03 少女と魔女裁判

ーーーきて




(ん…)




ーーーーー起きて




(私は…)




ーーーーーハルさん起きて!




「あっ!!!!!」




 私は魔法濃度測定のために訓練場にいてーーーそこまで思い出し、脇腹を引き裂いた剣やレイピアに映った自らの漆黒の瞳を思い出し、意識が急速に覚醒する。




「やっと起きてくれましたね。」




 目を開くとそこに居たのは、深い藍色の髪を胸元の長さで切り揃え、鈴蘭の花の様に微笑む、透き通る程肌が真っ白で華奢な少女であった。


 少女は涙ボクロが特徴的な海の底の様に深い青色の目を細め、和らげな表情でハルの瞳を覗きこんでいた。




「精、霊・・・?」




 覚醒したてであった事もあり、その神々しい姿に思わずそう呟くと、脇腹から強い衝撃が走り体が吹っ飛ぶ。飛ばされたハルの体は部屋の隅の本棚にぶつかると、臙脂色の絨毯の上に転がった。




「うぐっ」


「ちょっとオーネット!?」




 衝撃が走った方を見やると、脇腹を蹴り飛ばした本人と思われるオーネットが、文字通り虫を見る様な目でハルを見ていた。そしてオーネットが表情を崩さないまま、吐き捨てる様に言う。




「調子に乗るな!」


「ゲホッゲホッ」


「まだ脇腹の傷完全には塞がってないんだからね?いくらオーネットでも怒りますよ?」


「どうせ殺すのだから本来なら治癒自体不要だろう、ノア。」




(オーネットがいるって事はセシリアも・・・)




 状況をいち早く理解するべく、ハルは必死に体を起こそうとするが、そこでようやく両手両足が魔法の枷によって拘束され、前に縛られた腕を動かす事も、身を捩よじる事すらできない状況である事を悟る。




「これを解ほどいて!」




 じっとこちらを見据えるオーネットを睨み返しながらハルが叫ぶが、当然の事ながらそんなハルの叫びは一切無視してオーネットが話を進める。




「此奴も目を覚ました事だし、裁判を始めよう。」


「裁判・・・?」




 芋虫の様に体を動かし、顔を上げて何とか周囲を見渡すと、漸くハルは自身が連れてこられた部屋の全体像を理解する事ができた。


 部屋の中央には、細部まで彫り飾られた重厚な机が置かれており、それを囲む様に、同じく細部に彫刻が施され、所々金の飾りで彩られたソファが、3つコの字型に置かれているのが目に入る。


 そして机のこちら側中央、ハルの最も近くにはそこにはオーネットとノアと呼ばれた精霊の様な少女が、そして机を挟んで向こう側、奥のソファには、相変わらずの無表情で腕を組み、窓から外を見つめるセシリア。そしてハルから最も遠い窓側のソファには、誰かが寝転んでいるのだろう、腕を置くはずのソファの肘掛けに、だらんと脚が組まれているのだけが見えた。




(四賢聖勢揃いって事か…という事はここで私の処遇を決めるつもり…?)




 目を覚ます前と何も変わらないーーーむしろ悪化している状況に、ハルは冷静になれ、と自分にひたすら言い聞かせる。




「それではここに、賢聖の名の下もと、グラソン魔法学園裁判を行う!」




 オーネットはそう高らかに宣言すると、腕を上から下へ真一文字に切る。


 すると突如、床や天井、壁、座っていたソファや中央に置かれていた机までもがが白いペンキで塗りつぶされたかの様に真っ白に染まり、四賢聖だけが浮いているかの様な状態になった。




「な、何これ!?」




 そしてそんな光景に驚いているのも束の間、ハルの拘束されていた体に、大きな鈍い鉛色の鎖がどこからともなく出現し、4本、5本と巻きついていく。




「うわぁ!!!」


「何度見ても、クロエの作る魔法は悪趣味だな。」


「もっとすごいのも今考えてるよ。」




 クロエ、と呼ばれた寝そべったままの姿勢の少女は、そう言って苦言を呈したオーネットに片手を振って見せたが、ハルの位置からわかるのは銀色の長い髪をツインテールにしている髪型のみで、その表情等は窺い知れなかった。




 そしてハルの体に巻きついた、太さ10cmはあろう鎖は、左右4本ずつ、計8本がハルの体に両サイドから巻きつき、両腕を体の前で締め付けていた魔法の枷が頭上へと上がって行くのに従って、ハルの体をギリギリと締め上げながら体を宙へと浮かせていた。




(この姿勢、肩が外れそう・・・っ)




体重が手首かかる痛みに顔を歪めながら、ハルは真正面で、尚も視線を横に逸らしながら無表情で腕を組むセシリアを見やる。




「あの、私本当に何も知らないんです!片目の色が変わった事も、数値の結果が異常であった事も認めます!でもそれが何だって言うんですか?!あと咎人って何なんですか?!」




 必死に叫ぶハルであったが、返ってきたのはオーネットからの冷たい返答であった。




「裁判の場での被告人の発言は、賢聖の求めがあった場合を除き認めていない。」




 そう言ってオーネットが剣の収まった鞘を人差し指でトンっと叩くと、突然ハルは一切の声を出す事ができなくなってしまった。




(そんな、これじゃ疑いを払拭できないっ)




 頭を必死に振って口をパクパクさせるハルを見かねたのか、先程ノアと呼ばれた、藍色の髪の少女が口元に手を当てながら発言をする。




「でもこの子はずっと”知らない”って言ってるんですよね?勿論その言葉をそのまま信じる訳にもいかないけど、咎人がどんな存在なのか教えてあげるくらいはしてあげてもいいんじゃないかしら?」




 ノアのその発言に、オーネットは少しばかり眉をひそめると、「確かにそれで何かボロが出るかもしれないしな」と頷き、ハルを真っ直ぐ見て話しだす。




「咎人を本当に知らないと言うのであれば教えよう。咎人とは大量に理由もなく人を殺めたり、世を混沌と貶める様な輩の事を言う。ただ、それだけでは世間一般の大罪人とさして変わらないが、それとは一線を画する決定的な違いがある。それは並外れた魔力量、そしてそれをもたらす《悪魔との契約メフィストフェレス》をしているかにある。そして、過去千年の歴史の中で数人の咎人が存在すると言われているが、直近確認されているのは2名のみ。150名以上の大量殺害を行い、つい先日処刑された大罪人1名と、革命軍を率いるトップの2名だ。そして《悪魔との契約メフィストフェレス》を行ったものには、力の対価となる同等の代償の他に、顕著な印が現れる。ーーーーそれが濃紺の左目だ。」


「ーーーーー!!!」


「貴様が何を代償とし、何を求め、何の悪魔と契約を結んだのかは知らない。だが一度契約を結べば、例え当初は清廉潔白な目的であったとしても、時間をかけてその魂は悪魔に蝕まれ、やがて血や悲しみ、苦しみを求める事となる。それ故に、このグラソン王国では《悪魔との契約メフィストフェレス》は最大にして最悪の禁忌とされている。」




(悪魔!?悪魔なんて、物語でしか聞いた事ない!)




 するとこれまで押し黙っていたセシリアが、机の上に手を組んで肘をつき、その上に顎を乗せながらようやく口を開く。




「あなたが入寮初日の夜、学園内の夜道で私とばったりと会った事があったわね。実はその日、今オーネットが話した咎人の一人、大量虐殺者のミスト=シュナウザーが処刑されたの。そしてその夜、私は学園内に悪魔の気配を感じて急ぎ旅先から学園へと引き返した。そして悪魔の気配の発現元を辿ったら、そこにじっと一人、校舎を見つめて立つあなたがいた。」




「ーーー!!!」




 必死に声にならない声を上げ、涙を流しながら「何かの間違えだ」と頭を振るハル。セシリアは無表情のまま話を続ける。




「私はあなたが話す、その全てが嘘とは思わない。でも咎人の烙印とも言える濃紺のその左目の発現と、オーネットのメテオ・ボルケーノすら防ぐその力、そして40%を越える程の数値を叩き出した以上、あなたを生かして帰す訳には行かない。それはこの世界の安寧を守る為でもあり、グラソン王国の為でもある。だから、私はあなたを、一生光の届かない牢獄へ永久に封印すべきと考えます。」




 その言葉に、ハルは言葉を発する意欲すらも失い、ただ涙を流して俯うつむく。


 ハルは心のどこかで、「セシリアだけはどこか分かってくれるのでは?」と思っていた部分があった。確かにセシリアは、入寮日の夜、本気でハルの命を奪いかねない行動を起こすシーンがあった。しかしそんな中でも、村人を蔑さげずんだ発言に対する謝罪や、装置が異常値を示した際に最初に装置の異常を疑った行動など、オーネットとは一線を画す様な行動を、セシリアからは感じられた為である。


 しかし、セシリアの判断は死ぬまでの投獄。きっと家族や友人に会う事も叶わず、ずっと寂しさを感じながら老いて死ぬという運命を強いるものであった。また、恐らく獄中も罪を認め、同胞の存在や経緯を話すまで苦しい拷問に昼夜かけられる事は明白であった。




(どうして・・・?私はただ、村を出てこの学園に入学しただけなのに、なんで、どうして?私が何をしたというの?)




