第34話 えっちゃん その4
結論から言ってしまえば、その通りだった。去年の夏前の話である。
春は予選があったが、残念な結果に終わった。次の演奏は、夏のお祭りだ。間の空いた期間に、私たちがモチベーションを崩さないように、という狙いがあったのかもしれない。
大会の結果が振るわなくて、みんな落ち込んでいたのは事実だ。私は入りたてで、控えとして、ステージの袖に立っているだけ。今までの『さけ太鼓』がどうだったのかは知らないけど、うーくんを含めたみんなが一生懸命練習した成果を披露していた。
素晴らしい演奏だったと思う。みんなが涙や悔しさを隠しきれていない中、私一人だけが、表情変えなかった。太鼓を知らなすぎたので、楽しさも、大変さもまだ分かっていなかった。今でもそんなに知っているわけじゃないけど。
そんな大会のことを思い出しながら、バスに揺られていた。連れてこられたのは、県内で一番おっきな街だった。ここには滅多にこない。大きな買い物をするときか、おばーちゃんに顔を見せるときくらいだ。人が多くて、都会的だ。空は見えるけど、緑の山は少ない。不安に感じてしまう。バスは大きな通りを何本も抜けて、下町の中を突き進んでいく。シャッターが降りているお店が多い中、目的地の場所は、紺色の暖簾を垂れ下げていた。
バス酔いをしているおばさんを放っておいて、先生は私の手を取り、ぐいぐいとお店の中へ進んでいく。その様子を、いっくんとうーくんが複雑そうな目で見ている。
「どうかしたの?」
「いいや」
綺麗にハモらせて、二人は同時に押し黙ってしまった。その態度がよく分からないが、ひとまず、私は先生の手を握り返しておいた。そのまま中へ入っていく。
店内は思ったよりも狭かった。私の部屋ぐらいの中に、レジカウンターと棚が並んでいる。壁一面の棚には、太鼓がぎゅうぎゅうに押し込まれている。大太鼓が空いているお店の空間の半分を占拠していて、余計に狭く感じる。うっかりすると、商品を傷つけてしまいそうで、自由に身動きが取れない。私は先生の足にぴったりと張り付いていた。
表にもレジにも人はいない。ガラ空きにしていて泥棒に入られやしないのだろうか。見たところ、何の防犯対策もしていない。お節介だが心配になってしまう。
おうい、と先生は声を張り上げた。ほかのメンバーはお店に入らず、表で大人しく並んでいる。入らないというか、入れないというか。外の雁木の下に居ようが中のお店に居ようが、体感温度は変わらない。夏の暑さはまだまだこれからだ。今「暑い」と言って、軟弱者認定されるのは嫌だから、みんな黙っているだけだ。でも、暑い。早く冷房の効いた部屋か、冷たいアイスが食べたかった。先生と握り合っている手が、異様に汗をかいている。気持ち悪くなったので、そっと外した。
はあい、と返事があったのは、しばらく経ってからだった。良かった。留守だったら、一時間半もバスに揺られて来た意味がない。
奥から出てきたのは、金髪でロン毛のお兄さんだった。黄色いツナギが目に眩しい。履物は黒い長靴。そのアンバランスさは、踏切みたいで面白い。
髪がかきあげられると、耳元で銀色のピアスが光った。ちょっと怖いお兄さんだった。雰囲気は、ちょっとだけいっくんに近いけど、いっくんは、大人になってもこんな風にならないで欲しい。見た目はチャラくても、めちゃめちゃ勉強もしているガリ勉くんだから大丈夫、とおーちゃんは言っていたけど。こんなヤンキー崩れにはなってほしくなかった。
あっちぃ、と言いながら上半身だけ脱いでいる。下に着ているTシャツは薄い黄色だから、バナナが剥かれているように見える。私は勝手にバナナさんと呼ぶことにした。バナナの優しい味がしそうにない、いかつい見た目だけど。
不良だけど、太鼓を叩く人なのはすぐに分かった。腕に筋肉がよくついている。それも、ゴリマッチョな感じじゃない。無駄がないように鍛えているのか、自然とそうなったのか。
バナナさんは、先生の姿を見て、顔をゆるませた。
「あら、誰かと思えば生きる伝説のお方の登場じゃないですか! いつもご贔屓にありがとうございますっす」
「生きた化石の間違いだろう。こんなジジイだぜ」
