第39話 私 その2

「なにやってるんですか!」

「何してるんすか、もう始まりますよ⁉」

 私を迎えに来てくれたのは、おーちゃんとこっこさんだった。二人とも、姿が見えない私を心配して、探し回ってきてくれたらしい。ぷんすこ、と頭からそんな擬音が出てきそうだった。思うように足を動かせない私に痺れを切らせて、おーちゃんとこっこさんは私を肩に担いでステージへと運んでいく。

「しっかりしてくださいよ、本番前なのに、なんて顔してるんですか」

 どんな顔をしているのか、自分自身では分からない。知りたいとも思わなかった。ステージ裏には、私を待ちわびている『さけ太鼓』のメンバー。

「おせえよ、何してたんだよ」

うーくんに吐き捨てられた。こっこさんは、私を地面に叩きつけるように放った。肩から地面にぶつかった哀れな私を放置して、カメラを取り出した。舞台裏もしっかり撮影するらしい。

 本番前。いつもなら、ここで先生の有難いお言葉を掛けて貰えた。気張っていけとか、楽しめとか、短いけど元気づけられる言葉があった。みんなの視線は、自然と蟻早さんの方へ向く。みな、蟻早さんの言葉を待っていた。

「いい? これが『さけ太鼓』の最後の舞台よ。こんなことになってしまったのは、私に責任があるわ。本当に、ごめんなさい」

 蟻早さんは深々と頭を下げた。だけど、私は知ってしまっている。蟻早さんは、心から悪いと思っていない。なんなら、清々しい思いでいっぱいだろう。私の隣で、何も知らないえっちゃんがにこにこしている。この存在を守るために、蟻早さんは、『さけ太鼓』と潰した。それで、正解だ。先生とえっちゃんを二度と会わないようにしなければならない。

「どうかしました?」

 キラキラと目を輝かせて、えっちゃんは私の顔を覗き込んだ。無意識のうちに、ずっと見つめていたらしい。私は慌てて首を振った。えっちゃんは、傍らに置いてある太鼓に目線を戻した。前向きに、真剣な目で。いや、太鼓そのものではなく、もっと先の、見えない何かを見据えている。

「えっちゃん、ここ最近でうまくなったよね」

「そうかな?」

 小首を傾げながらも、その目は自信でみなぎっていた。瞳の奥が絶えず輝いている。

「何かきっかけでもあった?」

「ないって言ったら嘘になるなあ。『太鼓の中にある物語』を見つけたの」

 何の話をしているのか、私は分からなかったが、それは、えっちゃんにとって太鼓の価値観が変わるほどの、大きな出来事であったに違いない。

 この世界は、少しの出来事で運命が大きく変わる。自分でもびっくりするくらい、偶然なことや些細なことが、今後の人生を変えていく。それと同じように、長年積み重ねてきたものが、一瞬で崩れ去ることもある。そんな世界を、私たちは生きている。

 蟻早さんは、そっと両手を広げてみせた。

「最後だし、円陣でも組みましょうか?」

「いいっすね。エンジン掛かるかもしれないっすよ」

 こっこさんの寒いギャグが乗る。うーくんはすかさず「オヤジくせえ」と腕を擦ってみせた。それでも、蟻早さんと肩を組んでいる。それをきっかけに、みんなで一つの円を作った。私は入るつもりがなかったのに、強引に輪の中に入れられた。こっこさんがそんなつまらないやり取りまでレンズを向けている。

「えっちゃん」

 蟻早さんが声を掛ける。

「今日もいっぱい『太鼓を知る』!」

「うーくん」

「トチらない!」

「おーちゃん」

「いっくんに負けないくらい完璧に叩く!」

 そのあとも順番に蟻早さんは順番に指名していく。みんなは律儀に応じていく。あんたは? と蟻早さんは私に目で聞いてくる。私は拒否する代わりに、口を開いた。

「あーさん」

 蟻早さんは、ちょっと驚いた顔をして、薄く笑った。さて、なんて言うのか。

「『さけ太鼓』ファイトー」

「ファイトー」

 揃いの足袋がダンッと踏み出された。ビシャビシャと水飛沫が跳ねる。灰色の雲を映していた水溜りが揺れる。世界も揺れる。これから揺らす。手に握っているバチと、目の前の太鼓で、私たちは音を響かせる。

 カラオケ大会の演目が終了したらしい。パラパラと疎らな拍手がこちらにまで聞こえてきた。司会のお姉さんが『さけ太鼓』の説明を始めた。

「お待たせしました。続いて、ステージのトリを飾りますのは、潮目温泉の看板チーム『さけ太鼓』の皆さんです」

先陣を切るおーちゃん、蟻早さん、私の三人は、袖ギリギリまで進む。その後ろで、各々の太鼓を持った子供たちが控えている。

そっと観客席を窺い見る。バチっと、多くの人と目が合ってしまった。私は慌てて首を引っ込めた。ステージの前に置いてある赤いベンチは、定員オーバーなくらいぎゅうぎゅうだ。そのベンチを取り囲むように、端や後ろまで人がぎっしりと詰まっている。すごい人だ。少なくとも、今までこんなに観客が居たことはない。

「どうして……」

 私に続いて客席を覗いたおーちゃんも、すぐに頭を引っ込めた。黒髪のポニーテールが大きく揺れた。

 蟻早さんだけは、その場で動くことなく、じっとしていた。

「それだけ、ネットで評判になったんでしょ。きっと志野さんあたりは、収益が増えて喜ぶと思うわ。会長も、渋々ご自身の意見を覆してくれたわけだけど、正解だったのかもね。あなたたちのお陰よ」

