07 少女と海の魔獣



「それではこれより、セイレーン討伐を開始します。各チームは事前に定めたコースでポイントへ向かい、交戦して下さい。制限時間は2時間です。また、今回は最悪の事態に備える為に最後の20分程だけ四賢聖のセシリア=セントリンゼルト様がお越しになります。それまででもし命の危険を感じたら、迷わず退避して下さい。それでは健闘を祈ります。」




 講師はそう言うと、姿を消した。討伐はあくまでも生徒主体で、本当に危険な状況になるまでは傍観者に徹するのだろう。




「やっぱり緊張してきたー!!!」


「ハルは初めての魔獣討伐だもんね!」


「ま、まあそんな感じかな。」




 ハルを含めた1クラス、生徒20人はグラソン王国の南部に位置する港町、テルテラ近郊のテルテラ海岸に来ていた。海岸沿いはずっと岩場になっており、波はやや高く岩礁にぶつかっているのか真っ白い飛沫をあげており、周囲は薄く霧がかかり鬱蒼としていた。


 また海岸には入り組み、洞窟の様になっている箇所が無数に存在し、それらが格好のセイレーンの住処になっている、教師の話ではそういう事であった。


 また、今回は命の危険がある事から洞窟内のみに限り、咎人に関する条件やハルの能力以外の会話であれば、リア以外と行っても良いという許可を事前にセシリアから得ていた。




 ハル、リア、そして他の2ペアを入れた合計6人のチームは、割り当てられた洞窟に向かうべく海岸沿いを道なりに進む。洞窟の入り口は歩いて15分程の距離にあり、更に15分程進むとセイレーンがいると思われる場所に着く計算であった。




「でもハルならきっと大丈夫だよ!使える魔法は相変わらずイルアローゼだけだけど・・・でもそこから波及して急に色んな攻撃を編み出したんだから!」


「うん・・・ありがとう・・・」


「でも急に見違える様に魔法を使いこなせる様になったよね。誰かのアドバイスとか?」


「うっ」




 魔獣討伐まで残り5日程になっても、変わらず全く戦闘力になれそうにない自分に辟易したハルは、プライドを捨てて王国最高峰の魔法士セシリアへと教えを請いたのである。しかし当然、セシリアがハルに無条件で魔法の手解きをしてくれるはずも無く、セシリアの要求に一つ応える毎に、魔法を使う際のコツやハルの能力から考えられる応用魔法をハルに教えるという、圧倒的に理不尽な交換条件を結んだのであった。


 当然出された条件は“セシリアの目の前で自慰行為を行う事(セシリア曰く自身が与えた快楽の場合の魔力の動きを見たかった為、との事だったがどう見ても恥じらいながら快感に耐えるハルを見て楽しんでいる様であった)”や、“媚薬を大量に用いた行為(セシリア曰く快感の大きさが魔力の譲渡量と直接的に結びつくのであれば、媚薬を用いた快感のブーストで譲渡量を増やす事が出来るのかを実験したい為、との事だったがやはりこれも敏感になった体を夜通し弄られて「もう触らないで」と咽び泣くハルを見て楽しんでいる様であった)”等、思い出すだけでも羞恥で涙ぐんでしまう事ばかりであった。




「まあ、文字通り体を張った努力の結果、かな・・・」




 遠い目をしてそう答えるハルに、言葉の通りに受け取ったリアは「えらいぞハル!」とハルの背中を叩くのだった。








 ・


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 一同は何事もなく洞窟に着くと、水に濡れて滑りやすくなっている岩の地面をゆっくりと進む。洞窟内部は幅15mはありそうな程広く、所々の隙間から陽光が差し込んでいるはずなのに薄ら暗い雰囲気であった。