先生はフンと鼻を鳴らした。バナナさんは、私たちを見回してにこにこしていた。
「堅気な職人気質のじーさんは、わしらが来ることを知らせてくれてなかったのか。ちゃんともてなす準備しとけっていったのによ」
先生は、バナナさんの肩に腕を回す。なあ、と同意を求める姿は、酔っぱらったおじいさんと、運悪く絡まれたあんちゃんの構図だ。
「墨田さぁん」
バナナさんは奥にいるらしい職人さんに助けを求める。が、返事はない。小さく、カン、カンと木の音だけが響いている。はーぁ、とバナナさんは大きなため息を吐いた。
「ここじゃ狭いですし、工房に行きましょう。皆さん暑いデショ」
ようこそ、墨田太鼓工房へ。両手を大きく広げたポージングは、出来の悪いアメリカンドラマのようだった。反応が悪いと見たのか、バナナさんは先生の腕を振り払って歩き出した。先生の手は不人気のようだ。
レジ横を抜けて、バナナさんは奥へ奥へと進んでいく。店舗内を抜けると、上は雨ざらしの渡り廊下になっていた。コンクリートの床は水に濡れている。バナナさんはさっきまでここで作業していたようだ。あとでここに戻ってきます、とバナナさんは一言添えてさらに歩く。廊下の右手と左手にはそれぞれ小屋が建っている。バナナさんは左の小屋へと進む。カン、カン。木の音だ。そこには、二種類のカタギを持つおじいちゃんがいた。
「墨田さぁん。先生来られましたよぉ」
「おお、来たか」
胡坐を掻いている墨田さんは、白いポロシャツにグレーのパンツ姿だ。このままゴルフに行っても問題がなさそうなくらい、普通の私服だ。バナナさんのバナナ姿がおかしいのか、墨田さんの私服姿がおかしいのか。
「もぉー、知ってたなら、教えてくださいよ」
「客だ。茶ぐらい出せ」
えー、お茶碗何個あったかなあとボヤキながら、バナナさんは奥へ下がろうとする。
「お構いなく。……墨田さん。無理を言ってすまんかった。こいつらを全国大会に連れて行かせたくてな」
いとも簡単に「全国大会」の言葉を口にする先生。春にその全国大会に行くための地区大会への切符を掴むことができなかった『さけ太鼓』。おばさんやおーちゃんたちは顔を歪めていた。私はそこまでの思い入れは無いので、素知らぬ顔をした。
「ここには大したものなんてないんさね」
「いいや、宝の宝庫じゃねえか。太鼓を叩いている奴らはごまんといるが、太鼓の作り方を知ってるやつは、五万もいないだろう? 太鼓を知っている奴は、太鼓に強くなる。扱い方から叩き方、音の出し方まで全部変わる」
本当にそうだろうか。後ろにいるみんなはそうかもしれないが、私の太鼓の意識が変わることはないような気がした。太鼓は友達でも、パートナーでもない。楽器であり、音を出す道具だ。みんなみたいに向き合ってみようとか、対話してみようとか思えない。
「ふぅん。変なところに目を付けるのは相変わらずだな。てっきり、自分も作ったことがある経験をひけらかそうとしに来たのかと思った」
墨田さんの眼鏡が光る。銀フレームのその奥には、冷たい目があった。目をなるべく合わせたくない。墨田さんの皮肉にも、先生はどこ吹く風だ。
「なぁに、ほんの道楽でやってたまでさ。あんたら職人たちの足元には、露にも及ばない。もっとやってれば良かったけどな」
「じゃあなんでやめたんさね」
「太鼓を叩く時間を、それ以上減らしたくなかったからな。俺が太鼓を作っていたのは、太鼓について知りたかっただけで、太鼓を作りたかったわけじゃない。手段が目的になりそうでいかんと思ったわけよ」
ハッ、と墨田さんは口で笑って、再び太鼓と向き合った。半袖のポロシャツから見える腕は、太鼓を叩かない人のものだった。少し、残念だ。太鼓を知り尽くした職人さんが太鼓を叩いたら、どんな音が鳴るのだろう。先生とどっちがすごいのか比べたくなった。
「お前、案内してやれ」
墨田さんはそれきり黙ってしまった。カン、カン。一定の間隔で打ち付けている。「俺も早くやりてえな」小さな呟きが聞こえた。まだ、バナナさんが出来る仕事ではないらしい。
バナナさんはさっきの渡り廊下まで戻っていく。私たちもぞろぞろと後に続いた。
「俺の仕事は主に皮を張ることっす。この仕事をやらして貰うのにも三年掛かった」