 冷静に言う蟻早さん。嫌味を言われた私とおーちゃんは、むくれるしかない。

 前振りの言葉も締めに差し掛かっていた。おーちゃんはぐっとバチを握りしめた。

「もう一度言うわ。最後の舞台、楽しんで叩きましょう」

 蟻早さんの優しげな声に、おーちゃんはゆっくりと頷いた。 

「今日でチーム解散だそうです。最後のステージ、みなさんで見守りましょう。……それでは、どうぞ」

 一歩、舞台へ踏み出してしまえば、もう後戻りすることは出来ない。おーちゃんは足取り軽く、踊るように飛び出した。皆の目が、一斉におーちゃんへと向けられた。

その間に、私は台座、蟻早さんは太鼓を持ってすばやく舞台の真ん中まで走る。あらかじめつけて置いた印の上にセットして、蟻早さんはすかさずトントンと音を調整する。ちらり。おーちゃんに目配せをしている。準備完了の合図だ。私と蟻早さんは、すぐに元来た道へ走る。ここから、全員分の太鼓を並べていく。いかに早く置けるかが勝負だ。

 その間、おーちゃんはたった一人で、太鼓を叩くことになる。舞台に残されたおーちゃんは、ぐっと胸を張り、前を見据えている。一分前までは、ステージの袖で人の多さに怖気づいていた女の子と同一人物だとは思えない。見据えているのは、観客でも太鼓でもない。この先の未来だ。

 おーちゃんはゆっくりと息を吸って、吐いた。あたりはシンとしていた。おーちゃんが動き始めるのをじりじりと待っている。おーちゃんが音を出し始めたら、残りの太鼓を出し始める手筈だった、私と蟻早さんの真後ろで、子供たちが良い子にして待っている。

 十秒経った。おーちゃんはまだ動かない。

 二十秒経った。おーちゃんはまだ動こうとしない。

「何してるんだ、おー姉?」

 一番後ろにいたはずのうーくんが、どやどやとやってきた。しっと、蟻早さんは人差し指に口を当てた。うーくんは口を噤む。私も固唾を飲んで、おーちゃんを見守る。

 おーちゃんは、静かに右手をあげた。左腕の袖をパッパッとはらう。そのあと、左手で右の袖もはらう。その行為は、何度も見たことある。

 カン、カン

 バチで小さく音を叩く。

 閉じていたおーちゃんの目が開いた。両腕を前に出して、面の上にバチを置く。

よぉ~~~~~~~~~~~~~

 ドン! ドン! ドン! ドン!

 おーちゃんが腕を一振りするだけで、音が波動となって、響き渡る。

 周囲の建物に反響して、何重にもなって響き渡る。どおおおおん、どおおおん、と爆音となって、窓ガラスをビリビリと震わす。

 たった一人の演奏で、ここまで世界は動く。地球規模で考えれば、随分ちっぽけで小さい。だけど、蝶々の羽根が起こした風が地球の裏側で竜巻を起こすことだってあり得る。この太鼓が、世界を動かす何かになることだってあるかもしれない。

「ボーっとしてる暇なんてないわよ、行くよ」

 蟻早さんに肩を叩かれ、私はふと我に返った。確かに、今はあれこれ思う暇などない。私は太鼓を抱えて、再び舞台に躍り出る。位置を確認し、台座を置いて、太鼓をセット。位置を確認して、台座を置いて、太鼓をセット。その繰り返しだ。

 慌ただしく動く私たちに目もくれず、おーちゃんは、ひたすら目の前の太鼓に打ち込んでいく。狭い舞台いっぱいに長胴太鼓を並べ終えた。自分の分の太鼓を並べた人から、座ってスタンバイする。私たちは最後に締太鼓を並べ、自分の太鼓の位置へついた。うーくんは釣太鼓、蟻早さんは締太鼓の前に立つ。二人とも、今のチームの中で一番うまい技術を持つ。まだまだ遠く及ばない私は、一番は端っこの長胴太鼓でおーちゃんの合図を待つ。

 これまでゆっくり叩いていたおーちゃんの音。間隔が少しずつ狭くなっていく。

 ドンドンドンドン、ドドドドドドドド……

 それに伴い、音も小さくなっていく。集中して耳を澄まさなければ聞こえないほどになり、次第に音は消えていく。それでも、おーちゃんの腕はまだ動き続けている。聞こえないだけで、まだ音は鳴り続けている。じっと、その時を待つ。

 ドドン!

 合図だ。皆で、一斉に跳び上がる。最初の一音は肝心だ。それによって、今後演奏する上でのテンションに関わる。上手くいけば、そのままぐいぐいと進んでいける。揃わなければ、あーあという気持ちがしばらくの間尾を引くことになる。

ハッ

 ドン

 揃わなかった。あっちゃー、と舌を出したくなる気持ちを抑えて、何事もなかったかのように先へと進めていく。ショーマストゴーオン。始まった舞台は止められない。演奏が始まった瞬間は、ジェットコースターが動き出した瞬間に似ている。もう自分の意志で止まることはない。脇が汗でじっとりと濡れ始めている。嫌な汗の掻き方だ。でも、そんな不快な感触も、太鼓を叩いているという楽しさに繋がる。

 初めの曲は『さけ太鼓のテーマ』。元気よく、鮭たちが泳ぎ出していく。

 最前列の小学生たちが、元気よく大きな音を鳴らしていく。はじめは、大きな音を出すのも苦労する。この子たちに混じって基礎を教わっていた頃が懐かしい。小指がうまく使えなくて、歯痒い思いをしたものだ。腕を痛めることもしばしばあった。ただ、腕を振ってバチを降ろすだけ。ただ、それだけなのに、師匠のような音が出ないのが不思議だった。

あれから、四年経った。今この場にいないかーくんが、「おばさんおばさん」とバカにしながらも、教えてくれたおかげで、今は大分マシになったと信じたい。太ももに力を入れて、正しい姿勢を維持する。音を出すための基本だ。

 鮭は海をめぐり、段々と成長していく。前会長は、チーム『さけ太鼓』の繁栄を祈ってこの曲を作ったに違いない。だけど、そんな願いとは裏腹に、今日今ここで『さけ太鼓』の歴史は幕を降ろそうとしている。直接会ったことはないけれど、本当に申し訳ない。だけど、その原因はうちの師匠だ。その師匠へ引き継いだのは、ほかでもない前会長自身なのだから、空の上で、潔く諦めて欲しい。優しくて、大らかで、太鼓に大きな情熱を注いでいた人だと聞く。この曲を叩けば分かる。前会長は、本当に凄い人だ。