 ハルの頬を伝った涙が二つ、三つとぽとりと床に落ちる。


 涙で滲む視界の中で、組んだ手の上に顎を置いたまま、視線を再び窓の外へと向けるセシリアの姿が見えた。




「私はセシリアとは異なる意見だ。咎人の力は時間と共に増していく事が確認されている以上、ハル=リースリングを即刻処刑すべきと考える。何かあってからでは遅い!」




 オーネットが腕を組み、毅然とした表情で真っ直ぐセシリアの方を向き、そう述べる。




「終身投獄するのであれば、今切り伏しても何も問題はないだろう?」




 淡々とそう述べるオーネットに対し、オーネットの隣でおずおずとノアが片手を挙げながら述べる。




「あの、この状況で言うと私まで同胞としてオーネットに斬られそうだけど、私はすぐに処罰を下すのには反対です。確かに濃紺の片目が顕現しているのも、測定器が異常な数値を示しているのは事実だけれと、その二つの事実が悪魔の契約がもたらすものであった、という点についてまで事実とするのは尚早なんじゃないかしら。」


「だが疑わしきは罰する!これが最も確実な道なのは明白だ!」


「けれどもしそれが違ったら、取り返しのつかない事になるのよ?」


「だがもしそれが真実であったのであれば、何十人、何百人もの人間の命が犠牲になり、それこそ取り返しがつかない事になる。私はそのためであれば、平気で命を天秤にかける。それは私自身の命であったも変わらない。むしろこのハルという少女には、それを自覚し、自害を求める程にも感じている。彼女の死には大義がある!」




強く、真っ直ぐな瞳でオーネットはそう断言すると、一瞬で剣を抜きハルの首元にその刃を突きつける。




(自害・・・)




 容赦なく言い放つオーネットの言葉と、突きつけられた剣に反射して映る自らの醜く濃紺に染まった左目に、ハルはじっと床を見つめる。




(本当に自分は、彼女らの言う様に《悪魔との契約メフィストフェレス》をどこかでしてしまったのだろうか。)




 もし、それが本当なのであれば、あのオーネットの魔法を食らったにも関わらず、ここに今も五体満足で立っている理由や、装置の数字、そして濃紺に染まったこの左目の理由も全て説明がついてしまう。


 しかしながら、当然ハルには悪魔自体や契約に関する思い当たりなど、1ミリ足りともない。ただ、もしもその話が本当なのであればーーーハルはいずれ悪魔に魂を食われ、先日処刑されたミスト=シュナウザーと同様に多くの罪なき命を奪い、償っても償いきれない程の悲しみを産む事になる。


 部屋中に沈黙が流れ、一気に緊張感が増した空気とは対照的に、突如子どもの様なあっけらかんとした声が部屋中に響き渡る。




「私も処刑に大賛成。何が起きてるのか全然知らないけど、なんか面白そうだから処刑してみよう。セシリアの新しい一面が見れるかも。」




(えっ!?)




 ハルが首元にオーネットの剣を突きつけられたまま、声の主の方へ視線を向けると、そこには膝掛けに足を置いていた少女が、ゆっくりと起き上がり、あぐらをかきながら吊るされるハルを愉快げに見つめていた。




「クロエ、いい加減”賢聖”としての自覚を持った発言をしろ。」




 オーネットが、横目でクロエと呼ばれた銀髪のツインテールの少女を見やり、眉間に皺を寄せて苦言を呈する。


 クロエは、真っ赤に輝く瞳を細め、お気に入りのおもちゃを見定める様な目でハルを見やると、オーネットの言葉など一切気に掛けていない素振りで10歳の少女の様な無垢な笑顔を浮かべる。そしてクロエは視線をセシリアへと向けて、口元に笑みを浮かべたまま問いかける。




「と、いうわけで処刑賛成が2人、投獄希望が1名、執行猶予希望が1名って事で有罪、処刑に決定じゃない?」




 そうケタケタと笑いながら言うと、クロエは突如姿を消し、ハルが瞬きする間にセシリアの座るソファのせもたれに腰掛けると、悪戯っ子の様な表情でセシリアの顎に指を添え、鼻と鼻が触れ合う距離で言う。




「セシリア、この子の事気になってるんでしょ?いいの?殺されちゃうよ?」




 それを聞いたセシリアが不快そうな表情をしながら答える。




「挑発のつもり?言葉には気をつけて。私は一人の人間に対して私情は抱かない。そして例え私情があったとしても、それを公の場へ持ち出す事はない。」




 そう言い捨てると、添えられたクロエの手を払い、セシリアは未だ釣り上げられ顔面を蒼白とさせながら俯くハルに、無表情のまま、はっきりと伝えた。




「ハル=リースリングを、明後日午前10時の正式な判決の上、無期限投獄、投獄中の尋問に応じない場合には死罪に処します」




 その言葉を告げられたハルは、驚愕と絶望が入り混じった表情を浮かべながらも、最後まで声を発する事は叶わず、ただ目の前の現実に対し、ギュッと目を閉じながら、出会ったことも無い神へ、ひたすら祈りを捧げるのであった。








 ・


 ・


 ・


 ・


 ・








 一方的な蹂躙とも言える裁判の翌日、ハルは馬車に揺られて山道を登っていた。


 グラソン王国では、通常は裁判にて裁判官の間で刑が確定し、その判決が被告へ言い渡されるまで数日を要する。それは囚人を迎え入れる体制の準備期間としての役割と、判決の確実性を高める為であった。


 しかしハルの場合は、実質すでにセシリアによって「永久投獄、あるいは死罪」という判決が言い渡されており、その判決が覆る可能性は限りなく0ゼロに等しかった。


 そのため、この旅路は当然は罪からの解放ではなく、両腕と両脚にはしっかりと魔法で作られた手枷がつけられ、馬車の床へと繋がれていた。そして首にはまるで奴隷かのごとく魔法の首輪が嵌はめられ、そこから伸びる魔法の鎖は斜め向かいに憮然として座る蒼髪の女騎士、セシリアに握られているのであった。


 馬車の中の重苦しい空気とは反対に、外の移りゆく景色は春らしく、風は冷たいものの暖かい陽気に包まれ、草花がその生を喜ぶかの様にあちこちで溢れんばかりに咲き乱れていた。そのあまりに奔放で今置かれている状況とは正反対な様子に、一晩でもう枯れるというほど流した涙が、またハルの頰を濡らすのであった。




「・・・・・・・・」


「・・・・・・・・」




 沈黙を乗せた馬車は、軽快な蹄ひづめの音を森中に響かせながら、山道を登っていく。




 セシリアと拘束されたハルは今、ハルが一週間前に別れを告げた故郷であるセモール村へと向かっていた。


 当然これは刑の一貫などでは無く、裁判の後に投獄されたハルが、「一度で良いから育ててくれた両親に別れを告げさせて欲しい。それさえ叶えてくれれば、自分の知り得る事は何でも話す、人体実験に使って苦しんで殺してくれても良い」と泣いて看守や四賢聖に縋った結果、実現したものであった。


 しかし当然、ハル自身に身に覚えのある事など何一つとして無く、何も話す事ができないのは確定事項である。そのため、ハルからしてみれば両親への挨拶の後、約束を破った事によって何十年も続く死すら許されない拷問が確定している様なものであった。


 また、両親への別れの挨拶は許されているものの、当然ながらその実施には多くの制約を課せられていた。




ーーーーー


 ・セシリアの半径2m以内から出ない事


 ・両親以外の人間とは会話をしない事


 ・両親との会話は計10分以内とする事


 そして、


 ・明日判決が言い渡され、永久投獄となる旨は首都では公開されている為、両親へ伝えても良いが、それに対して叛逆と取れる行動が両親に見られた場合には即座に拘束し、両親共に死罪とする事


ーーーーーー 




 また、上記に違反する場合には、即座にセシリアがハルの命を奪う事も、セシリアには当然の権利として認められていた。その上で一体何を語らえるというのか、セシリアを初めノアを除く3名は疑問を抱いていたが、ハルはその条件に涙を流して飛びついた。