ふふん、と胸を張るバナナさん。誇らしげに語れる仕事に就いているのは羨ましい。私も、そんな仕事に出会えるのだろうか。私は、まだやりたいことを見つけられていない。
ここで待っててください、とバナナさんは右手の小屋へと消えていく。日差しが強い。じっとりとした汗が流れてくる。これまで暑いはNGワードだったが、バナナさんが暑い暑いと連呼していたので、みんな我慢することもなくなった。口々に「暑いねえ」と呟く。
「お待たせしました。これが牛の皮っす」
ベロンとコンクリートの上に置かれたのは、白くて大きな皮。一畳以上はありそうだ。
「太鼓の面って、牛の皮から作られていたんだ」
「なんだお前、そんなことも知らなかったのか」
うーくんが呆れている。まだ太鼓を始めたばかりなのだから、知らなくて当然だろう。半年をまだと言うべきなのか、もうと言うべきなのか、その判断は個人にお任せだ。
「知らない人も多いと思うよ。だから、知ってもらえるだけで嬉しいもんす」
バナナさんは、水道のホースを引っ張って、勢いよく皮に水を掛けていく。若干、水しぶきが掛かってきて冷たい。服を濡らしたくないので、私は数歩後ろに下がった。先生だけは、その場から動かない。ジーパンの裾の色が濃くなっているが、平気な顔をしている。じっとバナナさんの作業を見つめている。
「まず、皮に水を掛けます。それで、傷がないところを探します」
バナナさんは、ある程度の場所の見当をつけて、大きな斜め台の上に乗っけた。刃先がついた道具で、皮を擦っていく。
「これを『漉く』と言う。この道具は鉋だ」
先生の真面目な解説が入る。と思ったら、茶々も入れている。
「切ってから漉かないんだな」
「本当はそれが良いんすけどね。切ってから漉くの失敗するの、勿体ないじゃねえっすか」
よいせよいせと、バナナさんは一生懸命腕を動かす。厚さ均一にするのが目標らしい。
「本当は、真ん中だけ薄くした方がいいんだけどな。一枚の皮で厚さの強弱を付けられる人はなかなかいない。……俺が知ってる中では、墨田さんくらいだな」
「かっこいいっすよね……。俺もそれくらいになりたいんすけど」
漉き終わったらしいバナナさんは、袖で額の汗を拭う。
「表面の状態と皮の厚さが丁度いいところを切り抜いて、太鼓に使用します」
バナナさんは流れるように言葉を紡ぐ。説明しつつ、バナナさんは皮にハサミを入れていく。つつつ、と切っていく動作は気持ち良さそうだ。やってみたい。
「それで、切ったものがこれっすね。これに鉄の輪っかを入れたり、皮を伸ばしたり縫ったりして、みんなが知っている状態に加工します」
目の前に置いてあるべろんべろんの皮。これが、あの張りのある太鼓の面になるとは。
「皮と、さっき墨田さんが削っていた太鼓の胴を合わせれば、叩ける太鼓になります。乾かしたり延ばしたりするから、まあまあ時間が掛かるんすけどね」
じゃあ、俺の作業場に行きますか。そこで休憩にするっす。バナナさんは今度こそ冷たいお茶とアイスを出してくれた。先生は何も口につけず、乾かし途中であろう皮や、塗装前の胴なんかをしげしげと見つめている。勉強熱心なうーくんやいっくん、そして太鼓大好き人間のおーちゃんやおばさんは、先生にあれこれ質問している。折角、目の前に職人見習いがいるんだから、そっちに聞けばいいのに。そう思ってバナナさんの方を見れば、小学生たちと仲良く鬼ごっこをしていた。納得。
私はみんなからそっと離れて、渡り廊下に出る。ホースから、ちろちろと水が出ている。それがどうにも気になった。水道代が勿体ない。蛇口を探しにホースの先を辿っていく。
「お嬢ちゃん、うちの店は楽しめないかい?」
突然声を掛けられてびっくりした。そこにいたのは、太鼓を削っていたはずの墨田さんだった。そんなことないです、と言うのは簡単。でも、今抜け出している行動と伴わない。
仕方ないので、うん、と首を縦に振った。
「今どき珍しいくらい素直な子だな」
墨田さんは歯を見せて笑った。てっきり、笑わないおじいちゃんだと思っていた。墨田さんの笑顔は、どことなく、先生の笑顔を似ている。純粋に楽しくて笑っているわけじゃなくて、何か企んでいるような顔だ。
