらす豊饒な果実や穀物の栽培が、国を支えていきた歴史がある。それは建国から千と数百年経った今も続いており、主な貿易収入は医薬品や魔道具、魔法書などが主流となった現在も、葡萄や桃などの果実をはじめ、麦や人参などの農作物の生産も幅広く行われていた。
そのせいか、月の大半が雨となる季節であっても人々はそれを“恵みの雨”と呼び、例え農耕に従事していない民もこの季節の訪れを喜んだ。
しかしそうは言っても少女、それもまだ16歳の娘にとっては、土を泥濘ませ、髪をうねらせるこの雨季は、どうしても心が沈んでしまうものである。
「また今日も雨だ・・・」
「最近ハル毎日それ言ってるね。」
降りしきる雨の中、傘をさしながら歩く黒髪の少女ハルがそう嘆くと、隣を歩いていたリアが笑う。
「ハルって本当に雨嫌いだよね。」
「雨の日って感傷に浸っちゃうから、得意じゃないんだよね。」
(それに最近、雨を見るとなぜかセシリア様を思い出すんだよな・・・)
ハルが思い出すのは、オーネットの一件があった夜、じっと雨が降る夜の林を眺めるセシリアの姿。その姿は、雨で月明かりが殆ど届かない為かぼんやりしており、青い髪をより深い紺色に染め、その陶器の様な真っ白な肌を一層引き立たせた。
そして思い出す、ハルの上に覆い被さりじっと見つめる琥珀色の双眸。その奥には、いつもの冷たい清廉さだけでなく、ほんのり灯った熱い渇求の様なものがちらついていた。
普段は意識を失うまで抱き潰され、目が醒めるとひとり朝になっているのだが、この日は情事が済むとその細い指でハルの髪をそっと梳き、ハルが寝付くまでずっと隣に居てくれた。
その時のセシリアの感情がどんなものだったのかは分からない。ただそれでも、入学早々に自分を絶望に陥れたはずのセシリアが、徐々にハルの一部になっていく、そんな感覚を覚えた。
(セシリア様といると、辛かった雨の記憶が薄れていく。)
「私は雨好きだけどなー」と言って笑うリアを、ぼんやりと眺めながらそんな事を思った。
二人が目的地、次の授業が行われる教室に到着する頃には、跳ね返った泥や横から打ち付けた雨によって靴や制服の肩はびっしょりと濡れていた。
「っくしゅん」
「あら、風邪を引いてしまいますわ?私のハンカチで拭いてくれてよろしくてよ。」
(イグテア・・・)
湿度が高いとはいえ、まだ春の気温を残した空気はほんのり肌寒く、思わずくしゃみをするハルに、赤髪の少女イグテアがそっとレースの刺繍が施されたハンカチを差し出した。
イグテアとは魔獣討伐やオーネットとの一件で仲良くなったのだが、ハルはリア以外の生徒との会話は禁止されている。その事をイグテア自身にも話しているものの、結局オーネットの一件以後も、なんだかんだ話しかけてくるのである。
「ありがとう、イグテア。」
数週間一緒に過ごして分かったが、イグテアは魔獣討伐の際もその身を犠牲にして皆を守ろうとした様に、たまに正義感の様なものが行き過ぎる事はあるものの決して悪い人では無かった。
いつもリアとばかりいる、明らかに普通ではない身のハルを心配し、なるべく声をかけるようしてくれる、ハルはその優しさが嬉しくもあり、どこか罪悪感を感じていた。
(嬉しいんだけど、セシリア様に後ろめたい・・・)
ハルが複雑な心境で体を拭き、リアの濡れた髪も拭いてやっていると、教室へ講師が入ってきて授業を始める。
「そういえばハルさん、オーネット様のお加減はいかがでして?」
「もう前より元気一杯だよ。御礼をさせて欲しいって会う度に言ってくる。」
「四賢聖からの御礼なんて最高じゃん!しかもあのオーネット様なら、貴重な武器とか結構な額のお金とか貰えるんじゃないの?!」
「いやそれが・・・」
オーネットはあの一件以来、ハルを見かける度に「この間の御礼だ!遠慮はするな!」と強引にハルを連れて行こうとする様になった。そしてその御礼と言うのが、ハルを強くする事ーーー即ち、ハルがボロボロになるまでその剣技を叩き込むというものだった。
オーネット曰く、限られたごく僅かな魔法しか使えないハルが、今後ハルを奪おうとする勢力から自衛をするのであれば、剣技を嗜たしなむ必要がある、との事だった。当然その意見は至極真っ当であり、ハル自身もその必要性は理解しているが、ただでさえ加減が効かず一つの事に熱中しがちなオーネットの稽古は、当然稽古と呼べるものではなかった。そんな事とは知らずに付いて行った1度目は、ただ必死に木刀を構えるハルに、オーネットが手加減なくその圧倒的な剣技を叩き込んでは「どうだ?分かったか?」と聞いてくる、何とも手に負えないものだった。
そうして安易にホイホイ付いて行った初日は、ノアの回復魔法が必要に成る程全身ボロボロになるまで扱き倒され、夜になって服を脱がしたセシリアに心底呆れた顔をされたのを思い出すと、今も胸が痛い。
(翌日会ったオーネットもなぜかボロボロだったので、恐らくノアに怒られたものと思われた。)
「な、なんかごめん。詳しくは聞かないでおきますわー」
一気に顔を青ざめさせて肩を落とすハルに何かを察したリアは、また一つ心に傷を増やしたハルを優しく慰めるのだった。