<みんなそろそろ防音の魔法をしようか。ハルは耳栓つけて!>




 一番先頭を歩くリアが、魔法を使ってテレパシーでそう声をかける。




<<<<はい!>>>>




 チームに緊張が走るが、異変はすぐに起きた。


 一列になって進んでいた一行であったが、真ん中を歩いていた赤髪のロングヘアの少女が突然足を止めたのである。




<ちょっと早く進んでよ!>


<足が・・・動かないんですの!>


<まさか!>




 最後尾を歩いていた一人が先頭のリアに異常を伝える。




<イグテアが、まだ部分的にだけど幻覚にかかり始めてる!近くにいるわ!>




 それを聞いたハルとリアも足を止め、持っていた松明を周囲に翳してあたりを警戒する。




<セイレーンは主にその歌声を聞いたものに幻術をかけるーーーでも歌声が効かないと分かると一般的な幻術を使ってくる!みんな気をつけて!>




 キャアアアア




 リアがそう警戒を促した直後、足が硬直していた少女、イグテアが突然悲鳴をあげる。




<助けて!誰か助けて!殺される!>


<なんだ!?>




 叫び声を聞き、咄嗟に少女を振り返ってイグテアを松明で照らすが、そこではただイグテアが必死な形相で怯え、何かを自身から離そうともがいているだけで周囲からは何も見えない。




<イグテア、落ち着いて!幻覚よ!惑わされないで!>


<嫌!死ぬのは嫌ですわ!何も見えない!何も聞こえない!>




 周囲の者が必死にイグテアをなだめるが、一切聞こえていないのかイグテアの暴れは止まらず、むしろその長い真っ赤な髪を振り乱し、酷くなっていく。




(幻覚だけでは人を殺すのは難しいーーーという事は!)




<まずい!イグテアに幻術を解く魔法を早くかけないと!>




 ハルがハッとしてそう叫ぶと、イグテアの側にいた2人が急いで幻覚解除の魔法をイグテアにかける。しかしその間にもイグテアの発狂は刻一刻と悪化していく。




「何も聞こえない!誰か助けて!なんて言ってるか聞こえ・・・」




<だめよイグテア!防音魔法を解かないで!>




 リアもハルの考えているセイレーンの思惑に気づき、イグテアに向かって叫ぶがあと一歩の所で間に合わず、イグテアの頭部に防音魔法を解除する魔法陣が現れる。そして防音魔法が解除されるや否や、一気にイグテアは廃人の様に押し黙った。




 ♪〜〜♫♩〜〜〜




「呼んでる・・・みんなが私の事を呼んでますのね・・・」




 イグテアはそう譫言の様に呟くと、洞窟の脇、海の方へゆっくりと、ただし尋常ではない力で歩き出す。




<止まってイグテア!>


<止まりなさいっ!>


<なんて馬鹿力なんだよっ>




 慌てて5人がかりでイグテアの体を引き止めようとしがみ付くが、イグテアの歩みは止まらない。




<まずいこのままじゃ本当に海に落ちるぞ!?>


<・・・っ>




 徐々に近く海との距離、残りわずか5m。着々とイグテアの歩みは進む。




(セイレーンは絶対にこの近くにいる。でも霧や魔力が洞窟内に立ち込めてるせいで気配が探りづらい・・・何かセイレーンを確実におびき寄せる方法は・・・)




 そう考えてハルは、リスクは高いが確実にセイレーンをおびき出すことのできる一つの解決策に辿り着く。




<みんな!リアと私を除いた3人で、あと10秒イグテアをこの場に留めておける?!>


<いや、3人ならもって5秒が限界!>


<わかった。リア、セイレーンをお願いね?>


<待てハル、何をするつもりだ!?>




 ハルは「信じてるよ、リア」と告げ、真っ直ぐ荒れる水面めがけて走り、次の瞬間、水しぶきを上げて派手に真っ黒な海の中へと飛び込んだ。




<ハル、まさか!?>




 水面は洞窟内へ差し込む光が少なく、濃い霧と相まって水しぶきが上がっている所に恐らくハルがいるという事しか、リアからは見えない。しかし波の一部だと思っていた影が、不自然に動き、水しぶきを上げるハルへと素早く迫る。




