第31話 えっちゃん その1

 私は焦っている。もう少しで、もう少しでお祭りだ。

 あんなに太鼓に熱心だったおばさんは、全然練習に来なくなった。先生が逮捕されたからだ。一度だけ来てくれたかと思ったら、また姿を見せなくなった。先生が逮捕されて、誰よりも傷ついたのはおばさんだった。あんなにも先生のことが好きだったんだもの。

代わりに、おーちゃんはこっこさんを連れてきた。二人とも、熱心に練習に顔を出してくれる。こっこさんは、私たちが入るよりもずっと前に、このチームにいたらしい。でも、恥ずかしがり屋だから、全然太鼓を叩いてくれない。

「本当はめちゃめちゃ上手いんだよ」

おーちゃんとあーさんはこっそり私たちに教えてくれた。「そうなんだ」、と私たちはこっそり笑った。いつか叩いてくれるといいな。そう言えたのも、数日前までの話。

 私は焦っている。とっても焦っている。

 うまく叩けない。叩けない。

「焦れば焦るほど、うまく行かないのが世の常だ」

 そう教えてくれたのは、先生だった。頭では分かっている。でも、そう思えば思うほど、手汗がにじみ出る。バチがずるずると滑り出す。ひどい時には、手からすっぽ抜けて、あらぬ方向へ飛んでいった。最初は「何してるんだよ」と笑っていたうーくんも、最近は何も言わなくなった。ああまたか、そんな冷たい目をされる。私もいつものように強気な言葉で言い返さないのも悪かった。

 あーさんは、最近ぼんやりとすることが多くなった。それに比べて、おーちゃんはピリピリしてることが多くなった。どちらかと言えば、おちゃらけた雰囲気のこっこさんも、へんてこな気持ちを隠しきれていない。ふとした時に、恐ろしいくらい怖い顔をしている。

 先生が逮捕されて、ほぼ一か月が経った。いま先生がどこにいるのか、どういう状況なのか、私たちは全く知らされていない。聞けない雰囲気を漂わせている大人たち。私たちも子供だと思われなくないので、しつこく聞くことはしない。「いずれ、知る時が来るだろ」うーくんがそう深追いしないから、私もそうする。うーくんは学校に来ないあほな癖に、そういうところだけは敏い。ついでに勉強もできる。授業を受けている私よりも、うーくんの方が、頭がいいのは納得できない。

 おーちゃんたちは、おばさんとつるんで毎日昼間に太鼓を叩いていたらしい。私は、夕方しか練習に行ってないからわかんないけど、会館で毎日ごろごろしているうーくんが言うのだから間違いないだろう。うーくんは混じらなかったのかと聞けば、そういうのはごめんだ、と言っていた。うーくんは、私の知らないことをたくさん知っている。でも決して口を割らない。男の子ってみんな頑固だ。今は来ていないが、いっくんもそう。おーちゃんが「いっくんの頑固者」と罵っていたことがあったので、間違いないはずだ。

 本番が近いため、外で練習することも多くなった。お揃いの法被を着て準備していると、「がんばれよ」と誰かが声を掛けてくれる。今や『さけ太鼓』は、地域の人気者だ。それはおーちゃんとこっこさんと、そしておばさんのお陰なのだとうーくんが教えてくれた。

だけど、まだお祭りに出られる見通しは立っていない。みんな、ヤキモキしている。少し前の和気藹々としていた空気は、どこにいってしまったのだろう。今は、やりにくい。

夏の風は、ちょっぴり涼しくて気持ちいい。だけど、お祭りの時はそうもいかない。人々が溢れかえった空気は、熱く、淀んでいる。息苦しいほどに。

 地上ですらそう思うのに、ステージの上はもっと熱い。照明のせいだと分かっていても、息苦しくて、溺れそうになる。そんな私を見て、うーくんはフンと鼻を鳴らすのだ。明らかにバカにした態度だけど、自然と心が落ち着いた。自信過剰かもしれないけど、そうやって、うーくんも気持ちを落ち着かせているのだ。ステージを前にすれば、だれだって緊張する。当然のことだけど、それが分かると安心する。

 そんな魔法が切れた。うーくんは、私のことをいつだって鬱陶しがっていたが、拒否することはなかった。それが今では、露骨に避けられているのだ。

「ねね、この後『さざなみ荘』寄らない?」

「一人で行けば?」

「明日の日中は塾だけど、夕方の練習まで時間があるのよね。お店でクレープ食べない?」

「食わない」

 ずっと、つーんとしている。今日も、全然目を合わせてくれない。まるで喧嘩しているみたいだ。おーちゃんといっくんも喧嘩したらしい。それと一緒だ。いっくんが練習に来なくなった時のように、もしかしたら、うーくんも来なくなるのかも……。最悪の想像をしてしまった。体が強張って、ぽぉんと拍子抜けした音が鳴った。みんなの音は止まらない。でも、確実にみんなに聞かれた。何やってるんだよ。そう言われているようだった。顔に血が集まる。熱い、火が出そうだ。

 体が言うことを聞かない。手が止まって、動かない。次の音が叩けない。

動け、動け、動け。

 棒立ちの私を残して、みんなは次の譜面へ移っていく。周りの人たちが、身動ぎしない私を変な目で見ている。早く打たないと。頭では分かっているけど、まだ腕は動かない。

 今日の練習は、そのまま終わってしまった。あーさんとこっこさんが、心配そうにこっちを見ている。なんて言えばいいのか分からない。私は、そっとうーくんの背中の後ろに隠れる。いつもなら「暑苦しい」とか「鬱陶しい」とか言ってくれるのに、そんな言葉も掛けてくれなかった。息が詰まる。何もかも、上手くいかない。いっそのこと、「下手くそ」とか「やる気無いならやめろ」とか、そんな言葉でも良かったのに。そうすれば、まだ強がりな言葉を出せたかもしれないのに。期待とは裏腹に、うーくんは、一瞬たりとも私を見ずに、そそくさと太鼓を片付けに行ってしまった。

 太鼓がしたいわけじゃなかった。太鼓の魅力ってやつも、太鼓魂も、未だに分からない。太鼓の虜になった人たちは、太鼓を好きになる前のことを、さっぱり忘れてしまっている。

「どうして好きじゃないの?」

「どうしてうまくなろうと思わないの?」

さも、この世に生まれた人類全員、太鼓が好きだと思っている。太鼓に洗脳された人の思考だ。私は、先生の考えに染まりきることも、太鼓を好きになることもなかった。

 好きになりたいとは思っている。太鼓がうまくなりたいとも思っている。だけど、技術が追い付かない。どれだけやっても、うまく行かないのだ。練習する時間は、夕方の今しかない。先生は言っていた。「量を増やさないなら質をあげろと」だから、これ以上ないくらい集中しているのに、体が竦んでしまう。太鼓が、怖い。

 結局、誰とも口を利かないまま、私は会館を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る