第35話 えっちゃん その5

 もし、休み明けテストの点数が悪ければ、夏だけじゃなくて今後ずっと塾に通わされることになる。それだけはご勘弁願いたい。私は、亀モードになりながら、塾の扉を開けることをためらっていた。「勉強しかできません!」そんなピリピリした空気が嫌い。窓から自習室を見れば、みんな脇目も振らず目の前の問題に向き合っている。私にはできない芸当だが、もしかしたら、太鼓と向き合うことと同じなのかもしれない。

 暑い。このままだと、アイスのように溶けてしまう。意を決してドアに手を掛けた。

「あら、えっちゃんじゃない」

ぱっと顔を上げて、声を掛けられた方を見る。その人は見知った人だった。おばさんだ。

「どうしてここに?」

「お仕事、ずる休みしてるからね」

 おばさんは薄っすらと微笑む。悪い大人だ。

「ねね、塾終わったあと、会館の練習まで時間あるわよね? 今日太鼓叩かない?」

 おばさんは、練習に来ていないからそんなことが言えるのだ。今の私の太鼓を見ていれば、そんなこと言うはずがなかった。

「じゃあ、鯉川さんの太鼓見ると思ってきなよ。えっちゃん、まだ見たことないでしょ」

 こっこさん、太鼓叩くんだ。それには興味ある。だけど、あんまり太鼓に触れる時間を増やそうとは思えなかった。ますます、惨めになるだけだ。

「待ってるからね」

 私はおばさんの言葉を無視して、塾へと滑り込んだ。

なのに、なぜ、こうなったのだろう。

塾が終わり、私は何故か、おばさんの車に乗っていた。外で待ち受けていたおばさんから逃れられなかった。いつもなら根性で自転車を漕ぐ道を、車はすいすいと進む。窓を全開にして、思いっきり潮風を浴びる。前髪が容赦なくまくれ上がる。あとで直さなきゃ。

「もう夕暮れか。すっかり日が短くなっちゃったねえ」

「夏なんだから、長いままじゃないの?」

 おばさんは私の顔を見て、苦い顔をした。「後でうーくんに『夏至』と『冬至』について教えてもらいな」と添えられる。うーくんに見放されていると知らないから、そんなことが言えるのだ。私も同じように苦い顔をするしかなかった。

「いつもはお昼にやっていたんだけど。夕方のほうが都合いいからって、ずらしたんだ」

 知らなかった。ずっとお昼にやっていたとばかり思っていた。「お前は本当に情報に疎いんだな」脳内のうーくんにまで怒られてしまった。私は一人でに首を竦めた。

 おばさんと私が広場に着いた時には、もう太鼓はセットされていた。周りには、十数人が集まっている。こんなに人が来ているんだ。知らなかった。

 カメラを微調整しているのはおーちゃんだ。優等生調のいつもの澄ました顔をしている。私もあんなクールビューティーなキャラになりたかった。多分生まれ変わっても無理だ。

 『碧楼閣』から出てきたこっこさんは、猛烈ダッシュをしてこちらにやってきた。おばさんの傍らで潜んでいる私を見て、にっこり笑いかけてくれた。

「えっちゃんも仲間に入ってくれるの?」

 我らがレジスタンスに! こっこさんは、カッコつけてポーズを取っている。恥ずかしいからやめて。とおーちゃんはバッサリ言葉で斬る。仲が良いようだ。

 私はおじいちゃんや浴衣姿の旅館客に混じって、みんなの演奏を待つ。今日叩くのは、おーちゃんとこっこさんのようだ。法被姿のおーちゃんと、仲居姿のこっこさん。チグハグだけど、どこか収まりがいいような気もしてくる。

 おーちゃんは、ぱっぱっと法被の袖を払う。カンカン、と小さくバチを鳴らした。私は凍り付く。その癖を、私は知っている。こっこさんはそれを横目に、真似するように袖を払い、バチを打ち鳴らした。おちゃらけているようだが、なんとなく様になっていた。

「いよぉっ」

 トトトン、トトトン、トトトントン

「はいっ」

 トトトン、トトトン、トトトントン

「よぉっ」

 トトトン、トトトン、トトトントン

「はっ」

 トトトン、トトトン、トトトントン

 みんな一緒に掛け声を入れている。私一人だけが要領を飲みこめず、ついて行けない。観客は奏者よりも楽しそうに太鼓の音を聞いている。

 こっこさんの太鼓の打ち方は、独特な癖があった。バチがウサギのように跳ねている。雪面に足跡を付けたなら、きっとリズミカルな形になっていたに違いない。頭を動かして、首を傾げて、肩を揺らして、足でステップを踏みながら。それでもリズムを狂わせず、正確におーちゃんとおんなじ音を叩いている。