 沈黙とハルが鼻を啜る音だけが響く馬車に揺られる事4時間、昼を過ぎた頃、ハルとセシリアを乗せた馬車はグラソン王国の西に位置する、住民300名にも満たない小さな村、セモール村に到着した。


 セシリアがそっとハルの手の甲を指で触ると、ハルの両腕、両脚、そして首に付いていた魔法の枷が姿を消した。




「・・・てっきり村の中でも拘束したままなのかと思っていたので安心しました。」


「まさか。肉親との最後の別れを不必要に邪魔する程、悪趣味ではないから。それに本当は枷なんて無くても、あなたの命は一瞬で奪えるし。」


「・・・・・そうですか。」




 そしてまた沈黙が続く。ハルはなるべく人と会わない様、布をフードの様に被りながら、村の入り口から裏道を通って家のある方角へと足早に歩みを進める。そしてそのすぐ後ろをセシリアが続く。




(どうか、誰にも会いませんように。)




 ーーー両親以外の人間と会話をしない。その条件の元での無用の問題を避けるべく、知り合いに顔を見られない様に祈るハルであったが、どうやら神様は悉ことごとくハルを見捨てたらしかった。




「あ!ハルじゃん!」




 裏道を抜けた先、あと2回曲がれば100m程で実家という場所で、道端で木片を使ってチャンバラをしていた少女と少年がハルの元へと駆け寄る。




「本当だ!ハルだ!あれ?学校はお休みなの?」


「ちげーよ絶対ハルの事だからサボって来たんだよ!」


「えーそうなの?でもハルとまたすぐ会えたの、私すっごく嬉しい!」




 そう言って少女がハルの右腕に腕を絡ませる。


 もう一人の少年も、悪態をつきながらもハルに会えた喜びを隠せない様で、指で頰をかきながら、




「ま、まあ実際ハルがいなくなってから、新しい遊び考える奴もいねーし丁度暇だったんだよな。」




 と恥ずかしそうにハルを見やる。


 この12歳程の少年と少女はハルの家の近所に住んでおり、よく魚の取り方や近くにある洞窟の地図、ちょっとした回復魔法のコツなどを教え、兄妹の様に村中を走り回って遊んでいた子供達であった。


 少女はいつもハルの後ろを付いて回ってはハルの真似ばかりをし、少年はハルにカッコいい所を見せようと無茶をしては、ハルや町の大人達に叱られていた。


 僅か7日間程離れたばかりにも関わらず、その間に起きた出来事の余りの凄惨さと、それとは対照的な穏やかな表情を浮かべる見知った子供達、そしてその懐かしさに、思わずハルの瞳から涙がこぼれ落ち、言葉を漏らす。




「オルタ・・・アレン・・・っ」




 しかし両親以外と言葉を交わすのはルール違反、とばかりにセシリアがハルの脇腹に、レイピアの鞘を押し当てる。




「・・・・・・・っ」




 懐かしさから一気に現実に引き戻され、ハルは目をつぶって俯き、押し黙る。




「どうしたんだ?ハル」


「どっか具合悪いの?後ろの人はハルの知り合い?」




 久しく触れていなかったと感じる、純粋に身を案じる言葉や表情に、更にハルの心臓が締め付けられ、すでに決まった未来を想像してはまた涙が溢れ出す。どうにも言葉を発せず、だからといってこの場を動くこともできずにいるハルを見かねたセシリアが、助け舟を出した。




「私の名前はセシリア=セントリンゼルト。ハルさんと同じ学校に通っているの。実はちょっと会いたい人がいて、僅かな休み時間を使ってここまで一緒に来たの。あと5分もしたら夕方の講義にまた戻らなくてはいけないから、ハルの家に向かわせて貰ってもいい?」




 そう言って美貌を生かした完璧な笑顔をセシリアは浮かべると、狼狽ろうばいする子供たちの答えを聞かずにハルの手を取って強引に歩みを進める。




「ここは左でいいの?」


「・・・・はい」




 そして漸く「リースリング」と立て札の付いた木造のこじんまりとした家屋の前に辿り着くと、俯きながらハルは言った。




「あの、さっきはありがとうございました。」


「勘違いしないで。両親に合わせるのが今回の私の使命だからああしただけ。」


「・・・でも、ありがとうございました。」




 繋いでいた手をハルがそっと離す。




「私が明日以降、一生投獄されるって話、両親がもう知ってる事ってありますかね。」


「可能性としては無いに等しいと思う。咎人である旨は今回は一般には伏せているから、表面上は一人の罪人の投獄。この村のあなたの知り合いが、首都の酒場かどこかでその告示をたまたま見ない限りは考えられない。」


「・・・わかりました。」




 セシリアの回答が、ハルにとって嬉しいものであったのかどうかは、俯いているせいでセシリアからは見えなかった。


 そして僅かな静寂の後、そっと息を吐き、意を決した様にハルはセシリアを見る。




「あの、セシリア様。」


「何?」


「私、今うまく笑えていますかね?」




 そう言ってセシリアを見上げるハルの目は、先程、馬車の中で泣き続け、村の子供の前でも涙を流し、一歩も動けなくなっていた人物と同一人物とは思えない程、決意を持った強い目であり、そして澄んだ空の様な穏やかな表情を浮かべていた。




「・・・・・そうね。」




 セシリアはその覚悟に近いものを感じる表情をじっと見ると、指先をハルの鼻の頭につけ、小声で呪文の様なものを唱えた。




「ブラン・ボナートス」




 するとハルの体を穏やかな白い光が一瞬包み、柔らかく消えていく。




「今のは・・・?」


「表情は悪く無いけれど、目が兎の様に真っ赤で不気味だったから治した。さあこれでもう準備は済んだでしょう。入りましょう」


「・・・ありがとうございます。」




 セシリアの言葉に、ハルはギュッと両手を胸の前で握る。


 ーーーこれが、最後の別れになる。正真正銘、16年間毎日生活を共にし、何も知らなかった、一人では何もできなかった私に、世界の全てを、生きる上で最も大切な事が何かを教えてくれた両親との別れ。私は果たして、いくつ親孝行できたのだろうか?もっと伝えるべき言葉があったのでは無いだろうか?ーーーやりきれない思いや後悔は、全て昨夜から一晩過ごしたの牢獄と、先程の馬車の中に置いてきたつもりであったが、いざ家を目の前にするとまた様々な感情が蘇る。




 しかし、もう出来る事はただ、5分間で両親へ精一杯の愛の言葉を送る事。


 そう決心してハルは扉に手をかけた。








 ・


 ・


 ・


 ・


 ・








 木漏れ日が溢れる森の中、馬車に揺られてじっとその目を窓の外の草木に向けながら、セシリアはただ目の前で啜り泣く少女の声を聞いていた。




ーーーこの少女の人生は、事実上、明日の10時に終わる。




 そんな一見すると悲劇的な状況であっても、セシリアは何の感情も抱かない、抱いていないと感じていた。


 彼女に執行される刑罰は、現状確認されている事実や民衆の命、リスクを天秤にかけた上で考えると合理的なものである。オーネットの言葉を借りれば、この決断には大義がある。この一点に関して、セシリアは自身が下した判断を一切後悔していない。


 しかしながら、セシリアの心にはどこか初めて感じる引っ掛かりを感じていた。


 それはこの少女、ハルが本当に咎人なのかという本質的な疑問もあったが、それ以上に他の生徒と違う振る舞いを、ハルの行動の節々に感じていたことが理由であった。




(この少女になら、私が壊せない”檻”を壊す事が出来るのだろうかーーー)




 しかし、その違和感に似た感情は、真っ暗な洞窟で灯した一本のろうそくの様に、一息で暗闇に呑まれるほどか細く、曖昧なものであった。


 そしてセシリア=セントリンゼルトは、不確かな事実、それも個人的な私情によって決心を狂わす程、俗人的な価値観は持ち合わせていなかった。




(両親の前で、一体何を話すつもりなのかしら。)




 セシリアは鮮緑色の瞳の端に、うな垂れ、微かに震える少女を映す。


 彼女が両親に対し並々ならぬ感情を抱いている事は、明け方必死の形相で泣いて縋るハルの表情から感じ取っていた。今生の別れをするのであれば、身の上の話ーーー明日その命が裁かれる事を伝え、やり場のない悲しみや無力さを、ただただ分かち合う場になる事だろう。


 四賢聖が学園側にメリットをあまり感じないハルの最後の旅路を許可したのには、いくつか理由があった。その一つが、両親と面会した際のハルの発言や行動から、同胞の者を炙り出す事であった。そしてもし、ハルの両親が咎人である場合には、迷わず切り捨てる必要がある。それは例え咎人で無かったとしても、例えばハルの投獄を止めようと武力行為に走ったり、その兆候を少しでも見せた場合も同様であった。