「――、で、こうして皮を縫っていきます」
休憩時間は終わったらしい。バナナさんの説明が、微かに聞こえてくる。蛇口を見つけた私は、ありったけの力を込めてそれを回した。これでもう水漏れすることはない。
「太鼓は好きかい?」
「全然」
素直と褒めてくれた墨田さんも、私がここまで正直に言うとは思わなかったのだろう。目を剥いていた。
「じゃあ、なんで太鼓をしているのかな?」
子供向けの口調で、墨田さんは質問してくる。
「不登校の男の子がいるんです。私、代議員をしてるから、教室に来て欲しくて」
説明が足りなかったみたいだ。どういうことかい? と更に聞いてきた。
「いじめられっ子を助けてくれたんです。本当は、代議員の私がかばったら良かったんですけど。クラスの状況に疎くって、全然気づかなかったんです」
全部、友達から聞いた話だった。へえそうだったんだと納得した時、うーくんはもう授業を受けていなかった。「牛沢くんはなんで来ないんだろうね? 風邪かな?」溜まっているプリント類を届けてあげようとまとめていたら、「海老名、知らないの?」と呆れながら教えてくれた。そこでますます、うーくんのことがほっとけないと思った。
太鼓を始めたのも、うーくんを学校に連れ戻すためだけだ。ただそれだけの理由だ。うーくんは未だに学校に来ていない。代わりに、私が太鼓の練習に通っている。
一通り説明をし終えると、なるほどな、と墨田さんは腕を組んだ。
「私は、私のクラスメイトに不登校の子を出したくないんです」
「俺らの時代にゃ、行きたくないと泣き喚いても、親が引っ叩いて引きずってでも学校に行かされていたが、今はそういう時代じゃないもんな。でも、その子が学校に行きたくないのなら、無理に行かせる必要なんて、ないんじゃないのか? 俺らが太鼓を作る仕事を選んだように、その子も、学校に行かなくていい権利がある」
「義務教育ですよね。中学校までは、絶対に行かないといけないんじゃないですか?」
「行かせないといけないのは、俺たち大人の義務。君たちは教育を受ける権利があるだけだ。受けないのだって、立派な権利だ。太鼓を好きに叩いて良い権利とおんなじだ」
学校に行かないことと、太鼓を叩くことは、おんなじ権利だとは思えなかった。墨田さんは、なんでもかんでも話を太鼓に結び付けようとする。
「じゃあ、墨田さんがうーくんに学校へ行けって言ってください。義務があるんでしょ?」
「俺は悪い大人だからな。行きたくねえってんなら止めないさ。どうせ、言ってもきかねえヤツなんだろ。そのうーくんとやらは」
墨田さんは、うーくんに興味がないようだった。手に持っていた道具をくるくると手で弄ぶ。私は、なんとなくその様子を目で追っていた。まるで生きているかのように、意志を持つ生き物のように蠢いている。墨田さんが手を離しても、そのまま動き続きそうだ。
「うーくんが学校に来なくなったのは、太鼓のせいだと思ったんです。太鼓を辞めてくれれば、また学校に来てくれると思って」
それで、うーくんの後を追うように『さけ太鼓』に加入した。太鼓に思い入れなんて、これっぽっちもなかった。教室に帰ってきてくれたら、それで良かった。
いつの間にか、一番後ろの一番端っこが、うーくんの席になっていた。一人だけ欠けている教室は、歪だ。教壇の前に立つたびに、どうしてもそこに目が引き寄せられる。
「お嬢ちゃんは、うーくんのことが好きなのかい?」
「いいえ。全然」
「好きでもない人のために、好きでもない太鼓をするなんて、変わり者だね」
「変わり者だとは、よく言われます。でも、私はクラス全員がいる教室が好きなので。そのためには、何だってやります」
「なるほど、好きなものの為に生きているのか。俺と変わらないな」
少し話をしよう。そう前置きして、墨田さんは自分の話を始めた。
墨田さんは、元々隣の隣の県の、大きな太鼓を作る会社で、職人として働いていた。その会社の名前は、私でも聞いたことがあった。最高峰の太鼓を買うならその会社だと、先生が言っていたからだ。ただし、音色に見合った値段がする。太鼓貧乏には買えないと。
バナナさん、墨田さんと先生は、知り合いのように話していた。太鼓バカで太鼓貧乏である先生に、太鼓を卸していたのはこのお店だということだ。