 こっこさんは、見ず知らずのうちに、あるべき姿になっている。こっこさんは、太鼓を叩くべき人間だ。それは、見れば誰でも分かることだった。太鼓の神様に選ばれた天才。

 隣のおーちゃんは、そんなこっこさんに合わせて寸分の狂いもなく叩く。高い技術がないとできないことだ。マシーンのように表情を変えないその姿は、少し怖くて、近寄り難い。後ろのおじさんたちが、「おーちゃんは美人さんやなあ」とにたにたした口調で言っている。気持ち悪いので、少しだけ離れた。

 打つスタイルがばらばらの二人だけど、自然と息があっている。こっこさんはあえて、一瞬遅く打ったり遅く打ったりして、おーちゃんを試している。にししと白い歯を見せて、こっこさんは猛々しく打ち鳴らす。獣のように、太鼓との対話を楽しんでいる。

「もう叩かない、って言っていたんだけどね。一回叩いたらタガが外れちゃったみたい」

 私の隣で、おばさんはうずうずと体を揺らしている。

「おばさんは叩かなくていいの?」

 私の言葉に、おばさんは動きを止めた。

「……叩くとね、なんか罪悪感が生まれるのよね」

「先生のことなんか、気にせずに叩けばいいのに」

「そうできれば、いいんだけどね」

 いつの間にか、二人はカメラにお尻を向けている。

トントントントン、と一定のリズムを刻みながら、二人は∞を描くように、太鼓の周りをゆっくりと旋回していく。右手は面を打ち、左手はバチを振り回している。曲などない。ただ、女性が二人、太鼓で戯れている図だ。

こっこさんのバチが、おーちゃんを弾いた。

カン

高い音が、鋭く響いた。

予期せぬこっこさんの動きに、おーちゃんは反応できない。あっと、小さな言葉を漏らして、おーちゃんはバチを手離した。すっぽ抜けたバチは、ころころと私の足元まで転がってきた。思わず拾ってしまう。このバチ。私はどうしたらいいのか分からない。

こっこさんと目が合った。にたっと笑う表情から、わざとやったことがすぐに分かった。あくどい。意地悪じゃなくて、悪戯の意味でやっている。

おーちゃんはこっこさんを睨みつけながら、太鼓を打ち続けている。空の左手は、まるでバチがあるかのように振舞っている。

こっこさんがウインクを寄越してきた。私はおざなりにバチを投げた。こっこちゃんが当然のように受け取り、三刃流だ。ジャグリングかのようにバチを弄んだ。おじいちゃんや観光客たちから歓声が沸く。

そのままおーちゃんへパス。おーちゃんはぶすっとした顔で受け取っていた。

ダダンダンダンダダンダダン

それで終了だった。ピタッと動きを止めた二人は、ゆっくりと礼をした。その角度まで、見事に揃っている。そのまま揃って顔を上げる。二人とも笑顔だった。

ひゅーひゅーと歓声を浴びながら、二人はカメラの前で手を振った。

「明日も見てくださいね」

「私たちがお祭りに出られるよう、応援よろしくお願いします」

おばさんがカメラを止めにいった。液晶には、流れるようなコメントの海。こんなに『さけ太鼓』が話題になっているとは知らなかった。また、情報に取り残されている。

 三人は早々と片付けに掛かろうとしている。私も慌てて輪に加わった。見学させてもらったのだから、これくらいは手伝わないと。台座を持ち上げたとき、辺りからざわめきが聞こえた。人の輪から、カツカツと硬質な革靴の音。さっきまで終始笑顔だったこっこさんが、怒った顔に変わる。おーちゃんの顔は固まり、おばさんの顔から感情が失われた。

 一度も会ったことがないおじいさんだった。ひらひらとしているチューリップ型の帽子に、いかにも高そうなスーツ。蛍光色のネクタイがカッコいい。手には杖を持っていた。

「会長のお出ましだわね」

 会長。度々話題に上がっている。先生の前の指導者の前会長。その温泉協会会長を引き継いだおじいちゃん。

 第一印象は、怖い。だった。にこにこと温和な笑みを浮かべているが、心の中は、ちっと愉快そうじゃない。朝礼の時しか見ない、校長先生のようだ。

 そんな会長の右隣にはあーさん。左隣にはおじさんが並んでいる。そのおじさんは、流石の私も知っている。『さざなみ荘』の支配人さんだ。あーさんは、青い顔をしていた。よくない知らせが来ると、私たちは反射的に理解した。