(今日は何人殺すのかな。)




 外の草木をまた見つめる頃には、先程まで感じていた心の引っかかりは、一分の隙なく形作られた正義によって真っ黒に上塗りされていた。








 ・


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 ハルは扉の前まで進むと、緊張した面持ちで年季の入った水色の木の扉のドアノブに手をかける、そっと捻ひねった。


 鍵はかけられていなかった様で、ドアノブが小さくガチャリと音を立てて回る。ハルがそのまま音を立てない様にそっとドアノブを引くと、キィィと木材と金具が擦れる音を出しながら扉が開く。そして息を呑んでから足を一歩、扉の中へと踏み入れた。




 扉を開けると見知った家族写真や懐かしい香りが目に入り、漂う。そしてそのままゆっくりと歩みを進め、玄関を抜けてすぐのダイニングに入ると、そこにはずっと心に思い浮かべ、会いたいと願っていた顔が、こちらを見た瞬間、驚きの表情を浮かべてこちらを見つめているのが目に入った。




「た、ただいま、お母さん、お父さん。」




 ハルの少し震えたその言葉を聞くや否や、声をかけられた父と母が持っていたフライパンやカップを置き、慌ててハルの元へと駆け寄る。




「ーーーハル!?どうしたんだ!?学校は!?」




 突然の我が子の帰還に、母と父の表情には再会の歓びよりも、何かハルの身に不測の事態があったのかという心配の気持ちの方が強く浮かんでいた。


 離れていたのはほんの僅かな期間であったにも関わらず、懐かしく感じる香りと温かな声、そしていつも見守ってくれていた見慣れた顔に、ハルは思わず、言葉を詰まらす。




「・・・ハル?どうしたの?何か、あったの?」




 母がそっとハルの前髪に触れ、良く見知った桃色の瞳でハルの顔を心配そうに覗き込む。父はそんな母と押し黙る娘の姿に、何かあったのだな、と怪訝そうに眉を潜めながらハルの背中に優しく腕を回す。




(お母さん、お父さん、私ーーー)




 話す事はいくつも考えてきた。


 突然の一連の出来事を打ち明け、どうすれば良いのかと泣き縋ればきっと助けてくれるかもしれない。そう考えた事もあったが、そうすればきっとこの心優しい人達は、身を呈してハルを守ろうとしてくるだろう。それこそ命も顧かえりみない程に。しかしそれはハルの望む所では無かった。


 久方ぶりの無条件に受け入れられる優しさに、思わずまた視界が滲みそうになるが、きっとここで泣いてしまったら、先程の子供達の様には誤魔化せない。彼らは十数年、ハルを見てきた人達なのだ。ただでさえ突然の帰宅、そしてじっと押し黙る娘に、ただ事ではない事が起きている事は容易に感じ取られてしまう。


 しかし、何度も考えてきた様々な心からの感謝の言葉を口にしようと試みるものの、どうしても言葉が胸でつっかえてしまい、ただ唇を撼わす事しか出来ない。


 そして2分、3分と押し黙る娘に、父と母は心配そうな表情のまま、優しく声をかける。




「お腹減ってない?あなたが好きなハツカ芋のスープと麦パンがあるわよ?」


「何はともあれ、無事にまたハルの顔が見れて安心したよ。」




“無事にまた”ーーーその一言が、この穏やかな空間でも非情な現実、逃げられない現実をハルに突きつける。




(この人達と、もっと一緒に居たい。)




しかし、その想いは叶わない。




(自分のせいで、この人達を悲しませたくない。)




きっとその願いも叶わない。




(それならどうか、私の事など忘れて、いつまでも健やかでいて欲しい。)




それが、ハルの最後の願い。


そして胸が張り裂けるほど切実な唯一の願いを叶える為、ハルは大きく息を吐くと、父と母の目を交互に見ながらゆっくり伝える。




「お父さん、お母さん。実は大事な話があって帰って来たの。」




 やっと口を開いた娘の言葉に、父と母は一言も聞き逃すまいと真剣な表情でハルの次の言葉を待つ。少し後ろに立つセシリアも、目を逸らしながらハルの言葉を聞いていた。




「私、グラソン魔法学園に入学して、本当に色んな事があったの。ここではちょっと語り尽くせないくらい、色んな事が。」




父と母は黙って頷く。




「それで、ね。驚いたり怒ったり、悲しんだりせずに聞いて欲しいの。」




セシリアが両親の不測の反応に備え、そっと右手を鞘に添える。


しかし、ハルの口から出た言葉も、その表情も、セシリアの予想を裏切るものであった。




「私ね、魔法を使ってどうしてもやりたい事が見つかったの。ただそれは、普通に頑張るだけじゃ出来ない事で、だから、あのね、しばらくもう家へは帰れないかもしれない。ううん、もう、いつ帰れるのかも分からないくらい、どうしてもやりたい事があるの。」




ハルはそう言うと、父と母の手をそれぞれ片手ずつ握り、すっと息を吸って満面の笑みを浮かべて言い切る。




「だから、しばらくお別れ!きっと今度会う時は、伝説の魔法士になってるから!伝えたかったのはそれだけ!」




その笑顔は、先程までのどこか重苦しく弱々しい表情を一切感じさせない程、純粋で真っ直ぐな笑顔であった。


そして突然の娘の告白に対して、母は一瞬唖然としながらもハルの手を両手で強く握り返して問う。




「それは、本当なの・・・?」




ハルは母の目を見てしっかりと頷く。




「うん。もう決めたんだ。」




父が、ハルの頭にその無骨な掌を遠慮がちに置きながら、困惑が見え隠れする表情で問う。




「本当に、お前のやりたい事なんだな?学校では・・・ちゃんと元気でやれてるんだな?」




 父と母の不安げな表情とその言葉が、チクリとハルの痩せ我慢を積み上げた薄っぺらい壁に突き刺さる。しかし、それはハルが散々自らの生きる意味を問い、導き出した決意を揺るがす程の物ではなかった。




「うん。大丈夫だよ。何かあったら絶対連絡するから、だから心配しないで。」




ーーー心配しないで。そしてどうか私の事は忘れて。それがどれほど自分勝手で無理なお願いなのか、二人の一心の愛をその身に受けていたハルは誰よりも分かっていた。




「二人ともずっと健康でいてね。」




 そう言ってハルは両親からそっと手を離す。そして、自分のできる最高の笑顔、あなた達の元に生まれ、これまで味わった様々な幸福を溢れさせる笑顔で最後の別れを告げる。




「それじゃ、私もう行くね!」




 そう言ってハルは振り向き、入り口に立つセシリアの方へと歩く。これ以上二人の顔を見る事はもう耐えられない、一晩の間で取り繕っただけの16歳の少女の心は、とっくに限界を越えていた。


 背後から、父の声がする。




「ハル、待ってくれ、後ろにいるその人は誰なんだ?」




 ハルは丁度セシリアの隣で足を止め、振り返らないまま答える。




「この方は、セシリア=セントリンゼルト様。グラソン魔法学園の先輩で、とっても強くて偉大な方なんだよ。」




 セシリアはハルのその発言に、ハルの方を向いてほんの少し目を見開くと、軽くハルの父へお辞儀をした。


 すると、父は突如、床に膝を付き、両手を前に着けて頭を床に擦りつける。そして、土下座の姿勢のまま、セシリアに向かって叫ぶ。




「セシリア=セントリンゼルト様!この娘、ハルは少し自由奔放で頑固な所がありますが、16年間、ただ優しさを教え、大切に大切に育てて参りました!そして魔法が殆ど使えない私たちの下でも人一倍努力をし、誰よりも心優しく強い子に育ちました!そして娘は今、私や妻では共に歩けない道を進もうとしています!なので、どうか、身勝手なお願いなのは重々承知ですが、どうかこの、私達の命より惜しい我が子を、どうかお護りください!」




 ハルの背後から、普段はふざけてばかりいる父の、聞いたことも無い様な力強い声と、母が啜り泣く声が聞こえる。


 セシリアは、堪えきれず静かに涙を流すハルを一瞥すると、額を頭に擦り付けて嘆願する父の方を真っ直ぐと見据え、答える。




「その願い、確かに聞き届けました。必ずやハル=リースリングが正しき道を歩ける様、この身を捧げます。ーーー行こう。」




 そして扉を開け、進む様にハルへ促すと、二人は静かにハルの生家を後にした。二人が立ち去り、扉が閉まった後も、ハルの父はいつまでも、床に頭をつけたまま、我が子の無事をただ祈るばかりであった。