 だけど、仮に前会長の太鼓を見る機会があったとしても、私が太鼓を始めていたとは限らない。私は、師匠の太鼓を見たからこそ、太鼓を始めようと思ったのだ。

 進め、進め。

 本能に従って、私たちはぐんぐんと泳いでいく。

 小学生たちは、踊るようにぴょんぴょんと飛び跳ねながら、叩く。ステージが揺れ、屋根を支えている柱がギシギシと軋んでいる。倒壊するかもしれない。太鼓とは全く関係のないことが気になる。つまり、集中できてない。

 太鼓の面から視線を外し、私は観客の方へと目を向けた。真っ先に目に留まったのは、オレンジ色の制服が目立つこっこさん。そして、その近く。つまり、ステージから遠く離れたところにかーくんが居た。間違いない。一か月前まで、私に先輩風を吹かせていた小学生のかーくんだ。かーくんは、かつての同胞たちを眩しそうな目で眺めていた。親に無理矢理辞めさせられたかーくんと、先生がいなくなっても続けた目の前の子供たち。続けることができたらよかったのにね。この思いは太鼓に乗せるしかない。

 みんなは、かーくんの存在に気付いているのだろうか。そっと右に目線を向けるが、全員、今叩いている曲に集中していた。早くも集中力を切らしているのは私だけ。

 今まで、こんなことなんてなかった。太鼓を目の前にすれば、自分の太鼓と周りの叩く音にしか神経が行き届かなくなっていた。当然、観客を見回す余裕なんてなかったし、あれこれ考える暇もなかった。それなのに、今日は、雑念が入りまくりで、周りに目が行き過ぎてしまう。私の太鼓から出る音は、いつにも増してよそよそしく、硬く響いている。今日はダメな調子なのは、さっきの一音目で分かっていた。

 曲はクライマックスを迎える。鮭はその使命を全うし、新しく子孫を残す。その子孫たちは元気いっぱいに、次の世代として生き始めるのだ。命のバトン。世代交代。大人たちの思惑なんて一切無視した子供たちは、はらことしてはしゃぎまくる。

 『思い思いに』と楽譜に記されている。そんな楽譜は今まで見たことがない。初めて見たとき、そして、録音された曲を聴いた時。私は思わずおーちゃんに尋ねてしまった。

「『思い思いに』って、どういうこと?」

「そのままでしょ。『自由に叩け』っていう」

 おーちゃんはなんてことないように言いのけた。自由に叩く。息を合わせて音を揃えることが太鼓なのに、自由に叩くとはなんたることか。それとも、私が太鼓を知らないだけで、フリーダムなスタンスが、太鼓界隈に息づいているのか。

 イマイチ納得できない顔をしていると、会話を聞いていた蟻早さんがくすくすと笑う。

「面白いでしょう。それがうちの会長だったのよ。やっぱり、根っからの太鼓好きは考えることが違うみたいね」

 暗に、師匠のことも含めて言っているようだ。私とおーちゃんは、顔を見合わせた。呼ばれてもない師匠がやってきて、話の輪に加わった。

「『思い思い』ってのは、ただ単に『自由に叩け』ってわけじゃないと思うぜ」

 師匠はブンブンとバチを振り回しながら言う。その姿は、手持ち無沙汰な小学生と何も変わらない。案の定、師匠の行動を見ていた小学生たちも、真似するようにバチで遊び始めた。収集がつかなくなる前に、蟻早さんは注意しに向かう。早めに止めておかないと、誰も言うことを聞かなくなるのが子供ってヤツだ。

 そんな状況にした師匠は、チャンバラごっこを始めたみんなを止めに行かない。何も見えていないように、私とおーちゃんと会話を続けた。

「自由に叩く。それは案外、難しいことだ。誰かと同調してもいいし、革が破れるくらいめちゃくちゃに叩いたっていいわけだ。でも、そんなことはみんなしないだろう。あくまでも、常識の範囲内で、みな、それぞれ埋もれないように叩こうとする。無意識にな」

「好きに叩いていいんでしょ」

「だけど不協和音にしていいってわけではないだろう。そんなの、観客側にしてみれば、騒音以外の何物でもない。音を聞け。周りの音を聞けば、この曲の正解が見えてくる。自由に叩くのは本当に難しい。そんな難しいことを、お前らの師匠は求めていたんだろう」

「どう叩くのが正解なんですか?」

「自分で考えろ。高校生だろ」

 おーちゃんの素朴な疑問にも、師匠は軽くいなした。そのスカした態度が気に食わなかったのだろう、おーちゃんは表情を硬くした。

 先生は、自然な流れで太鼓のもとに行く。話を中断された私たち以外、師匠に注目するものはいない。

「なんなんさ」

 おーちゃんは小さく舌打ちをしていた。いつものクールな面が崩れていた。

 師匠は、ノーモーションで太鼓を叩いた。

 ドカドカドカドカ

 激しい連打。雷鳴のような鋭さに、その場の誰もが、動きを止めた。

「さあ、練習するぞ。『さけ太鼓のテーマ』、みんなで叩けるようにするぞ」

 その時、『思い思いに』叩くことを理解した気がした。隣のおーちゃんも、何か悟ったように、目を光らせていた。

 『思い思いに』叩くことは『自由に叩く』ということじゃない。『思い思い』に、その時の場を全力で読んで、今どんな音を出せばいいのか、考えて、考え抜いて、出したい音をドンピシャで叩く。その難しさを、メンバーに知って貰いたかったのか。師匠の考えすぎかもしれない。ただ、師匠の言わんとすることを、私とおーちゃんは正しく理解した。