<くそっ!霧が濃くてセイレーンの姿が追えない!>




 黒い影は瞬く間にハルへと急速に近付くと、青い鱗に覆われた2箇所に関節がある長い腕を伸ばし、長く鋭く尖った爪をハルの首に突き刺そうと振るう。




「リア、行くよ!ーーーーイルアローゼ・グラン!」




 するとハルの両手から四方に大きく水飛沫が上がると同時に、その一粒一粒が凍って行き、ハルとセイレーンの間に目くらましの様に広がる。リアはその魔法を目にするや否や、瞬時にハルの考えている事を理解し、その散らばった氷の粒に向けて松明を投げた。


 すると松明の光は氷の粒へと反射してその光を増幅させ、一瞬周囲、ハルへと迫らんとするセイレーンを照らし出す。




「見つけたぞ!私の友人に手は出させない!べーチェル・ルーブ!」




 リアの両手から渾身の風魔法が放たれる。両手に集まった緑の光はリアの足元に木の根の様な魔法陣を描くと、光は一瞬で増幅し、まるで狼の様に高速でセイレーンに飛びかかってその体をズタズタに引き裂く。




 ギャァァァァアアアアア




 セイレーンは全身を裂かれ、真っ青な血を吹き上げながら断末魔の叫びを上げる。そしてせめてこの獲物だけでも、とその爪をハルへと伸ばすが、伸ばした先から風の刃によって粉々に引き裂かれ、最後は跡形も残らない小ささに切断され、海へと沈んで行った。








「あら?私は一体何を・・・」




 リアによるセイレーンの撃破から数秒程間を置いて正気に戻ったイグテアがそう呟くと、漸く5人はセイレーンを討ち果たした事を実感し、安堵のため息をついた。




「誰一人も欠けなくてよかったぁ〜」


「申し訳ございません!私、皆さんの足手まといに・・・」


「セイレーン、想像以上に難敵だったから気にしないで・・・」




 海からハルを引き上げ、各々で辺りを警戒するも、この洞窟にいたのは一匹だけであった様で、魔獣の気配は無い。




「確かこのポイントが十数人乗せた船が襲われた場所から一番近いんだよね、ハル。」


「うん。確か先生はそう言ってたよ。だから気をつけてって。」


「ふーん」




 確かにセイレーンは想像以上に手強かったが、あの一体だけで船を跡形もなく襲ったのか?そう考えるとハルも少し疑問だった。しかし洞窟にはもう魔獣の気配がない。




「あ、見て見て!なんかキラキラした物が流れ着いてる!」


「走ると危ないですわよ!」




 チームの一人が、洞窟の開口部付近に漂着物を見つけたのか駆け出し、イグテアが危険だとそれを追いかける。




「何だろう。襲われた船に乗ってたものとかだったらちょっと不気味だよね。」


「うん・・・」




 そんな二人を遠目から眺めながら、ハルとリアは腕を組んで考えていた。




(船を襲った・・・歌声で一斉に幻術をかけた?でも一匹で十数人は難しいし、何よりさっきは歌声が効かなかったにしても、イグテアにしか幻術を欠けられなかった。でもこの洞窟に魔獣の気配はもう無い・・・気配・・・)




 そこでハルは一つの最悪な可能性に気づく。




「二人とも危ない!海から離れて!ごく上位の魔獣によっては、気配を消す事もできる!」




(もし、この間のドラゴンの様な個体がこの海域付近に潜んでいたとしたらーーー)




 その仮説に答えるかの様に、駆け出した二人が海の側にたどり着いた瞬間、灰色の幅1mはある細長いものが2本、音も無く二人に向かって振り下ろされる。




「危ないですわっ!!!」




 ドゴォォォン




 すんでの所でイグテアが前方を走っていた少女を掴んで横に転がり、細長い物体ーーー触手の攻撃をかわす。


 すると魔獣は小賢しい罠を使った狩りは諦めたのか、ドドドドと音を立てて水面からその巨躯を露わにした。




「そんな・・・これは・・・」




 海水が灰色の粘液に覆われた体を流れ、その動きに合わせて所々渦潮を作る。そして水面から赤い光が浮上したかと思うと、それは海から顔を出し、ようやくそこでそれは人が両手を広げた程の大きさの眼球だとわかった。