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 家を出ると、セシリアはそっとハルの腕を握り、裏道へとハルを引っ張った。そして無言のまま5分ほど歩き、人気のない木材置き場の裏の空き地にハルを引き入れると、漸くその手を離す。


 するとその途端、ハルは糸の切れた人形の様に地面にへなへなとしゃがみ込み、我慢していた嗚咽を全て吐き出すかの様に大空に叫んだ。




「うぅぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」




 止めどなく溢れてくる涙。そして涙を流しても巻き戻せない時間と変えられない現実に、更に涙が溢れる。ただただ蹲うずくまり、震えるハルを、セシリアはただ隣で立ち、無表情のまま人が来ない事を警戒する事しかできなかった。




 ハルの涙が幾らか落ち着き、セシリアがハルへ立ち上がる様に促したのは、そうして数十分は経った頃であった。


 やるべき事を成し遂げたハルには、もう家に向かっていた時の様な緊張した雰囲気は消え、ただ魂の抜けた様にセシリアの後ろを歩くだけの人形と化していた。




「馬車に乗り次第、再度あなたを拘束して、この後は真っ直ぐ学園へ戻る。学園到着後もあなたの所有権は私にあるけれど、オーネットへ全権委任しているから、あなたの尋問、投獄等は明日の10時からオーネットが行う予定。どんなに足掻いても、刑の執行は覆らないから、知っている事は全てオーネットに話して。それが私からできる唯一のアドバイス。」




 ハルの前を歩きながらセシリアが今後の流れを伝えるが、もう希望を全て失ったハルの耳には、その声は何一つとして入っては来なかった。


 そしてハルとセシリアは馬車の前に到着すると、ハルを先に乗せてから、出口を塞ぐ様にセシリアがハルの斜め前の座席へ乗り込む。セシリアがそっと右手をハルにかざすと、行きの際と同様に魔法の枷がハルの両腕、両足を拘束し、首に首輪がつけられる。しかしハルはただ、感情を失ったかの様にぼんやり窓の外を見つめるだけであった。




 馬車が走り出してから30分程、徐々に空が夕焼け色に染まり始め、塗装された道から小石の多い土道に変わり始めた頃、相変わらず魂の抜けた廃人の様に外を眺めるハルに、セシリアが声をかける。




「なぜ両親へ本当の事を打ち明けなかったの?」


「・・・・・・」




 生家を出てから、まるで一気に老けたかの様に血色なく、瞳の色を失って窓にもたれかかるハルは、何も答えない。セシリアの問いが聞こえているのかすら怪しかった。




「答えたくないならいい。ただ気になっただけだから。」




 そう言ってセシリアも視線を窓の外へと移す。馬車の中では行きと同様、ただ蹄が響く音と車輪が回る音だけが響いていた。


セシリアの問いかけから、5分程経ってから、不意にハルが消え入る様な声で呟く。




「もう、私にできる事はそれだけだったから。」




車輪の音にかき消されそうな程のか細い声に、セシリアがハルを見て聞き返す。




「え?」


「このまま、私が投獄されて死ねば、きっとお父さんやお母さんは私を学園に送った事を後悔する・・・。もう私は、あの人達から、何も奪いたくない。でも、あなた達を前に、逃げる事は叶わない。それに、もし私が、本当にあなた達のいう咎人なのだとしたら、逃げる事が正しいのかも、もう私には分からないの。だから、私にできる事はもう、これしか無かった。」




 ポツリポツリとハルが思いを話す。


 もし、ハルが永久に投獄され、何十年も拷問されると知れば、必ず心優しい両親は自分達を責め続けるだろう。そしてもしかしたら学園や、その決定を下した賢聖を恨み、憎み、誤った行動を起こしてしまうかもしれない。


 また、例え牢獄から何らかの方法で逃げ延びたとしても、左目の悪魔の印の顕現や異常な力を持ってしまっている事がわかった以上、自らが咎人でないという確信も、今後その力で絶対に誰も傷つけないと言い切る自信も、摩耗してしまったハルの心には持ち合わせていなかった。


 その為、ハルにできることはただ、両親に心配をかけ無い様に、まるでこれがハルの決心であるかの様に振る舞い、立ち去る事しか無かった。




「後悔はしてないよ。ただ・・・はぁ、オーネットの拷問って痛そうだな。」




 そう言って精根尽き果てた表情で、ハルはセシリアに微かに笑いかけるのであった。


 セシリアはハルの思いをただ表情を変えずに聞くと、ハルの弱々しい笑みから目を背ける様に視線を窓の外へと向け、




「・・・・・そうだな」




 と一言呟いた。


 ハルも答えなんて期待していなかったかの様に、再び視線を窓の向こうへと戻す。窓の外では、一定の速度で木々がただ、後方へと流れていく。再び訪れた重苦しい沈黙。


 しかしそれは、突如響き渡った振動と轟音によって長くは続かなかった。






 ゴォォォォォォン




「な、何!?」




 強い振動と地割れの様な音に馬車が止まる。そして馬を操っていた従者が慌てた様子で振り向き、セシリアへと声をかける。




「セ、セシリア様!後方よりかなりの黒煙が上がっています!それに、大きな飛行型の獣が、村を襲っている様です!」


「後方…後方って、セモール村!?」




 従者の声に慌てて立ち上がろうとするハルであったが、しかしそれは手足にかけられた拘束魔法によって叶わず、ただ座席の上で横に転がる事しかできない。


 セシリアはハルの首につけていた首輪の拘束魔法を消して無言で立ち上がると、馬車をおりて無表情のまま後方を睨む。




「私は様子を見てくる。貴方はそのままその罪人を乗せて学園まで行って。到着したらオーネットに身柄を引き渡す様に。」


「そのままって、ちょっと待って下さいっ!!」




 ハルは身をよじり、馬車から転げ落ちて這いつくばったままセシリアを見上げ、叫ぶ。




「お願い、私も連れて行って!あの村はお年寄りや小さい子どもが殆どなの!お願い、何でもするから、どうか私も連れて行って!」




 しかしセシリアはハルを一瞥する事もなく、じっと今も轟音が響く黒煙の方を見据えて答える。




「却下します。貴方にその自由は認められていない。それに勘違いしている様だけど、貴方にはもうその命をどこで犠牲にするか、好きにする権利すら無いの。何でもする?ならばそのまま馬車に乗ってオーネットへ大人しく引き渡されなさい。」




 セシリアはそう言うと、右手をハルの方に向かってかざし、魔力を放つ。セシリアの手の平から無数に伸びた細く青い光は、両手両足を拘束されたまま地面に這いつくばるハルの首に絡みつき、その体を持ち上げた。




「ぐっ・・・」


「今あなたにこうして時間を使っている間にも、何人かの命が犠牲になっているかもしれない。それは貴方にもわかるはず。」




 魔力による首の締め付けが一層強くなり、ハルは拘束された腕でその締め付けを何とか解こうともがくが、その指はただ青い光をすり抜けるばかりで触れる事すらできない。




「ぐぁ・・・・・」




 息ができず、頭には血が巡らなくなり、徐々に末端の感覚が失われていく。しかし、割れる程の頭痛の中で、必死にハルは声を絞り出す。




「もし、このまま、私を、一人馬車で送り返そうとするのなら…私は、この従者の命を、奪いますよっ…」




 それを聞いたセシリアの目が氷の様に鋭くなる。そしてセシリアは立っていた場所から一瞬で姿を消すとーーー少なくともハルからはその様に見えたがーーー直後にはハルの背後に移動し、背中から腕を回してハルの胸に右手を当てていた。




「えっ?ーーーうあああああああ」




 途端に心臓を掴まれたかの様な痛みが胸部をつん裂く。




「私を脅すつもり?明日の刑が確定するまで殺す事はできないけれど、殺して欲しいと哀願する程の痛みを与える事は私にもできる。」




 そして、胸に当てられていた手が、人差し指でハルのあばらをなぞる。




「がはっ」




 すると先程以上の、ナイフを体内に直接埋めこまれたかの様な激痛がハルを遅い、思わず呼吸が止まる。




(肋骨ろっこつが・・・折れてる・・・)




「合計3本の肋あばらを文字通り粉砕したわ。次はどこの骨を折られたい?こっちの肋骨を折って肺に突き刺してもいいし、大腿骨を割って馬車に引き摺られて帰る?」




 そう言ってセシリアは口角をわずかにあげながら、ゆっくりとハルの胸から足の付け根へと指を下ろしていく。


 しかしそれでも、ハルの心は折れない。気を抜けばすぐにでも意識を失いそうな痛みの中、セシリアの瞳をジッと睨み、伝える。




「・・・私を、ここで、連れて行かないのなら、従者を、殺すっ」




 そんなハルの様子に、肋を数本折れば気絶するだろうと踏んでいたセシリアは、少し不思議そうな表情を浮かべると一瞬で無表情に戻り、僅かばかり無言で思案した後に、ハルから離れた。