 『思い思いに』、の部分に差し掛かった私たち。最前列の小学生たちは、思いっきり笑って、いかにも楽しそうな顔をして叩いている。「破いてもいいわよ」蟻早さんは今日の準備中に、冗談めかしで言っていた。だけど、幼い子供たちですら、それはいけないことだときちんと正しく理解している。常識の範囲内で、自分にやれることを。今の場合、それはこんな風に元気いっぱいに楽しく叩くことだ。私の隣にいるえっちゃんと、最初で最後の締太鼓を叩くうーくんは、そんな小学生たちの騒がしさに負けないほど全力で叩いている。ただ、バカみたいに叩いているのではない。曲として、きちんと終焉に続いていることを暗示させるが如く、リズムは崩さないまま叩いている。えっちゃんの顔にも笑みが零れている。うーくんは、あくまでもリズム隊で、曲の大黒柱の顔を捨てていない。みんなの出方を窺っている。

そんなみんなを、丸ごと、包みこむような優しい音も響いている蟻早さんの太鼓。ポン、ポン、ポン、ポンと、ゆっくりとしたテンポで、大きすぎず、小さすぎず、ただ、風に揺れるカーテンのように穏やかな波を作る。

そして、おーちゃんと、私は。

トンツクツクトンツクツク

未だに、曲を続けていた。

みんなが『思い思いに』、『自由に叩こう』が構わない。私たちは、二人きりで曲の続きを奏でていた。

私たちは、師匠を失ってもなお、師匠の教えを受け継いでいる。

そして、ふっと。唐突にこの曲の幕は閉じた。

おしまい。誰もその合図をしていないのにも関わらず、皆、ピタッと同時にバチを下げたのだ。これが揃うかどうかは、『思い思い』に、の見せどころだ。

急に音がなくなったことで、周りの観客は呆気に取られていた。それが、この曲のお茶目ポイントである。

「え? 終わり?」

 思わず、誰かがそう呟いていた。それでやっと、周囲の人も曲が終わったことに気付く。あまりにも、激的な幕切れだった。この曲を最初に持ってきたおーちゃんの選曲センスに大拍手だ。

 パチパチパチ……とお気持ち程度の拍手をいただく。突拍子のない終わり方。『さけ太鼓』の状況と同じ。もしかしたら、前会長は未来を予測してこの曲を作りあげたのかも。

 おーちゃんは、ハンドマイクを手にして、舞台の真ん中へと歩み寄る。バチを振るう時ですら、表情筋が死んでいるおーちゃんは、カメラや観客の前に立つと、極上に安っぽい笑顔を作る。その笑顔の受けがいいことを、本人も知っていてやっている。こうすれば一番自分が映える。それを知っていて、武器にする人は怖い。

「一曲目、『さけ太鼓のテーマ』をお送りしました。いかがでしたか?」

 コテン、と首を傾けて見せたおーちゃんに、割れんばかりの拍手が送られる。さっきとは大きな違いだ。演奏の素晴らしさが評価されているのか、おーちゃんの美貌に目を向けられているのか判断しかねる。いや、分かりきった話なのだが。

「おつかれ」

 蟻早さんの小さな労いの声を聞いて、小学生たちはステージを去っていく。満足そうにしている女の子、名残惜しそうにしている男の子、そのすべての後ろ姿を見送って、私は再び前を向いた。いつの間にか、かーくんの姿がない。『さけ太鼓のテーマ』は、最後まで聴いてくれただろうか。そうならばいいな、と思いつつ私は再びバチを握りしめた。「二曲目は『流れ太鼓』です」おーちゃんがマイクを置いている間に、残った私たちは、右側に移動する。

 本来ならば、横一列に長胴太鼓を三つ並べ、後ろに大太鼓をセットする。合計四つの太鼓を順番に叩きつつ、次の人へと回転寿司のように交代する。それが、私たちが今まで練習してきた流れ太鼓だった。

 でも、今回の『流れ太鼓』は一味違う。一曲目が終わったまま並べられた二十個ほどの太鼓たち。その位置を、一つも変えず、たった五人で演奏する。

 おーちゃんは戻ってそのまま、小さく釣太鼓を叩きだした。タン、タン、タン、タン……。まだ誰も入っていない大縄跳びが、ぐるぐると回っている気分だ。どこで入るか、そのタイミングは、大縄跳びも太鼓も、自分次第だ。

 初手は、私だ。何にも思わず、ただ、ポーンと飛び出した。そのまま、おーちゃんの隣にある締め太鼓をタンタカターン、タンタカターン、タンタカタンタンターン、と調子良く叩く。ふざけているように聞こえるかもしれないが、私はあくまでも大真面目だ。この『流れ太鼓』の基本のリズムがこうなのだ。通常使うのは、大太鼓と長胴太鼓だけなのだが、今回は締太鼓まで使う。出血大サービスだ。

 いつもならこのワンフレーズを叩けば、太鼓のことに集中できるはずなのに。やっぱり今日は集中できない。バチが滑る。落っことしそうになりながら、隣の締太鼓へ移る。全く同じ大きさの締太鼓でも、微妙に音が違う。使ううーくんがやりやすいように調整されているからだ。さっきまでの締太鼓は、蟻早さん用に調整されたものだった。

 交互に叩くと、バランスを崩しそうになる。返ってくる反動の違いに耐えながら、長胴太鼓ゾーンに移る。遠くを見れば、果てしないほど並んでいる。通常通り叩くと、日が暮れるまで終わらないので、ワンフレーズを叩いたら、観客にお尻を向けて後ろの太鼓を叩く、それが終われば、また前を向いて隣の太鼓へ進んでいく。

 左足を大きく踏み出して、できる限り腰を低くする。右腕を大きく上げて、一瞬止める。

 タンタカターン

肩を入れ替えて次は左腕を振る。

タンタカターン

最後に両腕を上げて思いっきり振り下げる。

タンタカタンタンターン

足をずらして後ろの太鼓へ。思いっきり腰を捻って、リズムを崩さないようにする。

この『流れ太鼓』をするにあたって、メンバーはここ数日、筋トレに近い動きの練習を繰り返ししてきたらしい。それほどこの曲は、太鼓を叩いているのか、エアロビクスをしているのか、分からなくなるほど体を使う。アイドルの中には、自分のお腹の上に太鼓を置いて叩く、腹筋太鼓をしている人もいるが、これもなかなかしんどい。