 そして岸を殴った2本の触手は他を合わせて9本となり、洞窟いっぱいにその腕を伸ばす。




「・・・・・・クラーケン・・・?」




 あまりの巨体と禍々しい魔力にハルの膝が小さく震える。そして横目でリアを見やるが、恐怖に心を支配されているのはリアも同様な様で、その目一杯に絶望を浮かべていた。




 グォォォォオオオオオオ




 クラーケンがその存在を知らしめる様に洞窟が崩れそうな程雄叫びを上げると、その触手で洞窟の陸上側の入り口上部を攻撃し、崩す。




 ドォォォォン




「入り口が!」




 崩れた岩は洞窟内部に積み重なり、一瞬で天井までの隙間を埋める。




「もう・・・こんなの終わりじゃ無い・・・みんなあの化け物に食べられるんだ・・・ああ・・ああ・・・」




 チームのうちの一人、ハルの背後にいた少女が希望を失った声でそう言うと、膝からがっくりと座り込んだ。


 その隣のもう一人の少女も、洞窟の壁に背中をつけて啜り泣く。




「嫌だ・・・死にたく無い・・・死にたく無い・・・」




 一瞬で洞窟を多い潰した真っ黒な恐怖に、ただクラーケンがどの獲物から頂こうかと鋭い歯を鳴らす音と、それを煽る様に荒だった波が岸辺にぶつかる音だけが反響する。




「・・・イルアローゼ・グラン!!!」




 そんな絶望の中でも、震える足を何とか押さえつけ、絶対に諦めないと一歩前に出たハルが叫ぶ。しかし当然弱小魔法に位置付けられる氷の粒は、クラーケンの体に届く事も無く、一瞬で四方に霧散してしまう。しかしそれでもハルは諦めない。




「イルアローゼ・グラン!イルアローゼ・グラン!イルアローゼ・グラン!」


「ハル・・・無理だよ・・・こんなの勝てっこないよ・・・」




 リアが、震えた声でハルに声をかける。しかしそれでもハルは止めない、否、止めるわけにはいかなかった。




「みんなを絶対に死なせない!イルアローゼ・グラン!イルアローゼ、イルア・・・あがっ」




 パァァンッ




 しかし必死で魔法の名を叫び続けていたハルの声は、一瞬にして消された。そしてリアの顔に付着する一滴の液体。


 それがハルの血液だと気づくのと、ハルが一瞬の間に触手に弾かれ、その腹部を深く触手に抉られて洞窟の壁に吹っ飛ばされた事を理解するのは、ほぼ同意であった。




「ハルぅぅぅぅぅ!!!」




 リアが叫び、ハルへと駆け寄るが、ハルは吹っ飛ばされた衝撃の為か意識を失っており、腹部からは止めどなく出血している。そして抉られた腹部からは内臓と思われる赤黒いものがわずかにまろび出ており、心臓の鼓動に合わせてかわずかに動いていた。




「ハル!今回復するから!ハル!ハル!」




 リアは涙を流し、半狂乱になって叫ぶ。しかしリアの回復魔法が必死にその傷を塞ごうとするも、流れ出る血は止まるどころか益々増える一方であった。




「そんな、ハル!死んじゃだめ!死んじゃだめだ!」




 しかしハルの意識は戻らない。


 そんな二人の惨状に、クラーケンの罠に嵌った一人、赤髪のイグテアが立ち上がり、クラーケンに向かって剣を抜き、構える。




 オオォォォン




 クラーケンが、そんなイグテアの様子を嗤う様に鳴くと、触手を2本飛ばす。


 迫りくる触手を何とか剣遣いと地属性の魔法によって生み出した壁で捌ききるイグテアであったが、更に2本の触手が追加されると、あっという間に形勢を逆転された。そして一本の触手によって吹っ飛ばされ、地面に倒れたイグテアをもう一本の触手で掴み取ると、自身の顔の前にイグテアを持ってくる。