 すると突然ハルを締め上げていた魔法が解け、地面に落とされるとハルが苦痛で呻き声を漏らす。




「面倒ね。これ以上ここに時間はかけられない。後でオーネットに詰められそうだけど貴方を連れていく。ただし少しでも妙な真似をすれば、あのドラゴン諸共貴方の手足をもぐから。」


「あ、ありがとうございま・・・って、え、ドラゴン!?」




 セシリアがさっと手を振ると、先程まで息が出来ない程であった肋の痛みが和らぐ。それと同時に、ハルの両腕と両足を拘束していた魔法が消える。




「そう。今は見えないけど、従者の飛行型魔獣という情報とここまで響き渡る轟音、そして先程まで一切私が接近に気づけなかった事から、中級以下の魔獣の群れである可能性は低い。」




 ドラゴン。それは伝説や神話の中の生き物とハルの村では言われていた。お祭りの際や武器のモニュメントとして、ドラゴンのモチーフを利用する事はあるとて、その実態は雲の上に住んで世界を守る神とも、あるいは遠い北の国で永きに渡り封印された存在とも言われていた。


 しかしセシリアは、その存在が今、ハルの生まれ育った村に襲い掛かっていると言うのである。




「ドラゴンなんて、伝説上の魔獣じゃないんですか?」




 ズキズキと痛む肋を抑えてよろめきながらハルは立ち上がり、目の前のセシリアへ問う。




「そうね。確かに伝説と言われる程の力を持つ魔獣ではあるけれど、その存在は事実よ。ドラゴンは基本的に極寒の気候を好み、その魔力の源は複数の鉱石である事から、通常は北の国境付近の山脈地帯や、火山帯、雲の上を好む。稀に地上に降りてくる個体もいるけれど、普段一般の人が目にしないのは首都には頑丈な結界が張り巡らされている為と、高等魔法士が地上に降り立つ前に元の住処へ追い返しているから。」


「そんな、じゃあ一体どうして・・・」


「可能性として考えられるのは、ドラゴンを呼び寄せる術を使った者がいるか、もしくは高等魔法士の探索魔法を掻い潜る程の力を持った個体かのいずれかね。ひとまず向かうわ。」




 セシリアはそう言うと、ハルの腰を左腕で掴んで小脇に抱え、軽く地面を蹴る。




(え?)




「えええええ!?」




 セシリアが地面を蹴った途端、感じた事がない程の重力と風圧を感じ、一瞬で乗っていた馬車が2cm程の小ささに縮む。それがセシリアのジャンプによって空を飛んでいる為だと気付いた頃には、ハルは必死にセシリアにしがみついていた。




「セシリア様!これ、死にます!明日を待たずして私死にます!」


「黙ってないと舌噛むわよ。」


「もう噛んでます〜〜〜〜!!!」




(やばい意識が朦朧としてきた、それにこれどうやって着地する気!?)




 あっという間に黒煙が上がる場所、村の中で神木が祀られている場所のすぐ側の民家に近付く。地面まであと30m程という距離になると、セシリアは掌を地面に向けて呪文を唱える。




「ニアスルス」




 すると落下先の地面が光り輝き、その真上、セシリアとハルに向けて大量の水流が上がる。セシリアとハルを包んだ水流は包みこむように丸くなると、地面への落下速度を一気に和らげ、セシリアが地面に着地すると霧散して消えた。




「すごい・・・」




(馬車で1時間近くかけた道を一瞬で・・・)




 第一位の実力は何度もその身で味わっていたハルであったが、思わず感嘆の声を漏らす。しかし目の前で黒煙を上げる民家を前に、ふと我に返って走り出した。




「みんなっ!村の人は!」




 しかし駆け出そうとしたハルの腕をセシリアがグッと掴む。




「貴方がご両親以外の人間と会話をする事は今も認められていないわ。それに今、最も優先すべきことはあれ。」




 そう言ってセシリアは自分達が飛んで来た方向とは反対側、大きく弧を描いて高速で旋回する影を指差す。




「あれが・・・ドラゴン・・・」




 ハルとセシリアが立つ場所から大凡3キロ程先、指差した先にいたのは赤胴色の鱗にびっしりと覆われ、その身体の倍はある翼をゆっくりと羽ばたかせながら風を切る、まさしく伝承の本などで描かれるドラゴンそのものであった。




「どうやら高等魔法士の監視を掻い潜って来た線が当たったみたい。あの大きさと翼や尻尾の先が黒く変色している様子、そして恐らくだけど角が7本以上はあるから普通のドラゴンとはかなり違うわ。あれを追い返すのには骨が折れそう。」




 ウオオオォォォォォォォォンン




 ドラゴンは旋回しながら山が割れるほどの声で咆哮すると、真っ直ぐセシリアとハルの方を目がけて向かってくる。




「ドラゴンが人や村を襲う際は、決まって魔力の高い人間を捕食する為。狙いはきっと私か貴方だけどーーー私の可能性が高そうね。私のすぐ後ろから一歩も動かないで。」




 セシリアはそれだけ言うと、ドラゴンに向かって両手をかざす。




「グレース・ピア!!!」




 セシリアの前に青い魔法陣が生まれ、そこから無数の細い氷の刃がドラゴンへ向かって高速で放たれる。




 ズガンズガンズガンッ




 氷の刃はドラゴンの翼や首、胴や腕などに無数に突き刺さるが、ドラゴンがスピードを落とす気配は無い。




「グランシェル!!!」




 更にセシリアが叫ぶと、ドラゴンに突き刺さっていた刃から霜が広がり、徐々にドラゴンの身体を覆って凍らせていく。




 グオオオオオッ




 翼が凍りつき、首元にまで氷が広がると、ドラゴンは翼を上手く動かせなくなったのか速度を落とす。しかしセシリアとの距離はすでに1kmを切っていた。


 ドラゴンの動きが鈍くなったのをその目で確かめると、セシリアは腰のレイピアを抜く。




「貴方はここから動かないで。一瞬で蹴りをつける。」




 セシリアはそう言うと、姿勢を膝が地面につきそうな程落としてレイピアを構える。すると周囲の気温が一気に低下し、セシリアが構えたレイピアの切っ先からセシリア自身を深く青い光が包み込んだ。そして包み込んだ光は足を伝って地面へと広がり、セシリアを中心に地面へ花の様な紋様を描くと、より濃い紫色へと色を変えていく。


 その圧倒的な気迫と感じた事がない程濃縮された魔力に、ハルは思わず声を漏らす。




「すごい…」




 青く照らされ輝くセシリアの姿は、広く知られた「絶零の魔女」というよりも、強い輝きを放ちつつもどこか儚げな硝子に近いものだった。


 ドラゴンとの距離が50mを切ったほどのタイミングで、魔力を練ったセシリアが大きく地面を踏み込み、目で追えない程の速さで翼を5箇所、胴を4箇所レイピアを突く。




 ギャオオオオオオオオオオ




 レイピアで突かれた所からは、一瞬青い炎が上がったかの様に見えたが、その後たちまち凍りつき、ドラゴンの左の翼と胴の半分が完全に氷漬けとなっていった。


 思わぬ攻撃にあったドラゴンは侵攻を止め、動く右の翼をはためかせるが、思う様に動けないのか周囲の木々や民家にぶつかりながらのたうち回る。




「これでしばらくには自由に飛べないわ。思う様な食事をさせてやれず申し訳ないけれど、元の巣へ帰りなさい。」




 しかしドラゴンは最後の悪あがきとばかりに自由に動く右腕をセシリアへと振るい、その鋭いかぎ爪でセシリアの身体を引き裂こうとする。




「無駄よ。」




 しかしその爪は、柔らかい肉を裂く前にレイピアとそこから広がる防御魔法によって防がれる。しかし、それでもドラゴンはその巨躯のエネルギーを爪へとかけると、防御魔法ごとセシリアを弾き返した。




「っ」




 後ろへと弾かれたセシリアは、宙を翻り数メートル後ろへと着地するが、着地する直前にセシリア目掛け、ドラゴンが炎の息吹を吐く。セシリアは咄嗟に防御魔法を展開し、燃え盛る灼熱の息吹を寸前で方向転換させ、90度横に逸らすが、それと同時に再度ドラゴンがその鋭い灰色の爪をセシリアへと振り下ろす。セシリアは咄嗟にその攻撃をレイピアで防ぐものの、体勢が整っておらずジリジリと背後へ押され、ついに後方へ弾き飛ばされてしまう。