全身に潮風を浴びて、浜辺に立っている感覚。風の抵抗を受けながら、私は波打ち際へと歩いていく。素足が、海水に濡れる。冷たくても怯まず、膝まで一気に浸かる。浅瀬から深いところへ。ゆっくりと、足場を確かめながら、腰を振って進んでいく。服がピッタリと纏わりついて気持ち悪い。段々と動きづらくなっていく、下着まで濡れる不快感。顔まで浸かる。そして、私は、海の中へ。

異常に体が重い。両手足首に鉛をぶら下げられている気分だ。太ももが限界だと訴えている。うるさい。言うことを聞け。いつもなら。そう、いつもならこんな動き、気にすることなんてなかったのに。久々にバチを握ったからか。太鼓を叩くための動きが、こんなにも煩わしいとは。筋トレをするべきなのかもしれない。

ちらりと右側を見れば、うーくん、えっちゃんの順に、私の後を追って、同じ動きを繰り返している。みんな、涼しげな顔をしてダイナミックな動きをしている。負けてられない。私は全神経を集中させる。腰を誰よりも下げて、腕を誰よりも大きく振って。流れる水のように。絶やさずに。

集中できたのは、一瞬だけだった。すぐ近くにいる観客に目が映る。いつもより人が多いと、見られているという感覚も強くなる。太鼓だけに集中したいのに。唇を噛みながら、バチを振う。だけどつい、ほかにも知り合いがいないかと、目を彷徨わせてしまう。

ぴったりと寄り添うようにして立つ、男の子二人が目に留まった。茶髪に、真っ白なシャツをボタン三個目まで開けて、だらしなく腰の位置でパンツを履いている。そのチャラい風貌はまごうことなきいっくんだ。隣にいる黒髪の男の子は、知らない子だ。丸眼鏡の奥にある瞳を大きく開いて、ただ一点を熱心に見つめている。お目当ては誰なのか。それとなく視線を辿らなくても分かる。今このステージで動きを見せていないのはただ一人。おーちゃんだけだ。

口を半開きにして、まさに心ここにあらずだ。いっくんはそんな隣の男の子を不機嫌そうに見て、私たちに目を向ける。おーちゃんだけを見ているのではなく、『さけ太鼓』の舞台全体を見回している。その顔は険しく、侮蔑を含んでいるように感じる。「お前ら、まだそんなことやってるのか? 俺らの先生は許されないことをした犯罪者なんだぞ」言われなくても分かっている。私もずっと、バチを握ることを躊躇っていた。

いっくんと目が合った。向こうは、やべっと焦った顔をした。私はにこりと笑って見せた。せめてもの意地だ。誰よりも正確に太鼓を打てる技術があるいっくんは、観客席にいる。対して、まだまだ未熟者な私はこうして舞台に立っている。いっくんは太鼓に未練はないのだろうか。ないから、チームを降りたのだろうか。それがいっくんにとって、正しい道だとしても、今、こうして叩いている私たちをバカにすることは許されない。

ダン! ダン! ダン! ダン!

ずっとリズムを刻んでいた、おーちゃんの音が変化した。いけない。宜しくない変化の仕方だ。ダァダァン! ダァダァン! その音は、凶暴だ。怒っている。あのクールなおーちゃんが、太鼓を通して凶悪な感情を載せている。しかも、微妙に狂っている。

規則正しく、引いては寄せる波のような動きを見せていた私たちは、おーちゃんのおかげで、少しずつ動きがずれていく。『流れ太鼓』は、洗礼された揃った動きを見せてこその曲だ。目指すは、サーファーが乗れるような、大きく長い波だと、師匠は言っていた。今の私たちの波は、ぐしゃぐしゃでばらばらだ。消波ブロックにぶつかって、白く泡立つ波打ち際だ。当たって砕ける『さけ太鼓』。

蟻早さんが、おーちゃんの音を無視して叩き始めた。えっちゃんもうーくんも、蟻早さんに同調していく。賢い。きちんと場の空気を読めている。二人とも、中学二年生だとは思えないほどの察しの良さだ。しかも、表情は涼しげなままだ。

ようやく、一番手で叩いていた私のゴールが見えた。最後の太鼓を叩ききり、私はスタート地点まで移動した。そのまま、おーちゃんのバチを絡め取る。

おーちゃんは、観客席にいるあの男の子二人に、大きな敵意を向けていた。一体、何をそんなに怒ることがあるのだろうか。少し前まで、というよりも今もなお、おーちゃんはいっくんのことが好きなのでは? 考えている暇はない。ショーマストゴーオンなのだ。

私はおーちゃんの耳元で、そっと囁く。

「叩いてきなよ」

 おーちゃんは、うっとしげな目を向けてきた。

「その感情は、太鼓には不向きよ」

 リズムを狂わせることは許されないポジション。私にはいささか荷が重い仕事だが、やるしかないのだ。蟻早さんは、口だけで私に「グッジョブ」と伝えてきた。蟻早さんからのお褒めの言葉は滅多と貰えない。有難く頂戴する。

「おーちゃんも、叩いてきなよ」

 予定では、おーちゃんはずっと締太鼓担当だった。突然すぎる私の提案に、おーちゃんはええ? と困惑した声を漏らした。

 私とおーちゃんがこそこそと話をしている姿を見て、観客も騒めく。アクシデントでも起こっているのかも、と疑われているのかもしれない。これ以上、観客を不安にさせるわけにはいかない。おーちゃんの音色から、既に不穏な空気は感じ取られているかもだが。

「笑え。叩け。笑って叩け」

 自分でもびっくりするくらい低い声が出た。自分の声なのに、何故か、師匠の声が重なって聞こえた。おーちゃんも、肩を震わせた。そのまま、何者かに操られるかのように、一番最初の長胴太鼓まで歩を進めた。

「笑え」

 私の声と同時に、おーちゃんが動いた。その右手は、まったく目が追い付かなかった。気付いた時には、爆音が鳴り響いていた。

 ダァァン! ダン! ダァァン!