「ぐうっ」




 そしてクラーケンはイグテアまで2m程の至近距離になると、その鋭い歯が並んだ口を大きく開いた。思う様に身動きができず、その圧倒的な力の差に自らの最後を悟ったイグテアは、洞窟の入り口に向けて片手をかざすと、呪文を唱える。




「・・・デル・ガイア!!!」




 すると地震の様な地響きと共に、洞窟内が大きく揺れる。




「な、何・・・?」




 少女たちが崩れた洞窟の入り口の方を見ると、揺れによって岩が動き、上部に人一人であれば通れそうな隙間ができていた。




「さっき皆様がセイレーンに惑わされた私を助けてくれたお礼ですの!ここは私がもう少し時間を稼ぎますから、皆さんは早くその隙間を通って逃げて下さい・・・!」




 そう言うとイグテアは自らを締め付ける触手へ最後の力を振り絞って剣を突き刺す。




 グァァァアア




 多少は効いたのか、締め付けていたイグテアを離し叫んだクラーケンだったが、もう手加減はしないというかの様に触手の攻撃が一段と早くなり、更にそこに水のブレス攻撃をも交えてくる。




「あああっ」


「イグテア!?」




 正面から諸にブレス攻撃を食らったイグテアは背後の壁に吹っ飛ばされる。しかしそれでもまたすぐに立ち上がると、落とした剣を拾ってまたクラーケンへと攻撃を仕掛ける。


 そんなイグテアの決死の攻撃に、逃げていいものかと困惑するリアを初めとした少女達であったが、




「早く行くんですの!」




 と血を滴らせながら叫ぶイグテアの気迫に、少女たちは涙を流しながら頷き、岩をよじ登っていく。




「ハル、もう少しだから、ハル・・・」




 リアも他の少女達と同様、必死に岩をよじ登りながらその背に背負ったハルへそう呼びかけるが、反応はない。


 そしてようやく岩を登りきった一人目の少女の手が出口の隙間にかけられた時、背後から轟音が響く。




 ドォォォォオオンッ




「ああ・・・イグテア・・・」




 咄嗟に振り返った少女達が、目の前で繰り広げられる惨状、そしてあまりにも明らかな力の差に嗚咽まじりにそう呟く。


 そこではイグテアが剣を落とされ、全身血塗れの状態で洞窟の床に倒れていた。触手が更に迫りくるが、その場しのぎで作り出した土の壁はあっさり破壊され、あっという間にその体を触手にからみとられる。




「もう私、ここまでみたいですわね・・・」




 両腕を動かす力も無いのか、それとも骨が折れているのか、だらんと腕を垂らしたまま、イグテアの体がまたクラーケンの顔、鋭い歯の目前に晒される。腕や足先から滴る血は漆黒の海へと吸い込まれる様に落ちていく。




「でも、私の命一つで皆さんが幸せになるのなら・・・」




 イグテアはそう呟くと、目前で鈍く輝く、1mはありそうな鉛色の歯に、諦めた様に微笑を浮かべる。




「むしろ死ねて満足ですわ・・・」




(ああでも、死ぬのってやはり痛いのでしょうか。)




 そしてあんぐりと開けた真っ黒な口の中へと、触手はゆっくりイグテアを持っていく。並んだ歯がその柔らかい皮を突き破り、甘い血肉を堪能するのを今か今かと待つわびる様に、ギラリと光る。イグテアはぎゅっと目を瞑り、その身が引き裂かれ、痛みから解放される瞬間を待った。しかし、






 ガンッッッ






「させない。」




 突如洞窟内、そしてクラーケンへ衝撃が走り、金属同士がぶつかる様な重たい音が響き渡る。


 驚き、咄嗟に目を見開いたイグテアの目の前でその歯を剣でギリギリと押し返し、イグテアが噛み砕かれるのを、腹部から大量の血を吹き出しながら必死の形相で止めているのは、