「ぐっ」




 数メートル程飛ばされ、膝を付くセシリアだが、ドラゴンは体勢を整えさせる時間は与えない。再度灼熱の炎ブレスをセシリアへと飛ばし、それを防御魔法によって防がんとするセシリアに立て続けに二度、三度と爪を振り下ろす。




(防御魔法に爪の物理攻撃は相性が悪い。レイピアを使って爪を弾けば防御魔法の力が弱まり、後ろの家屋の被害が大きくなる可能性がある。だからと言って一瞬でドラゴン諸共凍結させる魔法は使えない。ここは急所を避けて物理攻撃を喰らっておき、回復魔法で立て直すしかないかーーー)




 ギリギリと爪が押し込められる中、一瞬でそう思考し、ブレスが弱まったタイミングで防御魔法を解除、防御魔法を割って巨大な爪が押し込まれ様としたその時、




「セシリア様!」




 ドォォォォン




 突如セシリアの身体が横に飛ばされる。




「!?」




 セシリアが振り向くと、そこにはドラゴンの攻撃を真っ向に受け地面に直径5m程のクレーターを作ながら、爪の斬撃と飛ばされた衝撃によって全身から血を流すハルの姿があった。




「ハル!!!」




 セシリアは叫ぶと、目の前で追い討ちを掛けようと迫るドラゴンにレイピアで攻撃を仕掛ける。それに気づいたドラゴンは地面を蹴って高く飛び上がる。




「っ・・・あなた、何してるの!?」




 セシリアは上空を警戒しながらハルに近づくと、両腕をハルの膝と脇に通して抱えながら空き家の陰にハルを運ぶ。




「セシリア、様・・・無事で、よかった・・・ゲホッゲホッ」




 ハルは家屋にもたれると、驚きを隠せないでいるセシリアの顔を見上げ、弱々しく笑う。




「無事って、私が負ける訳ないでしょ!?一体何考えてるの!?」


「セシリア様が考えている事、分かったんです。でももし万が一の事があったらって思ったら、目の前で傷つくのを、ただ見てる事なんて、できなかった。」


「万が一の事なんて絶対にないわよ!」


「例えもし、成功したとしても、回復魔法は万能じゃない。肉体に負った傷は治るかもしれないけど、心の傷は治らない。」


「ドラゴンにちょっと裂かれるくらい何て事ないわ!それより回復魔法はあなたも使えるんでしょう?早く傷を治しなさい!」




 恐らく頭部の傷は出血は酷いものの意識の混濁は見られない為、致命傷ではない。それよりも、先程セシリアが折り、治癒した肋をはじめ、胴の複数の箇所が骨折し、その傷は内臓にまで達しているものもあると思われた。


 特に直接爪の攻撃を受けた傷は、右肩から左腰にかけてざっくりと大きな傷を作っており、今もドクドクと血が溢れている。右腕が胴と繋がっているのが奇跡な程であった。セシリアもハルの傷口へ手を翳かざして応急処置を行うが、今も尚、出血は止まらない。




「すみません、セシリア様。この間も、見ていたかもしれませんが、私の回復魔法、なぜか自分には使えないんです。笑っちゃいますよね。だから、私はもう、いいですから、早く行ってください。」


「自分にだけ使えない回復魔法?そんなものがある訳ーーー」




 そこまで言って、セシリアははっとする。これまでこのハルという少女と関わってきて感じてきた小さな違和感の積み重ね。それらが今のハルの発言によって一つの仮説に結びついてゆく。


 確かにハルは、魔法量測定会の騒動の際に、オーネットに深い傷を負わされ、回復魔法を使おうとして失敗していた。回復魔法と言えばその大小はあるものの、体内の魔法濃度への依存率が低く一番最初に使える様になる事も多い低難易度の魔法である。


 そんな簡便な回復魔法すら、自らには使えない少女。ただし人には施す事ができる。そして、彼女の目には濃紺の悪魔の紋章が顕現している。それはつまり、《悪魔の契約》《メフィストフェレス》を行った事を意味する。何かしらの力を求め、その代償を負わせる契約。その代償が《自らを回復できない》というものだったのだろうか?否、その可能性は極めて低い。《悪魔の契約》《メフィストフェレス》における代償は授かる力の大きさと表裏一体なのが原則である。魔法量測定で出した400以上の数値の代償が、そんなに小さなものであるはずがない。そしてセシリアが感じていた最大の違和感は、この少女、ハルから一切の魔力を感じない事であった。


 そこでセシリアは、一つの可能性にたどり着く。




(オーネットと戦った際、彼女はオーネットに向かって一度も魔法を使う事ができなかった。それにその時この子、なんて言ってたっけ・・・)




 ーーー私が使える魔法なんて花に水あげるから治癒魔法くらいだけなんだから。




 セシリアは無表情のまま、回復魔法を行使しつつ、ハルに話す。




「私達の状況は今、絶望的よ」


「私はもう走馬灯3周くらい見えてるのでわかりますけど、セシリア様はなぜ・・・?」


「私はあれくらいのドラゴンにはやられない。目を瞑ってでもあれくらい消し炭にできる。但し、グラソン王国には他の同盟国と結んでいる、ある盟約があるの。」


「盟約?」


「近隣諸国には、ドラゴンを神と同じものと崇めている種族もいる。また、その力の強大さから、ドラゴンを虐げ軍事力にしようとした国もあった。その際は様々な要因が重なったせいとはいえ、何千人もの人が命を失ったの。」


「それが、この状況とどんな関係が?」


「この国は、”ドラゴンには絶対に手を掛けてはいけない”という盟約を結んでいるの。」


「そんな!?」


「通常であればある程度痛めつければ自ら巣に戻っていくから、特に何か影響を受けるものではないんだけど、今回ばかりは苦しい事になった。」


「それはあのドラゴンが、セシリア様のあれだけの攻撃を受けても突っ込んでくるから・・・?」


「いや、もう少しダメージを与えれば多分巣へは帰ると思う。けどさっき中途半端に攻撃してしまったせいで、しばらく接近戦は無理。きっとこっちの攻撃が届かない程の上空から、遠距離攻撃を仕掛けてくるはず。」




 グオオオオオッ




 返事でもするかの様に、頭上からドラゴンの咆哮が響き渡る。




「上空でも、撃ち落とすことは出来ないんですか?」


「ドラゴンを跡形もなく消し炭にしてもいいのならね。撤退させる程の攻撃だと、多分あの距離では届かない。きっとあの個体は私が戦ってきたドラゴン達よりもかなり知能が高い。だから手負いのあなたを抱える私を追わず、上空に飛んだ。」


「そんな・・・でもこのままじゃ」


「そう。村が跡形もなく焼け野原になる。」




 腹部の傷は漸く血が止まり、内臓の傷までは癒えていないものの、大分痛みが和らいで来た。


 しかし依然、芳しくない状況にハルは思わず俯く。そんなハルにセシリアは先程到達した一つの仮説を切り出す。




「ただ、一つだけ村に被害を出さずに、ドラゴンを生かしたまま追い払う方法がある。」


「本当ですか!」


「ええ。それはーーーあなたから魔力をもらう事。」




 セシリアの発言に顔をあげたハルであったが、その不可思議な提案に、首を傾げる。




「魔力を、貰う・・・?」




 魔力の授受を行う方法は現在の魔法学ではまだ解明されていない。一部の新興宗教等では「魔力を授ける」と謳っている教祖もいると噂では聞いた事があるが、本当にそんなものがあればそれは一国の軍事力を根底から覆すものにも成りかねない。


 しかし、無表情でハルの回復に当たるセシリアの表情は真剣そのものであった。




「これはあくまでも私の仮説。あなたがもし本当に、悪魔と契約をした覚えが無いと言うのなら、恐らくあなたはどこかで、《魔力を与える力》を欲した。身に覚えはない?」


「魔力を与える力・・・確かに、幼い頃に、ある場所でそれに似た事を祈った事はあります・・・でも悪魔なんて!」


「そう。詳しい状況は時間がないから聞かないけど、それでこの仮説の可能性がまた高まった。あなたはどこかで《魔力を与える力》を手に入れ、その代償に《魔力を与える力》以外の全ての力を失った。」


「そんな…」




 真剣な表情で断言するセシリアの言葉に、ハルの中に次々と思い当たる節が浮かび上がる。




「あなたは花に水をあげる魔法しか使えないと言っていたけど、きっと他にも他人への”身体強化”の魔法などは使えるはずよ。今は試している時間なんてないけど」




 アオオオオオオオオン




 突如またドラゴンの猛声が響き渡り、ハル達がいる場所から数百メートルの場所へ火の球が落下、振動が響く。




「だから、今からあなたの魔力を貰う。もしあなたが他人に魔力を与える力を持っているのであれば、それが可能なはず。そしてその魔力があれば、恐らくあの上空のドラゴンへ手加減した魔法をぶつける事ができる。」


「でも私、力の渡し方なんて!?」


「それならもう、見当はついてるから。」




 セシリアはそう言うと、壁にもたれかかってセシリアを見上げるハルの顎をそっと掴み、顔を引き寄せる。




(待って、急に近ーーー!?)