 太鼓の振動は、魂の震えだ。その音は、聞くものすべての心を刺す。ある者には鋭い槍となって、ある者には棘となって。ガラスとなって、氷柱となって、津波となって。

 その人の心を殺すかのように。

うわあああああああああああ

 おーちゃんの咆哮が轟く。黒縁眼鏡が落ちそうなほど、頭を振り乱している。人間ではない。獣だ。青い法被を着た、ケダモノだ。すべての感情を曝け出して、目の前の太鼓に牙を剥く。

 おーちゃんは、今、あんなにもの大好きだった太鼓に対しても、敵対心丸出しだ。おーちゃんは何と戦っているのだろうか。太鼓なのか、あの男の子二人なのか、それとも、自分自身なのか。

 誰よりも腕を振り回し、誰よりも腰を屈め、バチを自分の体の一部として扱う。

 その狂気じみた動きに、観客は一人残らずおーちゃんに釘付けだ。しかし、その姿を見て、愉快に思うものはいないはずだ。奥底から掘り起こされた、狂気じみた気迫に、圧倒され、恐怖を覚え、目を逸らせないでいる。口が開いて、白い歯が零れる。無いはずの牙が見えそうだ。

 殺す。殺す。殺してやる。

 そんな感情が、流れ込んでくる。気分が悪くなりそうだ。

 そして驚くべきことに、おーちゃんが笑っていた。あの、太鼓を叩く時は必ずと言っていいほどクールなおーちゃんが。本当に、楽しそうに笑っていた。但し、天使のような笑みでないことは、十分お分かりだろう。見る人すべてを食いちぎりそうな笑顔だ。

 相変わらず、太鼓に集中できていない私は、おーちゃんに対するみんなの反応を見ていた。全員、おーちゃんの恐怖政治に怯えているものとばかり思っていたが、ただ一人だけ例外がいた。それは、おーちゃんの太鼓に聞きなれているはずのいっくん。では、ない。その隣の男の子だった。変わらず目を輝かせている。へえ、やるじゃん、と私は心の中で口笛を吹いた。太鼓向きだ。スカウトしたいくらい。

 おーちゃんの音色は、相変わらず、大きく響く。隣の蟻早さんは、そんなおーちゃんに釣られることなく、私のリズムに合わせて、波を作り続けている。

 おーちゃん以外の全ての人が、ゴールまで辿り着き、残すところおーちゃんだけになった。遅れて入ってきたおーちゃんも、あと三つ、太鼓を叩けば終了だ。

 ドンヅクドォン~ ドンヅクドォン~ ドンヅクドン! ドン! ドォン!

 目を光らせて、最後から三つ目の太鼓を叩き終えた。次の獲物を鋭く狙う肉食動物の如く、おーちゃんは次の太鼓へと向かう。観客にはお尻を向ける形になるが、おーちゃんの後ろ姿だけでも、いつ振り向くのか、振り向いてくれるな、という観客の心の声が聞こえてきそうだ。横で見ている私ですら、おーちゃんの横顔が怖く感じる。おーちゃんの本性が、こんなにも激しいものだなんて、知らなかった。

 いや、一度だけおーちゃんの本心が垣間見えた日があった。私のことを詰ったあの日だ。

おーちゃんはこれまで、私と先生は性的な関係であると勘違いして、窺ってきた。それを臆することなく口に出し、平気で詰め寄ってきたおーちゃんは、怖かった。ただ、私の不要な言葉のせいで、身の潔白は証明できたのだけど。責めることはできない。同じようなことを私もさっき、蟻早さんに対してやってしまった。

 ドンヅクドォォン ドンヅクドォォン ドンヅクドン! ドン! ドォン!

 さっきと微妙に音が違う。変な節を付けないでほしい。急にとはいえ、アンカーなんだから、もう少し締めやすい感じにしてほしいところだ。私のボヤキが聞こえないおーちゃんは、そのままラストの太鼓に手を掛ける。

 振り返ったおーちゃんは、極上の笑顔をしていた。さっきまでの猛々しい顔はどこへやら、そこらへんのアイドルでは太刀打ちできないような、天使な笑顔だ。

 ドンドコドォン ドンドコドォン ドンドコドンドンドォン

 出した音は、びっくりするくらい、普通の音だった。なんだ、普通に叩けるんじゃん。誰しもが表紙抜けした途端、おーちゃんは踵を返してこちらへと向かってくる。

 さあ、終盤だ。

 舞台の右端で待機していたみんなも、一斉に動き出す。動きながらも、基本のリズムは崩さない。道中の太鼓を使い、回りながら移動する。

 ドンドコドーン ドンドコドーン ドンドコドンドンドーン

 みんな、それぞれのポジションにつく。締太鼓とはここでお別れだ。私も一番端っこの長胴太鼓へ行く。一つ開けて隣にいるおーちゃんは、再び凶悪な笑みに戻っていた。さっきの可愛い笑顔はどこに消えたのだろうか。私の方を一瞬見て、おーちゃんは口角を上げた。それは、どんな意味があるのか。私たちは最後のワンフレーズを叩き上げた。

