第37話 えっちゃん その7
次の日。午前七時。私は、目覚ましの力もママの力も借りずに自力で起きた。急ごしらえで出てきた朝ご飯を急いで食べる。雨はまだ降っていた。一応、塾の鞄を引っ掴む。今日、使うことはないんだけど。
「傘は?」
ママの言葉に首を振って、パパのレインコートを拝借。だぼだぼだ。
「送ろうか?」
同じように首を振って、私は勢いよく玄関を飛び出した。まずは塾に置いてきたチャリを回収。そこから、大急ぎで会館まで激走だ。信号待ちの度に、ポケットの中の硬い感触を確かめる。昨日、あーさんから借りた会館の鍵。失くすわけにはいかない。
「私よりも早く行く気なら、これを渡しておくわ。失くさないでね」
私は何度も頷いた。本当に大切な鍵なのに、中学生の私に渡してくれた。でないと、朝早く行った私が待ちぼうけすることになると思ったのだろう。
大きなレインコートを借りたのに、あんまり意味がなかった。ズボンは膝下までびちょびちょだし、汗で前髪がおでこに張り付いてる。暑い。早く脱ぎ捨てたかった。
会館の横に自転車を置く。まだ墨田さんたちのトラックは来ていない。時間的にまだだと分かっていても、ホッとした。鍵を出すのに手間取りながら、入り口まで来た。そこにはやっぱり、うーくんがいた。いつからいるのか知らないが、むっつりとした顔で階段の前に座っている。あの後もメソメソしていたのか、瞼が腫れあがって重そうだ。ブサイク。
「おはよ」
「……はよ」
「うーくんは会館に出入り自由じゃなかったの?」
確か、うーくんは先生から鍵を貰っていたはずだ。
「先生が逮捕された時、あーさんに回収された」
「知らなかった」
フン、といつものようにうーくんは鼻を鳴らした。
「結構前のことなのに、お前知らなかったのかよ」
またバカにされてしまった。うん、と素直に頷いた。私の素っ気ない返答に、うーくんは肩透かしを食らったようだ。目を丸くしている。
私は、うーくんの隣に座りこむ。雨はまだ降り続いている。蝉の声は聞こえない。
雨の日は好きだ。空気が澄み切っているから。山を見れば、海を見れば、視界が悪いはずなのに、どこまでも透き通って見える気がする。息もしやすい。
うーくんの声もクリアに聞こえる。小さな、「昨日はごめん」の声がはっきり聞こえた。
「いいよ」
許してあげる。うーくんの表情は変わらないままだった。
「わざとじゃない。だけど、あの時。多分力が入りすぎたんだと、思う。俺が悪いんだ」
「いいじゃん。うーくんのせいだろうが、そうじゃなかろうが。こうして私たちは、墨田さんたちを待つしかないんだから」
私とうーくんは、それ以上会話をしなかった。雨音だけが私たちの間に響く。時々、通る車の、水の弾く音だけ響く。
墨田さんたちは、もうお店を出発しているだろうか。早く来て欲しい。
お尻までじわじわと冷たくなってきた。気温は高いはずなのに、体は冷える一方だ。へっくしゅん、と豪快にくしゃみをして、思いっきり鼻をすすった。「色気がねえな」うーくんはそのまま階段に寝そべった。白いTシャツを着ているのに、汚れることを気にしない。
眠いのか、今にも目が閉じそうだ。このまま眠られても困る。私はのろのろと立ち上がって、やっと会館の鍵を開けた。重かったレインコートを脱ぎ捨てた。うーくんも起き上がって、Tシャツを脱いでいる。私は背中で、Tシャツを絞る音を聞いた。
当たり前だけど、大太鼓は昨日と同じ場所に鎮座していた。今は叩ける状態にないが、堂々とその威厳を保っている。ずっと『さけ太鼓』を見守ってきたおじいちゃん的存在だ。会ったことないけど、前会長はこんな大きな存在だったのかも。大きなのっぽの古時計とか、音楽室にあるグランドピアノとか。威風堂々が似合う、大太鼓の貫禄。
私も、うーくんも、大太鼓を見上げていた。
「この太鼓がなきゃ、『さけ太鼓』は成り立たない」
うーくんは、そっと胴を撫でた。ごめんな、と懺悔しているように見えた。
ピタピタピタ……。雨音が反響している。湿度が高い。
やっぱり無言のまま、私たちと大太鼓、三人の空気が流れた。どれぐらい時間が経っただろうか。微かなタイヤの音。車の乗り降りする人の気配。そして、会館の扉が開かれた。
バナナさんと墨田さんがそこにいた。相変わらず、バナナさんは黄色いツナギを着ているし、墨田さんも半袖ポロシャツを着ている。何も変わらない。そのことに、ホッとする。うちのチームは、この一か月でこんなにも変わってしまったのに。
「お久しぶりです!」
私は二人に駆け寄る。後ろからあーさんもひょっこり顔を出した。私は墨田さんの腕を取って、ぐいぐいと引っ張った。
「墨田さん。治りますよね?」
裂け目があるところを指差す。うーくんは気まずそうに眼を伏せた。
「大したことない。けど、片面は張替えだな」
「どのくらいかかりますか?」
「……祭までには間に合わねえよ」
バッサリと言われてしまった。おい、と顎でバナナさんを呼んだ。
「久しぶりっす。太鼓はうまくなったっすか?」