 青い前髪に僅かに隠れた大きな翡翠色の瞳が、ゆっくりとハルの目前に迫り、そして唇に暖かく柔らかいものが触れる。




「・・・・・っ!?」




 ハルは思わず目を見開くが、その眼前には、軽く目を閉じ下を向いた長い睫毛が揺れている。




(こ、これって、キ、キス!?なんで!?あっそうだ、私の魔力を!!!)




 急激に高まる心拍数に思わず息を止め、ハルもギュッと目を瞑りおずおずとセシリアの袖を掴む。そして自らの中で蠢く僅かな魔力の気配に呼びかけ、唇を伝わってセシリアへと伝わる様に意識する。




(お願い、伝わって!)




 しかし、その願いとは裏腹に、セシリアの奥底に海流の様にずっしりと横たわる魔力は、ハルの呼びかけに一切応える素振りを見せない。




(そんな・・・仮説が間違っていた・・・?)




 そう思い焦り始めたその時、痺れを切らしたセシリアが、唇を僅かに離すと、今度は片手でハルの後頭部を抑えてさらに深く口付けをする。




(ま、待って!?)




 突然の行動と、ハルの薄い唇ごと食む様な感覚、そして歯の隙間から差し込まれた柔らかく温かい舌の感触に、思わずハルは身を引こうとするが、ハルの後頭部に添えられた腕がそれを許さない。




「・・・んぅ・・・待っ・・ふっ・・・」




 すると変化はすぐに起きた。


 あれ程全く呼びかけに応じなかった、ハルの奥底で眠る魔力の表面がさざめき出し、全てを飲み込もうとする濁流の様にハルの体の中を駆け上がったのである。




「んんぅっ!!!」


(体が・・・熱いっ・・・)




 湧き上がった魔力は、ハルの体内を暴れる様に駆け巡り、セシリアと繋がりあった舌を介して、セシリアへと流れ込んでいく。


 その勢いの激しさと、体を内側から嬲られるような、痛みや苦しみとも全く違う初めての感覚に、ハルは必死にセシリアに縋すがり付き、体を震わせる。




「ふっ・・・うぁっ・・・」




 どれくらいそうしていただろう。時間にしては1分にも満たない時間だったと思われるが、セシリアがそっと唇を離す頃には、ハルは涙目となり、力なくセシリアにもたれ掛かる程、体力を削られていた。




 頬を紅色させ肩で息をするハルを、セシリアはそっと壁にもたれ掛けさせると、セシリアは立ち上がり、物陰から平らな広場へと歩き出す。




 ウオオォォォォォォォン




 探していた獲物を見つけた上空のドラゴンは、雄叫びの様な声をあげると地上にいるセシリアへ向かって燃え盛るブレスを吹き付ける。


 そして皮膚が発火するのではないかと思うほどの眩しい豪火がハルとセシリアの元へ迫り来るが、それは地上にぶつかる前に、セシリアがスッと上げた人差し指によって一瞬で消失する。




 グォォォォン




 上空のドラゴンはそれに気づくと、2発3発と炎のブレスを吐き出すが、そのどれもが先程と同様にセシリアの目前で消える。




「すごい・・・」


「防御魔法を展開する必要すらないのね・・・。でもいつまでこの力が持つのかはまだ分からないから、もう終わりにさせて貰うわ。」




 そう言うとセシリアは人差し指を指していた手を広げ、呪文を詠唱する。




「ニア・セルーユ」




 すると途端セシリアの手の平が眩く発光し、強大な水の柱がドラゴンめがけて伸びて行く。




 ドォォォォォォォォォォン




 水の柱はどんどんと勢いを増すと、ドラゴンの胴にぶつかり、そのままその巨体を押し上げる。




 グォォォォァァァ




 押し上げられたドラゴンは、セシリアに向けてブレスを吐こうともがくが。しかしそれさえも巨大な水の柱に飲み込まれ、空の彼方へと押し上げられていった。




 やがてセシリアが腕を下ろすと上空に打ち上がった水柱は消え、吹き飛ばされたドラゴンが地上へと遠く、落下して行くのが見えた。




「終わったの・・・?」




 ふらふらとした足取りでハルが立ち上がり、セシリアに尋ねると、セシリアはドラゴンが落ちていった方を見ながら答える。




「ええ、そうね。だいぶ痛めつけたけど死んではいないはず。これでしばらくは町を襲う事もないと思う。それと、」




 セシリアがハルの方へと振り向くが、その表情は普段と変わらぬ無表情になっていた。




「やっぱり私の仮説は合っていた。ハル=リースリング。あなたは咎人。野放しにする事はできない。」




 そう言うと、またハルの両腕両脚は魔法の枷によって拘束されたのであった。








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 ドラゴン退治から戻り、再び馬車に揺られて学園に到着した頃には、辺りはすっかり真っ暗になっていた。すでに閉められた門の前に到着し、セシリアに促されてハルが馬車から降りると、そこにはすでに連絡は受けていたのか、心配そうな表情を浮かべるノアと、何か言いたげなオーネットの姿があった。




「だから私は最初から反対したんだ。」




 オーネットが、ハルの身柄を後方に控える兵士の様な身なりをした3名の女性官兵に渡しながら凛とした声で言う。




「万が一の事があれば、魔法部や教会もうるさくなるぞ。」


「確かに不測の事態だった。でもそれを上回るほどの発見があった。」


「発見?」




 セシリアの発言を訝しむオーネットであったが、セシリアは「もう少し考えをまとめたい。明日話す」と言って飛び去ってしまう。


 ハルもセシリアに聞きたい事がたくさんあったのだが、帰路の馬車に乗ってからはセシリアは「これ以上の発言は許可しない」と言ったきり、ハルの質問には一切回答をしてくれなかった。




「ノア、内臓深くまで達している傷がまだ残っているらしい。死なない程度で良いから回復しておいて貰えるか。」




 と、オーネットが藍色のミディアムヘアの少女、ノアへ官兵に両腕を掴まれたハルを見ながら言う。呼ばれたノアは眉間に皺を寄せて答える。




「死なない程度で良い、なんて訳ないじゃないですか。どんな人でもしっかり元気になって貰いますよ。官兵さん、彼女を私の執務室へ運んで下さい。」




 そう言うとハルは、両腕を抱えられたまま誰の目にも触れる事なくノアの執務室へと運ばれて行った。








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 ノアによる治療が施されると、ハルは元いた独房へと帰された。


 別れ際、「これくらいの事しかできなくて、ごめんなさい」と、青い瞳を潤ませて謝罪されたが、両親に今生の別れを告げ、直後に生死を彷徨ったハルの心は、事実を受け入れたのか、不思議と静かだった。




「ノア様のせいでない事は分かっています。」




 ハルはそう言って笑顔を浮かべたが、その少し痩せた笑顔がノアには痛々しく見え、よりノアの胸を締め付けた。


 しかし分かっている、と言ったのはハルの本心でもあった。恐らくハルを酷く糾弾したオーネットも、ハルに恨みがある訳ではなく、ただ学園やハルの知らないこの世界の秩序を守るべく、ハルを処断したのだろう。セシリアに力を譲渡した際に見た強大な力が自らの中に眠っていた事に対して、ハル自身、驚きと共に恐怖を感じたのも事実であった。




「もしこの学園に来なければ、いつかこの力を制御できず、人を傷つけてしまっていたかもしれない。あるいは何者かに悪用され、より悲惨な結果になっていたかもしれない。」




 ハルは牢獄の遥か頭上にある隙間から差し込む月の光の中、自らの手を見つめながら、考えていた。




(セシリア様はこの力を知り、どう思ったのだろうか。)




 順当に考えれば、この力の存在こそがハルが咎人たる確固たる証拠となる。そして明日の処刑執行時には、きっと話の争点となるだろう。




「もう痛いのは嫌だな・・・」




 そう一人呟き、思い浮かべるのは、ドラゴンの爪によって負った傷を癒してくれた真っ白で細く長い指と、柔らかい唇の感触であった。




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