 一斉に右腕を振り上げて終了だ。そのまま、右腕を振り下げて、お辞儀をする。頭の上で、拍手が起きている。お世辞にも、良い演奏とは言えなかった。それでも、その拍手は満足げに聞こえた。自惚れかもしれない。たっぷりと時間を取ってから、私たちは顔を上げた。こっこさんは、ぴょこぴょことジャンプしながら、派手に手を叩いている。少し手前へ、目線を向ける。いっくんは、憮然とした顔を崩さないまま、つまらなそうに義務的な拍手を送ってくれている。隣の男の子は、いかにも「感動した!」という笑みで大きく手の平を打っている。目線の先は変わらないままだ。もしかしたら、この男の子はおーちゃんに惚れているのかもしれない。もしくは、私のように、たまたま見に来て、おーちゃんの太鼓姿に惚れたのかもしれない。数年前のあの日、『さけ太鼓』から見た私は、こんな風に見えていたのか。だとしたら恥ずかしい。

 おーちゃんは、再びハンドマイクを手に取った。その顔は、余所行きのものに戻っているが、人々の顔は引き攣ったまま。あの獰猛な獣姿が目に焼き付いたままなのだ。

「二曲目、『流れ太鼓』を演奏させていただきましたが、いかがだったでしょうか?」

 先ほどと同じようなおーちゃんのフリ。人々はゼンマイ仕掛けのように拍手をした。こちらは、先ほどと同じようにはいかなかったようだ。ネットで話題の『さけ太鼓』の評判に、とある高校生の太鼓姿の評価も加わるに違いない。賛否が分かれるところだ。

 おーちゃんがしゃべっている間に、私たちは太鼓を片付けに掛かる。最後の曲だけは、人数分だけの太鼓にしようと決めていた。裏で控えている小学生たちにも手伝ってもらい、太鼓を次々と片付けていく。これまで垂直にセットしていた台座も変えて、太鼓を斜めに置く。これから叩く曲は、斜め打ちだ。

ステージにはたった五個の太鼓と五つの人間だけが残った。

 うーくん、えっちゃん、おーちゃん、蟻早さん。そして、私。

 これから、最後の曲は五人だけで演奏する。不登校児の中学生と、それをなんとかしたいがためだけにチームに加入したクラスメイト。幼い頃から太鼓を続けてきた熟練者の高校生に、みんなをまとめ上げたベテラン。そして、そして……。

 何者でもない私は、この中で一体何ができるのだろう。

 もう二曲終わってしまった。みんなとの最後の曲が始まってしまう。楽しもうという感情は一切ない。ただ、底知れない師匠への失望と、自分の思慮の無さに苛まれて、もやもやとした気持ちを抱えたまま。私はバチを握りしめた。

 ここで、決める。

 師匠を許すのか、許せないのか。

「いよいよ、最後だね」

 えっちゃんが、うーくんに囁いている。その顔は、良い笑顔だ。もう太鼓を叩く機会が無いというのに、今すぐにでも太鼓を叩きたいと、目を輝かせている。この笑顔と引き換えに、私たちはいろいろなものを失った。えっちゃんが悪いわけじゃない。すべては、師匠が悪いのだ。

 実は、自分の中では、とっくに決まっている。私は師匠を許さないし、これで太鼓を辞める。

 自分の手の中にあるバチを掲げる。分厚い灰色の雲をバックにして、白いバチはくすんで見えた。ずっと握りしめてきた相棒。基本的に『さけ太鼓』では、基本的に樫でできたバチを用いるが、それは私には硬すぎた。この楓のバチをプレゼントしてくれたのも師匠だ。柔らかく、自由に打ちやすい。こっこさんは、ばりばりに硬い樫の方が好きだと言っていた。

バチ一つとっても、人や叩く太鼓の種類によって変わる。それを教えてくれたのも、やっぱり師匠だった。太鼓の思い出は、全て師匠との思い出に繋がる。涙が出そうだ。

「そしてこれが、三曲目、最後の曲になります。このお祭りの舞台でも、『さけ太鼓』としても、最後の曲です。聞いてください。『狐の踊り子』」

 おーちゃんが静かにマイクを置く。

 私は静かに目を閉じた。スッと、みんなが右腕を振り上げる気配。私も同様に右腕を上げた。

 ひょぉっ

 口笛にも似た、蟻早さんの掛け声が掛かる。

 カラカラカラカラカラカラ……

 小さく、縁を叩いていく。パラパラと太鼓の音の、雨が降る。狐の嫁入り、それを表現したのがこの『狐の踊り子』だ。

 ぱたぱたぱた……

 私たちが太鼓を叩き始めてほぼ同時に、屋根から音がし出した。少し下を向けば、地面に黒いシミが広がっている。濡れている。本当に、雨が降り始めていた。お客さんたちは一斉に顔を見上げた。フード付きの服を着ている人は、それを被っている。傘を持っている人は、差し始めている。準備の無い人は、慌ててステージ前から退避している。こっこさんは、服でカメラを守りながら、そのまま配信を続けている。いっくんと隣の男の子の二人組も、名残惜しそうに物陰へと移動している。

 あっという間に叩きつけるような強い雨となった。狐の嫁入りと呼ばれる天気雨には程遠い。普通の土砂降りだ。

さっきまで満員御礼だったステージも、閑散としたものへ変わっていた。私たちは段々と叩く音を大きくしていく。まだまだ序盤。この曲は、これからだ。

 ダダン

 蟻早さんのリードで、優しく音が滑り出す。斜め打ちは、腕の回し方が難しい。気を付けなければ肘を痛めてしまいそう、というのが練習を始めたて頃の感想だ。その気持ちは今でも忘れていない。小指を使う技術も、手首を曲げない叩き方も、全て覚えたままでいたい。

 右腕と左腕、それぞれ円を描くように打ちつける。太鼓の向こうへ音を飛ばす。

 夕方から夜にかけての時間。薄暗い闇から、ぼんやりと提灯が揺れる。ゆらゆらと揺れる光の列の真ん中に、白無垢に綿帽子を身につけた女性。赤い番傘が僅かに上にあがる。女性の顔は、狐で……。