「ね、会長さん。こんなにこの子たち、頑張っているんですから。お祭りにぐらい、出してあげればいいんじゃないですかね」

 支配人の佐藤さんは、悲しそうな顔をして会長に進言している。

「前会長の息子さんが言われちゃ、簡単に無下には出来ないな。いいだろう」

 この前と話が違う。確か、会長と祭の運営者直々にお祭りのステージには出られないと告げられた、と聞いた。でも今は、祭りに出てもいい、そう言っているのだ。

「志野さんには私から頭を下げようじゃないか。なあに、私が言えば、納得してくれるだろうよ。これっきりと言えばね」

「じゃあ二度と、もう祭りに出られないって言うんですか」

「蟻早さん、説明したまえ」

 どうして、あーさんは会長の隣にいるのだろう。おーちゃんやおばさん、こっこさんの味方ではないのか。混乱している私の前で、話は更に進んでいた。

「実はね」

 あーさんは、手元から手紙を出した。

「先生の奥さんから、渡されたわ。先生宛に、太鼓協会から手紙が来たの。内容は……」

 先生は、公認指導者としての資格を剥奪されたとのことだった。

「もう先生は、先生じゃなくなっちゃったの」

「『さけ太鼓』は、もう終わりということだ」

 ふはははは、と会長は愉快そうに笑う。何がそんなに面白いのか、説明してほしかった。笑い声を聞く私は不愉快だった。

「公認指導者がいなくたって、太鼓は叩けます」

「……大会は、辞退することにしました」

 おーちゃんの手から、バチが離れた。カラン、と乾いた音が遠く響く。

「あなたたちのお陰で、『さけ太鼓』は今、全国で一番知名度の高いチームになりました」

「世界一知名度があるのは、うちらと同じ県の、大きな島のチームだと思うけどね」

 おちゃらけたこっこさんの言葉は、あーさんには無視された。

「毎日毎日、飽きもせずにライブ配信をしていただきありがとうございました」

 その言葉は、大いなる皮肉だった。

「ご丁寧にほかのチームにまで宣伝を頼んだことで、全国の太鼓人に『さけ太鼓』の名前が届いたわ」

 あーさんは、下げていた袋の中を、そっと広げて見せた。

「これすべて、『さけ太鼓』宛の手紙よ。『応援しています』との声も、『早くやめちまえ』との声もあるわ」

「全部目を通したんですか」

 あーさんは頷いて、疲れたわ、と言葉を口に出した。本当に、疲れていそうな声だった。

「もうやめにしましょう。確かに、太鼓は個人でも自由に叩けるものだわ。叩きたい人は、自由に叩けばいい」

「小学校とかの、指導は……」

「今年一年は約束しているから、続けるわ。だけど、徐々に縮小していくつもり。私は前会長や先生みたいにできない。太鼓バカじゃないの」

 今、『さけ太鼓』がどれだけ話題になっているのか。そもそも、この街で、地域で、私の学校で、どんな評判なのか、それすら私は知らない。あーさんは、一番上に乗っていた手紙を取り出した。こっこさんに渡す。こっこさんは読み上げた。

「『太鼓を叩く人は、皆、背筋を伸ばし、まっすぐな気持ちで太鼓を叩いているものだと思っていました。日本の伝統文化を受け継ぐ人の中に、犯罪者がいた。その犯罪者から習っているあなた方は、本当の太鼓を叩いていると言えるのでしょうか』……けっ」

 こっこさんは手紙を破り捨てようとした。おばさんが慌てて止めた。こっこさんが持っていた手紙と、あーさんが持ってきた手紙そのすべてを回収する。

「私にも、読ませてください」

 今日のおばさんは、太鼓に対して積極的に動いている。私を塾から連れ出したり、この場をなんとか収めようとしたり。先生からの教えをすべて律儀に守っていた、『太鼓バカ』なおばさんに戻りつつある。元気がないよりもずっとこっちの方がいい。みんな、元通りになってほしい。それもこれも、先生が法を犯すからいけないのだ。先生が逮捕されなければ、あーさんはこんなに『さけ太鼓』の件で奔走することはなかった。おばさんは、太鼓を打つことに悩まずに済んだ。おーちゃんは怒らなくて済んだ。いっくんとかーくんは辞めずに済んだ。そして、うーくんは……私に冷たくせずに済んだ。みんなみんな、先生が悪いんだ。だけど、私は先生が憎めない。うーくんを助けてくれたことは事実だし、こっこさんが太鼓を叩いているのも、いいことだ。感情の板挟み。苦しい。

「次のお祭りの出演をもって、『さけ太鼓』は解散します。勝手な決め方でごめんなさいね」

 あーさんの高らかな宣言を持って、『さけ太鼓』は解散することになってしまった。このチームを拠り所にしていたうーくんやおばさんはどうなるのか。おばさんは手紙がいっぱいに入った袋を抱きかかえていた。おーちゃんは能面のように表情筋をピクリとも動かさない。それが本当に不気味だった。会長さんは「うちの温泉街に太鼓チームは要らない」ときっぱりと告げた。何か言いたげな佐藤さんは、切なそうにみんなの顔色を伺っている。私は、あーさんには目を向けなかった。見てしまえば、何か言ってしまいそうで。でも、私には何も言う資格がない。仕方ないので、じっと地面を見つめるしかない。もうどうしようもないのかな? 心の中で問いかけても、アスファルトは何も答えてくれなかった。

 

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