第32話 えっちゃん その2

 太鼓の白い面が、大海原に見える。私はそこに、一人でぽつんと立っている。周囲には誰もいないのに、何か恐ろしい気配に感じる。手にはバチ。いざとなったら、これを武器にするしかない。ぎゅっと構えて、気配を伺うが、何も分からない。私はじっと怯えながら待つしかない。何分経っただろうか。なんとなく、空気が和らいだ気がする。私は構えを解いて、ゆっくり歩きだそうとする。

その瞬間、白い地面からにゅっと手が出てきた。私は思わず飛退く。なんと、その先でも手がにゅるりと伸びてくる。細くて白い指は、私の足首を掴もうと、ずるずるとこちらに向かってくる。ぎゃあ、と声を上げて、私はバチを振りかざした。だけど、なんと唯一の武器であったはずのバチも、いつの間にか白い手になっていた。私の手首を掴んでいる。必死に振り払って、身一つで走る。行く先々で魔の手が襲い掛かる。

 逃げろ逃げろ逃げろ。必死に走る。白い景色は変わらない。後ろを振り返れば、私が通ってきた道は、一面白い手で覆われていた。海の珊瑚のように、牧場の草原のように、手は風になびく。

 決して、綺麗だとは思わなかった。ただ、圧倒されて、足が止まってしまった。

 白い手たちは、その一瞬の隙を見逃がさなかった。容赦なく、私の足をぐいと掴む。地面へずぶずぶと沈んでいく。底なし沼だ。止まるんじゃなかった。

 後悔してももう遅い。私はなすすべなく、白い手たちに引きずられるまま。腰まで沈んだ。沢山の手が、私の体をまさぐっている。怖い。怖い。怖い。必死に腕を上げたけど、その腕すら、べたべたと触られている。もうだめだ。観念して、死を待つ。目を開けていても、白い世界には変わりないのだ。諦めて、目を閉じた。

 その時。

 モォ~~~~~~~~~~~~

 牛の声がした。目を開けると、そこには一面の牛。牧場の匂い。臭い。

 なんで牛?

「ちょっと、いつまで寝ているの? 準備しないと、塾に間に合わないじゃないの」

 無理矢理ブランケットを剥がされた。ママの声だ。……え、ママ?

 ガバリと起き上がる。急に血の巡りが変わり、頭がぐらりとした。目が覚めても、急に起き上がらない方がいいと教えてくれたのはばーちゃんだ。そんな日は、一日中調子が悪いのだとボヤいていた。つまり、私は一日中調子が悪くなるのだ。だからもう一度寝直したい。シーツの上でもぞもぞしている私に、ママは呆れたように塾のカバンを見せつけた。

「お金掛けてあげてるんだから、学年の中でビリから十番目なんて恥ずかしい成績を取るのやめてよね」

「勉強の才能がないの。塾なんて、意味ないの」

「あんたも不登校くんみたいになりたいの? あの子も勉強が出来なくて教室に来なくなっちゃったんでしょ?」

「違う。うーくんはそんな理由で学校に行ってないわけじゃないもん」

「じゃあどうして、その『うーくん』に勉強を教わってんさね」

 ぐっと、喉に息が詰まった。うーくんを引き合いに出すとは卑怯だ。最近、ママは私の弱点がうーくんだと知り、すぐに話題に出す。そうすれば、梃子でも動かなかった私が動くと分かったからだ。だからといって、魔法の言葉のように使うのはやめてほしい。そう言われたら、私は動くしかないのだから。

 パジャマを脱いで、服に着替える。既に用意されていた昼ご飯をテキトーに食べて、靴を引っ掛けた。これさえなければ、もっと太鼓の練習できるのになあ。この夏休みは、勉強漬けの毎日だと決められていた。でなきゃ、太鼓を辞めさせられる。そんなのごめんだ。仕方ないから、今日もチャリを漕ぎ出すのであった。あーあ、かわいそうな私。

 今朝見た夢の内容なんて、ほとんど忘れてしまった。牛が出てきたのはよく覚えている。どうして牛なんだろう。そこまで考えて、思い立った。そういえば、太鼓は、牛だった。

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