「・・・ハルさん!」




 黒髪の華奢な少女、ハルであった。




「やめて下さい!ハルさんまで死んでしまいますわ!血もこんなに!」


「“死ねて満足”なんて、絶対に言わせない。」




 ハルが渾身の力でクラーケンの歯を押し返そうとするものの、徐々に口はハルごと噛み砕いてしまえと閉じていく。




「でも相手はクラーケン!私達で勝てる相手では無いんですのよ!もともと誰かが死ぬしか無かったんですわ!」




 しかしハルは腹部からドクドクと血を流し、吐血しながらも必死で耐える。




「私達なら、確かに、勝てない・・・でも絶対、あの人は来る。それまで誰も死なせない・・・!」


「外へ助けも呼べていないんですのよ!誰も助けなんて来ませんわ!ハルさんだけでも早く外へ!」




 しかし断固としてハルはその腕から力を抜かない。




 ーーー絶対に誰も死なせない。


 その呪いにも似た想いが、ハルの意識を覚醒させ、とっくに限界を超えた力を発揮させていた。




 ブチブチブチッ




 血管なのか筋肉の繊維なのか、全身から不快な音がする。しかしハルは止めない。力尽きるその瞬間まで絶対に力を抜かない。


 思わぬ邪魔に業を煮やしたクラーケンが、更に2本の触手で必死に抗う隙だらけのハルを狙い、鞭の様に叩く。




ヒュッ パァアアアアンッ




「ぐああっ」


「ハルさん!!!」




 しかし思い切り触手の鞭で弾かれても、ハルは一切その場所から動かなかった。裂かれた背中は忽ち制服を血で染め、もはやハルの衣服は血で染まっていない面積が殆ど無い程真っ赤に染まっていた。それでも剣を握り、歯を食いしばって耐えるハルにイグテアが涙を流しながら叫ぶ。




「もうやめて下さい!本当に死んでしまいますわ!」


「やめないっ!」




 そして予想外に硬直した状況に、クラーケンが更に触手を振るおうとしたその瞬間、




 ズンッッッッッ




 恐ろしい程の轟音が響き渡り、洞窟内に青い電光が駆け巡る。そして突然イグテアを締め付けていた触手は力なく解け、イグテアを歯の上へと落とすと、触手は海の底へと落ちて行った。




「な、何っ!?」




 突然の轟音と解放に驚いたイグテアが、歯の上で力無く座り込んだままハルの方を見やると、ハルに振り下ろされるはずだった触手は根元付近で切り飛ばされ、宙を舞って洞窟内に落とされていた。




「間に合った、とも言えなそうね。」




 そう言ってクラーケンの口元、ハルとイグテアの間に降り立ち、紺碧の髪を靡かせてハルを見つめる一人の少女。ハルは薄く開いた桃色の目に、その僅かに上げられた口角と暗闇の中でも翡翠色に輝く瞳、そして微笑んでいるにも関わらず、どこか氷の様に冷たい眼差しを映すと、




「遅すぎて、また一つあなたが嫌いになりました・・・」




 と呟き、倒れ込んだのだった。




「これでも全速力で駆けつけたのだけれど。」




 セシリアは倒れ込んだハルを抱き抱え、簡易な回復魔法をかけながら呟く。そんなセシリアを見て呆然としていたイグテアであったが、はっと我に帰り、セシリアへ話しかける。




「セシリア・・・様・・・?」


「あなたは命に別状は無さそうね。この魔獣、クラーケンはもう死んでいるわ。一応この辺り半径500mの海は凍らせたから、この魔獣の体が崩れ落ちる心配はない。落ち着いたら立ち上がって退却しなさい。それかあと2、3分もすれば救助隊がくるはずよ。」


「あの、ハルは!?ハルは大丈夫なんですの!?」


「それをあなたが知る必要はないわ。それと今後ハル=リースリングとは一切関わらない様に。」




 セシリアはそう言うと、ハルを抱えてクラーケンから飛び降り、洞窟の入り口大半を塞いでいた岩を一瞬で消し去ると姿を消した。




 取り残されたイグテアは、ただ拳を強く握り、血が出るほど強く唇を噛みながら、セシリアが颯爽と立ち去って行った方を、救助隊が来るまで睨む様に見つめていた。






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