墨田さんの話に戻ろう。墨田さんは、幼い頃から革に親しみを持っていた。親が革を扱う職業だったという。聞いてもピンとこなかった。
「なに、侮蔑されるような職業さね」
墨田さんはきょとんとしていた私に追加で説明してくれたが、なお納得いかなかった。差別に遭うような職業なんてないはずだ。
「職人は今でこそ持ち上げられて、絶滅危惧種のように丁重に扱われているけども、昔はそうは行かなかった。もっといい職ってものがあったんだな。大体の人は、東京とか大阪とか、都会の方へ出稼ぎに行っていた。それでサラリーマンが増えて、持て囃されたわけだ。俺らの同級生の中では、商社マンなんぞいたが、そりゃあもう、チヤホヤされていた。
話が逸れたな。うちの親は別に店を継いでも継がなくてもいいと言っていた。俺に自由に選ばせてくれたんだな。結果的に、店は継いでないが、職は継ぐことになった。とりあえず、革は扱えますというような顔をしていたら、いつの間にか太鼓職人になっていた。
……何? 太鼓は叩かないのかって? 叩かん。作る工程で音を鳴らすくらいだな。それで太鼓の良し悪しが分かる。ダメなら作り直しだし、良ければそのまま売りに出す。
一日だって全く同じ日がないように、太鼓にだって、全く同じものはない。作っている間にも、革の扱いを変えなきゃ、良い革を張ることは出来ない。木の特性や鳴らしたい音を考えながら削らないと、いい歌口は作れない。いつだって一発真剣勝負だ。太鼓を鳴らす時だってそうだろう? 間違えても、音を誤魔化すことは出来ない」
私は頷いた。
「毎日真剣に太鼓と対話する。今日はこうしようとか、昨日はこうだったからこうだなとか。じーっと向き合っているとな、周りの音とか会話とか、全て聞こえなくなっていく。それで、ふと我に返ると、目の前に出来あがった太鼓がある」
その感覚は分からないな、と思っていた。だけど、さっきまで、自分の耳には墨田さんの声しか聞こえていなかったことに気が付いた。そういうことなのかもしれない。無意識が途切れた途端に、周りの音が入っている。
「俺も太鼓ふみふみしたい!」
無邪気な声と、みんなの笑い声。急に、暑さも感じるようになった。人は、集中した時、音だけでなく温度も感じなくなるのか。
何かを感じ取りかけた私に、墨田さんはにやにやと笑った。
「それが太鼓の感覚だ。太鼓のまっすぐな音と、一筋縄では作れない工程の面白さに、俺は惹かれたんだな。なるつもりなんてなかったのに、いつの間にか太鼓職人になっていた。
いつの間にかなっていた。そう思える人は、この世に少ない。お嬢さんは真逆で、あるべき姿を思い描いて動いているがな」
じゃあ、墨田さんのようになるのは諦めよう。バナナさんも私と同じように「こうなりたい!」と思って、牛の革を必死に漉いている。墨田さんのようになれるのだろうか。
「太鼓が様々なように、人の生き様も様々だ。大いに学べ、お嬢ちゃん」
説教臭い大人は好きじゃない。とりあえず、分かったかのように頷いて、みんなのところに戻ることにした。おざなりにお辞儀をして、私はとっとこ去る。
「――こうして、太鼓が完成します。……みんな、分かったっすかね?」
そっと列に加わる私に、先生が気付かない訳がなかった。目敏く、話しかけてくる。
「太鼓の中には、物語が詰まっている」
謎めいた言葉だった。なぞなぞなのか、それとも、墨田さん、バナナさんや先生のように、太鼓の関わり方は様々なのだと言いたいのか。意味を取りこぼして、私はゆっくりと瞬きをした。「分からんか」先生はそれだけ言って、もう話しかけてこなかった。
太鼓の中に物語。色んな太鼓があるように、色んな人生がある。先生と墨田さんは同じようなことを言う。
結局、そのまま私は帰りのバスに揺られた。バナナさんの話は、半分以上聞いていない。太鼓の作り方は、革を漉くことと太鼓を削ることしか分からなかった。
やっぱり、太鼓のことはよく分からないままだったし、好きになることもなかったのだ。
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