私はブンブンと首を振った。バナナさんはうーくんの方を向く。うーくんは、頷いた。そっか、とバナナさんは私とうーくんを交互に見比べた後で、太鼓をじっくり見つめた。「なるほどねえ、寿命ですかね?」
「みりゃ分かるだろ」
バナナさんは、今度は真剣な目で太鼓を見遣った。職人の目に、この大太鼓はどう映っているのか。
「えっちゃんだったかな。君は、俺と話をした子だな」
墨田さんは、私のことを覚えていた。そうです。と頷いた。
「まだ続けていたんだな」
「まだ、目的は達成できていないので」
うーくんをちらりと見て、墨田さんに目線を戻した。うーくん本人に悟られないように。なるほど、と墨田さんはにやにや笑った。困ったちゃんの不登校児のままであることが、伝わったようだ。
「破れる前の太鼓の音は、さぞいい音だったろう。破れる寸前が一番いい音なんだぞ。お前らラッキーだったな」
どうだっだだろう。イマイチ覚えていない。惜しいことをした。
「お前ら、太鼓の中身を見たことはあるか?」
「太鼓の中身……?」
墨田さんの言わんとしていることが分からず、私とうーくんは首を斜めに傾けた。
「じゃあ、見せてやろう」
再び、墨田さんはバナナさんを顎で使った。意図を理解したバナナさんは、裂け目に指を掛けた。そのまま、思いっきり、振り降ろした。
なんとも言えない音がした。表現できない。ショックで一瞬、記憶が飛んだのかも。気が付いた時には、大太鼓に大きな穴が出来ていた。
破った。バナナさんが。大切な大太鼓の革を引き裂いた。
言葉が出ない。それは、私もうーくんも同じだった。
どうして、そんなことを。
びっくりし続けている私とうーくんを見て、バナナさんは爆笑する。
「あーはっはっは。いい反応っすねえ。純粋だなあ」
バナナさんは、目尻の涙を拭う。そんなに笑わなくてもいいのに。
「本当はこんなことしないんですけどね。うちに持ち帰って、枠を外すんですけど。今ここでは外せないっすから。ほら、これが太鼓の中身」
太鼓の中身は、墨田さんたちのお店で散々見せて貰った。今更、しかもこんなことをしてまで見せる必要なんて……。むっとしながら、中を覗いた。
伽藍洞の空間。自分の影のせいで、うすぼんやりとしている暗さの中、何か文字が書いてあるのが見えた。バナナさんが、手持ちのスマホで中を照らしてくれた。
『平成○○年×月 △△太鼓 両面修復』
達筆な字で、そんな文面がいくつも記されている。
「おお、これ、俺が前に働いていた太鼓屋だな。この太鼓、いい金掛けて貰ってたんだな」
墨田さんは、嬉しそうに言う。それが、全国で屈指の太鼓屋さんの名前だった。そこを辞めて、自分の店を開いた墨田さん。何を思って太鼓を作り、何を思いながらバナナさんに指導しているのか。それは墨田さんの物語だ。
バナナさんは、あっと、一つの文字を指差した。
「これ、先生が勤めてた太鼓屋さんじゃないっすか。いやぁ~。縁があるんすね。『さけ太鼓』と、墨田さんと、先生」
腕を組んで、しみじみと呟いている。
「こうして、太鼓を修理するたびに、太鼓屋は中に記録を残していく。何年何月に片面直したとか両面直したとかな。こうして、太鼓の歴史が出来ていく」
「太鼓の歴史」
「今度、ここにうちの店も筆を入れさせて貰うことになる。光栄だ」
墨田さんは柔らかく笑う。そして、うーくん、私、あーさんの順番に顔を見ていく。
「こいつに大太鼓を触らせたことはないんだが、一緒に修理手伝わせてもいいかな?」
バナナさんが勢いよく、墨田さんの方を振り向いた。目を白黒させて慌てている。
「なんだ、やりたくないのか」
「いえ、とっとんでもないっす。やらせてもらえるなら、これほど光栄なことはないっす!」
バナナさんは職人の顔をして言った。どうぞ、とあーさんは答えた。無言で、バナナさんは勢いよく頭を下げた。きっといい革に張替えられ、生まれ変わって帰ってくるに違いない。でも、それでは遅いのだ。祭には間に合わない。
それで、とあーさんは今日一番聞きたかったことを、墨田さんにぶつけた。
「……そちらのお店にも、大太鼓の在庫は無いんですか」
「申し訳ない。そもそも、大太鼓が市場に出回ることは少なくなってんさ。こんな風に、修理するとか、新調するとかの話が無い限り、うちでは作らない。いや、作れない。大きな在庫を抱えられるほど、うちも金回りが良くなくてな」
そんな。うーくんは昨日と同じように、泣きそうな顔。でも、私はそれほどショックではない。
「なくてもいいじゃん。大太鼓なしでも、『さけ太鼓』は『さけ太鼓』だよ。おーちゃんたちが、大太鼓なしの編成を組んでくれるんでしょう? それでいいじゃん」
大太鼓がなくなって、先生がいなくたって。チーム『さけ太鼓』は『さけ太鼓』だ。
私は、もう一度大太鼓の中を覗いた。
太鼓の中には、物語が詰まっていた。
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