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「来月からは夏の大遠征に向け、実習の回数が多くなっていきます。それまでに各自、武器等使用するものは今月中に用意しておいて下さい。」
講師がそう言うと一日講義は終わり、生徒達はバラバラと帰り支度を初めて行く。
「大遠征ってリア知ってる・・・?」
「・・・・・・はぁ。」
気になるワードを無垢な瞳で尋ねるハルに、「すっかり忘れてたけどこの子温室育ちの世間知らずなんだった」という顔で溜め息をつき、リアが答える。
「大遠征っていうのは一年に一回だけ行われる、文字通りの大規模な魔獣の群れや超級の魔獣達を討伐するビッグイベントだよ。4校が持ち回り制で担当するんだけど、今年はグラソン魔法学園の当番なんだ。」
「持ち回りって事は全校生徒が参加するの?」
「そうだよ。それぞれ役割は違うけど1年生から3年生までが全員参加する。勿論相手は魔獣、それもこの間のクラーケン並みの化け物が相手だから怪我人や死人が出る事もあるけど、遠征後は帰還を祝って盛大に街でお祭りするんだ!」
そう言って目を輝かせるリアの反応を見ると、恐らくお祭りといってもハルが知っている様な、町の広場で魚や野菜をみんなで囲い、盃を交わして朝まで宴会をする様なものではなく、もっと大規模な催しである事は容易に想像がついた。
そう考えるとハルもわくわくしてくる。
「倒す魔獣ってもう決まってるの?」
「ううん。魔獣はリー協会が毎年決めてる。その強さや被害の規模で決めるから、例年遠征の2週間前くらいだったんじゃないかな。」
リアの口から突然出た知っている言葉に思わずハルが驚く。
リー協会は、その経典がオーネットを嵌めた鍛冶屋で見つかり、ハルを狙っている組織との繋がりが疑われている宗教団体である。
「そういえばリー協会について、リア何か知ってる?」
「リー協会かぁ・・・私あんまり宗教とかは詳しくないからな。イグテアは何か知ってる?」
「そうですねえ・・・」
リアの隣に姿勢を正して座るイグテアは、手を口元に当てて答えた。
「リー教会の規模はグラソン王国最大で、起源としては王国の建国と共に生まれたって事になってますわ。確か英雄グラソンを崇める系統の宗派ですわね。純粋な教徒でなくても教会で祈ったり、よく市場とかで催し物をしたりもしているので、比較的親しみやすい宗派でしてよ。」
そこだけ聞けばよくある一般的な宗教だ。もっと新興宗教的な怪しいものを想像していたハルは拍子抜けする。
すると全く興味のない話題で飽きたのか、リアがハルとイグテアへ声をかける。
「ねえねえ、二人は武器とか道具の準備はもう万端?たまには一緒にイスタニカの街とか行ってみない?!」
「まあ素敵ですわね!」
リアの目を輝かせた提案に、イグテアも両手を合わせて賛成した。16歳の少女達にとって、街での買い物、それも王国の首都ともなると胸を高鳴らせないはずがない。しかしハルにとっては、リアの提案はすぐに頷ける物ではなかった。
「うーん行きたいのは山々なんだけど…」
そんな煮え切らないハルの反応に、リアはすぐに状況を察する。
「そっか・・・セシリア様に確認した方がいいかな?」
「うん、ごめん・・・」
そんな申し訳なさそうな顔をするハルに、リアは「もし行けたら一緒行こうね!」と元気付けるのだった。
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「却下よ。」
「・・・ですよね。」
夜、部屋に来たセシリアに、内心(最近態度がほんの少し柔化している気がするセシリア(当社比)なら、もしかすると外出の許可を出してくれるのでは!?)という淡い期待を持ちつつ慎重に聞いたが、案の定一瞬で却下された。
セシリアはベッドの上に押し倒したハルを見下ろすと、服を脱がす手を止め、更に冷たい声で言う。
「自分の置かれた立場を分かってるの?あなたの能力をどんな組織か狙っているか分からない。それにもし、あなたが咎人である事、あるいはその能力が公になったら、一瞬であなたは利用価値のある道具ではなく、ただのリスクの塊となる。そうなったら問答無用で私はあなたを殺すわよ?」
「・・・・・・はい。」
セシリアの口から言い放たれる、どんな小さな期待にも容赦しない厳しい言葉に、思わずハルは押し黙る。
「それにあなたを街に出して、私に何のメリットがあるの?あなたはもう、その生死を私の手に握られた一つの道具に過ぎない。私にメリットがない事は許さないわ。」
「・・・・・・・っ」
そしてまた、事務作業の様にハルの服を脱がせ始めるセシリアに、ハルはもう何も言う事が出来ず、ただ窓の外で今日も降り続く雨を見やる。
しかし、今日の昼間と同じ様に雨を眺めているはずなのに、もうあの夜の、労わる様に髪を梳いてくれたセシリアの手を思い出す事は出来なかった。
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