 ヅクヅクヅクドン、ヅクヅクドン

 なんと、行列はすべて狐だった。驚く人間に流し目を送り、花嫁は目的地の山へとゆっくり歩を進めていく。

 コンコーン、コンコーン

 蟻早さんが鐘を鳴らす。狐の鳴き声を模している。こんこーん、こんこーん。先頭の狐が鳴いて、花嫁を先導する。私たちは列をなして、太鼓を打ち鳴らす。

 ドロツクドロツク

 強弱を付けて、私たちは山を登る。目指すは頂上。そして、花嫁は天へと昇るのだ。

 顔を上げた。観客席には、いてはいけないはずの人がいた。

 腕が動かなくなった。そのまま、舞台の上に立ち尽くす。

 何があっても舞台は続けること。その教えを、破ってしまった。そう、教えてくれた人のせいで。

 轟轟と降る雨も気にせずに、師匠はこっこさんの隣にいた。いつから居たのか。こっこさんも驚いている様子だった。

 私が急に動きを止めたので、周りのメンバーも、何事かと前を向き。そして一斉に顔を顰めた。一連の騒動を引き起こした張本人。それでも、みんなは太鼓を叩くことを辞めなかった。私だけが、馬鹿みたいに棒立ちだった。金縛りにでもあったかのように、動けない。師匠は、まっすぐ私を見つめていた。

 観客席には、師匠。舞台には、私。いつかの運命の日と、逆の立場。

 師匠の髪はびっしょりと濡れ、地肌が透けて見えていた。そんなに髪が少ないとは、知らなかった。また、私の知らない師匠を知ってしまった。いつもと同じ作務衣も、紺色を越えて、黒に近い色に染め上げられていた。寒かろうに、素足に下駄のまま、師匠は身動ぎもせず、私を見ていた。その口元は微かに上がって見えた。

 その瞬間、言葉にできない感情が沸き上がった。これほどにまでない、屈辱はなかった。

 殺してやる

 激しい五文字の言葉だけで、脳内が埋めつくされた。

 さっき、おーちゃんが吠えていたのは、こんな感情に支配されたからかもしれない。今まさに、私も同じ気持ちを味わっている。

 舞台から飛び降りて、師匠に掴みかかろうと思った。殺すことはできなくても、この楓のバチで、一発でも思いっきり叩いてやりたい。暴力的な気持ちだけで体が動いていた。太鼓の横をすり抜けようとしたその時。

「だめ」

 一瞬、蟻早さんが止めたのかと思った。けど、違った。おーちゃんでもなかった。えっちゃんでもなかった。

「だめだよ、おばさん」

 うーくんだった。意外な人物が、震える手で、私の法被を掴んでいた。

「だめ。今行けば……」

 うーくんの黒い瞳は、僅かに動いてえっちゃんを示した。私のことも、師匠のことも気に留めず、目の前の太鼓にしか目に入っていない。すごい集中力だった。

 蟻早さんも、私に手を伸ばしかけていた。だが、うーくんが引き留めていることに気付いて、手を引っ込めた。その代わり、再び鐘を手に取る。

 コンコーン、コンコーン

 狐御一行様は、無事に目的地に辿りついた。

「頼む、今だけは」

 どうして、自分より幼い中学生に嘆願されなければならないのだろう。今日はずっと、自分の未熟さにただただ打ちひしがれるだけの日だ。ふう、と息を吐けば、いくらか落ち着けた。さっきまでの怒りのエネルギーは霧散した。

「ごめん」

 コンコーン、コンコーン

 花嫁の姿が遠くなる。別れを惜しみながら、狐たちは鳴いて提灯を揺らし続ける。

 再度、蟻早さんはバチを持つ。私もそれに合わせて太鼓を叩いた。

 ヅクヅクヅクドン、ヅクヅクドン

 単調なリズムでも、曲のストーリーが分かる。小学生に卒業までにこれを叩けるようになろう、と言っていた師匠の姿が思い起こされる。目の前の師匠は見ない。何も知らなかった、あの頃の自分が見ていた師匠だけが師匠だ。今、にやにやと馬鹿にした顔をしながら観覧する男は、もう師匠ではない。教え子に手を出す、ロリコンエロじじいだ。あの人に『太鼓魂』など存在しない。

 曲のラスト。鐘の代わりに、全員でバチを打ち鳴らす。

 カンカン、カンカン

 いつもなら、どこまで遠く、寂しく響き渡るこの音も、さめざめと降る音に打ち消された。きっと、ほとんど聞こえていなかったに違いない。

 それで、終わった。今日のお祭りの演目も。『さけ太鼓』のラストステージも。私たちの最後は存外呆気ないものだった。どんなことも終わりは、そんなもんなのかもしれない。

太鼓チームの解散も。大好きな誰かの死も。

「集合!」

 蟻早さんの号令で、裏で濡れないようにぎゅうぎゅうと身を寄せ合っていた小学生たちも舞台に飛び出してきた。フルメンバーが集合した。

「気を付け!」

 雨にも負けない声で言うんだよ。蟻早さんの合図で、私たちは一斉に声を張り上げた。

「ありがとうございました!」

 パン、パン、パン、パン

 気の抜けた拍手が聞こえた。勿体ぶったように叩くのは、前会長だった。遠くの軒下から、演奏の一部始終を見ていたようだ。何か言っているようだが、雨で聞こえない。

 師匠は、ぼんやりとした顔でこちらを見ていた。腕は組んだまま、動かそうとしない。こっこさんは、そんな師匠をカメラに収めていた。

 拍手が欲しいわけじゃなかった。賞賛してほしいわけでもなかった。だけど、こんな幕切れじゃ、後味が悪いにもほどがある。

「さ、もどろっか」

 蟻早さんの声で、みんなは一斉に移動を開始した。中高校生たちはそれぞれが使った太鼓を持ち上げて、撤収している。

 私一人だけが、舞台の上に残ったままだった。祭りの締めに入れないMCのお姉さんが困り顔でこちらを見てきた。

 空を見る。遠くの空では、雲が切れて、光が差していた。そろそろ雨も弱まりそうだ。狐の花嫁は、本当に天へ昇っていったのかもしれない。

 新たなスタートを感じながら、私は今度こそ、舞台を後にした。

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